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真夏の夜の廃校で

真夏の夜の廃校で……Version Dark Fantasy

作者: 桜 夏姫

 ブゥ―――ン、耳元で蠅が飛ぶ。タオルケットを被りふて寝を決め込むも、ジワリとにじむ汗によってべったりと張り付いたシャツが鬱陶しくてかなわない。一向に消え去らない鈍い羽音にいら立ち、殺虫剤をばら撒く。蛍光灯によって闇を払われた八畳に白い靄が立ち込めた。莉乃は、着替えとスマホを手に軋んだ音を立てる木造の階段を緩慢な動作で降りると、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、煽るように飲み干す。どうやら、ずいぶんと喉が渇いていたようだ。空っぽになったボトルを近くのゴミ箱に投げいれるとぺこっとプラスチックがへこむ気配がした。

 莉乃のスマホがメッセージを受信したのはその時だった。フォンという短音がやけに大きく聞こえた気がした。送り主は莉乃の良く知る人物、親友ともいえる人間―――佐島琴音からだった。

『ねぇ、今から会えない?』

 たったそれだけの文章。だけど、こんな真夜中に送られてくるには似合わない文章。スーパーと薬局が一店舗しかないこの小さな町には、こんな夜更けまで開いているところなんて二十四時間営業のコンビニぐらいしかない。ましてや、出歩く人など祭りの夜でもなければそうそういないのだ。

『莉乃ンとこ、今日誰もいないでしょ? だから、会おうよ』

『どうしても会いたいの』

 確かに今日は、誰も家にいないことを話していた。だからといって、莉乃はこんな夜中に出歩く気は全くなかった。むしろ、早く汗を流したい。今こうしている時間も、防犯のためにと家を締め切っているため蒸し暑いのだ。

『岩小で、待ってる。絶対来て』

 ポップアップされるメッセージは、だんだん速度を増してくる。だんだん、いら立ちにも似たなにかがその無機質な文字からにじんでくる。

『来ないと後悔するよ、莉乃』

 脅迫じみた最後のメッセージをかわぎりに、ぴたりと受信することをやめたスマホ。夏の暑さのせいではない、質の悪い汗がどろりと胸元に流れる。

 取り合えず、脱衣所で、寝巻を脱ぎ捨て、生ぬるい水を浴びる。まだ完全にお湯になりきっていないその温度が、今は心地よい。いったいあのメッセージは何なのだろうか。最近唐突に意味不明のメッセージが届くことはあったが、今さっきのは、より一層変なものだった。まるで、せっぱつまっているような。そんな感じ。

「はぁ~、なんのために蒸し暑いの、我慢してたんだろう」

 熱いお湯は汗を、洗い流し清涼感を与える。すこし、すっきりした頭で琴音は家の人に内緒で抜け出してきたのだろうかとふと疑問に思う。待ち合わせの場所である岩小は莉乃の家から近い場所にある。手早く、新しい服に着替え蚊よけスプレーを体に吹きかける。スマホを操作し、「琴音の家」を表示する。連絡網の関係上、家の番号も知っていた。まるで、告げ口の様で卑怯だと、感じる心を今更何を言っているのだと笑い飛ばし、迷わずタップする。数コールの後に、はきはきと話す感じのよいおばさんの声でなく、気怠そうな男の声は出た。

「もしもし、河野と申します。佐島さんのお宅でしょうか」

 聞いたことのない声に、眉を寄せながら、莉乃は左手を受話器に添えながら、尋ねる。電話の向こうから肯定の返事が返ってきたことに安堵しながら、早口で夜分遅くにすみませんと付け加え、琴音に電話を代わってもらえるように頼む。

「琴音? あぁ、あいつならもう寝てるんじゃないか。緊急の用事? なら、携帯にかければいいじゃねぇかよ。こっちとら、勉強で忙しいっていうのに……あんた、あいつの友達かなんかなんだろう?」

 莉乃は桜色の唇を小さく開けそしてきゅと横に引き結ぶ。思い出したのだ。以前琴音の家族のことを聞いた時にひどく言いにくそうに口にしていた言葉が、なぜだか克明に浮かんだ。電話の向こう側から、ジ―――と電気の変圧器のように聞こえるクビキリギスの鳴き声がやけに大きく聞こえる。

