3:ブラックの洗礼
翌朝、いつもより少し早く目が覚めた。窓から差し込む朝日が、埃っぽいカーテンを薄く照らしている。ソファの上で、フィリスが毛布にくるまってスースーと寝息を立てている。聖女の肩書きも、異世界の気品も、今はただの寝ぼすけな女の子にしか見えない。こんな無防備な姿、誰かに見られたら「現代の奇跡」とか言われかねないな。
キッチンで食パンを焼き、インスタントコーヒーを淹れる。冷蔵庫を覗くと、賞味期限ギリギリのヨーグルトが目に入った。まあ、フィリスにでも食わせるか。あっちでは賞味期限なんてものは存在しない。腹を壊せば悪いものを喰った、程度で済むし、彼女も聖女であることから自分の腹具合ぐらい自分で治療できるだろう。
俺も魔法が使えることだし、おそらく彼女も自分自身の魔法を使いこなせるはずだ。うかつに使わないように注意はしておくとして、朝飯にするか。
彼女を起こし、朝食を並べる。ヨーグルトをスプーンでつつくフィリスは、まるで未知の魔獣を観察するような目つきだ。
「トモアキ様、この白いものは何ですか? 回復ポーションの類ですか? 」
「いや、ただのヨーグルト、牛の乳を発酵させた食べ物だ。とりあえず食ってみな、毒じゃないから」
恐る恐る一口食べたフィリスは、目を丸くしてパッと笑顔になる。
「美味しい! この世界の食べ物は、本当に不思議で素晴らしいですわ! 」
「そりゃ良かった。じゃあ、俺はこれから仕事だから、お前はここで……そうだな、テレビでも見て大人しくしてろ。ほら、これがリモコン。あと、冷蔵庫の中に食べるものが入ってるから昨日教えた通りに温めて食べてくれ」
リモコンの使い方を手短に説明し、彼女に渡す。フィリスはリモコンを手に、まるで聖遺物でも扱うように慎重にボタンを押した。テレビが点き、朝のワイドショーが流れると、彼女は画面に釘付けだ。
「この箱、動く絵と声が! これは遠隔視の魔法ですか? すごい、トモアキ様の世界は魔法がこんなに身近なのですね! 」
「魔法じゃなくて科学だよ。まあ、楽しめるならそれでいい。とにかく、変なことしないでくれよ。絶対だぞ。特に魔法の類だ。こっちの世界で魔法を使える人間はおそらく俺とフィリスぐらいだ。使った時点で残り全ての人生を牢獄で過ごすぐらいの気持ちでいてくれ。あと、もし緊急連絡が入ったなら固定電話があるからここに連絡してくれれば俺に話しが通じると思う。使い方は今から教える」
フィリスがコクコクと頷くのを見届けて、俺はスーツに着替え、鞄を引っ掴んで家を出る。満員電車に揺られながら、頭の中はフィリスのことでいっぱいだ。魔法が使える聖女が、俺のボロアパートでテレビ見て過ごすって、想像するだけで頭痛がする。
うーん、残業が今日も少なければ早く帰って様子見もできるだろうし、一応冷蔵庫の中に用意して、レンジの使い方も昨日のうちに教えておいた。ちゃんとお昼を食べてくれれば夜まで……いや、夜の分は遅くなってしまうかもしれないな。夜の分も用意してあげるべきだったか。
今後どうしていくか、悩ましいところだな。しばらくは俺の給料でも食いつないで行けるだろうが、この先死ぬまで一緒になるかもしれない、ということまで考えると俺の考えは遠く何処かへ旅立させたくなってきた。やはりちゃんと後ろからついてきてないかどうか確認するべきだったか。考えただけで胃がキリキリする。
会社に着くと、いつものように上司の嫌みが朝の挨拶代わりだ。
「進藤、昨日頼んだ資料、午前中で仕上げてくれよ。遅れたら、また残業コースだからな! ほら、俺のコーヒーより薄い仕事はダメだぞ! 」
早速の濃密な仕事の空気に当てられそうになるが、冷静になって考えてみる。失敗して更に怒られが加速したとしても、命まで取られるということはない。その点向こうの世界はスリルがあった、いや、命のやり取りの連続だった。
それに比べればグラフと数字と格闘するだけで給料がもらえるこの環境、それほど悪くないのでは? 上司の嫌みも、魔物たちから恨まれたり精神攻撃を直接仕掛けてくることに比べれば……楽かもしれない。
そう思えばこの社畜生活も悪くないな。早く帰れないしその分フィリスを一人で待たせるようなことにはなるが、時間だけを浪費するわけにもいかないし、指示通りに訂正しつつ様子を見ていこう。もしかしたらモンスターを楽に倒せる方法のように、上司をさっさと黙らせるような素敵な円グラフが描けるようになるかもしれないのだ。
◇◆◇◆◇◆◇
上司の訂正と進捗確認と作り直しを潜り抜け、お昼休みの時間になった。サンドイッチを片手にもう片手には緑茶。上司の嫌み炸裂を五年間で培ったストレス耐性で潜り抜け、今日はいつもよりもなんだか楽に思えてきた。
