第一章 驟雨の骨董と時代を違える邂逅
令和の東京、淀んだ梅雨空の下。
変わり映えのしない日常と、満たされない心の渇きを抱える一人の大学教授がいた。近代文学を専門とし、知的な鎧の内側に虚無を隠す男、小川未明。
彼にとって、過去とは研究対象であり、書物の中に整然と収められた記録に過ぎなかった。敬愛する作家たちの苦悩や情熱も、インクの染みと活字の向こうにある、遠い世界の出来事のはずだった。
しかし、雨宿りのために立ち寄った骨董店で見つけた一つの奇妙な木箱が、彼の現在を歪ませ、ありえない過去へと繋がる扉をこじ開ける。
これは、驟雨に導かれ、時代を超えた邂逅を果たした男の物語。
彼が迷い込んだのは、教科書でしか知らなかったはずの文豪が、生身の人間として苦悩し、呼吸する時代。
現代の常識が通用しない世界で、彼は何を見、誰と出会い、そして自身の中に何を見出すのか。
古びた木箱に触れた瞬間、止まっていたはずの運命の歯車が、静かに、そして激しく回り始める——。
令和7年6月18日、火曜日。都内の名門私立大学、慶應義塾大学の文学部教授である小川未明(おがわ みめい・45歳)は、淀んだ梅雨空の下、憂鬱な午後の時間を研究室で過ごしていた。専門は近代日本文学。理知的で穏やかな物腰の裏には、満たされない感情の澱が常に漂っている。数年前に離婚した妻、美奈子(みなこ・42歳)は、才色兼備のキャリアウーマンで、社交の場では常に完璧なパートナーを演じていたが、家庭内では互いの感情を深く分かち合うことはなかった。未明にとって、彼女は社会的な体面を保つための、機能的な存在になりつつあったのだ。
昨晩のゼミ後、文学部三年生の佐伯七海(さえき ななみ・21歳)から届いたメッセージが、古びたMacBook Proの画面に未読のまま残っている。「先生の言葉が、私にとってどれほど心の支えになっているか、言葉では言い尽くせません」。真摯な言葉の裏に潜む、過剰なまでの依存心に、未明は複雑な感情を抱いていた。彼女たちの純粋な憧憬は、いつしか教師という立場を利用した、無意識の感情の搾取へと繋がりかねない。そんな危うい関係に、彼は疲弊感を覚えていた。
午後の講義を終え、未明は大学近くの古書店街を彷徨っていた。雨宿りのつもりで立ち寄った小さな骨董店の一隅で、彼は奇妙な木箱を見つけた。黒檀のような深みのある色合いで、表面には幾何学的な文様が精緻に彫り込まれている。店主の老人は、「古いものだが、出所は分からん」と素っ気なく言った。何かに惹かれるように、未明はその箱を衝動的に購入した。
研究室に戻り、雨音を聞きながら、未明は購入した木箱を внимательно 調べていた。蓋の中央には、見慣れない象形文字のようなものが刻まれている。指でそっと撫でた瞬間、彼の意識は唐突に遮断された。視界が強烈な閃光に包まれ、身体がジェットコースターに乗ったかのように激しく揺さぶられる。驚いて箱から手を離そうとしたが、指はまるで磁石のように吸い付いて離れない。
意識が戻った時、未明は自分が全く見知らぬ場所に立っていることに気づいた。足元は濡れた土で、周囲には木造の家々が軒を連ねている。行き交う人々は、時代劇で見たような着物を身につけ、頭には手ぬぐいを被っている者もいる。空からは、先ほどまで聞いていた現代の喧騒とは異なる、どこか懐かしい音色の雨がしとしとと降り注いでいた。
「ここは……一体どこだ?」
混乱した思考の中で呟いた瞬間、背後から低い、陰鬱な声が未明の耳に届いた。「こんなところで、突っ立って何をしているんだ、貴様は。」
振り返ると、そこに立っていたのは、痩せ細り、陰鬱な表情を浮かべた男だった。煤けたような色の外套を羽織り、その奥の目は鋭く、まるで獲物を射抜くかのように未明を見据えている。顔色は悪く、神経質な雰囲気を漂わせている。未明はその顔に見覚えがあった。近代文学の研究で、何度も写真で目にしたことのある、私小説作家・葛西善蔵(かさい ぜんぞう・享年41歳)その人だった。
未明の心臓は凍り付いたように跳ね上がった。まさか、自分が大正時代にタイムスリップしてしまったのか?荒唐無稽な事態に、思考は完全に停止した。言葉が出ない未明に対し、葛西は苛立ちを隠そうともせず、再び低い声で問い詰めた。
「おい、貴様!そんな奇妙ななりをして、一体何者だ?」
突然の非現実的な状況に、未明の知性は完全に麻痺していた。慶應義塾大学教授としての肩書も、現代社会の常識も、この時代では何の価値も持たない。目の前にいるのは、書物の中の人物ではなく、生きた、孤独と苦悩を抱える葛西善蔵なのだ。一体、何と説明すれば、このあり得ない状況を理解してもらえるのだろうか?未明の喉は、乾いた砂のようにひゅうひゅうと音を立てた。
梅雨時の気怠い午後、古びた骨董品に触れた瞬間、近代文学教授・小川未明の世界は一変した。
令和の東京から、彼が研究対象としてきたはずの過去へ——。
降りしきる雨、見慣れぬ街並み、そして目の前に立つのは、肖像画や著作でしか知らなかったはずの私小説作家・葛西善蔵その人。
その痩身から放たれる鋭く陰鬱な視線は、書物の中の人物像とは比較にならないほどの生々しい圧力を伴って、未明に突き刺さる。
「一体何者だ?」
問い詰められ、言葉を失う未明。
知性と常識が通用しない非現実的な状況下で、彼は自らの存在をどう説明し、この邂逅をどう乗り越えるのか。
驟雨の中で始まった時代を違える邂逅は、まだ序章に過ぎない。