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楽天使

金色の双眸

作者: 原めぐみ

 声が聞こえた。聞いたことのないはずの声。だけど知っている。わたしはどこかでこの声を知っている。

 リズが首を傾げてわたしの顔を窺った。鮮やかな赤い髪をしたリズ。緋の髪の踊り子の異名をとる世界有数の(むしろ世界最高のとわたしは思う)踊り子だ。普段はあまり目立ちもしない容貌の彼女が踊る時、決して目を離すことの出来ない引力で見る者を魅惑する。元々芸術肌の本当に満足のいく音でないと踊らないリズは、最近ではわたしの吹く『天使の横笛』の音でしか踊っていない。そこまで緋の髪の踊り子に評価される笛を吹くのがわたしであるという事実は一体どこから生じているんだろう。二年程前に記憶喪失の状態でリズに拾われたわたしにはわからない。

 ただ、…今聞こえるこの声。聞いたことのない、知っている声。…失われた記憶が揺すぶられる…。

「ちょっと、ユール?」

 リズがわざとらしくわたしの目の前で手を振った。そんなことしなくても正気だってば。

「声がね、したの。凄くね、覚えのある、だけど誰の声か知らない、そんな声」

 料理屋の喧騒の中でその声の持ち主が誰か、そんなのわかるぐらいの耳に育っちゃってはいる。だけどわからなかった。該当者が視認出来る範囲にはなかった。

 外、外かもしれないけど…。

 わたしは窓の向こうに眼をやった。喧騒の街。どちらかと言えば都会の風景が広がる。外を歩む人の数は相当なものでもある。

 白い、綺麗な男の子。

 目があったって言うのは正しくない。彼の双眸は閉じられたままだった。ただこちらに顔を向けてはっとした表情で立ち止まった。十代半ばほどの華奢な、白髪の少年だった。白髪といっても生まれながらなのに違いない、艶のある感じ。肌は白皙の、秀麗な面持ちは儚げですらある。

「何…?」

 リズがわたしの視線を追った。わたしがその少年を睨みつけるように見つめているのに気付いたようだ。

「知ってるの?それとも…一目惚れかなんか?ユール、面食い?」

 あのリズですらそう言うんだから少年の美貌の程が群を抜いているのは言うまでもない。

 少年が、同じように、…わたしと同じように、わたしを見ていた、いや閉じられたままの瞳だから見ていたというのは正しくないんだけど、こちらに顔を向けてじっとしていた少年が、にっこりと笑顔になった。傍らにいた男に何か言う。少年は文句を言っているらしい男に説得を続けてそれからわたしのいる窓辺に歩いてきた。

 慌てて窓を開ける。少年がわたしに用があるのくらい明白だった。

「ここに、いたんだ」

 閉じられた双眸は開かれはしなかった。ただそのまま、それでもわたしを見ていた。

 この声だった。さっき聞いた声はこれだった。声変わり前のボーイソプラノ。妙なるって表現があう。紡ぎだす普通の言葉さえ音楽のよう…。

「二度と、会うことはないのだと思っていたのにね。久しぶり、というのも違うけどね。懐かしいとは思えるよ。出会いたくはなかったけど。…出会ってしまったからにはその理由もきっとあるんだよね。君は僕を追ってここに来ているんだろうから。…いや、それとも君自身が追放されたの?」

 言葉遣いや声の調子は優しげでもある。だけど言っていることは、よくわからないなりにきついことなのかもしれなかった。

「君は僕を覚えていないの?」

 戸惑うわたしに彼は事実を察した。途端哀れみにも似た表情を浮かべて、それから微笑んだ。

「何が幸福かなんて人それぞれだけど、僕は今の僕自身を好きでいるから、誰にも邪魔はされたくはないんだけど。君に記憶がないのなら僕の障害にはなりえないんだけど」

 それから眉を顰めて、じっと何かを思う表情を見せた。

「…君は何を持っているの」

 天使の横笛だと思った。

「天使の横笛のこと…?」

「…ああ、それも持っているのか、そんなものはどうでもいいんだよ。僕が言っているのは、君が隠し持つようにしてその体内に潜めたもののことだよ」

 体内に潜める?何を言っているのか、さっぱりわからなかった。

「あんた、何なの?」

 凍りついたように動けなくなったわたしを押しのけてリズが少年に掴みかからんばかりの勢いで尋ねた。

「僕は、…君以上に彼女を知るものだと思うよ」

 一瞬の逡巡の後に彼は即答した。けれどリズはその答えに全く満足することはなかった。

「彼女?ああ、そう。こいつのことを知ってんの。でも何?二年以上振りに会ってそういうことしか言えない仲なの。だとしたらこいつの昔を知ってたとしても、あたしはユールの知りあいだとは認められない」

