ーもう一つの I ー
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それは、彼にとってまさに 渡りに船だった。
同じ職場に勤める恋人が、他科の男と親密な関係にあると同僚から教えられたのは、数か月前。
互いに職場の寮に住んでおり、付き合った当初は部屋の行き来ができる距離に特別感もあったが、次第にシフトが合わなくなり、今ではこの距離の近さが仇となっていた。
浮気だと、彼女を問い詰めるつもりは毛頭ない。
職場で事を荒立てたくもないし、
日々の業務の忙しさで、そんな事にエネルギーを使う気力もなかった。
寮のエレベーターで、彼女とその男が偶然乗り合わせた時には、流石に気まずくて視線を向逸らせた。
弟が行きつけるカフェのオーナーが管理するマンションビルに丁度空室があると聴き、その足で入居希望を願い出に訪れた程だ。
紹介されて訪れたカフェは、都会にありながらも大型ショッピングモールまで2駅の立地で、最寄り駅から徒歩10分程。
近くには大きな公園が整えられ、圏内には大学があり、若者で賑わう開けた地域の一角にある。
シックで洗練された外観を持つデザイナーズマンションの1階で、オシャレなそのカフェは営業していた。
定年退職した70代の夫婦がオーナーを務める、そのマンションビルの名前は 【I-nfinity∞】
不労所得があり金銭的に余裕のある夫妻が非営利目的で始めたらしく、敷金・礼金無しの実質賃料無料だという。
話を聴いた時はあまりに出来過ぎた話に、よくある詐欺の一種かと耳を疑ったが、
入居前の面談と称してオーナーである三笠夫妻としばらく話をすると、そんな疑いは直ぐに晴れた。
三笠夫妻は実に誠実で、高齢でありながらも青年のように夢を語り、その志は崇高であった。
彼等の下でなら―――と、萩原 七汐はI-nfinity∞への転居を決めたのだ。
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Glass 1 :意向
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七汐はやや緊張した面持ちで、にこやかに微笑むその男を見上げた。
「聴いたと思うが、この“I-nfinity∞”は、オーナーの三笠夫妻がオレ達のような若者を応援したいと始めた住宅の為、一般の賃貸のような敷金・礼金はないし賃貸料も実質無料だ。ただし、週1回6時間以上を一階に併設された【café&Bar INFINITY∞】で勤務する事を条件としている」
そう―――
このI-nfinity∞は、家賃の代わりに週6時間の労働を条件とする、変わった賃貸マンションなのだ。
マンションビルを案内しながら、男は渡されたマニュアルに視線を落とす七汐に、説明を続けた。
この辺りは、先日交わした賃貸契約書に記載されていた為、把握している。
七汐は隅々まで読み込んだ契約書の内容を、再確認の意味を含めて読み返した。
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◆共同住宅 I-nfinity∞ について
◇オーナーが非営利目的で始めたため、敷金・礼金なし、賃貸料実質無料(週1回6時間勤務必須)
食費・水道・光熱費と駐車場代…等は各自実費
◇ただし、入居にはオーナーの一風変わった面接があり、ここに住まう者は皆オーナーが気に入った人(応援している人)である。
◇入居に際し、3つのルールを設けている。
1.入居者は皆家族。困った時は助け合う事。
2.入居者はみな平等。何かが起こった際は、話し合って問題解決を行う事。
3.週に1回(6時間)以上、【café & Bar INFINITI】に勤務する事。
◇建物は全5階建て
1F:駐車場、駐輪場
中庭
café & Bar INFINITI∞
居住者用の共用玄関・玄関ホール
2F~4F:住居スペース(各階に4室・エレベーター一基・オール電化・ペット可能)
5F:大バルコニー付きブレストルーム(共有スペース)
オーナー夫妻の自宅
◆【café & Bar INFINITI∞】について
◇ 営業時間 Café AM10:30~PM16:00
Bar PM18:00~AM5:00
勤務時間 AM 9:00~翌朝5:30までの中から選択可能。
休業日 年末年始・GW・その他は不定期休
営業時間外であっても、理由があればフレックス勤務の申請可能。
◇入居者は“週1回、6時間”の勤務を必須とする。
必須の勤務時間は、別日に分断可能
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「自己紹介がまだだったね―――」
男の声に、七汐ははっと顔を上げた。
つい読み込んでいたが、今は入居時オリエンテーションの真っ最中だ。
そんな七汐に、男は微笑を浮かべて言葉を続ける。
彼は、こういう事に慣れているのだろう……
まるで子供を相手にするような、余裕のある大人な対応を前に、
恥ずかしさと気まずさが過る。
これからここで生活をするのだから、第一印象は大切だというのに。
「オレは横峰 一矢。【café & Bar INFINITI∞】で、Barのリーダーをしている。
メンバーのシフトは、大抵オレともう一人、cafeリーダーで任されているから、勤務希望があるなら言ってくれ。
たしか君は、別に本職があるのだったか―――」
「はい」
律儀に差し出された手を握り返し、「萩原 七汐です」と名乗ると、ズボンのポケットからスマートフォンを取り出してシフト表を確認する。
七汐の本業は夜勤ありの不規則勤務の為、固定曜日の固定時間に勤務する事は難しい。
申し訳なさ気にその旨を一矢に伝えると、彼はにこやかな笑顔を崩すことなく手を振った。
「問題ないよ。さっきも言ったように、I-nfinity∞は“何かを頑張っている人を応援する場所”だ。頑張りの妨げになるようなシフトは組まないし、フレックス申請も出来る。君も、本業のシフトが出たら都度INFINITI∞に入れる日を教えてくれればそれでいい。急用にも柔軟に対応しよう」
「有難うございます」
差し出されたQRコードを読み込みフレンド登録を行うと、早速グループチャットに招待された。
入居者同士がメッセージアプリで繋がっているなど、中々に珍しいシステムだが、
これもI-nfinity∞の特殊な賃貸契約の内容を考えれば、必要な事なのだろう。
個性豊かなアイコンが並ぶ一覧には、オーナーである三笠夫妻の名前まである。
「I-nfinity∞ では、古参も新参もみな平等。全ては話し合いで解決していく―――
ようこそ、I-nfinity∞へ
改めて歓迎するよ、七汐君!」
新しい環境とは、それだけで良くも悪くもストレッサーとなる。
期待と不安を抱きながら寮の扉を開けた時とはまた違うワクワクが、七汐の胸に湧き上がった。
「よろしくお願いします―――」
七汐は深く頭を下げた。
オーナー夫妻の意向は理解できているが、こんな素敵なところに住まわせてもらうというのに、その代償が週6時間のカフェ勤務だけでは申し訳がない。
それも不規則でしか入れないとなると―――。
せめて休日は出来る限り役に立てるように力を尽くそうと、新生活への決意を固めたのだった。
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Glass 2 :転居
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七汐にとって、転居作業はこれが初めてではない。
地元の大学を卒業後、就職は双子の弟―――萩原 翔と共に都会に出た。掃除の苦手な七汐は元々部屋に荷物を置かない。
正直パソコンさへあれば後はどうにでもなると思っていた為、引っ越しの荷物は海外旅行用のトランクケース一つのみで事足りたのが、初めての”引っ越し”だった。
