巌窟
気がつけば、若い竜は糸杉の森の真ん中にきていました。
ある冬の日にグウィンを拾った場所です。
「……おれにとっちゃ、昨日の事とそう変わらんのだけどな」
グウィンにとっては記憶にも残らないくらいに昔の話でしょう。
竜と”ネズミモノ”では、時の流れの感じ方がまるで違います。
無理もありません。”ネズミモノ”の生きる時間は竜と比べるとあまりにも短いのです。
「おれは、おまえに似合いの道を用意したつもりだぜ。――グウィン」
育て子の恨み言が聞こえた気がして、若い竜は独りごちります。
物心もつかない赤子のうちに聖堂に置いてくれば、竜から授かった子としてそれはそれは大切にされた事でしょう。
けれどそれでは、グウィンは自分が竜に選ばれた特別な存在かのように錯覚して育ったかもしれません。
せっかく命を長らえさせた赤子が高慢ちきに育つのは、若い竜にとって面白い話ではありません。
ならば死ぬまで手元に置いて、今まで通りに父と子として暮らせばよかったかと言えば、そうも思えません。
グウィンが短い一生の中で、他の”ネズミモノ”と交わらず、出会わず。自分が何者かも知らないまま老いて死ぬのが幸せとは、到底思えませんでした。
だから最初から、グウィンがひとりで生きていける歳になったなら、自分から出て行くように仕向けるつもりだったのです。
ともに暮らした時間の中で叩き込んだ知識と、竜から王女を救い出した名誉は確かに若い竜が与えたものですが、つかみ取ったのは他ならぬグウィン自身です。
「これでいいんだよ。――じゃあな。馬鹿息子」
「何でもかんでも勝手に決めるなよ! クソ親父!」
若い竜が糸杉色の翼を羽ばたかせかけた瞬間、威勢のいい声が聞こえました。
糸杉の間を縫うように駆け抜けてくる、火の玉のような赤い輝きは。
「グウィン!? ……おまえ、何で戻ってきた!!」
「何でもなにも、こんな追い出され方で納得できるか!!」
若い竜とグウィンは吼え合います。
「あの姫様を攫ったのは失敗だったな。あの子が親父の考えてる事を一から十まで理解して、おれに教えてくれたよ」
「……なるほど、帰りが随分早いと思ったら賢いヒメネズミのせいか。おまえみたいな阿呆におれの思惑が読まれたかと思って焦ったぜ」
若い竜は悪態をつきますが、金色の目でまっすぐにグウィンを見下ろします。
「それで、わざわざ帰ってきてどうするつもりだ、グウィン。王国では札付きになったおれに一生ついてくるつもりかよ?」
「馬鹿ぬかせ、一生なんてついて行くかよ。いつかは出て行く。
けど、また親父が泥を被るような真似をするんなら、おれは何度でも戻ってくるよ。
おれが親父を悪く言われながら笑って暮らせると思ったら大間違いだ」
少年と若い竜は、しばし睨み合うように向き合いました。
やがて、沈黙を破ったのは若い竜です。
「……もうこの森にはいられねぇぞ、わかってるな」
「いいよ、それくらい。噂も届かないくらい遠くに行こうぜ」
「――その必要はない」
一柱とひとりの会話に、厳かな声がはいり込みました。
振り向けば、天鵞絨の外套をひるがえす偉丈夫がたたずんでいます。
かつて悪しき竜を討ち果たした名誉を持つ、国王陛下その人です。
「人攫いに堕ちた糸杉の竜よ、その育て子たる忌み子よ。ここで仲良く我が剣の錆となるが良い」
宣告と同時に、国王は腰から二振りの肉厚の剣を引き抜きます。
ひどく重そうで、力自慢の”ネズミモノ”でも一振りを両手であつかうのが精々の代物です。
かつて国王が、善き竜から悪しき竜を討つ力を賜ったという噂は、嘘ではないようです。
「忌み子、ねぇ。おまえからの捧げ物だってのに、随分な言い方じゃねぇか」
あざ笑うような若い竜の言葉に、ぎょっとしたのは国王ではなくグウィンです。
「親父っ、どういうことだよ!?」
「どうもこうも、おまえを此処に置いてったのは目の前の偉そうな”ネズミモノ”だよ。
此処は本来、おれへの捧げ物が置かれる場所だ。そこらの”ネズミモノ”がおいそれと入れる場所じゃねぇ。
おまえを初めて見た時は、普段の捧げ物と毛色が違うんで面食らったがな」
「ふん、とっとと腹の中におさめてしまえば良かったものを。
まがりなりにも、かつて猛威をふるった蛮族の王の忘れ形見ぞ。贄としては申し分なかろう?」
「な……!」
