姫鼠
「――竜だ! 竜が出たぞ!!」
糸杉色の鱗の巨大な姿が空に現れ、”ネズミモノ”の街は一瞬にして騒然とします。
「ありゃあ糸杉の森に住むっていう竜じゃねえか!」
「ここ十年あまり捧げ物も受け取らんらしいから、何処かに去ったのかと……」
「な、なぁに……びびる事はねぇよ、人に危害を加える竜じゃないはずだ」
街の誰かが口にした言葉をあざ笑うように、竜は”ネズミモノ”の街でも一際大きな建物に向かって飛びました。
粉砂糖を振るったようにまっ白な雪化粧をまとった、国で一番見はらしの良い高みにたたずむ王城です。
雪化粧の王城には、何人もの”ネズミモノ”がいました。
城下の街と同じように、糸杉色の鱗の竜のおでましに”ネズミモノ”たちは大騒ぎです。
「竜よ! 竜よ――! 何ゆえこの城まで参られた!?」
重厚な鎧をまとった”ネズミモノ”が尖塔から呼びかけますが、若い竜は気にもとめず城に迫ります。
若い竜の金色の目に、窓辺からこちらをうかがっている少女の姿が映りました。
他の”ネズミモノ”とくらべると、大層きらびやかな装いの少女でした。
若い竜の荘厳な巨体が、少女がたたずむ窓辺へと近づきました。
「おまえがこの国の王女だな」
「――……はっ、……はい」
少女は呆気に取られてしまいましたが、若い竜の問いにこくこくと頷きました。
彼女はこの”ネズミモノ”の国の王の愛娘である姫君です。
「おまえみたいなのを探していた、来い」
言うが早いか、若い竜は王女の豪奢な衣服の裾をぱくりと咥え、空高くに王女を攫います。
王女の裏返った悲鳴が、晴れ晴れとした空に響きました。
「姫ぇ――っ!!! ……な、なんたることだっ! 糸杉の竜は乱心された、よもや我が国の姫を連れ去るとは!!」
重厚な鎧の”ネズミモノ”はすっかりうろたえましたが、すぐさま手下を引き連れ、馬を飛ばして竜を追います。
しかし、いかに駿馬でも、大きな翼で空を自由に翔る竜には到底追いつけません。
王女を連れた若い竜は、たちまちに豆粒のように遠ざかり、しまいには見えなくなりました。
「――どうした、びびっちまって声も出ないか?」
大空を飛びながら、若い竜は頤に吊るした王女に尋ねます。
”ネズミモノ”の王女は最初に素っ頓狂な悲鳴を上げたっきり、おとなしくぶら下がっています。
「は、はい……、いえ、……怖くないはずがないのですが」
煮えきらぬ王女の答えに、若い竜は金色の片目をすがめました。
「……糸杉の森に住まうお方は、悪い竜ではないと聞きおよんでおります。事実、あなた様はかつて、捧げ物を受け取ったお礼に雪崩を防いだり、森に迷い込んだ人を無事に送り届けてくださったとか」
「ほう? さすが”ネズミモノ”の中でも一握りの上澄み、よく勉強してるなぁ?」
「ですから、わからないのです。あなた様が私を連れ去った理由が」
「いままで良い奴だったが、いきなり悪い奴になるなんて”ネズミモノ”にもありふれた話しじゃねぇか」
若い竜のそっけない答えに、王女は少しだけうつむきました。
けれど、すぐにきっと顔を上げて王女は答えます。
「あなた様を悪い竜と言い切ってしまうのは、まだ早いと思いますの。あなた様はまだ誰も傷つけてはいないし、誰も殺めてもいませんわ? 私をどうするおつもりかは、この”ネズミモノ”めにはわからないのですが……」
「こんな状況で、そこまで自分の頭で考えられるなら上出来だ。おまえは賢いヒメネズミだな」
若い竜は喉を鳴らして笑います。王女もにっこり微笑みました。
「私は人様よりもたくさんの事を学べる環境にいるのですもの。勉学に励まなければ罰が当たってしまいますわ?」
「その言葉、おれがよく知ってる馬鹿にも聞かせてやりてぇよ」
攫われた姫と攫った竜はなごやかに、一柱とひとりの住処である糸杉の森の奥深くへと飛んでいきました。
「王女を? 攫った? 糸杉の森の竜が?」
竜のおでましからどれだけ遅れたかはわかりませんが、グウィンもようやく城下街にたどり着きました。
いままで人と共存関係にあった竜が王女様が攫ったと、町中は大騒ぎです。
「国王が他国との戦争を繰り返しているから竜が怒ったんじゃないのか!?」
「いやいや、竜は人間同士の争いには興味がないはずだ。それにうちの王様はあれでいて、竜から力を授かって悪い竜をしとめた事がある勇者だぜ?」