転居先は、職場から徒歩8分のワンルーム寮。
有難い事に洗濯機やエアコン、カーテン、ベッド等の大物は揃っていたし、冷蔵庫やらオーブントースター等は、弟と共に現地調達で済ませた。
引っ越しの荷物を運びながら、久々に会うかつての同僚と話に華を咲かせていた翔が、
オーブンレンジを両手で抱えながら台車まで戻って来る。
恋色話で盛り上がっていると思ったらしく、嬉々として口を出してきた。
「七もさぁ、これを機にサッパリ別れたら?」
「そうだぜ、七汐。むしろアイツは別れたつもりかもしれないしさ、もう自然消滅でいいんじゃね?」
一緒に冷蔵庫を担いでいた友人も、ここぞとばかりに意見を重ねる。
皆、七汐の今の状況を心配してくれていたようだ。
寮の駐車場に止めた軽トラックに荷物を運び終えた友人達が、空っぽとなった部屋に続々と集まって来る。
七汐は痛む腰を伸ばすように両手を添えながら、清々しい風の舞い込む部屋を眺めた。
同期で、遅くまで集まって研究資料を纏めたり、勉強会と称しながら宅飲みしてごろ寝した日々が懐かしい。
「まだ、連絡とってんの?」
「うーん、一応」
「それって、体よくキープされてるよな」
「七汐はアイツのどこが良くて付き合ったわけ?」
どこが良くて―――……って
「―――……顔?」
飾り気のない発言に、ある者は頭を抱え、またある者は腹を抱えて笑い出す。
「あー。まぁ、確かに美人か」
「スタイル良いし、男受けする顔だよな」
「うわ、出たブラック七汐。最低~」
「今『確かに』とか同意した奴も、七汐と同罪だからな!」
フローリングの床に座り込み汗をぬぐいながら、話題はいつの間にか恋色沙汰へと完全シフト。
同期の中には既に身を固めて子供がいる者もいるというのに。
この時ばかりは、年甲斐もなく少年のようにはしゃいでいた。
「……。七汐まで出ていくと、寂しくなるな」
「いやいや。俺、仕事はまだ辞めないよ?」
「わーってるよ、それでもさ
怒涛の新人時代を、ここで皆で乗り越えてきたんじゃん―――」
職種は違えど、同じ職場に就職して同じ寮に住んでいた翔は、入職して僅か1年で退職し別の道を志したため、早々に寮を出た。当時、近くのアパートに引っ越しする際の手伝いを行ったが、
男の独り暮らしなど、荷物もたかだか知れている。
軽トラックを借りて、同期の暇な男連中を数人募れば、十分だった。
自分事ではないが、それが2度目の引っ越し作業となった。
3度目ともなれば手筈も慣れている。
数年遅れとなった七汐の引っ越しも、業者を呼ぶほどの荷物はない。
寮住みの同期数名に声をかけると、皆、快く集まってくれる。
友人とは、実に有難いものだ。
「引っ越しするとかいうから、遂に彼女と同棲を始めるのかと思ったぜ」
お一人様用の小さな冷蔵庫を台車まで担ぎながら、手伝いに集まってくれた同期連中の一人が
ケタケタと軽い笑いを浮かべた。
仲間内で行う引っ越しなど、もはや遊び同然。
そこらで雑談は飛び交うし、手が止る事も度々あった。
荷物自体は少なく、集中すれば半日で終わりそうなものだが、こうして夕方まで続いているのが
その証拠だ。
「同棲しそうな仲に見える?」
「あ――――いや、まぁ」
正直な返答に、友人は言葉を詰まらせる。
彼女が浮気をしている事は、ここに集まった皆が周知の事。
先日はまた別の男を寮の部屋に連れ込んでいる所を見たという友人までいる。
そんな噂を聞いても、別段とショックを受ける事はなかった。
男癖の悪さから、尻軽だのビッチだのと批評される彼女を庇う気にもなれなかったし、一応に連絡は来るものの返事を返す気にもなれない。
「―――……」
急に虚脱感が漂う空気に、同期達は口を噤む。
弟の翔が職場を辞めて寮を出る時も、なんとも言い表せない寂しさを感じた。
同期が一人、また一人と寮を去る時も―――
こうしてそれぞれの道へ別れて進んでゆくのだと、本心を隠して笑顔で見送ってきた。
寮を去る時は、自分もそんな輝かしい未来を掴んだ時だと―――期待をしていたが
現実は、そうドラマの様にはならないものだ。
「七ぁ、スマホ貸しな?」
ずいと手を出す翔に、七汐は躊躇いなくスマートフォンを差し出した。
勝手知ったるスマートフォンのロックを開き、手早く動かす翔の指元を、覗き込む。
『寮を出るから。別れよう』
「―――……」
翔はにんまりと口元を綻ばせると、
七汐のスマートフォンから彼女のメッセージアプリに、メッセージを送っていた。
止めようと思えば、十分止める事が出来た。
だけど―――
返却されたスマートフォンのカバーを閉じ、立ち上がる。
まだ引っ越し作業は終わっていない。明日も日勤業務が待っている。
日が暮れるまでに、新居の片付けを粗方終わらせ、住めるようにしなければいけないのだ。
立ち止まっている、暇はない……。
「さて、残りもさっさと片付けるか!」
うんと背伸びする七汐の背中を、ぽんと叩いて促す翔。
小休憩となっていた同期達も立ち上がり、再び引っ越し作業が始まる。
七汐は、先程より軽くなった肩に
最後の段ボールを担いで部屋を出た。
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Glass 3 :住人
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「あれぇ~ご新規さん?」
(ご新規さん?)
マンションの住人に掛ける言葉としては、いささか不適切な呼びかけに
七汐は訝かし気に視線を向けた。
引っ越し作業から3日、荷解きを終えて溜まった段ボールを、1階のゴミステーションに運んでいた時の事だ。
「おはよーございます」
初対面で不愛想に振る舞うのは大人として礼儀がない。
七汐は一応に、得意の笑顔を浮かべて無難な挨拶を返した。
一見すれば未成年にも見えるその女性が不思議そうに小首をかしげると、高い位置で結ばれたツインテールがふわりと揺れる。
I-nfinity∞の規約では、入居資格者は20歳以上……。
となれば、目の前の少女はこう見えて20歳を超えているのか、もしくはここの住人の友人か身内だろうかとも勘ぐってしまう。
「あはは!おはようって、もう昼だけど。面白いね、君」
「ははっ、スミマセン。寝起きなもので」
「あ、同士? 若葉も昨夜は作業が捗っちゃってさ~
今起きたとこなんだよね~」
(って、もう13時だけど)
この日、
七汐は当直明けで3時間ほどの仮眠を終え、先刻ようやく活動を始めたところだ。
とすれば、彼女も夜間に仕事を行う夜型かもしれない。
余計な詮索は失礼だと思いつつも、同じ方向に向かう彼女に視線を向ける。
小柄な彼女は、ウサギ耳フードのついただぼだぼのルームウェアの袖で口元を隠しながら、短く欠伸した。
片手には黒い大きなゴミ袋が握られており、ゴミ出しに向かう途中なのだろうか。
だとすれば、目的地まで同行する事になる。
じっと見ていた事に気付かれたのか、ふと顔を上げた彼女と視線がかち合う。
初対面で部屋着姿(?)の女性をじろじろと見るのは、礼儀にかける。
気まずさに、七汐は慌てて視線を逸らせた。
「あはっ!ごめんごめん、気になるよねぇ~
私は2-Dに住む堀下 若葉ほりした わかばだよ。ご新規さん、名前は?」
「萩原七汐です、3日前に3-Bに引っ越してきました―――」
気にする視点が違った事に戸惑いを覚えながらも、
よろしくお願いします。と、定型文を並べていると、「七汐君ね!」と高い声が弾む。
「イケメンだよね~!マジ☆スタのユエ様のコスなんか似合いそう!言われた事ない?!」
「えっと……」
―――言われるどころか、聴いた事ないけど。誰?それ
戸惑いが退かない七汐を先導しながら、「段ボールはこの辺に」とゴミ捨て場の説明を行った若葉は、自らもダストボックスにゴミ袋を投げ入れる。
細い体躯に似合わず意外に力があるようで、助けようと伸ばした手は、虚しくも行き場を失った。
