真実
翌日。わが家には、かつてないほどの「静寂」が満ちていた。不倫という大罪を犯した父さんと、それを海より深い(あるいは底抜けに明るい)慈愛で許した母さんは、久しぶりの夫婦水入らずのディナーへと出かけていった。
「お兄ちゃん、お義母様から『お夕飯は二人で仲良く食べてね』って言われました」
リビングには、エプロン姿の結衣ちゃんがいた。キッチンからは、食欲をそそるハンバーグの匂いが漂っている。少し大きめのエプロンに身を包んだ彼女が、甲斐甲斐しくテーブルを拭く姿。これだ。これこそが、全男子が夢見る「親のいない夜、義理の妹と二人きり」というラノベのゴール。
「……まじか。これ、フラグ立ってない? 僕の理性がログアウトする五秒前なんだけど」
「もう、お兄ちゃん。変なこと言わないでください」
彼女は頬を赤らめ、はにかむように笑う。その光景は平和そのものだった。
「ほら、お兄ちゃんの分。……お豆腐を混ぜて、ヘルシーに仕上げました。お兄ちゃん、最近ちょっと不摂生気味でしたから」
差し出されたハンバーグは、やはりミリ単位の狂いもなく美しく成形されていた。一口食べれば、きっとまた驚くほど美味しいのだろう。
僕は箸を割り、肉厚な塊を割った。中から溢れ出す肉汁がキラキラと輝いている。
結衣ちゃんは自分の分にはほとんど手を付けず、僕が美味しそうに食べる姿を、慈しむような、あるいは観察するような瞳で見つめていた。美味しい。本当に美味しい。母さんの作る、時々焦げていたり、味が濃すぎたりする「適当な料理」とは正反対の、過不足のない調和。
「……うまっ。なにこれ、店じゃん。結衣ちゃん、将来は僕の専属シェフに内定ね」 「ふふ、お兄ちゃんは大げさです。お口に合ってよかった」
微笑む彼女に、僕も微笑み返した。
「本当のこと言うと、私なんて生まれてこなければよかったってずっと考えてたんです。だから、この家に来れて本当に良かった」
「そんな……つらかったね。僕は結衣ちゃんに会えて本当に良かった。生まれてきてくれてありがとう」
僕は彼女の手料理をしっかりと味わった。
食べ終えた後、結衣ちゃんが食器を片付けようと席を立とうとしたのを急いで制止する。
「結衣ちゃん。まだちょっと、座ってくれるかな」
「え、あ、はい。どうしました」
「ちょっとおしゃべりしたくて」
「なんですか、急に」
照れたような、はにかんだ顔を浮かべる彼女に、僕は冷たい声で語りかける。
「……お母さんを殺したのは、君だね」
僕の問いに、彼女は一瞬だけ、本当に一瞬だけ、泣きそうな顔を見せた。そして。
「……はい」
と笑顔で答えた。その笑顔は、お弁当の卵焼きが上手く焼けたことを報告する時と、まったく同じ、純粋なものだった。
静まり返ったリビング。テレビのバラエティ番組の笑い声が、今の僕たちにはひどく遠い世界の出来事のように聞こえる。結衣は微笑んだまま、僕を見つめている。その肯定は、まるで今日の夕飯が美味しかったと同意するような、あまりにも軽い響きだった。
僕はテーブルの上の空になった皿を指先でなぞりながら、頭の中に散らばっていたピースを一つずつ組み上げていく。
「最初は、ただの違和感だったんだ。君が時折見せる、完璧すぎる振る舞い。そして、あの図書室での言葉。……『帳尻が合いました』」
回想が脳裏をよぎる。本を拾い終えた結衣が、一年生に向けて放った無機質なセリフ。
「昨日、納戸にある結衣ちゃんのお母さんの遺書を勝手に見たんだ。ごめんね。そこにも書いてあったんだよ。『これでようやく帳尻が合う』って。親子だから似ることもあるだろうけど、あれは感情の言葉じゃない。計算の言葉だ。君は向こうの生活という『負債』を清算するのに、この家という環境を手に入れた。……そう聞こえたんだ」
結衣の微笑みは崩れない。僕は続けて、ポケットからあの薬のシートを取り出した。
「次はこれだ。父さんは、お母さんが手元の薬をすべて飲み干して死んだと言っていた。でも、君のカバンの隠しポケットには、亡くなる三日前に処方されたはずの、一錠も欠けていない新品のシートがあった」
