ポケット
たぶん、プール帰りなのだろう。
いい色に日焼けした男の子の三人組が、ふざけ合いながら自分の脇を走り抜けていった。
夏休みに入った子供たちの姿が目につくようになった七月も下旬の今日、ようやく梅雨が明けた。
タケシはネクタイを緩め、額の汗を拭った。
二度目の転職。
自由きままな家業の手伝いとは違い、サラリーマンとしての営業職は、三ヶ月の試用期間を終えた今でも慣れる事は無く、外回りの足取りはやはり重かった。
時計を確認する。午後の2時を過ぎたあたりだった。
駅へと向かう大通り。タケシは、最近オープンしたばかりのコンビニの角を右に折れると、ほどなくして正面に大きな病院が見えてきた。
外来の待合室はいつも通りの混み具合だった。
「…満員御礼、ってヤツか」
タケシはそう独り言を呟くと、そのままエレベーターへと繋がる灰色の廊下を進んでいった。
9階つきあたりの特別個室。
この部屋を自分は何度訪れただろうか。
ドアを開けると、ベッドの傍に座っていた初老の女性がゆっくりと振り向いた。
「あら…タケシくん。また来てくれたの?いつもありがとうねぇ…」
タケシは軽く頭を下げると、手に持っていた包みを女性に手渡した。
「これ、母から。林檎です」
「あら、わざわざすいませんねぇ…お母さんは、お元気?」
「まぁなんとか。元気なうちは、とか言いながら店の方で頑張ってます」
タケシは少しだけ笑うと、ベッドの方へと目をやった。
「今日もねぇ…笑ってるのよね」
ベッドの上には、眼を閉じ、静かにゆっくりと浅い呼吸を繰り返す男がいた。
繋がれた数本のチューブと、傍で点滅を続ける心搏モニターさえ無ければ、それはただ眠っている様にしか、見えなかった。
タケシはベッドに近付くと、男の顔を静かに覗き込んだ。
男は笑っていた。
「一体、どんな楽しい夢を見ているのかしらね…」
男の母親は、言葉の最後を詰まらせた。
ドアが開き、医師と看護士が一人、入ってきた。
「今日はどうですか?」
そう優しい口調で母親に問い掛ける白衣の男は、タケシの存在に気付くと、軽く手をあげた。
幼なじみだった。
自分とベッドに横たわっている男、そしてこの白衣の男も。
唯一違う事はといえば、医者になるだけあって、この男は昔から頭が良かった。だが、けしてそれをひけらかす事も無い、そんな男だった。
「それじゃ、お母さん、何かあったら呼んでくださいね」
男はそう言うと、タケシに目配せをし、そして部屋を出ていった。
「じゃあ、おばさん、俺もそろそろ…」
お母さんによろしくお伝え下さいね、男の母親は白髪の交じる小さな頭を深く下げた。
廊下に出ると、白衣の男が立っていた。
「久しぶり」
「そうだな、相変わらず先生は忙しいんだろ?」
「まぁね。なんだかんだとこう見えても雑用が多くてね」
タケシの皮肉まじりの冗談を笑顔でかわす男。
「…で、どうなんだ?状況は?」
「進展無し…さ」
「いつだったか…お前が話していたあの手術方法はまだ実用できないのか?」
「…トラックバックか。あの方法はまだ国の認可がおりてないんだ」
そう言いながら目を伏せた男の顔を見て、タケシはため息をひとつついた。
「…そうか」
「もう一つあるんだ。…あまり良くない話さ」
男は目を伏せたまま、口を開いた。
「病院の…病院のベッドが足りないんだよ。これだけ高齢化が高まってくると、必然病人も増える一方でさ」
「…だから?」
「今だって、病院のベッドの空きがでるのを、何十人もの患者が順番を待っている」
タケシは眼を閉じた。
「つまりは・・いつ退院できるかわからねぇ様なヤツは早く出ていってもらった方が、病院としてもありがてぇってワケだ」
「出ていってほしい、そういう事じゃないんだ。ただ実際の話、彼の入院の費用・・今年に入ってからきちんと支払えなくなっているみたいなんだ」
タケシは身体の中が熱くなるのを感じていた。
「去年の夏に定年退職したお父さんの退職金は、ほとんど前借りされていて彼の入院の費用にあてられていたって言うし。大体…」
気付いた時には、タケシは男の胸ぐらを掴んでいた。
「だからもう面倒見れねぇ、ってか!?…ふざけんな!!なんとかしてくれよ!友達じゃねーのかよ!!」
タケシの大声に気付いた看護士が駆け寄ってくる。
「・・先生!」
心配気な表情を浮かべる看護士に、白衣の男は右手を挙げて制した。
「どうしようもないんだよ。これが・・これが世の中なんだ!昔みたいに、みんなが幸せになんてなれないんだよ!!」
振り上げた拳を、タケシは震わせていた。
そんな事はわかっている。
いつまでも子供ではいられない。
大人になるという事は、そういった世の中のクソみたいな事を、ヘラヘラ笑いながら受け入れていく事だ。
そんな事はわかっている。
だけど、俺は・・。
力なく拳を下ろすと、白衣の男はタケシに向かって呟いた。
すまない、と。
夕方、事務所に戻ると社内は騒然としていた。
社長の息子である専務が、今日の夕方、談合事件の重要参考人として連行されたというのだった。
専務。
この男もまた幼なじみの一人だった。
裕福な家庭に育った割には、ひねくれた男だった。愛情に飢えていたのだろうか、もしくは一人っ子だったせいなのか。子供の頃から、狡猾な男だった。だがその反面、どこか抜けているところがあり、そしてそれがタケシの性格と妙に噛み合ったらしく、よく二人きりでも遊んだ。
タケシが家業を継いだ時、困った事があったら声をかけてほしい、男はタケシにそう言った。
全国チェーンの大型スーパーが近所に出店してきた事によって、引き継いだ家業の将来を悲観していた、ちょうどそんな時に、自分の会社に来ないか?そう言ってくれた。
そんな男だった。
次期社長という将来を約束された、幼なじみの転落は、陰鬱なタケシの心を、さらに深く、重いものにしていった。
この会社はどうなるんだ?