次の話題を見つける暇もなく、「次のINFINITY∞のイベントDay、楽しみにしてて」と吐き捨てると、うさ耳フードとツインテールをぴょこぴょこと弾ませながら走って行ってしまう。
一矢から受けたオリエンテーションを除けば入居者との記念すべき初交流のはずが、
訳が分からぬまま、不消化に終わってしまった。
(キャラの濃い人だな……)
思い返せば面談の際に三笠夫妻からも、I-nfinity∞は個性豊かな住人が揃っていると話を聞いていた。
彼女が個性の一人だとすれば、ここでやって行けるのだろうかと
今更ながらに不安を抱えながら、転居三日目は過ぎて行った。
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Glass 4 :初勤務
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I-nfinity∞の入居者は、café&Bar INFINITY∞での、週6時間の勤務が条件だ。
といっても、長い海外出張等で勤務出来ない事もある。そう言った事情がある時も、申請により翌月等に勤務日を融通する事も可能という、自由度の高い契約だった。
入居して10日は引っ越し作業もあるだろうと勤務免除を受けていたが
早く仕事を覚えたいという気持ちから、週末の日曜日に早速初勤務を入れる。
勤務初日が、客通りの多い日曜日というのは
些か無謀だとも思ったが、初日は雰囲気を掴む為のオリエンテーションだと聴かされたため決行した。
「君が噂の新人君ね?」
指定された時間の30分前、カフェの制服に着替えて控室に待機していると
いかにも仕事できますオーラを纏わせた、グラマラスな大人美人がやってきた。
「お世話になります」と短い挨拶を行うが、気になるのは彼女の発した“噂の―――” 件。
引っ越してきてまだ1週間も経っておらず、I-nfinity∞内で他の入居者とのニアミスも、あれから起こしていない。
意外に接触しないものなのだと不思議に思っていた程であり、“噂”される覚えは微塵もなかった。
七汐の訝かし気な表情に、女性は「ああ―――」と説明を加える。
「若葉ちゃんから聞いたの。3-B号室の新人君は、人気ゲームキャラクターのコスプレが似合いそうなイケメンだって」
「そう、ですか……」
(ゲームキャラかよ)
若葉とは、転居後七汐が唯一建物内で出会った入居者の女性だ。
少し会話した程度であったが、嬉しくもない噂が広がっていた事に口角が引きつる。
思い返せば、ここの住人はオーナーも含めてメッセージアプリで繋がっている。
当然個人での交流も出来るわけで、些細な事でも入居者全員に知れ渡る事に時間を要しないというわけだ。
当然、今回の件がそれによるものかは別として、下手な事は出来ないと、己を律するきっかけとするには十分なエピソードだろう。
「まぁ、それは置いておいて―――簡単に業務の説明をするわね」
そう言うと、INFINITY∞のcafeリーダーを任されているという篠山 祥子は、七汐に店内を案内した。
幸い土日祝日は来客も多い為、本日は勤務者も多いという。
紹介にはまたとないチャンスだろう。
「あの背の高い男性が、INFINITY∞メインシェフの桐島 洋平さんで、その隣に居るのが同じく調理担当の浅葱 姫子ちゃん。奥でデザートを担当しているのがパティシエの和泉 真依ちゃんね。
調理担当者はまだいるけど、厨房は大体彼等が仕切ってるわ」
カウンター越しに厨房の中を覗くと、彼等の手つきは素人やバイトのそれではない。
INFINITY∞常連客である翔の話を聞いても、ここの料理クオリティはかなり高いらしい。
この規模のカフェで、一体どうやってこれだけの人材を集めたのかと不思議に思う程だった。
「で、ホールスタッフで動いているのが堀下 若葉ちゃんと北里 明日香ちゃん。
萩原君もホールスタッフを担当してもらうから、分からない事があれば彼女達に聞くと良いわ」
祥子の視線の先で、テキパキと接客を行う女性達。
うち一人の小柄な女性には見覚えあるが、腰まである黒のストレートヘアを品のあるハーフアップにまとめた姿は、先日会った時と雰囲気が違って見える。
もう一人は―――と、
客席を見渡していると、緩いウェーブのかかった明るい金髪の派手な女性から声がかかる。
「祥子さん、その子が噂の“ユエ様”?」
「“萩原”です。今日からお世話になります」
即座に訂正した七汐に、女性は「ごめんごめん」と口だけの謝罪を行った後、
じっと七汐の顔を覗き込んだ。
「な、んですか?」
「うーん、見た顔なんだけどなぁ。あたしとどこかで会った事ない?」
初対面の女性に、顔を覗き込まれるような覚えはない。
使い古された軟派言葉のような台詞をぼやきながら、身を乗り出してまじまじと見つめる明日香に、七汐は思わず一歩 身を引いた。
明日香が言うのは、恐らく七汐と瓜二つの顔を持つ双子の弟、翔の事だろう。
彼はINFINITY∞の常連であり、ここのスタッフとも仲がいい。
だが、それを言ってしまうと彼等の“噂”に拍車がかかる恐れがある。
顔は似ていても髪型が違う為雰囲気は異なる。早々に気付かれることはないだろうと考えた七汐は、「初めまして、だよ」とだけに言葉を留めた。
座席番号、声掛け、オーダーの取り方、レジの方法―――等
覚える事は沢山あるが、徐々に慣れていけばよいと激励を受ける。
カフェの雰囲気はよく、何より七汐の目にはスタッフが皆
とても生き生きとして輝いて見えた。
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Glass 5 :双子
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「ほらぁ!あたしの直感、当たっていたじゃない!」
勤務時間内仕事中だというのに、客の向かい席に座って頬杖を突いた明日香に、「接遇!」と小突く祥子。
テーブルの片づけをする途中、先輩ホールスタッフである明日香に呼び止められた七汐は、隣で愛想笑いを浮かべた。
翔がINFINITY∞の客席に座って珈琲を飲む事は、珍しい事ではない。
寧ろ常連客の彼にとっては“日常”だった。
その日常が、非日常へと変わったのは、七汐の所為に他ならない。
先週からこのINFINITY∞でバイト勤務を始め、併設されたI-nfinity∞に転居してきた七汐にとって、この日は2回目の勤務日である。
短時間バイトであるにも関わらず、七汐の勤務時間内に“偶々”“偶然”にも翔の来店時間が重なったことから、事が始まった。
翔のオーダーを受けた明日香が、最近来た新人と似ていると声を発すると
「七汐とは双子だ」とあっさり暴露してしまう。
別に隠すつもりはなかったが、“新入り”という注目ネタが落ち着くまでは余計な情報の露呈を控えようと考えていた七汐にとって、やや鬱陶しい状況となった。
案の定、双子だという事実は明日香の好奇心を刺激したようで、
彼女はにんまりと意味深な微笑を浮かべると、どちらが兄だとか、双子は嗜好が似るものなのかだとか、挙句にはどうして一緒に住まないのか等と、質問を並べた。
幸か不幸か、平日の昼間とあって客入りは少なく、ホールには雑談を交わす余裕が十分にある。
(それでも、接遇的な意味では仕事中の雑談は褒められたものではないのだが)
「そりゃ、アレだろう? 互いに女を連れ込みにくくなるもんなぁ」
ホールの楽し気な様子に誘われ、暇となった厨房から出てきた洋平は
くっくっと意味深気に喉を鳴らして場を煽る。
「そうなの?」と興味深げに身を乗り出す明日香に、双子は揃って視線を逃がした。
洋平の指摘は強ち外れてはいない為、反論することも出来ない。
そして無言は肯定と捉えられ、興味事を聞きつけた若葉も加わり、彼女達の好奇心を一層駆り立てた。
「双子で同じ人を好きになって三角関係とか、でもやっぱりお前が好きだとか、もぅ腐女子心を擽るネタでしかないわ~ご馳走様です!」