「いえ、緊急のものではないので、寝ているのなら明日の朝かけ直しますので……」

「あっそ。なら早くそう言えよ。まったく。……ん、この声、お前この間、家に来てたやつだろう。確か河野さんだったっけ、あぁ、もしかしてあの? かわいい声しているよね―――リノちゃん」

 ねっとりと絡みつくような粘ついた声に身震いし、外向け用のぎこちのない敬語が軋んだ音を立てる。なんだか、話しているだけで脂っぽい手で触られてるような気分になる。琴音が、家に莉乃を上げるとき玄関の靴に目を走らせていた奇妙な癖を思い出す。

「待ってて、リノちゃん。あいつの部屋見てきてやるよ」

 上から目線の話し方がひどく不快だった。耳元から距離を置いた受話器から、荒い足音と、耳障りなノイズ音を立てて引かれるドアノブの気配が伝わる。苛立たしげにされる舌打ち。

「ごめんねぇ~、リノちゃん。琴音のやつ部屋にいない、あいつ網戸開けっ放しじゃねぇか。虫が入るだ……ガッツン」

 強く床にたたきつけられた子機。そこから激しいノイズが閃光のごとく走り、ぷっりと通話が切れた。莉乃は、人差し指で頬をかきながら、ふぅと小さく息を漏らす。琴音が家にいないというのなら、やはり岩小にいるのだろう。

 素足にサンダルを通し、もう一度蚊よけスプレーを吹きかけ、スマホを片手に家を出る。鍵をきちんとかけたことを何度も確認して石柱の門を出た。

『今から岩小にむかう』

 ぽつんぽつんとオレンジ色の灯は車一台がやっと通れる細い道々を力なく照らしていた。周囲の家々の明かりは当の昔に消え、時たまチリンと風にあおられた風鈴が鳴る。そんな道を莉乃は走歩きで進む。さっきから、気にしてはいるもののスマホに変化はない。

 自治会の掲示板に張られた祭りのポスターや元は緑色だった水色のフェンス、ひび割れたアスファルトから顔を出すドクダミの花、それらがときたま暗闇から街灯に照らされ顔を出す。次第に暗闇に目も慣れてきた。生垣、盆栽、大小さまざまな石が張り出されるような形の石垣、統一性のない家々のうち、いったい何件が空き家だろうか。サンダルが息継ぐ暇もなく前へ前へと体を押し進める。旧岩小は、今では「岩ふれあい館」というあたらしい名前が付けられているが、その名で呼ばれることはほとんどない。やっぱり、「岩小」と口にしてしまう。それだけ、地域になじんでいた証だろう。いったい新しい名前になれるにはどれだけの時が必要になるのだろうか。琴音が、「三上さん」を「お義父さん」と呼べるようになるのと果たしてどちらの方が速いのだろうか。

 五分も走歩きすれば、息が乱れ、汗がにじむ。だけど、視界の右端に基台を含めると六~七メートルほどの塔が見えたから目的地は目と鼻の先だ。左手には、小松石を中心にこの町で発展した石材業を連想させる石貼りの参道がある。その奥には瀧門寺があって、岩小の校庭に隣り合うようにあるその存在を思い出し顔を蒼くする。寺にはつきもののお墓だ。思わず足がすくみ夏の暑さが遠ざかる。フォンという軽快な音とともに、震えたスマホを恐怖のあまり取り落としそうになった。

『うれしい』

『一番、うえのかいだん』

 待ち望んでいたとも、そうでないともいえる返信はやはり変だった。顔や絵文字が一つもないそのシンプルな文はやはりいつもの琴音のものとはどこか違っていたし、後半戦が全部ひらがななのも気になる。琴音が、こういう文体のときは、たいていそれ以外のことに意識のほとんどが裂かれている時だ。

 目の前にはすでにもう古い石造りの門柱に錆が入った黒い門が待ち構えている。門柱に掲げられていたであろう表札は取り外され、そこだけぽかりと穴が開いていた。

 じっとそこを凝視しているとまるで、吸い込まれてしまいそうで、思わず目をそらす。門は、ぎぃと軋んだ金属音を立ててようやく人が一人通れるほど空いた。この校庭に足を踏み入れたのは、一体何年振りだろう。毎日のように踏んでいたあの懐かしい日々が今は遠いことを肯定するかのように、苔が覆っていた。肯定の三分の一以上がコケに覆われた有様はまるで、じわじわと侵食されているようで、悲しいようなやるせないようなそんな気持ちに陥る。