「ユール?それが名か。二年振りどころか十五年振りくらいだけどね。寧ろ時は霞の如く意味を為さないものではあるよ」

「十五年!?」

 ああそうだ。呆れた顔をするリズが信じぬともこの少年が謀ることのないのを知っている。そう十五年前、彼は地上に…。だからわたしも。

 地上?今、わたしは何を思った?

「思い出せないなら思い出さないでいてくれたままのほうが僕にはずっと都合がいいんだ。

だけど、君がそれを、それを持って来てしまっているなら。そしてその身体で、その天使の横笛を吹いてしまっているなら。君自身は隠れおおせることは全く出来ないだろうし、僕自身にすら火の粉は散るんだ」

 糾弾にも似ていた。理由は知らない。苛烈な言葉が胸に突き刺さる。

「ああ、いつまでもこんなことを言っていても意味はないな。…とりあえず君には思い出してもらわないとね。そうして自分が何をすべきかを思ってもらわないと。…今、話をつけてくる。そこで待ってるんだ」

 身を翻し去る彼。それすら華麗に、軽やかで。その背にリズは叫ぶ。

「何で!何であたしらがあんたの言うことを聞かなくちゃならないの!?」

 リズの怒る声はあんまり聞き覚えのないものだった。上気した頬が踊ってるときみたいに綺麗な横顔を作り上げていた。人事のようにわたしはそう思って、それから言った。

「多分、多分彼が正しいんだと思う。覚えてないわたしが悪い。…リズ、だからわたしは納得してみなくちゃならないんだと思う。一人でもわたしは行かなくちゃ」

 戸惑うようにわたしを見て、リズはそれからぼそぼそと。

「勿論文句言ったとこでつきあうことはつきあうよ。あいつの言うこと、わかんないけど、むかつくけど、ユールを知ってるって言うならそれでも聞いてみる」

「ありがとう」

 そう答えながらわたしはこの奇跡の踊り子を本当は自分自身に関わらせるべきではなかったのかもしれないと、少しだけそう思い始めていた。


 少年はすぐにわたしたちのところに戻ってきた。それからここではなく違う場所のほうが都合がいいからと言った。そうして案内されたのは結構大きめなお家。そこはかとなく趣味の悪い家。さっきから少年の側を決して離れようとしないあの男の家みたいだった。

 天井の高い広間へと彼はわたしたちを導いた。絢爛豪華な調度品と極彩色の壁画と、毛足の長いふかふかの絨毯の部屋だった。

 振り返った少年がわたしに歩み寄る。

「それを貸してもらえる?」

 指差したのは、今度こそ天使の横笛のことだった。繊細な白い指。

 次に少年はリズのほうを向いて、言う。

「緋の髪の、踊り子だったね。あなたが踊れるならこの曲で踊ってみるといい。多分懐かしい音がすると思うよ」

 少年はわたしから受け取った横笛を持って、少し離れた位置に座り込んだ。リズが舌打ちしたげにその有様を眺めやって、踊るもんか、って呟いた。

 音の調律をあわせるように、軽く一二度吹き鳴らして、それから。

 始まった。

 広がる、音。どこまでも、広がっていく。

 透明な、玲瓏な、儚くて。

 ここにあることの信じられない、奇跡。

 隣にいたリズがうずっ、としてそれから嫌々と頭を振って、それからでも耐え切れずに踊り始めるのが見えた。

 衝撃がわたしの胸を突く。偽りを奏でていたのだと気付かされる。これが、天使の横笛。だとしたらこれまでわたしが吹いてきたあの音は何だったのだろう。

 全く違う。勝算なんてない。ありえない、ありえない、天界の音。打ちのめされて、立ち直れるはずのない。

 踊りにくい絨毯の床でも、リズの踊りには影響はなかった。ああ、これが緋の髪の踊り子なんだ。これが本当のリズなんだ。今までは彼女の本領なんて…発揮できていなかったのだ。

