勘違いにはご用心-3
その後のことは、実際特に何もなかったのだからはっきりと覚えてはいない。ただ、冷や汗を流し流し、頭は真っ白。喉は干上がっていたのは間違いないだろう。
ロボットが話すような棒読みで「失礼いたしました」と喋り、東部長と受付嬢の視線を背中に貼り付けたままその場を去った気がする。
そしてそれは今でもなお、俺の背中から剥がれることなく残っている。
あ、やばい。本当にお腹痛くなってきたかも……
「ラッキー・スマイル~」
ふと、何とも愛らしい小鳥のような歌声が聞こえてきた。
暗い暗い海底に沈んでいた心が、空から差し込むくすぐったい光を見つけたように。
うな垂れた頭を上げると、買い物帰りの親子が手をつないで目の前を通り過ぎていく。
母親の手をひく女の子――ゆきなと同じくらいの歳かもしれない――が、自慢の美声をお披露目するかのように、笑顔で母親に向かって歌っていた。
ラッキー・スマイル。
俺は自分の左手親指を、目の高さまで持ち上げた。
爪には若干薄まってはいるが、相変わらず俺に笑いかけるスマイリーフェイス。
(ゆきなちゃんだと思って大切にしなさい)
馬鹿にしていたが、大久保のあの言葉と共にゆきなの笑顔が親指と重なった。
そうだよな。今日はゆきなの分身が一緒なんだ。父親としてしっかりしなきゃないけないよな。
約束の時間まであと十五分。そろそろ敵地に向かうかと、息を吸い込み腰を上げたその時。
「あ、スマイリーおじちゃん!」
聞き覚えのある声がして、俺はぐるりを見渡した。
左手にある公園の出入り口から、先ほどの男の子――けいくんと言ったか――が、母親と一緒にこちらに向かって歩いてくるではないか。
やばい、とうとう警察に突き出されるか? って俺は何も悪いことはしていないんだっけ。
「あの、先ほどは誤解してしまって……。すみませんでした。息子のこと、ありがとうございました」
深く頭を下げる母親に、身構えていた俺は体から一気に力が抜けた。
どうやら、今日の「運」はまだ残っているらしい。