口々に、声を潜めて話す同僚を背に、タケシはタイムカードを押した。
「元気ない・・のね」
カウンターのスツールに腰を降ろしたタケシの表情を、肘をついた女がまじまじと見つめていた。
時計は午前の二時半をさしていた。看板のネオンは、もう消されている。
「専務、どうなるのかしらね?」
「・・わからねぇよ」
「そう・・」
グラスを、タケシは軽く廻した。カラン、と音がして、氷が琥珀色のブランデーを揺らした。
「先週ね・・」
「先週、あの人、来たのお店に」
「そうか・・」
「・・彼、泣いてた」
「友達一人も救えないで、何が医者だ、って」
タケシは何も言わずに、グラスをあおった。
「知ってる?今年に入ってから支払いが滞ってた入院費用、彼が肩代わりしてたのよ」
タケシは伏せていた瞳を女に向けた。
「・・・・ホント、なのか?」
「えぇ・・。でも結局、理事長からの命令で、ベッドの回転率を上げなくちゃいけない、とか言って、彼、すごく悩んでたわ」
「あいつ・・」
タケシは空のグラスを掴むと、その中にブランデーを注いだ。そのまま一気にあおる。カウンターの上に、グラスが荒々しく置かれた。
「畜生・・」
「ちょっと・・飲み過ぎよ。今日はもうおしまいね」
そう言って、ボトルを下げようとした白く細い腕を、タケシは掴んだ。
「俺なんだよ・・。俺があいつをあんな目に合わせたんだ・・」
「・・何、言ってるの?タケシさん。今日、飲み過ぎよ、まったくもう」
笑いながら、そう言った女の目を、タケシは見つめた。すがる様な眼差しだった。
「突然あいつが教室で倒れた時の事、覚えてるだろ?」
「夏休みに入る直前のあの日、あいつは笑ってたよ。もうすぐ夏休みだって。今年こそはプールに通って泳げる様になるんだ、なんて言って笑ってたんだよ。俺がどうせ無理だろ、なんて言ってからかったら、あいつ真っ赤な顔で、見てろよー、なんて言ってさ。なのに、あの日・・あいつは・・」
「あいつがあんな風になったのは、もしかしたら、俺があいつを前の日に殴ったからじゃねぇかと思うんだ!おれ、ふざけてあいつの事を・・」
「検査の結果では、生まれ持った先天性的な病気だって言ってたじゃない」
「そんなのわからねぇよ!」
「タケシさん・・」
「俺が・・俺があいつを・・あんな目に合わせたんだ!!」
「俺たちが中学校、高校を卒業して、そしてそれぞれの道を歩き始めた時だって、あいつはあのベッドの上で、ずっと眠り続けてたんだぞ。何年だ!?二十六年だぞ!」
「俺が・・。俺があの日、あいつを殴っていなかったら・・」
女は目を閉じ、そしてタケシの頭をなでた。
「自分を・・責めているのね」
「かわいそうに・・。ずっと、自分の中で自分を責め続けていたのね・・」
「もし・・もしノビタさんの事がタケシさんが原因だとしても・・あなたは罪を償っているわ。そうやって自分を責め続けてきたのでしょう、誰にも知られる事なく」
タケシは泣いていた。子供の様に、女の腕の中で泣いていた。
「大人になんかならずに、眠り続ける事の方が、本当は幸せなのかもしれないね」
シズカは優しく、そっと呟いた。