 ふと誰かの視線を感じた。観察するように、上から見下されるようなその視線は莉乃の神経を逆なでした。スマホを操作し、LEDライトで周囲を照らす。左側にあるお墓の存在を頭の隅に追いやり、そっと順に照らしていく。鉄棒、ブランコ、雲梯、ジャングルジム、在りし日に世話になった遊具たちは、潮風にやられたのかひどく錆と蔦に覆われ、まるでここだけ逆さにした砂の流れが速いようだ。学校の七不思議の定番の走る二宮金次郎の像は、微動だにせず、廃校記念碑の横に静かにたたずんでいた。

『はやくき』

 耳になじんだ着信音が、琴音からの新たなメッセージを莉乃に伝える。 鬼火。

 校舎の一番上の端に漂う青白く人の手ほどの大きさの明かりが左右に大きく揺れる。よく考えればスマホの照明だと想像がつくものの一瞬本気でそう思ってしまった。大きく息を吸い、吐き出す。ダイジョブ、あそこにいるのは親友の琴音だ。ベビーピンクと水色のペンキが塗りたくられた非常階段を見上げる。キチキチ、どこかで虫か鳥が鳴き声のような耳障りな音がする。汗ばんだ手を、ぬぐいしっかりと行く先を懐中電灯で照らし出す。人が通らなくなって久しい外階段はざらつき滑りやすい。

 ベビーピンクと水色のペンキが塗りたくられた非常階段を見上げる。この先に、琴音がいる。ごつりとした感触がサンダル越しに伝い、飛び退く。慌てて翳した小さなあかりが、武骨な南京錠と、捻じ切れ、ばらばらとなった鎖を照らす。明らかに、人為的なその様に思わず莉乃は息をのむ。莉乃は、気泡のようにぶくり浮かび上がった猜疑心を消し去りたくて、階段を一段飛ばして駆け昇る。

 キチキチ、どこかで虫か鳥が鳴き声のような耳障りな音がする。汗ばんだ手を、ぬぐいしっかりと行く先を懐中電灯で照らし出す。人が通らなくなって久しい外階段はざらつき滑りやすくなっていた。くっきりと残る足跡は、莉乃のそれよりも大きく往復したような跡がある。

 ぐるぐると狭いスペースを上る。一体、今は何回だろうか。近くにある教室をのぞき込む。埃で薄汚れたガラスの向こうに広がる光景に瞠目した。机も椅子も、ロッカーも、掲示物一つすらない殺風景な勝手の教室、そこにただ一つだけあの時のまま時を止めたものが残されていた。「ありがとう、さよなら、岩小」、色とりどりのチョークの粉がはがれてなるものかとばかりに粘り強く張り付いている。

 言葉にすればなくなってしまいそうな淡い感動を胸にしまう。もしかしたら、これを見せてくれようとしたのかもしれない。奥歯をかみしめながら、琴音のもとへ足を進める。

 ―――最後の階、待ち人がいた。

 二週間ぶりに合う琴音は、長い黒髪を夜風にもてあそばれるがままにして、細くしなやかな四肢を階段に投げ出していた。真っ白なサマードレスは血を吸ってところどころ黒ずんでいる。琴音を中心にして右往左往にひろがる赤い線。薄紅のはずの唇は紫に変色し、口の端からつぅと朱色の帯が垂れている。

「な……なにこれ。

 スカートが風でひるがえりお臍あたりまでが外界に晒される。心臓が跳ね上がる。蒼紫の染みがびっしりと白磁のような肌を覆っていた。

「琴ちゃん、琴ちゃん!」

 琴音の左手に突き刺さる黄色い柄のカッターナイフ。皮膚を切り裂き、肉にたたきつけられたそこから、ドクドクと、赤い濁流がとめどなく生まれ続けている。ガツンと頭を殴られたような衝撃が莉乃を襲う。手のひらを汗が濡らし、するりスマホが手から抜け落ちる。かつんという音がどこか遠くに感じる。月光が克明に照らすその有様に、思わず膝をつく。頭上で星が駆ける。

「琴ちゃん! 嘘。ねぇ、目を開けて」

 莉乃の荒揚げた声に反応してか、ピクリと琴音のまぶたが震える。よく見てみると、頬には涙の痕が色濃くこびりついている。髪をかき上げて近づけた耳に、小指の先ほど開いたくちびるから不規則で微かな呼吸音と、それとは別に意志をもって発せられた音が届く。