「いや待て。俺、七と好きな人取り合った事ないから!」
両手で口元を覆い、キラキラと瞳を輝かせる若葉の脳内では、既に二次元の世界が広がっているのだろう。
慌てて訂正をかける翔の言葉は、全く若葉の耳に届いていないようだ。
「ツッコミ処そこじゃないよ、翔。 若葉ちゃんも、本人を前にその妄想やめて」
頭重感のする頭を押さえる七汐に、祥子はそっと肩を叩いて「馴染んできたわね」と、嬉しそうに静かな笑みを浮かべた。
慰めているつもりだろうか―――
少しずれている事には、あえて触れずにおいた。
騒ぎの発端となった明日香は、腹を抱え今にも吹き出しそうな笑いを必死に堪えており、
場を掻き乱す一端を担った洋平はいつの間にか厨房に戻り、その間も黙々と仕事を続けていた真依に何やら耳打ちしている様子。
その軽率で得意げな表情から、誤解を招く内容で伝わっている事は 想像に容易い。
これ以上入居者に、余計な事を吹き込まれたくはないのだが。
オーナー夫妻の志に感銘を受けて飛び込んだ新天地は、
こうして早くも 波乱の幕開けとなった。
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Glass 6 :個性
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粗方のcafeタイム業務を覚えた七汐は、水曜のBarタイムにもシフトを入れる事とした。元々本業では当直勤務を行っており、夜の活動には身体も慣れている。
当直勤務を終えた明けの夜(20:00~23:00)は、丁度良い隙間勤務時間となるのだ。
昼の部が終わってから夜の部が始まるまでの数時間で、INFINITY∞はがらりと表情を変える。
明るく爽やかなカフェの顔から、静かで魅惑的な大人の顔へ―――
色を変えた夜の部を取り仕切るのは、入居時オリエンテーションを行った横峰一矢。
オレンジ色の間接照明が揺れる中、無駄のない美しい所作でミキシンググラスをステアする一矢は、同性の七汐から見ても蠱惑的で婀娜めかし気に映り、思わず息をのむ。
ここでも、七汐の仕事はフロアの接客やレジ等だが、
一矢のフォローに回りながら、彼の所作や接遇から学ぶことは多い。
週の中日である水曜は、定時上がりを推奨している企業も増えている。前半の疲れを癒し、後半への英気を養う為にアフターファイブに興じる社会人も多いようだ。
疲れた表情でやって来た客が、ネクタイを緩めてこの空気に浸るうちに
見る見るとその表情が絆されてゆく。
ある人は、カウンター席にすわり一矢にひたすら愚痴をこぼし
またある人達は、グラスを片手に互いの胸襟を開いて語り合う
テーブル席にオーダーの品を運んだ七汐もまた、些細な愚痴を聞いているうちに突如泣き出した客の話を、彼が納得するまで聞いていた。
何をアドバイスできたわけでもないが、ただそこに居て、ただ話を聴いているだけで
彼は自ら解法を得ていく。帰る頃には、すっきりとした表情で、「また来るよ」と店を出た。
一連のプロセスに関わった七汐もまた、表しきれない充実感を得たのだ。
Barとは、ただ単にアルコールを嗜むだけの場所ではない
自らと向き合い、自らを語り、振り返る。
そして、 明日への英気を養う場所なのだ―――
とは言え、本日は未だ週の中日。翌日には仕事を控えている為
23時を過ぎるとすっかり客足が消えていく。
静寂の訪れるフロアに、グラスやテーブルを片付ける音だけが響いた。
「お疲れ様、今日はもう上がりだね。少し付き合ってくれないか」
テーブルを拭き終えた七汐に手招きし、カウンター席にと誘う一矢。
目の前には、スカイブルーのカクテルが置かれた。
「酒は飲めるのだろう?オレからの奢りで」
「―――頂きます」
緊張の為か、どこか落ち着かない。
アルコールには強い方だと自負していたのだが。
「傾聴が上手いね―――確か本業は、医療職だったか?」
「看護師です」
「へぇ、なる程。話を引き出すことは、お手の物ということか」
短い返事を返しながらグラスに口を付ける七汐を、カウンター席の隣に腰掛けて静かに見つめる一矢の視線が気になり、どうしても意識してしまう。
このままでは自らの事を少しずつ暴露させられる流れとなってしまうだろう
何とか流れを変えようと、七汐は話題の本筋を逸らせた。
「急性アルコール中毒の初期対応の手順なら心得ていますよ」
「それは、心強いね」
―――そこまで飲む前に、止めるのがオレ達の仕事だけどな
七汐の意図に気付いたのか、一矢はそれ以上を聞き出そうとしなかった。
提示した話に自然と会話を添わせていくところは、流石―――
夜の部を任された、プロと言うべきだ。
患者から必要な情報を聞き出し、アセスメントする事を生業とする七汐にとっても、大いに学ぶべき手本のスキルだろう。
「I-nfinity∞には、色んな人が居ますね―――まだ、全員にお会いしていませんが」
「ここには個性的な住人が揃っているからな。一気に全員に会うと、パンクしてしまう。少しずつ馴染んでいく位が丁度いい」
「そうですね―――」
言葉の語尾に含みを持たせた七汐に、事を察した一矢はくすくすと笑う。
「ここに集まったのは、成功者ばかりではない。皆それぞれ、色々なモノを抱えたまま集っている。
新入りという物珍しさに、興味が集中して大変だろうが、暫くは大目に見てやって欲しい。
言いたくない事は言わなくていいし、それで君を嫌いになるような人は、ここにはいないから」
「ありがとう、ございます―――」
言葉の一つ一つが、深く染み渡っていく。
本職の場では中堅的な立場となり、指導を貰う事も少なくなった。
こうして誰かに導いてもらえる機会は、本当に貴重だという事に改めて気づかされる。
そして、
まだ警戒を解いていないはずなのに、こうして心を開いてしまうのは
疲れのせいか、アルコールのせいか それとも―――
一矢の人柄と、INFINITY∞という 特別な場所のせいだろうか。
新しい環境は、新しい出会いを見つけるチャンスだ
今まで気づけなかった
知らない世界が―――ほんの少し見えた気がする。
「また、Barタイム勤務に入らせて下さい」
この場所で、自分に何が出来るか―――
客の為にどんな空間を提供できるか、試してみたい。
「ああ、助かるよ。今度は”カクテル”の作り方を、教えてあげよう」
「有難うございます!」
それは、知らない事を知る時の 高揚感に似て
新しい事に挑戦する 心地の良い緊張感でもあった。
・
・
・
Glass 7 :歓迎
⋆
西の空が赤く染まり始めた夕暮れの 静かな駐輪場に、エンジンの音が停止する。
重いフルフェイスヘルメットを取るや否や、七汐は大きなため息を吐き出した。
地域の救命医療を担う医療センターの、救急部署に配属されて数年。
七汐は所謂、“当たらない人”だったというのに。
この日は珍しく、定時30分前に救急患者が滑り込んだ。
初動を終えたら夜勤帯に引き継ぎ、早々と帰宅するつもりでいたのだが、
待合室で家族同士が揉め事を起こしその対応に追われてこの時間となった。
医療処置や新人指導での残業ならやる気もでるが、
こちらに非のない厄介事の対応は正直業務外だとの思いが、
金曜日の夕暮れの疲れを、一層募らせる。
(明日は休みだし、今日はストレス発散にナイトツーリングにでも出かけるか……)
肩を回しながらI-nfinity∞のエントランスに入ると、「お疲れさん」と声がかかる。
エントランスに置かれたテーブルセットの一つに座った一矢が、こちらに手を振り歩いてきた。
「お疲れ様です、今からお出かけですか?」
とっくにINFINITY∞の夜の部が始まっている時間である。
夜の部のメインスタッフでもある一矢がこんなところにいるということは、
今日は休日なのだろうか。
すれ違い様、軽く会釈を交わして隣を抜けようとする七汐の腕を、がっちりと掴む一矢。
「んん?!」
「ターゲット確保。今から現場に向かう」
(ターゲット? 確保?)