フィリスはちゃんと電子レンジ、使えているだろうか。上手くやらないと冷たいご飯かボソボソのパンだけを食べさせることになる未来が見えたので、ちゃんと使い方を目視確認させつつ、このぐらい温めればいいからな、と念押しもして、フィリスも俺の前で確認をしていたし、試しのおにぎりで本当に温まることを実践してたからな。
そのうち向こうからでも確認が取れるように、格安スマホを契約してフィリスに持たせるようにしよう。とりあえず俺と連絡が取れればそれで充分なはずだ。ラクラクホンみたいなものがあって格安で回線契約が出来るなら、ボタンを押して電話が繋がればいいだろう。
ご飯を食べ終えてうーんと背筋を伸ばし、やっぱりこっちのご飯は美味しいな、と確認する。向こうではこんなサンドイッチは貴族の食べ物であったし、衛生環境は悪いし、持って半日、というところだっただろう。それがこっちではそのへんで金を出せば食べられる。
何日か飯を食えずにさまよった経験もあることだし、空腹には多少の耐性もあるが、今のこの引き締まった身体には空腹はちょっとまずい部分もあるだろう。これから徐々に体を戻して、普通体型にしていかないとストレスを緩和するにはある程度の脂肪が必要らしいしな。
これからも上司の嫌みを聞きながら日銭を稼ぐには若干お太りになることも考慮していこう。残業はあるし仕事も多いが、その分ちゃんと給料は出ているので決してダラダラ仕事をしている訳ではない。むしろこれから更に仕事時間を短くして早く帰って、フィリスに癒されるための時間が必要だ。
よし、午後も踏ん張るか。フィリスが家にいてくれるだけで気分まで上向いてくれるとはさすが聖女だな。色々と問題は山積みだが、二人で暮らしていくだけの給料はあるのでその点だけは心配しなくていいところなのは助かるよ。
◇◆◇◆◇◆◇
午後の作業が開始される。「進藤! 午後の会議、資料間に合ってるな? 」が背後から飛んできた。しかし、さっきまでの俺とは一味違う。
「資料これで足りますか! 足りない部分があればご教授願います! 」
ダメ出しを喰らう前に機先を制して先にダメ出しを喰らうだけの用意をしておく。俺の精神を守るための鉄壁のバリアを張りつつ、上司からの反応を見る。
「基本的にはこれでOKだ、だが印刷したらこのグラフは色がまじりあって消えるから色味だけ直しとけ、もうちょっとビビッドな感じでやれ! 」
「はい、わかりました! 」
今の俺には上司のやり直し攻撃よりも向こうの魔王の手下の精神攻撃のほうがよほど精神にきた。毎晩寝付いたころに奇襲をしかけられ続けて眠れない夜を過ごして疲弊したりすることもない。仕事を真面目にしている間は時間を追われることはあろうものの、直接的に物理攻撃を仕掛けてこないだけこちらの方がよほどマシ。
それに今の肉体で殴られたとしても、きっと問題なく上司の手首が折れるなりして逆に怪我をさせてしまう可能性のほうが高い。それだけの能力を持ってこっちの世界へ帰ってきてしまったんだ。うっかり缶コーヒーなんかを封を開けないまま握りつぶしてしまったりしないように注意しながら生きていかないとな。これからは我慢の時代だ。
◇◆◇◆◇◆◇
「これでいいですか! 」
再提出して上司の指示を仰ぐ。全部が出来るのも大事だが、修正点を修正して即時訂正に応じるのも大事。悩むよりまず行動、出来たらまず報告、連絡、相談。どれが欠けてもうまく回らないなら細かく攻めていくべし。
「……よし、これでいく。今日は早かったな。その調子で明日も頑張れよ」
どうやら無事にOKを貰えたらしい。今日の俺は今までで一番充実しているような気がする。
「進藤さんどうしたの、なんか今日はやる気に満ちてるというか仕事が早いというか、なんか違って見えるけど」
隣の席の藤原さんが珍しそうに声をかけてくる。今日から俺は一味も二味も違った男になるんだ。それに養わなきゃいけない相手も居るしな。今のところは部屋から出してやれなくて色々と不満が溜まるかもしれないが、いずれは公の道を堂々と歩いていても不思議が無いような立場もつくってやらないといけない。
「ようやく角田部長に慣れてきた……ってことでしょうかね。後は家に帰ってやることが増えたんでちょっと早く帰れるようにしないといけませんから」
さて……上司が帰ってきたらその仕事の続きについての資料を用意させられるだろうから今のうちに作っておかないとな。時間までに仕上げて帰れるように頑張らなくては。
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