「でも力を授けてくれたのは糸杉の竜じゃないんだろう? ここ十年あまり捧げ物も受け取らないし、王様が気に入らなかったんじゃないのかい?」
「さあな、だが世の中にゃあ人が殖えるのが騒がしくて気に食わないって竜もいるしな。」
「そりゃ三十年も前に討伐された悪い竜の話だろう、そんな奴は竜の間でも鼻つまみ者だぜ?」
「竜の考えてる事なんて人にはわからんよ。なにしろ知識と寿命が人とは桁ちがいだ」
「心配だなぁ……姫様の次はおれたちを食うなんて言い出さないだろうな」
市場では人々が噂を持ち合い寄せ合い、口々に竜の話をしています。
「それで、竜はどこへ行ったんだい?」
グウィンが噂話に口をはさみました。
「ああ、誰かと思えば猟師の坊主かい。ひさしぶりだな。
竜なら姫様を攫って糸杉の森に帰ったさ。早晩討伐隊が向かうはずだ」
それを聞いて、グウィンはさっと踵を返しました。向かうのはもちろん、住処であり家である糸杉の森の奥深くです。
「親父! 親父っ――!! どういうつもりだよっ!!?」
かくして、グウィンが糸杉の森の奥深くへと急ぎ帰ってみれば、見慣れぬ少女が大樹の洞にちょこんと座っていました。
街の娘たちとは比較にならないきらびやかな装いの少女が、王女である事は疑いようもありません。
「何って”ネズミモノ”どもが偉く大事にしてたみたいなんでな。もらってやった」
若い竜は悪びれもせず、しれっと言います。
「はぁ!? 何言ってるんだよ、大事にされてるなら余計にこんな所に連れてきちゃ駄目だろうが!!」
「グウィン、おまえは何にもわかってねぇな」
息巻くグウィンに、若い竜は呆れたように吐息をこぼしました。
「竜にとっちゃ”ネズミモノ”の捧げ物なんて無価値なもんだ。それでも”ネズミモノ”どもが有り難がってる物をわざわざ渡してくるんだから、それだけ敬われてるってのは竜にとっても鼻が高い。
だがよ、この頃の王からの捧げ物ときたらどうだ。てんでおれの納得するようなもんじゃなかった。だからこのおれが直じきに選びに行ってやったのさ、おれの捧げ物に相応しい物をよ」
「この子の何処が”物”だっ――!!!」
グウィンの語気は、今まで聞いた事がないくらい荒いものでした。
育て子の激昂を、若い竜は牙を剥いてあざ笑います。
「”物”だよ。
いずれ他の国の王族か、有力者に売り飛ばすように嫁がされるのが定めだ。それが姫様ってやつなのさ」
若い竜の言葉に、王女が何かをぐっとこらえるような顔をしました。あながち間違ってもいない言葉だったのでしょう。
グウィンはただただ絶句します。
「……この子を、どうするつもりだよ」
「どうしようかね。腹ん中にでもおさめちまうか」
グウィンの耳には、若い竜の声が、今まで親と慕っていた竜の声とはまるで違うものに聞こえました。
やがて夜の帳が落ちると、竜はやおら首をもたげ。
「ちょいと出かけてくる。グウィン、ヒメネズミをちゃんと見張ってろよ」
それだけ言い残して、糸杉の森を飛び立ちました。
若い竜の糸杉色が暗い夜空に消えてから、グウィンは王女に向き直ります。
グウィンが何か言うよりも先に、王女は少年に手を差し出しました。
「何をしていますの、早く私を城に連れもどしてくださいな」
「はぁ!?」
元よりそうするつもりではありましたが、当然の事のように言い放たれて、グウィンは思わず声を裏返します。
「わかりませんの? 糸杉のお方はあなた様に”悪い竜から王女を救い出した”名誉をお与えになるつもりなのです。
あなた様は糸杉のお方を”おやじ”と呼んでいらっしゃいました。……お父様の事ですわよね?
名誉を餞にあなた様を人の国に送り出す事こそお父様の愛だと、なぜ気がつきませんの?」
親代わりの竜の真意を王女に代弁されて、グウィンはおどろくと同時に少し憮然とします。
「……なんで会ったばっかりの姫様に、そこまでわかるって言うんだよ」
いぶかしげなグウィンに、王女は少し悲しそうに笑って言います。
「私にもお父様がいますもの」
グウィンはもう、それ以上は何も聞きませんでした。
雪深い森の中、少年は少女の手を取り、冴えざえとした月明かりに導かれるように歩き出します。