「……ちゃん、あり、がとう。やっ、パ……こわいヤ、ヒトリやで、呼んじゃっタ」

 はっとしてみた琴音は、青白い頬を痙攣させながら、持ち上げていた。床に着いた左手に触れる冷めた指先。きゅっと、琴音の血に染まった右手をこの熱が伝われとばかりに強く握りしめる。

「ダイジョブ……ったのに。うっ、ガマンできなくて……ゴメ……ね、……を――ザザザ―タ」

 木々のざわめきがうるさい。うねるような風音が、琴音の声の邪魔をしてよく聞こえない。色濃く香る血の匂いで頭がおかしくなりそうだ。耳たぶと唇が触れ合いそうなほど近づけて、声を聞き取る。

「莉乃ちゃ、ん、オネガイ。……憶えてて……」

「な、何言ってんの、琴ちゃん。そんな最期みたいなこと言わないで。ねぇ、まだ絵完成してないでしょ、田島くんに告白だってしてないでしょ。ちょっと、ねぇ、いや。忘れないから。憶えてるからっ」

 目じりを微かに和らげて琴音は唇をひきつらせながら弧を描く。握った手は真夏だというのに、ウソみたいに冷たい。いくら待っても鼓膜は、琴音の心音を、吐息を拾わない。

「あぁ、ああああ」

 言葉にならない慟哭が、莉乃の口から漏れ出る。見開いた眼が、空に淡い線を残して散り続ける星を無感動に映し出す。

 力なく垂らした指先が、硬い感触に当たる。スマホは、罅が入り、蜘蛛の巣が張り巡らされている。呼吸を止めた琴音に背を向け、震えて今にもスマホを取り落としそうな手で、三つの数字を打つ。発信のボタンを押そうとしたその時全身に寒気が走った。

 ずりっ、ずべっ、

 背後で、何かを引きずるような音がした。莉乃は、頬を紅潮させながら振り返る。

「えっ?」

 ツゥーと背中に一筋の汗が流れる。握りしめた両の手の平には生ぬるい水滴が集まっていく。ブゥーンと耳障りな羽音が、光を覆う。それは次第に数を増していく。胸に手を当て大きく息を吸うと、明かりをともした画面を正面に構える。

 闇夜に隠されたその姿を、暴く。黒、黒、黒、黒……無数の蠅に群がられた出来の悪い人形に似た何かが、そこにあった、

「ひぃ」

 莉乃は、ザザッという音を立てて後ずさる。ビーチサンダルの踵が、階段の縁に当たる。ブゥーン、ブゥーン、耳鳴りのようなそれに頭がどうにかなりそうだ。見てはいけない。見たら、後悔することになると知りながら、人という生き物は禁忌に触れたがる。罪深い生き物の性。より光度を増したスマホを小刻みに震える手で翳す。細波の様に震える黒い塊、その中心に埋もれる白のワンピース。

 口を押える。喉が、ひどく乾く。ひりひりとした痛みが粘膜を刺激する。蠢く無数の黒が、琴音を飲み込んでいく。月を覆う無数厚い雲。

「いや、琴ちゃん、琴、ちゃん!」

 答えが返ってこないことを知りながら、必死に山を掻き分ける。取り除いても、取り払ってもどこからともなく湧いて来る虫に辟易しながらも莉乃は手を伸ばす。頭も中がしびれて目の前の光景に現実感がない。ピチピチと、あたる羽が痛い。肌を伝う忌まわしい感触にせり上がってくる熱いものを無理やり押し込め、掘り進める。爪先が、硬い感触にわずかに触れる。

 ―――琴音だ。

 しっかりとその腕をつかみ、勢いよく引き上げる。思わず言葉を飲み込んで救い出したそれを凝視する。目に痛いほどの白。一片の血肉も脂肪も毛のない蝋のように白い骨。

 ばっと手を振り解く。その際、わずかに白が舞うのも目に入らない。腕にまとわりつく虫を払う。しつこく絡みつく、蠅のように見える何かを払落す。染み付いた体液を裾でせわしなく拭う。それでもまだ気持ち悪くて、学校を出た先にある小川のもとへと親友だったはずの存在に背を向けて駆け降りる。