 唐突に、音がやんだ。

 少年が立ち上がって、わたしに歩み寄って、笑った。

「こんなものでそんな顔をするの?…逃がさないよ、ここまで来てしまっているのだから」

 わたしに横笛を渡した少年が、召使に合図をして竪琴を運ばせた。その向こう側に呆然と立ち尽くすリズがいる。

「こんなものは座興程度だろう?本物を君は知っているのだから」

 再び座り込んだ少年を眼前に見ながら、二重写しのように光景が重なり始めた。

 また、一つ二つ弦を弾いた。

(弦を弾いた銀色の髪の人が、華麗に笑って、囀るように歌い始めた)

 天界の音。

(またこの曲をする、いつもそう。ああ、真実を歌う)

 妙なる歌声が響く。深く広く、強くそれから微かに、高くなって低くなる。重なり合って荘厳に。

 怖い。恐ろしい。畏れ多さに身が竦む。音に巻き込まれて消えてしまいそう。

(練習ぐらいなら何度でもするのだよ。紡いだ言葉の先が音になる。音楽そのもののその人がそう言った。自分自身を満足してしまえば先がないのだからね)

 緋の髪の少女が動けずにいた。

(聴いているときは動かない。この人の邪魔はしない)

 頭が、胸が、ひどく痛んだ。

(震える片翼で音を抱きしめる。半端者でも幸せになれる)

 がたがたと震えのはしる身体を抱きしめる。

(ただ一人この人だけは奇跡。神すらも超越する人。完全なる人)

 リズが崩れ落ちるように座り込んで両手を床につけた。

(お前はいつもそう言うね。微笑むその人の顔は)

 竪琴の音なんて関係ない。肝心なのはこの声。音楽。妙なる奇跡。

 ひどく長くそれから短くその時間は思われた。

 歌い終えた少年がわたしを見上げた。その、金色の双眸で。

「…レフィル様」

 震える声で囁いた。わたしの声を耳にして。

「君がしたことを責めるわけではないんだよ。ただ思い出してもらわなければ話が進まなかったんだ。最後に僕が言った言葉を覚えているね。思い出したね」

「…お前が、やったのだね…」

 声が震えて、言葉にならない…。


 記憶が巻き戻される。あの時の、私。


 片翼の天使は罪人。けれど我々は罪人にもなれぬ身分なのに違いない。もとよりこの背にはたった一枚の翼しかないのだから。彼ら、神の祝福を受けしかの天使たちの背に輝く一対の翼のように、強く大きな翼を持つこともならなかった。申し訳程度の小さな一枚の翼をこの背に持つだけだった。

 その僥倖を誰が知っていたであろう。目も眩むような幸福で私は自身が就くことになった任務を迎えたのだ。楽天使、あの天の楽士、奇跡の音楽家、比類なき方のお世話を仰せつかったのだから。端仕事と蔑まれても、幸福だった。

 黒と白の二枚の翼を持ち、時として虹色に輝く銀の髪と決して開かれることのない双眸。額には楽天使の証を掲げる。その身は両性具有なる完全存在。他の天使とは一線を画す無位の天使。善ではなく悪でもない。正ではなく邪でもない。嫉妬や羨望や負の感情を知ることない…、正当な正統なただ一人の楽天使。

 その方の名をレフィルといった。

 レフィル様は我々を差別することない方だった。負の感情を知らぬ方。輝く美、輝く音楽。

『お前はいつもそう称えるけれど、私はお前にそうまで言ってもらえる者でもないよ』

 いいえ、いいえ、と申し上げる。レフィル様は美しい方、レフィル様は音楽そのもの。音楽を称えずに何を称えろと?あなたは天の楽士、天の祭典になくてはならぬ方。

『では楽士らしく、音を奏でるとしよう。お前は何を聞きたい?』

 滅相もない、そんな我儘なぞ禁じられております、畏れ多くて言葉に出来ないことでございます。そうするとあの方は微笑んで、

『ゆっくりと聴いておいで、聴いてもらえるほうが私も張り合いがあるというもの』

 そうして傍らで聞惚れることを許された。言い知れぬ幸福。永遠に続くのだろうかと思った。自身は何も楽に関われるほどのものではなくても。

 楽天使レフィルは長らくその楽天使の座に留まりつづけていた。天の楽士たる楽天使は存在そのものが他の天使とは全く違うものであった。白黒翼の楽天使は天にただ一人、けれどその楽天使を目指す候補生は何名もいた。彼らの両翼も白と黒である。

