第3章 魂の共鳴と時代の隔たり
降りしきる雨音だけが響く小屋の中で、未来から来た教授は、満たされぬ現代の苦悩を吐露した。対峙するのは、孤独と貧困に喘ぐ大正の作家。時代の隔たりを超え、魂の深淵に触れる言葉が交錯する。文学、孤独、そして人間存在の普遍的な悲哀――赤裸々な告白は、冷淡な視線の奥に、微かな共鳴を呼ぶ。雨が止む時、二人の奇妙な邂逅は、新たな局面を迎えようとしていた。手の中の木箱だけが、遠い時代との繋がりを保っている。
未明の赤裸々な告白は、雨音だけが響く小屋の中に、重く、そしてどこか救いを求める響きとなって消えていった。葛西は相変わらず腕を組み、表情を変えずに未明を見つめている。その沈黙は、冷淡さとも、あるいは深すぎる思考の淵ともつかぬものだった。
やがて、葛西はゆっくりと口を開いた。「……なるほど。教授先生は、未来でも随分と満たされぬ日々を送っておられたと見える」その声には、嘲りとも同情とも取れない、複雑な響きがあった。「妻との関係が空虚だの、学生の依存が重いだの……随分と贅沢な悩みではないか。この時代には、飢えや病、社会の不条理といった、もっと直接的な苦痛に喘いでいる人間が大勢いるというのに」
未明は言葉に詰まった。確かに、現代の苦悩は、この時代の貧困や病に比べれば、表面的なものに映るのかもしれない。しかし、精神的な飢餓や孤独は、時代や環境に関わらず、人間の魂を深く蝕む。
「ですが……」未明は絞り出すように言った。「その、直接的な苦痛も、精神の苦痛も、本質は同じではありませんか?己という存在が、この広大な世界において、ちっぽけで、無力で、誰からも理解されないのではないかという、根源的な孤独。それを埋めるために、人は何かに依存したり、虚飾に縋ったりする」
葛西の目が、僅かに光を帯びたように見えた。「根源的な孤独、か……。随分と文学的な言い回しだな、教授先生。だが、あながち的外れでもないかもしれん」彼は腕をほどき、膝の上に手を置いた。「わしは、書くことでしか、己という存在を確かめられん。筆を執っている時だけが、自分がここにいると、確かに感じられる時間だ」
未明は、その言葉に深い共感を覚えた。自分もまた、研究や講義という行為を通じて、社会的な役割を演じることで、辛うじて自我を保っている部分があった。しかし、それはあくまで仮面であり、内面の空虚を埋めるものではなかった。
「あなたの作品には、その『根源的な孤独』が、張り詰めた糸のように貫かれている」未明は熱を込めて言った。「『哀しき父』で描かれる、子に対するどうしようもない愛情と、それゆえに生まれる苦しみ。『子をつれて』の、貧困の中で揺れ動く父子の情景。そして『彷徨』の、定まらない魂の軌跡。それらは全て、人間存在のどうしようもない悲哀を、赤裸々に描き出しています。だからこそ、あなたの作品は、時代を超えて人々の心を打つのでしょう」
葛西は、未明の言葉をじっと聞き入っていた。その目は、未明の研究者としての冷静な分析と、一人の読者としての熱情を測りかねているようだった。
「わしの作品を、そこまで理解しているとはな……」葛西は呟いた。「未来の世界では、わしのような物書きの、泥濘のような私小説が、研究の対象になっているのか。奇妙な時代になったものだ」
「奇妙かもしれませんが、真実です」未明は断言した。「あなたの正直な筆致は、多くの読者に勇気を与え、あるいは自身の内面と向き合うきっかけを与えています。少なくとも、私の生きていた時代では」
葛西は再び沈黙し、深いため息をついた。「泥濘の中から、何かを掬い取ろうとする奇特な人間もいるものだ」
雨音が弱まり、小屋の外が僅かに明るさを取り戻してきた。重苦しい空気の中に、一筋の希望の光が差し込んだかのようだった。
「さて、教授先生」葛西は立ち上がり、埃を払った。「いつまでもこんなところにいるわけにもいかんだろう。雨も止んだようだ」
未明は、これからどうなるのだろうかと不安を感じた。葛西は自分をどうするつもりなのだろう?警察に突き出すのか?それとも、ただ放っておくのか?