「はぁっ、何なの、どうなってるの」

 全て、振り切ったはずだが、まだ耳元で唸る音が聞こえる気がする。足に何かが引っ掛かるような感覚と共に、ふわっと体が浮遊する。とっさに受け身を取ったため、膝を擦りむいただけで済んだ。急く莉乃の足を阻むように、サンダルの鼻緒が切れたのだ。カタカタカタ、哂うように近づいて来る虫以外の何かの音。莉乃は、サンダルを脱ぎ捨て柔らかな素足で苔の覆う校庭を駆ける。墨のような流動する黒に吞まれた白が頭から離れない。

 風が吹くたびに小刻みに揺れる音は、恐怖を生み。山なりのような空気の震えを伴なって近づく羽虫に嫌悪が湧く。

 後ろを振り向いてはダメ。消防車の赤いランプとリィンリィンリィンという音が呼び覚ます本能的な恐怖に従い、手足をがむしゃらに振るう。さっき転んだ時に作った擦り傷がじくじくと熱を生む。小石を踏む度に走る裂傷が、脳に信号を送る。それでもその足を止めない。今すぐにでも傷口を確認したい衝動に何度もかられる。それよりも背後に迫る気配が何よりもおぞましい。校門を飛び出す。あんなに悲鳴を上げたというのに、まるで町中の人が深い眠りに落ちてしまったかのように誰も莉乃の窮地に気付かない。全身のうぶ毛が総毛立つ。誰にも気づかれないまま、自分もあの黒に喰れるのだろうか。肉を食まれ、血を啜られ、全てをはぎ取られる姿を想像し、体が震える。

 石垣、松、石垣、盆栽、石垣、プランター、そしてまた石垣。

 痛みと疲労で鈍る脚を叱咤し、莉乃はようやく見慣れた門構えを前に安堵の息を漏らす。全身の筋肉がわずかに弛緩する。すべてを閉め切れば、大丈夫。ポケットに手を突っ込む。いくら、指を這わせてもあるはずの冷たい金属の感触がどこにもない。早くしなければ、追いつけられてしまう。

「なんで、なんで、ないのよ」

 今日に限って、いつもは開けっ放しの玄関をしっかりと閉めてしまった。こんなことになるのなら、開けとけばよかったと莉乃は歯ぎしりする。カシャ、カタッ……近づく足音から身を隠すために、裏庭に回る。

「どうしよう、助けてママ」

 祈るように両の手を重ねたところで四国に行った両親が帰って来ない。あの悍ましい虫以外、すべての虫や鳥、獣が寝静まったかのように静かだ。あんな、一瞬にして人を骨にする化け物にかなうはずがない。化け物、妖怪、そんな罵詈雑言とともに、一つの希望を莉乃は見出す。この裏庭をうまく突っ切れば、神社に着く。正月か縁日にしか行かないような小さな神社の存在を思い出し、そこに向かってもう一度足を進める。

 太ももが重い。息は当の昔に上がっている。莉乃は心も体も疲弊しきっていた。それでも、足を止めない。止めてしまったら最後だとなぜだか強く思うのだ。カサッ……カサ、カサ。生暖かい吐息さえ感じるのではないかというほどに近づく気配に全身の血が音を立てて凍る。もう、目の前まで鳥居は迫っているのだ。前後に振る腕に伸ばされる気配を振り払い、目の前に迫る石造りの鳥居の先に転がるように滑り込む。

 肩で息をしながらも、まだ油断ならないと賽銭箱の影に体を丸めるようにして座り込む。助けを求めようと強く握りしめたスマホの電源を入れる。青白い光が、莉乃の顔を照らす。母親を選択し、タップする。白い光が黒に塗りつぶされる。電源を入れる。今度はピクリとも反応を示さない。ぞっと、背中に冷や汗が流れる。ばっと勢いよく、莉乃はうしろを振り返る。誰もいない。そこには閉ざされた社があるだけ。ほぉっ吐息を漏らし、ふと顔を上げる。

 目があった。いや、それに目という外界を認識する機能はない。真っ黒い眼窩。

「いやあああ、神様、神様お願い、助けて。誰でもいいから、助けて。助けてよぉ。いや」

 とっさに垂れ下がる紐を勢いよくたたきつける。

 ―――じゃらん、じゃらん、じゃらん、

 けたたましくなる鈴の音。その音にガイコツは硬直する。注連縄を力強く握りしめて、いつとびかかられても走り出せるように臨界体制を取って、振り続ける。鈴の音が鳴るごとに、ガイコツは、目に見えて衰弱していく。あの得体のしれない羽虫も近づいてこないどころか、遠くに去っていく。まるで、鈴の音が鳴る範囲に見えない壁があるかのようだ。