「え、ちょっと――― 一矢さん?!」
刑事ドラマの犯人逮捕現場のような展開に、理解が追い付かないまま引きずられる。
居住エリアからINFINITY∞のスタッフルームに繋がるドアを抜け、
連れられてきたのは、INFINITY∞のフロア。
扉が開いた途端
クラッカーが鳴り、紙吹雪が視界を覆った。
「えっ?」
「「「ようこそ、I-nfinity∞へ!」」」
庇った視界の先では、居住者達がクラッカーを構えていた。
正面の壁には『歓迎!七汐』と書かれた横断幕が掲げられている。
大学時代のサークル集まりを思わせるノリに、一瞬思考が停止する。
呆けたように空いた口が 閉じるよりも先に、にまにまと不敵な笑みを浮かべる明日香に
“本日の主役”と書かれたチープなたすきを首に掛けられ、特等席へと促された。
横断幕の『七汐』の名のところが、後付けの布で止められている所を見ると、このような歓迎行事は今回が初めてではないのだろう。
慣れた様子の三笠夫妻や居住者達の振る舞いからも、新入りが来るたびにこのような行事を恒例で行っている事がうかがえる。
言葉を失ったままの七汐の隣に座り、
若葉は「びっくりした?」と得意気にグラスを差し出し、オレンジジュースをなみなみと注ぎ入れた。
他の参加者の手元にはアルコールも握られている様だが―――
(俺は、酒じゃないのな……)
「はいはい、リーダー!音頭取って。こんなおいしそうな料理を前に、いつまでもマテはできないんだからね!」
「祥子さん、早く!」
「ええっ⁈こういうんは、横峰君の仕事でしょ?」
「オレ、誘導係したでしょ」
「お、オーナーぁ!!」
「ふふ、私達は主催であって、進行は君達に任せているよ」
「うぅっ―――」
居住者達が急かす中、祥子は行き場を失った視線を 恥ずかしそうに泳がせた。
INFINITY∞の職場で見せるきりりとした振る舞いとは正反対の様子に驚かされていると、隣から若葉がこっそりと耳打ちする。
「祥子さんって、バリキャリに見えて結構可愛いんだから」
「こらそこーっ!! 黙らっしゃい!!」「きゃぁ、聴こえてた~ッ!」
盛り上がっていた会場は彼女の声を通そうと、しんと静まり音を消す。
その緊張した空気に、七汐も背筋を伸ばした。
そんなにかしこまらないでよ……と、泣きそうに口元を歪めていたが、コホンとワザとらしい咳払いをした後、祥子はいつもの柔らかい笑みを浮かべた。
「知っての通り。ここは普通のマンションじゃなくて、皆がそれぞれの夢を叶えるために頑張る場所。
困った時は助け合い、何かが起こった時は話し合って、皆で作り上げていく場所よ。
萩原君が困った時は、皆で貴方を助けるから―――何でも話して欲しい。
だから、うちらが困った時は萩原君の力を貸して欲しいの」
ストレートに伝えられた祥子の言葉は、七汐の心を擽った。
照れくさくて―――恥ずかしくて……
「―――……はい。喜んで」
頬を掻きながら答える七汐に、入居者から微笑ましい視線が向けられる。
「改めて歓迎するわ!ようこそ、Infinity∞へ
新たな仲間に、乾杯よ!」
「「「 乾杯―――ッッ!! 」」」
色とりどりのグラスが高く挙がり、フロアは再び笑い声に溢れた。
会場の料理は、INFINITY∞自慢の名シェフ、洋平と、姫子が腕を振るう。
ビッフェ形式に並べられた美しいデザートの数々は、真依が次の新作メニューへと試作を重ねたものだった。
会場のデコレーションは、明日香と若葉が担当したという。
通りでメルヘンな訳だと納得できる。
I-nfinityには、2階から4階までそれぞれ4室の部屋がある。
現在は満室であり5階のオーナー夫妻を合わせると14名の居住者がいるようだが
今回集まれたのは七汐を含めて10名だ。
流石にそれぞれの予定や仕事がある為、全員が集まる事は出来なかったと、
祥子は申し訳なさそうに話してくれたが、
七汐からすれば、見ず知らずの住人の為に10名も集まってくれた事に驚きを隠せない。
「有難うございます、何とお礼を言えばいいか……」
気恥ずかしさに戸惑っていると、
七汐の肩に腕を回し、「気にするな!その分 身体で返してくれたらいい」と豪快に笑う洋平。
七汐は「頑張りまーす」と間延びする返事を返した。
「ちょっとちょっと、オヤジさん!
七汐の肩なんか抱いちゃって、腐女子を煽らないでくれる? ねぇ?姫子」
皿一杯に盛られた食事を片手に握りフォークで指差す明日香
名指しされた姫子は慌てて両手を振って否定する。
「わっ、私は!三次元の男性は無理なんですッッ!そちらは、若葉ちゃんの担当なので」
(まさかの存在全否定⁈ ってか“担当”って何)
心の中のツッコミが抑えきれず、思わず声に出してしまった事を、七汐は後から激しく後悔した。
「気になっていたんだけど、その“ユエ様”ってまさか―――」
「七汐は知らないかぁ~。BLゲームのマジ☆スタに出てくる“ユエ様”!」
目の前に差し出されたスマートフォンの画面を見て、自分の顔がだんだんと引きつっていくのが分かる。
(まさかのBLゲームとか。聞かなきゃよかった―――)
「詳しく知りたいなら若葉に聞いてみて!アイツ、嬉々として語ると思うから♪」
「遠慮しときます」
明日香はまたもや、フォークで隣のテーブルにいる若葉を指差した。
危ないし行儀が悪いと祥子に叱られ、肩をすくめる。
明日香には悪いが、大人の女性がこんな風に叱られる姿は、まるで姉妹のようで見ていて微笑ましく、羨ましくもあった。
悪い事は悪いと伝えられる―――正直で良い関係性が、I-nfinity∞の中で築けているのだろう。
面白い話とあらば喜んで飛んできそうな若葉だが、今はテーブルに並べられたデザートに釘付けでこちらの話を聴いていなかったようだ。
目を輝かせる若葉に、此度のデザートを担当したパティシエの真依が、説明を加えている。
「今回のデザートは全て卵を抜いてあるから。若葉ちゃんも全部食べられる」
「ホント?!有難う~真依ちゃんてば 天才~ッッ!!大好き~っ」
「感想、よろしく」
必要事項を端的に述べ、すぐ様料理皿と箸を手にとる真依の首元に、
擦り寄るように抱き着く若葉。
彼女はさらりと言ってのけたが、ざっとみて10は下らないデザートの全てが卵抜きと聞かされて、驚きを隠せない。
見た目はどれも卵ありのデザートと遜色ないというのに。
「凄いな……卵アレルギー患児のお母さんに紹介してやりたい」
並べられたデザートをスマートフォンのカメラに収めていると、真依に声を掛けられる。
勝手に写真を撮ったこと、怒られるだろうか。
「“噂のユエ様”も、後できちんと感想教えて」
「萩原七汐です!」
(どこまで拡散してんだよ、その“噂”)
七汐は、被せるように訂正した。
「萩原君。 感想は、200字詰めの原稿用紙3枚でいいから」
「え、マジ⁈」
食事を口に入れ、リスのように頬を膨らませる真依の無表情からは、それが本気なのか冗談なのかが読み取れない。
(後で一矢さんに聞いておこう……)
途中、身体に障るからと三笠夫妻が退席したが、笑い声の絶えない歓迎会はすっかり午前様となる。
皆で片づけを行い、帰ると言ってもスタッフルームの奥から居住者エリアへの抜け道を通るだけ。
寮のカンファレンスルームでバカ騒ぎをしていたあの頃を思いだし、どこか懐かしさを感じた。
「じゃぁ、明日勤務の者は遅れないように!」
「はーい」
「おやすみ!」「おやすみなさい~」
4階組はエレベーターで、それ以外は階段で各自の部屋まで戻っていく。
仕事終わりの日常が、思いがけず楽しい時間となった。
・
・
後日。
「なんだ、これ―――」
ポストの中に、あて名のない茶色い封筒が入っていた。
封筒の中を確認すると、『家庭でも作れる卵無しデザートレシピ』が何種類か同封されている。
「え?ええっ⁈」
七汐の驚愕する声が、居住エリアのエントランスに 響き渡った。
・
・
・
Glass 8 :誘惑
⋆
17:00過ぎ―――
残りの患者を夜勤帯に申し送り、七汐は職場の職員用駐輪場に向かった。
寮住みの頃はそのまま歩いて寮に帰っていたが、転居してからはバイク通勤となる。
家に帰っても何もないし、買い物して帰り調理をするのも面倒だ。
(適当に外食して帰るか―――)
「七汐?」
駐輪場へと向かいながら近場の食事処を検索していると、後ろから聞き慣れた声が引き止める。
鷹揚に構えてみせたが、ストレスがかかった内心では、鼓動が早くなるのが分かった。
一年前ならこんな瞬間でも、嬉しく思えたのに。
「澪―――……」
七汐を見つけた彼女は、手を振りながら駆け寄って来る。
「今帰り?部屋寄ってく?夕飯一緒に食べよー」
何事もなかったかのように笑顔を向けるその素振りに、少しの苛立ちを覚えた。
「寮は出たよ。メッセ見ただろ?」
『寮を出るから。別れよう』
数週間前、七汐のスマートフォンから翔が送ったメッセージには、既読がついていた。返信はなかったが、確認していないはずはない。
返事がないという事は―――認めたという事だと、
澪とはもう、別れたものだと解釈していた。
「うーん。あれ、どういう意味?」
口元に人差し指を当て、あざとく小首を傾げて見せる。
(今更、白々しい―――)
事を荒立たせるつもりはなかったが、湧き上がる苛立ちに口を開こうとしたその時
澪はニコリと笑って言った。
「私は、七汐の事好きだよ―――。私の彼氏は、七汐だけだし。
七汐は……
私の事、嫌いになった?」
「―――ッ」
嫌いじゃ、ない。
正直、顔は好みだし
素直に『好き』だと言ってくれる事に、嬉しさもある。
二の句を詰まらせた七汐の腕に両手を絡ませた澪は、「部屋においでよ―――」と甘く誘う。
このまま、誘いを受けて澪の部屋に行けば、何事もなかったかのように交際が続くのだろうか。
彼女は他の男に揺れることなく、自分だけを見てくれるのだろうか―――
(俺は彼女を、また 好きになれるのだろうか)
「悪いけど―――今から用があるから。
お疲れ様でした」
振り解かれた腕を、彼女は目を丸くして見つめる。
断られるとは、思っていなかったのだろう。
七汐は営業スマイルを浮かべ、解いた手をひらひらと振った。
一瞬、唇を噛んだ彼女だが、再び表情を取り戻して手を振り返す。
「そっかー、じゃぁまた今度ね!