 私を呼び止めたその人も、私の幸福に終止符を打ったその人も、その中の一人であった。

『レフィル様のお世話係だって?このような者を身近に寄せるとはあの方もまた…酔狂なことだ』

 燦然と輝く美貌、銀色の髪、レフィル様が見開くことのないその金色の瞳で私を睨みつけて白黒翼の天使は嘲笑った。

『いつまであの方はあの奇跡を続けておられるのかな。楽天使たるもの永遠の命を持っているものではない。世代交代を繰り返し今にいたるのが事実。レフィル様も何代目だか相当な代にのぼるはずだろう。けれど長らく留まりつづけるあの方はいつ、その座を我々に明渡すのだろう』

 独白のようにその人は私に告げた。不敬と罵るべきだった。震えて声は出なかった。

『いつまで私は漫然とここにいるのだろう』

 白い繊細な両の手に視線を落としたその秀麗な横顔はレフィル様とは全く違うものだった。それから軽蔑の一瞥を私に残しその人は身を翻した。取り落としそうになったレフィル様の礼服を抱えたまま、立ちすくんで私はぼんやりと、ただレフィル様を思った。

 その人に再会するのはしばらく先のことだった。

天の祭典に出かけるレフィル様の背中を見送るのはいつものことである。いつも欠片すらも耳にすることの出来ぬ祭典でのレフィル様の奏でる音。興味がないといえば嘘になる。常ならば私一人しかおらぬ聴衆が、神々すべてや主だたる天使と何百倍にもなる。口惜しさに身も狂いそう。あの方の奏でる音を私だけのものとしておきたい…。元より叶うはずのない願いであろうとも。

振り返った私の眼前にその人はいた。本来ならばその人自身もその祭典に出席せねばならぬ身である。竦んで立ち尽くす私に侮蔑の笑顔を浮かべて。

『願いも知れる。私もお前の立場であればそれを願ったのやもな。…けれど私も楽天使を目指す身なれば…自ずからの立場の違いがあろうもの。哀れなことだ』

『何を仰って…』

 擦れた声に説得力なぞあろうはずがなかった。

『利害の一致を見るのは不可能であろうか?行き着く先は同じであろう』

 半ば押し付けるようにその人は私に一冊の本を渡した。

『お前の願いを叶えてやろう。ただそれを、かの方の部屋に置けばよい』

 あの方の部屋なぞは入れるのはあの方とお前一人なのだから。お前にこれを手に入れるのが不可能なことくらい明白なのだから。

 秀麗な美貌が蛇のように狡猾なものに見えた。


『お前が、やったのだね…?』

 呆然としてそれでも笑顔でレフィル様は言った。その身に縄を受けて。引っ立てようとする天使たちに身を任せながら。

 蒼白な顔をしていただろうか。自分が震えているのは知っていたけれど。

 行き着く先を私は知らなかった。まさか大逆罪、最も重き罪、神への反逆、翼を切り取られるその罰をあの方に科せることになるとは!