「あの……わたくしは、これからどうすれば……」未明は戸惑いながら尋ねた。
葛西は未明の方を振り返り、その目に冷たい光を宿らせた。「未来から来た、正体不明の人間を、いきなり家に泊めるほど、わしはお人好しではない。だが、この雨の中、放り出すのも寝覚めが悪い」彼は少し考え込むように顎に手を当てた。「この近くに、安価な下宿屋がある。そこでしばらく身を隠すのが良いだろう。身元を詮索されることも少ない」
未明は安堵の息を漏らした。少なくとも、すぐに放り出されるわけではない。「ありがとうございます。大変助かります」
「礼は良い。わしはただ、面倒なことになりたくないだけだ」葛西はそう言って、小屋の出口に向かって歩き出した。
未明は慌てて葛西の後を追った。手に持つ木箱の重みが、現実との繋がりを辛うじて保っているかのようだった。大正時代の街並みが、雨上がりの湿った空気の中にぼんやりと浮かび上がっていた。行き交う人々の視線が、未明の奇妙な服装に突き刺さるのを感じた。
「一つだけ、聞いておきたいことがある」葛西が立ち止まり、未明を振り返った。「お前が未来から持ってきたという、その奇妙な箱。あれは何だ?」
未明は木箱に目を落とした。あの箱に触れた瞬間に、全てが始まったのだ。まだその正体は分からないが、現代に戻るための唯一の手がかりかもしれない。「これは……私もよく分からないのです。骨董店で偶然見つけて……」
葛西は疑わしげな目を細めた。「偶然、な。まあ良い。だが、それを安易に他人の目に触れさせない方が良いだろう。この時代は、未来のお前が思うほど、平穏なだけではない」
その言葉は、未明の心に新たな不安を植え付けた。この木箱は、一体何なのだろうか?そして、自分は本当に無事に現代に戻れるのだろうか?雨上がりの空の下、未明の心は、先の見えない霧に包まれていた。
第四章 泥濘の中の日常と木箱の秘密
葛西に案内された下宿屋は、街の裏通りにある、古びた木造二階建ての建物だった。狭い廊下は薄暗く、湿った雑巾のような匂いが染み付いている。葛西は無言で、未明を一室に案内した。
「ここでしばらく世話になるがいい」葛西は言った。「金は貸してやる。いつ返せるか知らんがな」
未明は恐縮した。「ありがとうございます。必ずお返しします」
部屋は四畳半ほどの狭さで、窓は小さく、光がほとんど入らない。壁は煤けており、隅には小さなちゃぶ台と、押し入れだけがある。しかし、雨風を凌げるだけ、未明にとってはありがたかった。
「葛西先生は……どちらにお住まいなのですか?」未明は尋ねた。
「この近くの、もう少しばかりましな安アパートだ」葛西は気のない返事をした。「何か困ったことがあれば、下宿屋の女将に聞け。わしはあまり頻繁には来られん」
そう言い残すと、葛西はあっさりと部屋を出て行った。未明は一人、薄暗い部屋に取り残された。現代の快適な研究室や自宅とはあまりにもかけ離れた環境に、改めて自分が異世界にいることを実感した。
未明は持っていた木箱をちゃぶ台の上に置き、再び внимательно 調べ始めた。黒檀のような材質は滑らかで、触れるとひんやりとしている。表面に彫られた幾何学的な文様は、やはり見たことがないものだ。蓋の中央にある象形文字のようなものに指を触れてみるが、何も起こらない。第一章でタイムスリップした時の強烈な閃光と揺れは、まるで夢だったかのようだ。
「この箱が、僕をこの時代に連れてきたのか?」未明は呟いた。しかし、どうすれば再び現代に戻れるのか、全く手がかりがない。あの時、指が吸い付いたように離れなかったのは、一体なぜだったのだろう?