階段の途中で僕を見下ろしていた、あの冷たい結衣の瞳。
「父さんが言うには、何か「よくない薬」も飲んでいたらしいから、別にこれが残っていてもおかしくはないけど、遺書を残して死のうという人が、薬を残しておくというのが不思議だ」
そして僕は、最後に納戸で見たあの家計簿の光景を突きつける。
「極めつけは、納戸にあった家計簿。あの中には、お母さんの筆跡を真似て、何度も何度も書き直された『遺書の下書き』があった。震える文字、乱暴な文字……どう書けば一番『絶望した母親』らしく見えるのか、君は一人で脚本を練っていたんだね」
「……貧しく情緒不安定、それでいて援助も断るような母親のもとで暮らす、そんな地獄から抜け出すには、お母さんに『死んでもらう』しかなかった。それも、僕たちが君を可哀想な被害者として受け入れざるを得ないような、完璧な形で」
僕は話し終え、深く息を吐いた。目の前の少女は、相変わらず絶世の美少女で、そして僕の自慢の妹だ。
「……お兄ちゃん」
結衣が、鈴を転がすような声で僕を呼ぶ。
「……全部、正解。やっぱりお兄ちゃんは、私の自慢の人ですね」
彼女はゆっくりと立ち上がり、テーブルを回って僕の隣へと歩み寄ってきた。一切の迷いがない、軽やかな足取り。
「私、怖かったの。あのままあのアパートにいたら、私もお母さんみたいに壊れてしまう。だから、壊れる前に『整理』しただけ」
結衣の指先が、僕の頬に触れた。ひんやりと冷たく、けれど確かな意志を持った熱がそこにはあった。
「……ねえ、お兄ちゃん。私を、警察に突き出す?」
彼女は冗談を言うようなトーンで囁き、僕の首筋にそっと手を回した。その細い腕に力は入っていない。けれど、僕は逃げようとは思わなかった。僕は彼女の腰を引き寄せ、その小さな体を強く抱きしめた。
「……バカ言うな。そんなことするわけないだろ」
結衣の体が、一瞬だけ硬直した。
「生まれてきてくれてありがとう、って言ったのは嘘じゃない。君がしたことは、消しようのない罪だ。でも、君を地獄に一人で置き去りにした大人たちも同罪だよ」
僕は彼女の耳元で、自分でも驚くほど落ち着いた声で語りかける。軽薄な兄の仮面は、もうどこにもない。
「一緒にいよう。……君が完璧な妹を演じるなら、僕は完璧な共犯者になってやる。死ぬまで」
結衣の目から、堰を切ったように涙が溢れ出した。彼女は僕の胸に顔を埋め、声を押し殺して泣きじゃくった。その泣き声は、殺人犯のものではなく、ただの、十六歳の少女のものだった。
その日の深夜。結衣が泣き疲れて眠った後、僕はリビングで一人、両親の帰宅を待っていた。玄関が開く音がして、母さんが「ただいまー! デート楽しかったわぁ」と、いつもの能天気な声で入ってきた。父さんは先に寝室へ向かったようで、リビングには僕と母さんの二人だけになった。
「母さんは寝ないの?」
僕が聞くと、母さんはお気に入りのブランドバッグを置き、ふっと表情を消した。
「雅紀。……結衣ちゃんとは、仲良くできた?」
その声は、昼間の明るいトーンとは別人のように、低く、冷徹な響きを持っていた。僕は息を呑んだ。
「母さん、知ってたんだ。結衣ちゃんが、何をしたか」
母さんは優雅な動作で椅子に座り、窓の外の月を見つめた。
「知っていたも何も、結衣ちゃんがしたのは家にあった良くない薬をお酒に酔った母親にたくさん飲ませただけよ。じゃあそもそもお金もないあの女の家に、なんでそんなに危険な薬がたくさんあると思ってるの?」
「……え?」
「雅紀、あなたは知らないでしょうけど、不倫相手のあの女、あの子に虐待までしていたのよ。うちのパパはそれを知っていても何もしなかったけど」
母さんは、まるで庭の雑草を抜いた話でもするように淡々と語った。
「母さんはなんでそんなことを?」
「言ったじゃない」
母さんは聖母のような笑みを浮かべ、僕の頭を優しく撫でた。
「女の子が欲しかったって」
母さんは寝室へ消えていった。あとに残った僕は、しばらく空を見つめ、みんなが寝静まった頃に自分の部屋へと引き上げた。