国王が語る自分自身の出生に、グウィンは絶句します。
「何が蛮族だ。
文化が違うってだけで同じ”ネズミモノ”をそんな風に呼ばわって、侵略するおまえの方が、おれから見ればよっぽど野蛮だよ」
「くわしいな。では、それを余が捧げた経緯も語るまでもなかろう?」
国王は憤るでもなく、冷笑を浮かべて剣の先でグウィンを指し示します。
「……知ってるよ。おまえは滅ぼした国の王妃に惚れて、我が物とするために連れ帰った。だが王妃の腹にはすでに亡国の王の子が宿っていた。
おまえはそれが面白くなかったから、産まれた赤子は竜に捧げるって名目でおれに押し付けやがったんだろう?」
若い竜はつまらなさそうに吐き捨てました。
「もらった物を食うも育てるも、おれの勝手だろうがよ。おまえの鼻を明かしてやれたんなら、育てた甲斐もあるってもんだ」
「道理で、その忌み子を捧げてからは他の捧げ物には目もくれんわけよ。余の所業が気に入らなかったというわけか」
「いいや、ただおまえの持ってくる捧げ物が気に入らんかっただけさ。
よくもまぁ他所の国から美食だの宝飾品だの取り寄せたもんだ、いくら税をつぎこんだやら」
若い竜はあきれ果てたように言いますが、国王は相変わらず不気味な笑みを浮かべたままです。
「余の心遣いが通じぬのでは、仕方があるまい。国益にならぬ竜など目障りなだけぞ。
貴様が我が娘を攫ったのも渡りに船よ、悪しき竜の汚名と供に死ぬが良い」
「――やってみろ、ドブネズミが」
若い竜が、グウィンが聞いた事もないような底冷えのする声で凄みます。
国王は怯みもせずに、肉厚の二振りの剣を構えました。
グウィンはただ呆然と、見守ることしかできませんでした。
だからこそ、誰よりも早く、糸杉の森に落ちた大きな影に気がつきました。
「……じっちゃん!」
「双方、やめよ」
きしむような音を立てて雪の上に降りてきたのは、岩とも見紛う巨体の老いた竜です。
老竜は、若い竜と国王の間に割ってはいりました。
「お爺! 邪魔するな!」
「……そなた、巌窟の竜ではないか! 我が守護竜よ! なぜ此処に!?」
血気盛んに吼える若い竜とは裏腹に、国王は驚きを露わにします。
「ちょっと見ぬ間に随分と猛だけしくなったのう、王よ。
しかし、立派になったのは姿かたちばかりじゃな。あの頃のおぬしは今よりもずっと雄々しかったわ」
老竜は石榑のような目蓋を持ち上げて、無念そうに国王を見つめます。
「何を言われる! 余は国のため、王として再び悪しき竜を討とうとしているというのに!!」
「娘が攫われて、それを渡りに船などとのたまう父親が立派だなどと、儂は思わぬなぁ。」
「……! 聞いておられたのか……!」
老竜の指摘に、国王は唇を噛みます。
「あの日、命を捨ててでも悪しき竜を討ちたい、国に平和を取り戻したいと儂の前に立ったおぬしは、それはそれは見上げた王子じゃった。
その言葉にいつわりは微塵もなかったと、儂はよく覚えておるよ。
だが今のおぬしはどうじゃ。他国を侵し、滅ぼし、女を攫い、全ては国のため――と、言い訳のように口にして。
おぬしこそが、あの日にそなたが誰よりも憎んだ”悪しき竜”そのものじゃよ。
殖えすぎた”ネズミモノ”の間引きだと、暴虐を尽くしたあやつと同じになっておるよ」
「余が悪しき竜と同じだと……!? そんな事があるはずが……! あってはならぬ!!」
「ならぬ。ならぬなぁ。おぬしに授けた力は、悪を討つためだけにあるべきじゃった。
……すまぬなぁ。おぬしなら使い方を誤る事もなかろうと、思い違っておったのじゃ」
老竜は、悲しげに言いました。
そして凍りついたようにたたずむ国王に、ゆっくりと鼻先を伸ばします。
「竜よ……! お慈悲を! 余に悔い改める時間を与えたまえ、巌窟の竜よ――!!」
「侵した国の人びとが慈悲を請うた時に、おぬしは何と言ったのかな」
それが、老竜の答えでした。
老竜の鼻先が国王に触れた瞬間、国王の頤から耳をつんざくような絶叫が上がりました。
国王の手から二振りの肉厚の剣が落ち、天鵞絨の外套を引きずるように膝を落とします。
「……おぬしには過ぎた力だったのじゃよ」
老竜は、幼い子供に言い聞かせるように国王にささやきます。
雪の上に崩れ落ちた王の顔からは精悍さがすっかりと抜け落ち、十も二十も老け込んだように見えました。