 私がそっとあの方の部屋において置いたその本は、堕天使が為の聖書、であったのだ。

 薄ら笑いを浮かべてその人はレフィル様の裁かれる様を見ていた。レフィル様は何も、仰らなかった。ただ私を、振り返り密やかに微笑んで見せただけだった。

 レフィル様から楽天使の位は剥奪された。それとともにその証である額飾り、住んでいた館、世話係であった私、レフィル様に与えられたすべてのものは奪われた。

 裁判の場で、最後に轟然としてレフィル様は言った。

『私を忘れてください』

 歌うように響いた。陶然と聞きほれた。その場にいたすべてのものが。

 瞬間、かき消すようにレフィル様の姿はその場から消えた。

 ただ見えぬままに私は天から堕していくレフィル様の姿を、見たような気がした。

 その人の愕然とした表情を視界に捕らえて、それから最初に沈黙を破ったのは私だった。悲鳴はその場に響き渡り。暴れる私を衛兵が捕らえて牢に連れて行った。

 狭い牢獄で、罪を思った。罰を思った。あの方を思った。果たせるものなら贖罪を。

 数年もの間、牢から出されなかったのはきっとその人の手によるものだったろう。

 牢獄から出された日、私は楽天使の額飾り、未だ所有者なくしまい込まれていたそれを盗み出して、自分の翼を毟り取り、レフィル様を追って天を堕したのだ…。


「わたしがやりました。あなたを罪に陥れて、ただあなたを手の内にしたかった。誰にもあなたの楽を聞かせたくなかった。誰にもあなたの歌を聞かせたくなかった」

 眼前にいる少年の外見はレフィル様とは違う。けれどこの少年がレフィル様であることは確かなのだ。わたしが誤るはずがない。

 少年はわたしを金色の瞳で見つめて、それからレフィル様の声、レフィル様の話し方で。口を開いた。

「神さえも恋をする。であれば神とても嫉妬や羨望、独占などの感情を持たずにはおられない。神ならぬ天使がそれを思うとても誰も責められる類のものではないのだよ」

「いいえ、いいえ、わたしはわたしはただ」

 俯いて、言わねばならぬ言葉を捜した。

「責められるべきであるものと。レフィル様、ただあなただけは美しい方、完全なる方。わたしなぞが近寄らねば、あなたは天に燦然とあるままであったのに」

「お前が思うほどには私は無垢でもなかったよ。いや、それでも信じるのはお前の自由と言うもの」

 それから少年はにこりと笑った。

「あのことはもういいんだ。ただ僕が言っているのはその後の罪、君を糾弾せねばならぬと思うのはその後の罪のことだよ。…何故それを持って堕したの?」

 指し示す指はわたしの胸をまっすぐに。

「その額飾りをね。…堕天使なんて珍しくもない。僕だってその一人。楽天使にも以前にいたっけね。それどころか最高の天使・聖天使、始原より五人しか数えることなきあの天使ですらそのうちの二人は堕天しているんだからね。ましてや君のような片翼の天使なんて枚挙に暇がない。ただ陀天使ならば捨て置かれたというのに。その天の至宝、楽天使の額飾り、全ての楽の知識を収めたそれを持ってきてしまうなんて」

 びくりと震えた。

「ただ返したかった、あなたに」

「必要ないんだ、そんなもの。僕はもう欲しいものなんて自分で手に入れられるんだから。そんな知識なんてこの頭にもあるし、それの価値なんて天界でしか存在しないんだから」

 天界では計り知れぬ価値がある。特に楽天使を目指すものには。

 そう続けられた言葉に、額飾りに執着するであろう一人の天使を思い浮かべてすっと血がひくのを感じた。

「ど、どうすれば…?」

「もう、遅い」

 少年が天を仰いだ。天井を透かして遥か遠く、かつて在りしその場を眺めやるように。

「僕は歌ってしまった。楽天使レフィルの声で。…もうすぐ迎えが来るだろうね」

 顔をもう一度わたしに向けた少年が一歩踏み出して、触れそうなほどの近くに立った。

 綺麗な綺麗な顔立ちにただ見入るほどの自由を与えられているわけでもなかった。吸い込まれそうな金色の瞳に見つめられるだけで、気が遠くなりそうだ。

「僕は、今の生活が気に入っていると言ったね。だから、」

 身代わりになっておくれ。

 囁かれた言葉の意味を悟る前に、唇に柔らかいものが触れた、暖かく、それから喉の奥がひどく痛んだ。触れたのは少年の唇だった。

「な、なに、を」

 痛くて、声が出ない。声にならない。体も痺れて、下がる少年の身体を捕まえることもならなかった。

「僕の声、楽天使レフィルの声、そこに残していく」

 笑う少年の顔はやはり綺麗だった。

 立ち尽くすわたしの前で身を翻し駆け去る少年を止めるものは誰もいなかった。

 未だ、誰もあの少年の歌に捕らわれたまま。天界の歌に捕らわれたまま。

 リズが蹲るようにして座り込んでいた。

 わたしは立ち尽くしたまま、部屋を出て行く少年の姿を見送っていた。

 まだ痛む喉を思って。

 それからどこか遠くで、翼のはばたく音を、聞いたような気がしていた。

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