未明はしばし考え込んだ後、意を決して木箱を慎重に開けてみた。中に何か秘密が隠されているかもしれない。しかし、蓋を開けても、中は何も入っていなかった。ただ、箱の内側にも、外側と同じような幾何学的な文様が彫られているだけだった。
「何も……ないのか?」未明はがっかりした。てっきり、何か特別な道具や文献でも入っていると思っていたのだ。しかし、この空っぽの箱が、自分を時代を超えさせた唯一の存在なのだ。何らかの力が、この箱に宿っていることは間違いない。
その日から、未明の下宿生活が始まった。日中は、下宿屋の周りを散策し、この時代の生活に慣れようと努めた。人々は忙しなく働き、街には活気があった。しかし、その裏側には貧困や格差が確かに存在していることも感じられた。現代では当たり前だった清潔さや利便性はなく、未明は様々なことに戸惑った。言葉遣いも、現代とは微妙に異なっている。
葛西は、言った通り頻繁には姿を見せなかったが、数日おきに顔を出した。彼はいつも疲れたような様子で、未明に何か特別な用事があるわけでもなく、ただふらりと立ち寄るだけだった。そして、未明が現代のことや文学について語るのを、静かに聞いていることが多かった。
「未来では、新聞も文字が動く画面で見られるのか」ある日、未明がスマートフォンの存在について話した時、葛西は興味深そうに目を細めた。「わしのような筆の遅い人間にとっては、恐ろしい時代だな」
未明は苦笑した。「便利になった一方で、情報に溺れ、人との繋がりが希薄になった部分もあります。私のように、孤独を感じる人間も少なくありませんでした」
葛西は相変わらずの冷たい視線で未明を見つめた。「孤独など、いつの時代も人間の業病よ。便利になったところで、消えるものではない」
二人の間には、奇妙な友情のようなものが芽生え始めていた。葛西は未明の突飛な話を完全に信じているわけではなかったが、彼の持つ現代の知識や視点は、私小説家としての葛西にとって、どこか刺激的だったのかもしれない。未明もまた、葛西の持つ、人間の本質を見抜くような洞察力に惹かれていた。
ある夜、葛西が未明の部屋にやってきた時、未明は木箱を再び広げて、文様をスケッチしていた。
「まだ、そんなものを調べているのか」葛西は言った。
「ええ。これが、私が現代に戻るための唯一の手がかりかもしれないのです」未明は答えた。
葛西は、木箱に彫られた文様をじっと見つめた。「この文様……どこかで見たことがあるような……いや、気のせいか」
未明は驚いて葛西を見た。「本当にですか?どこでご覧になったのですか?」
葛西は首を振った。「いや、はっきりとは思い出せん。ただ、何か古びたもの、例えば寺社の装飾か、古文書の挿絵か……いや、やはり思い出せん」
葛西の曖昧な言葉だったが、未明にとっては大きな希望となった。この文様が、この時代のどこかに存在している可能性がある。それは、この木箱の正体、そして現代に戻るための鍵に繋がるかもしれない。
未明は、スケッチした文様を手に、この時代の図書館や骨董品店などを巡ってみようと考えた。見慣れない異邦人である自分が、そのような場所で無事に情報を得られるかは分からなかったが、じっとしているわけにはいかない。
泥濘のような大正時代の日常の中で、未明の心に一筋の光が差した。それは、現代に戻るための希望であり、同時に、この時代にいることの意味を問い直すきっかけでもあった。葛西善蔵という孤独な作家との出会いは、未明にとって、自己の内面と向き合う、予想もしなかった旅の始まりを告げていた。そして、あの奇妙な木箱は、依然として多くの謎を秘めたまま、未明の傍らに静かに存在していた。
驟雨の中で始まった、現代と大正、二つの魂の邂逅。
第三章では、慶應義塾大学教授・小川未明が抱える現代の苦悩が、私小説家・葛西善蔵という、同じく孤独を宿す存在の耳に届きました。満たされない日々、空虚な人間関係、そして自己の存在意義への問い――時代や環境は異なれど、人間の魂が抱える根源的な「孤独」は、海を隔てることなく、百年以上の時を超えて共鳴します。
葛西善蔵は、未明の突飛な告白をすぐには信じません。しかし、未明が語る自身の作品への深い理解や、普遍的な苦悩についての言葉は、冷淡な彼の心に微かな波紋を広げます。疑念の中にも見え隠れする、孤独な作家の人間的な一面。二人の間に生まれた、奇妙な共感とも呼べる空気感が、この章の核心となりました。
雨が上がり、一時的な雨宿りが終わりを迎えても、未明の、そして物語の旅はまだ始まったばかりです。果たして、未明は無事に現代に戻ることができるのでしょうか? 彼をこの時代へ連れてきた謎の木箱には、一体どんな秘密が隠されているのでしょうか?
次章では、泥濘のような大正時代の日常に足を踏み入れた未明の新たな生活と、木箱に隠された謎の片鱗が描かれることになります。時代を超えた邂逅が、彼らに何をもたらすのか。
続きの第四章も、どうぞお楽しみいただければ幸いです。