七汐と一緒に行きたいお店見つけたの」
「またメッセするから!」と叫ぶ声に背中を向け、七汐は気づかないフリをしてバイクを走らせた。
・
・
「アホだろ、お前。その場で断れよ」
「仰る通りで―――」
カウンターに額をつけ自己嫌悪に苛まれる七汐に、翔は呆れた視線で見下す。
職場を出た七汐は直ぐに翔と連絡し、Bar INFINITY∞で待ち合わせて事の流れを打ち明けた。
目の前で崩れる七汐に、カウンターの中でグラスを拭く一矢も苦笑いを浮かべている。
同性の、人生の先輩として言ってやりたい事は大いにあるが、彼等が自ら悩んで答えを出していけるならそれに越したことはない。年配者の助言など不要だろう。
それに―――
(萩原七汐は、もう答えを見つけているみたいだし……な)
「七はアイツと戻りたいわけ?」
頬杖をつきながら、片手でグラスを傾ける翔に、七汐は即答する。
「いや、好きになれるかとか考えている時点で好きじゃない。
澪の言葉が本心じゃない事くらい、俺だって分かってる」
「じゃあどうするんだよ」
カウンターに額をつけたまま、態度の煮え切らない七汐に、翔の言葉尻が強くなる。
それはけして、七汐を責めたいわけではない。
きちんと前を向いて欲しいだけ―――。
「この流れだと、近いうちにまた飯に誘ってくるだろ?七は行くのか?」
「いや、行かない。行くくらいなら今日、澪の部屋に上がってた」
「だろうな」
答えはとっくに決まっていた。寮を出て、I-nfinity∞の入居を決めた時から。
誰だって、バッドエピソードを伝える時は、エネルギーを要するものだろう。
事を荒立てたくないという保守的な思いが足枷となり、踏ん切りのつかない状態を今の今まで引きずってきたのだ。
そのせいで周りの友人や、翔にも沢山心配をかけた。
もう終わりにしよう―――
そのために、ここに来たのだから。
決心したように顔を上げた七汐に、翔はにんまりと笑みを返す。
短く息を吐き出したその表情は、先程までと違い、重い荷を下ろして吹っ切れたように見えた。
「よし!じゃぁ 新しい恋はじめようぜ!」
「―――……何その、“冷やし中華始めました”的なノリ」
「いいな、冷やし中華。食いたくなってきた」
「俺も~」
すっきりしたら、腹が減って来た。
思い返せば空腹に、酒とつまみしか食べていない。
カフェメニューで出した“ほうれん草のキッシュ”なら残っていると、気を利かせた一矢は厨房に取りに向かった。
タイミングよく、スマートフォンが着信音を鳴らす。
発信者は―――澪だ。
「―――……それは、困るな」
メッセージを読む七汐は、苦笑いを浮かべている。
今度は何を言ってきたのだと、翔は睨むように画面を覗き込んだ。
『公園の近くに、INFINITY∞というカフェがあるんだけど、凄く美味しいらしいから一緒に行こう!
七汐、次の休みいつ?』
ハートの絵文字でデコレーションされたメッセージは、何事もなかったかのように自然過ぎて
逆に不自然だ。
「確かに―――ここに来られるのは、まずいな」
これには翔も、思わず苦笑いが零れ出る。
「ちょっと電話してくる―――」
そう言ってカウンター席を立つ七汐を、翔は「おう」と二つ返事で見送った。
もう大丈夫だと、確信していたから。
案の定、5分ほどで戻って来た七汐の表情に、曇りや落ち込んだ様子はない。
厨房から戻り翔からメッセージの件を聞いていた一矢に「冷める前に食べてしまいなさい」と促され、「いただきます」と手を合わせた七汐はフォークとナイフに手を伸ばす。
バターの香るほのかに甘いキッシュが、空腹と心までも満たしてくれる。
「美味し」
「でも太りそ。この後ちょっと走りに行くか?」
「そうだな―――ついでにジムも寄っとこ」
「ねぇ!そろそろ夏季メニュー考えて行こうと思うんやけど」
食べ終わり揃って手を合わせる双子の前に、
ノートを片手にペンを回す祥子が、スタッフルームから顔を出す。
カウンター席に七汐達が並んで座っているとは思わなかったようで、くるくると回していたペンを、ぴたりと止めて固まった。
三人の、無言の視線が集まる。
「え、何……どうしたん?」
いきなり浴びる注目に、ビジネスモードな祥子の表情が不安気に歪んでいく―――。
「「 冷やし中華で 」」
「えっ、あ―――はい」
手を挙げて見事にハモった双子の言葉に、一矢は声を上げて笑った。
今期―――INFINITY∞の夏季限定メニューは、【冷やし中華】になりそうだ。
・
・
・
Glass 9 :珍味
⋆
「三番テーブルと五番テーブルに追加オーダー入りまーす!若葉、そっちのテーブルお願い!」
「OK!あ、いらっしゃいませ!」
日曜の午後―――
30分前にスタッフルームに入ると、なにやらフロアが騒がしい。
流石休日の午後というべきか、今日もINFINITY∞は満員御礼のようだ。
「おはようございます」
(もう昼だけど)
心の中でセルフ突込みを入れながら厨房を覗くと、無駄に走り回る姫子が目に入る。
忙しさのせいか、完全にテンパっているようだ。
対照的に、落としかけた食器を片手で支え「こっちはいいから、新規オーダーを」と促す真依は落ち着いているようだ。
昼時とあってデザートオーダーは少なく、ランチオーダーの調理を手伝っていた。
「あれ、洋平さんは?」
厨房で一際背が高く目立っていたメインシェフが居ない事に気付いた七汐は、食器を洗う祥子に声を掛けた。
彼女は普段、平日勤務で土日に休みを取る事が多いが、この忙しさで臨時応援に入っているのだろう。
「桐島シェフなら、1週間前から休暇申請を出しとるよ。
萩原君、まだ時間外なのに悪いけど、これ変わってもらっていい?」
「勿論です」
制服の両腕をまくり上げると、七汐は祥子から食器洗いを引き継いだ。
手を開けた彼女は―――即座に調理の応援に入る。
洋平の休暇と、ランチ時間の来客が重なり厨房が回っていなかったのだ。
ランチタイムから昼の部のラストオーダーまで客が途切れる事はなく、INFINITY∞は怒涛の数時間を過ごした。
ようやく最後の客が店を出た頃には、夜の部を担当する一矢の出勤時間になっていた。
「今日は忙しかったみたいだな―――」
片付けと準備を手伝う一矢に、姫子は申し訳なさそうに頭を下げる。
「すみません、私が―――桐島シェフのように要領良く動けなかったからです」
「姫子ちゃんのせいじゃないわ!今日は特別よ。近くでイベントがあったみたいで来客が集中したのね」
―――人員確保が出来ていなかった、うちのミスよ。気にしないで。
「そうよ、姫子が一番頑張っていたじゃない。真依もナイスフォローだったね!」
功労者である姫子と真依に、スタッフが口々に労わりの言葉をかける。
こういう職場の雰囲気は、見ていて気持ちが良いものだ。
夜の部開店まで後20分という所で、駐輪場から腹に響く重低音が轟いた。
barタイムに駆け付けた客ではない。(そもそも飲酒運転は厳禁だ)
特徴的な、大型バイクのエンジン音。
この音は―――
「帰って来たかな―――」
七汐がぼそりと呟くと同時に、スタッフルームの扉が開く。
酔っ払いのようなハイテンションで、洋平が店へと入って来た。
「たっだいまぁ~!!って、あれ?どうしたんだよお前ら 揃いも揃ってお通夜みたいな顔して」
「「「―――……」」」
疲れがピークに達し、高いテンションに付いていけないスタッフ達を代表し、祥子が「お帰りなさい」と返事する。
「無事に帰って来てくれて良かったわ」
「お、おう……?」
重い空気に違和感を覚えながらも、洋平は荷物の中から包を取り出す。
一人、また一人と
スタッフ達が後ずさりを始めた。
(なんだ、何かあるのか?)