 ―――じゃらん、じゃん、しゃん、しゃん、しゃん、しゃん、しゃん、じゃん、しゃん、しゃん、しゃん、しゃん、しゃん、しゃん、しゃん、じゃ、じゃん、しゃん、しゃん、しゃん……じゃらん、

 月が、沈んいく。いつの間に、目を閉じていたのだろうか。目を閉じていてもそれでもとぎれることなく絶え間なく鈴の音がしていた気がする。気が付いたら、朝になっていた。いつの間にか、目の前にガイコツの姿は消えていた。それでも、莉乃は鈴の音が絶えたらまたどこからともなくあの闇がにじり寄ってくるようで狂ったように鳴らす。それは、白髪交じりの神主が朝の掃除に顔を出すまで、続いた。

 衰退しきった莉乃と、ならせ続けられる鈴、そして朝日に照らされる白い粉末。いつもの朝とは明らかに違う光景を眼前に映し出した神主は、息をのんだまま唖然と棒立ちになる。憔悴しきった見知った少女を前にした神主は、慌てて近寄って、縄を握りしめた手を掴む。濁った目が、宙を泳ぐ。その目が、人影に焦点を合わさった時、悪夢の光景と目の前の光景を重ね、びくっと肩を震わす。

「君は、河野さんところの娘さんだったよね」

 縄に張り付いたようなその指を一本一本ゆっくりと根気よく、離していく。

「莉乃ちゃん、莉乃ちゃん、しっかり、何があったんだい」

 一晩中鳴らし続けたせいで、莉乃の手は豆がつぶれ、皮膚が向け、ところどころ血がにじんでいた。

「莉乃ちゃん、莉乃ちゃん、しっかり、何があったんだい」

 脅える莉乃をやさしく暖かい腕の中に閉じ込める。初めは拒否するように、暴れていた莉乃もやがて張り詰めたいとがぷつりと断ち切れたように気を失った。


 そして、そのまま三日三晩高熱と悪夢でうなされ続けた。無数にできた足の裏の裂傷に膝の擦り傷は莉乃が眠っている間に治療されていた。

「ここは」

 頭を撫でるやさしい手。それから、懐かしい畳の匂い。

「莉乃ちゃん。目が覚めたのね。よかった、一時はどうなるかと思ったわ。目覚めてくれてよかった」

 声を詰まらせながら、母親は横たわった莉乃に抱き付く。体はこわばることなく、その抱擁を受け入れる。首筋に髪があたってくすぐったい。触れあった体が互いの体温と心音を伝え合う。耳に届くのは正常な呼吸音。胸の奥から熱いものが駆け上がってくる。

「よかった。あなたが無事で」

 その声は湿っていた。かさつく唇を開き、母親を呼ぶ。堰を切ったように溢れ出す想い。

「ママ。あ、あたしっ……あぁあああん」

 莉乃は母親の胸に抱き付き、子供のように声を上げて泣く。母が力強く莉乃を抱きしめる。背中を撫でる温かい手とリズムに安心する。過呼吸になりかけ、ひとしきり泣き止んだ莉乃に、母親はためらいがちに口にした。

「莉乃ちゃん、心して聞いてね。佐藤さんの所の圭吾君がね、一昨日、白骨遺体で見つかったんだって」

「え、それって、琴音ちゃんのお義兄さん?」

 莉乃の瞳は大きく見開き、左右に激しく揺れる。

「それだけじゃないの、莉乃ちゃんのお友達の琴音ちゃんもね、一昨日から行方不明らしいの。莉乃ちゃんは、神社で倒れたっていうし、一体一昨日何があったの?」

 ……。耳元で、あの忌まわしい羽音が蘇る。あれは、ほんとに莉乃を諦めたのだろうか。そもそもあれは、あの大量の蠅は、いったいどこからやってきてどこへ向かっていたのだろうか。

 ――――ブゥン―ン、莉乃の鋭敏となった聴覚が、羽音をとらえる。

「ママ、殺虫剤」

「え、あ、はい」

 莉乃は、粘膜にわずかに刺激を与える白い霧で部屋を満たす。ケホッと咳き込む。畳の上に転がる蠅の死体。


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