【Prologue】どうしてこんなことに！？
新婚初夜、王弟ディオン＝ファルサス・ログルムントは新妻を見つめてこう言った。
「あらためて言っておくが、俺が君を愛することはない」
上質な調度品で設えられた夫婦の共寝室に、ディオンの低く伸びやかな声はよく響いた。
窓から差し込む月明りは彼の金髪を艶やかに濡らし、ガウンを羽織った彫像のような逞しい体躯の陰影を際立たせている。燭台のろうそくが、彼の精悍な美貌にゆらゆらと妖しい影を落としていた。
初夜の寝室で述べられた〝妻を愛さない〟という一言。
本来ならばそれは妻の尊厳をくじき、心に傷を負わせるに足る残酷な発言だ。
しかしディオンはその台詞を、やたらと明るい口調で告げた。端正な顔立ちには、楽しげな笑みさえ浮かんでいる。
ベッドに腰かけている１８歳の妻エミリアは、気丈な態度で大きくうなずいてみせた。
「あら、殿下がお約束を守って下さるようで安心しましたわ。あなたは私を愛さないし、私もあなたを愛さない。それが、あなたを雇う条件ですものね」
笑顔のディオンとは対照的に、エミリアの表情は強張っていた――幼さの残る愛らしい顔には、緊張が色濃くにじんでいる。
「怖い顔をするなよ。そんなに俺のことが怖いのか？」
「べ、べつに怖がってなんか」
強がっているエミリアを見ながら、３つ年上の夫は面白がって肩を揺らしていた。
「もう、笑わないでください殿下！ 私はあなたの雇用主なんですよ？ 馬鹿にしないで……」
「べつに、馬鹿になんてしてないよ」
ふっと息を吐き出してから、ディオンは続けた。
「俺は〝用心棒〟として、君に雇われることになった。そして雇用の報酬は、金銭ではなく君自身だ。君には、俺の契約上の妻になってもらう――つまり、俺が求めたときだけは『王弟ディオンの愛妃』としてふるまって欲しい。それ以外の時間は君の自由だし、もちろん身の安全はこの俺が保障する。そして、『君の過去』に関して一切詮索はしない。それが契約書の内容だろう？ なにか不足はあったか？」
「……ありません」
「それなら話は終わりだ。寝よう」
緊張でかすれるエミリアの声にかぶせるようにそう言うと、ディオンは無遠慮な様子でエミリアのベッドに上がり込んできた。
「！ ちょっと、殿下……！」
「別に取って喰ったりしねえよ。ベッド半分貸してくれ、俺は眠い」
びくりと身を強張らせるエミリアには目もくれず、広いベッドの奥の方へとディオンは移動した。そのままごろりと寝転んで、エミリアに背を向ける。
「それと、夫婦なんだから『殿下』と呼ぶのはやめてくれ。ディオンだ、呼んでみろ」
「……っ。………………デ、ディオン、さま」
「よし」
寝返りを打ってエミリアに向き直ると、ディオンは彼女をふわりと見つめた。
彼の纏う黒いガウンの胸元から、鍛え抜かれた胸板がちらりと除く。エミリアは顔を赤くして、弾かれたように目を逸らした。
「さっさと呼び馴れてくれよ、俺の雇用主さま」
「……やっぱり私のこと、馬鹿にしてるでしょう」
「どうだかな」
悪戯っぽく笑うと、ディオンは再び背を向けた。
「俺は君を愛さない。だから、安心してお休み」
ディオンはそのまま眠ってしまった。
深い寝息に合わせて上下する背中を、エミリアは警戒心を解ききれない様子で睨み続けている。
（……もう。何なの、この人！）
ディオンと最大限の距離をとり、ベッドの隅で身を丸くする。かなり離れているはずなのに、彼の体温が空気を通して伝わってくる気がしてエミリアは戸惑っていた。
（やっぱり私、どうかしてるわ。色々あったとはいえ……いくらなんでも隣国の王弟殿下と結婚しちゃうなんて、我ながらどうかしている！）
逃げ出したい衝動に駆られながら、エミリアは頭を抱えて悶えていた。
（私の正体が、この人にバレたらどうしよう！ 絶対に隠し通さなきゃ。……レギト聖皇国から逃げ出してきた『偽聖女』だなんてバレたら、きっと大変なことになる！）
密入国。
身分詐称。
挙句の果てに、王弟殿下との偽装結婚。
どれもこれも、エミリアにとって身の破滅に直結する事実だ。
処刑されても文句は言えない……。
（うぅ……私はただ野盗を用心棒として雇って、慎ましやかに生きていくつもりだったのに！ なんで王弟殿下と契約結婚をする羽目になってしまったの？）
エミリアは、半泣きになってこれまでの人生を思い返していた。
――偽聖女として祭り上げられた、７歳のあの日。
――〝ルカ〟と出会った１０歳のあの日。
――偽聖女だとバラされて、投獄された２か月前。
――そして密入国の末の、王弟殿下との奇妙な出会い。
（どうしてこんなことに……！？ 私の人生、どうなってるの！？）
これは偽聖女・エミリア＝ファーテがすべてをかなぐり捨てて隣国へ逃げた、そのあとの物語。
すやすや眠る王弟ディオンと同じベッドの片隅で、エミリアは眠れぬ夜を過ごすのであった……。
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