「ちょっくらツーリングに行ってきてなぁ!土産を買ってきたぞ」
不思議に思いながらも差し出されたソレの中身を、七汐は物珍し気に覗く。
「ああ。“ヘボ”ですね―――山に走りに行っていたのですか?」
気付けば女性陣は、逃げるように壁際まで下がっている。
「ヘボって?」
「中部地方の山岳部に伝わる郷土料理でな!珍味で有名なんだぞ!」
恐る恐ると尋ねる明日香に、洋平は自慢げに厚い胸を逸らせた。
七汐も興味深げに缶を開ける。
「クロスズメバチの子ですね!向こうの方言では蜂の子を“ヘボ”というんだ。
生で食べると甘いらしいけど―――流石に調理済みか」
ひっ―――
壁際で悲鳴が聞こえた気がしたが、珍しい食べ物に七汐は気にせず手を伸ばした。
「食べていいですか?」
「おぉ、勿論だ。皆も食ってみろ!」
躊躇いなく口に入れる七汐に、一矢までもが苦笑いを浮かべた。
「七汐、こういうの平気なんだ?」
「え?はい。高タンパクでアミノ酸も豊富に含まれていて、結構おいしいですよ。
ご馳走様です、部屋に戻って筋トレしよ♪」
お先に失礼します―――と、フロアを出ていく七汐を女性陣が冷ややかな目で見送っていた事を
翌週のBar勤務で、一矢から聴かされた。
それ以降、七汐の事を二次元キャラクターの“ユエ様”と噂する者はいなくなったという。
(“ユエ様”はゲテモノなんて食べないんだからぁ~!! By若葉)
・
・
・
Glass 10 :演技
⋆
本業半日の日曜勤務を終え、INFINITY∞勤務時間の30分前にフロアに入った七汐は、
カウンター付近から窓際の席を覗き込むように見守りながら、不審な動きを見せる明日香と若葉を見つけ、声を掛けた。
「お疲れ様です。どうしました?二人とも、そんなところで―――
っえ?!」
突然の声掛けに、びくりと肩を震わせた明日香は 七汐の腕を引き寄せてカウンターに隠し、
若葉は「しーっ」とシークレットサインを口元に突き付ける。
厨房からは姫子と洋平も、ちらちらと客席を気にしている様子。
真依だけはどんな時でもマイペースに仕事していると思いきや、彼女の眉間にも深い皺が寄せられており、顔に出た不機嫌が読み取れるほどだ。
これは、
よほどの事があったのだろうか。
七汐の表情も固まり、緊張が走る。
「何ですか、一体―――」
「静かに!ほら、あそこ……」
七汐の口を両手で押さえ、声を抑えるようにと制すると、
若葉は先程から気に掛けている窓際の席を指差した。
そこには きりっとして高そうなスーツを着た男性が足を組んで座っており、
隣には祥子がいつもの涼し気な微笑を浮かべながらも、
時折困ったように眉を寄せていた。
「祥子さんの彼氏?」
「違うわよ!元カレよ、元カレ!正確には元婚約者!!」
明日香が言うには、
T大学卒業後に某有名企業に入職し、あの若さで部長クラスまで上り詰めた上に 年収1千万に届く
超ハイスペック男だという。
二次元のような話と明日香の熱弁に、七汐は軽く仰け反った。
(ってか、I-nfinity∞の情報網にかかれば、元カレの年収まで知れ渡るのな)
噂の恐ろしさに、一瞬身震いが起る。
「で、その超ハイスペ男と祥子さんが話をしているだけで、どうして皆して集まるんだ?」
見るところフロアにはまだ空席があり、忙しい様子はない。
懐かしい昔話でもあるのなら、ゆっくりさせてやればいいのではと思っていたが、
どうやらそんな単純な話ではないらしい。
「あの男、時々INFINITY∞に来ては祥子さんを呼び出すのよ。
婚約破棄したのも彼の方からで、もう関係ないからと断っているらしいんだけど―――
ここまで来るともはやストーカーね」
「ただ、何するわけでもないから警察呼べないし……
祥子さんもそこまでおお事にはしたくないって」
「ふぅん」
七汐は再び窓際に視線を移した。
堅牢で注意深い祥子の事だから、毎回スマートに断りの対応を行っているらしいが、確かに元カレが頻回に職場に訪れるのは気分が悪いだろう。
しかも、客と店のスタッフの立場というのは、些か厄介だ。
「ウチ、行ってくる」
「ええっ、待って待って!真依ちゃんはダメ!意外に大胆なんだから!!」
「よし、ここはオヤジが一肌脱いで―――」
「脱がんでいい!!」
痺れを切らし、手を洗い出す真依を、姫子が慌てて制する。
ならばと腕まくりを始める洋平に、若葉もストップをかけた。
コック姿の二人がフロアに向かうのは、悪目立ちがする。
無暗に割り込むのは、他の客の目もあり状況を悪化させかねない。
だからこそ、祥子があのように静かに対応をしているのだろう。
「―――……」
七汐はじっと、男の口元と表情を観察した。
職場では、気管切開や病気で声を出せない患者の言葉を口の動きや視線で読解する事がある。
声こそ聞こえず会話をすべて把握は出来ないが、
読み解ける内容から察するに、若葉のストーカー発言は大筋を得ている様だった。
それを決定付けたのは、あるスタッフのこの一言。
「ちょっと聞いてよ!あの男、祥子さんに
『相変わらず可愛げの欠片もない』だとか『こんな店に落ちても、気取った様子は変わらないんだな』とか言ってんのよ?!感じ悪るーっ」
隣のテーブルにオーダーを運んだ他スタッフが、厨房に戻って来るなり上げた苛立ちの声に、
スタッフのあちらこちらで、ぷつりと何かが弾ける音が 連鎖する。
当然、彼女を姉のように慕うこの女も―――
親指を立て、鬼の形相で客席を睨んだ。
「七汐ぇ。アンタ“イマ彼”のフリしてあちらの失礼な“お客様”に、ちょーっと挨拶してきな?」
「俺ですか!超ハイスペ男相手に“イマ彼”名乗る自信ないなぁ」
突飛押しもない明日香の提案に、七汐は苦笑いで視線を逸らせる。
「若さも 可愛げも 顔面偏差値も、アンタの方が上だから問題ないわ」
「フォロー下手過ぎ。泣いちゃいそう」
彼女のフォローは、全くフォローになっていない。
(寧ろ 俺の方がディスられてない?)
とは言え、何度も続いているというのなら、このまま見過ごすわけにはいかない。
ほおっておけば、明日香が今にも客席に飛び掛かりそうな勢いだ。
意を決し、身を潜めていたカウンターの壁からすっと立ち上がる七汐に
厨房から見守っていた姫子ははらはらと慌て、若葉は面白そうだと目を輝かせた。
洋平から 美しく盛りつけられたオーダーランチプレートを受け取ると、
七汐は一呼吸を置いて 背筋を伸ばす。
「ハイスペ男に言い負かされて帰ってきたら、きちんと慰めて下さいよ?」
言葉とは裏腹に不敵な笑みを浮かべて客席に向かう七汐を、他のスタッフは緊張した面持ちで見守った。
・
・
「失礼いたします。
お待たせいたしました、こちらランチプレートの―――」
祥子と男の間に割って入る様に、七汐はプレートをテーブルに置いた。
男が二の句を挟む前に、メニューの説明を丁寧に読み上げて言葉を遮る。
表情はにこやかに、教えられた礼節は守っている。
離れるタイミングを失っていただけなら、こうして対応をしている間に奥に下がるだろう―――と横目で視線を送ってみるが、祥子は両手を腹の前で固く結び、じっと下を向く。
真面目な彼女には、逃げるや適当にあしらうといった、それが出来ないのだろうか。
それともまだ……こんな状況でもこの男に、未練があるのだろうか。
彼女が困っているのだと思い込み、割って入ってみたのだが
これではただのお節介―――……
いや、
違う。
“ ―――助けて。 ”
メニューの説明が終わったタイミングを見て、男が再び口を開く。
「祥―――「それと―――」」
男の言葉に、営業スマイルを崩すことなく
七汐はわざと言葉を重ねた。
「白昼堂々とスタッフを口説くのは、如何なものかと。……他のお客様もいらっしゃいますので」
店のスタッフと客という立場を利用し、気持ちよくとっていたマウントを崩された事に腹を立てたのか、
あるいは、七汐の言葉が彼のプライドに刺さったのか―――
男は七汐を鬱陶しそうに睨み上げた。
初手を、頭のキレる奴に多い冷静な正論と冷めた態度で返された場合
続きの展開をどのように切り回そうかと悩んでいたが、
このハイスペ男はその部類ではない。
彼が、“苛立ち”という最も単純な視線を向けてきた時点で
七汐はこの場の主導権を確信した。
(後は、適当に煽って自滅させるだけ―――)
「なんだ君は。僕は彼女の知り合いなんだ、口説いてはいないし、昔話をしていただけじゃないか」
「そうですか。それなら安心しました。
幾らハイスペック男でも、祥子さんの可愛さに気付けないような人に彼女は勿体ないですから♪」
男の睨みに臆する事なく煽り重ねる七汐に、
状況が把握できていない祥子は二人の顔を視線で往復する。
「君は、祥子の……」
「分からないなら―――最後まで言った方が、いい? 照れるんだけど」
「―――ッ!!結構だ」
怒りで顔を真っ赤に染める男は、そう吐き捨てるとフォークとナイフを握った。
祥子と七汐には目もくれず、プレートランチをかき込むように口に運ぶ。
「ごゆっくり」と満面の営業スマイルに丁寧なお辞儀で締めると、
七汐は静かに踵を返し、祥子の腕をひいてカウンターの奥へと連れ戻った。
「あの―――萩原君、あれじゃぁ……」
「ああ、すみません。折角教えて頂いた接客マニュアルを反故にしてしまって」
「違うわ!違わないけど―――そうじゃなくて」
あれじゃ、皆に勘違いされてしまうわよ―――
応える祥子の声は、消えそうな程弱々しい。
それは、自分達の直感が、間違っていなかったと示している。
強がって立つ祥子さんの背中が―――
『助けて』と 聞こえたから……
「俺は何も言ってないですよ?勘違いするのは彼の勝手だし」
―――それに、あの手のプライド高い男は、勘違いしても他言はしない。
それは、自分の負けを、認めてしまう事になるから。
カウンター奥に連れられ、戸惑い気味に顔を上げた祥子の目の前には、
怒りと心配の色に溢れたINFINITY∞のスタッフが集まっている。
「みんな、ごめんなさい―――」
「祥子さん―――I-nfinity∞のルール、覚えてるよね?」
困った時は、皆で貴方を助けるから―――何でも話して欲しい。
だから、うちらが困った時は君の力を貸して欲しいの……
それは歓迎会の時、奇しくも祥子が言った言葉。
リーダーとして皆に伝えてきたはずなのに、彼等からそれを教えられるなんて。
彼等の瞳に揺れた怒りや心配の色は、祥子を想っていたからこそなのだ。
何を恐れていたのだろうか―――
何かあった時は、皆で助け合う。I-nfinity∞の住人は、そういう子達だと知っていたではないか。
祥子の胸の奥が、じんわりと熱くなる。
INFINITY∞職場に居るというのに、舐められるものかと強がっていた肩が一気に脱力した。
「有難う、助かったわ―――みんな」
彼女の見せた照れ笑いに、スタッフ一同はほっと胸を撫でおろす。
「はいはい、皆さん仕事に戻って下さい!今業務時間外なのは、俺だけなんですからね!」
「「「 はい! 」」」
七汐の号令で、それぞれが持ち場に戻る。
早々にランチを食べ終えた元婚約者は、レジスタッフと一度も視線を合わすことなく、場が悪そうに急いで店を出たという。
INFINITY∞が 何事もなかったかのように通常業務に戻る中、
職場では常に冷静だった祥子の目頭が赤くなっていた事を知っているのは、
就業時間開始までバックヤードで待機していた七汐だけだった―――。
・
・
・
Glass 11 :協力
⋆
総合医療センター 救急室―――
七汐はリーダー席のパソコン前から、救急室を見渡す。
20分程前に救急搬送された1番ベッドの患者は、一通りの検査が終っており
後は採血結果を待って家族へのICを行うだけだ。
高熱と嘔吐で近くの施設から搬送された患者は、幸い感染性の類ではなさそうだが、用心するに越したことはない。使用した陰圧室は清掃後、暫くフィルターを回しておこう。
頭部交通外傷で運ばれた20代の若い患者は―――脳MRIでは目立った異常は見られなかったが、一人暮らしと言っていたし、PSHの注意も必要だ。
病床の空きはありそうだが、今の外科的縫合処置が終わったら入院となるだろうから、念のためにベッドコントロールに連絡を入れておくか。
パソコンモニターの隅に視線を移すと、時刻は16:45分。
救急コールが鳴らなければ、今日も定時に帰れるだろう。
夜勤者とのブリーフィングを済ませ、うんと背伸びを一つ。
今日も疲れた―――
(夕飯は、何にするかな……)
確かに疲れてはいるが、余力がないわけではない。
このまま一走り(ツーリング)するのも、吝かではないだろう。
勤務中に、緊張感を欠いたのがいけなかったのか―――リーダーPHSに着信が入る。
「はい。救外 萩原です」
『お疲れ様です、放科 の宮原です。萩原さん、今ちょっといいですか?』
「何かありました?もしかして、さっきの頭部外傷のMRI、読影で出血が見つかったとか?」
定時前、緩んでいた七汐の心に緊張が走る。
デスクに座り直し、電子カルテの患者情報を急いで開いた。
電話口から聞こえるカチカチとしたクリック音に、電話の相手はくすくすと笑い声を零す。
『いえいえ、違いますよ!病棟の造影CT患者で 一人ルートが入らなくて、お手隙でしたら見てやってくれませんか』
一気に高まった緊張が、すっと抜けていく。
いや、まだ勤務時間中なのだから気を抜くのは良くないが、最悪の事態でなかったことに安堵した。
夜勤看護師に事情を説明すると、少し時間は早いがリーダーPHSを引き継いでくれるという。
後の事は夜勤帯に任せ、七汐は向かいブロックの放射線科に急いだ。
受付で「お疲れ様です」と声を掛けると、中から放射線技師がこっちだと手招きする。
呼ばれた部屋へと向かいながら、七汐はポケットから放射線量測定バッジを取り出し、所定の位置につけ直した。
取れる資格は何だって取っておきたいと、静脈注射認定ラダーをインストラクターレベルまで取得している。点滴ルートや採血針が入らないと、ヘルプに呼ばれることは珍しくなかった。
造影剤は一定の圧を掛けて投与する為、太さと弾力があり、真っすぐな血管を選択する必要がある。
当然、薬剤を血管外漏出させてはいけない為それなりの技術がある者が行うが、高齢者や頻回な静脈穿刺を行っている患者では、血管が脆くなっているケースも多い。
「七汐ぇ~」
「澪……」
CT台の隣に座り込み 泣きそうな顔で眉を顰める看護師を見て、七汐は肩を落とした。
出来れば当面は会いたくなかったのだが―――仕事に私情を持ち込むのはよくない。
彼女は駆け付けた七汐に気が付くと、逃げるようにCT室から出てきた。
「右(腕)も左(腕)も血管入らなくて。Adjuvant療法をしている患者だからもう血管ないのよね」
「―――……」
彼女と交代しCT室に入ると、患者の両腕には既に数か所針を刺し損じた後がある。
何度も刺し損じられた患者は口を一文字に結び、苛立つ様子が伺えた。
両腕には、内出血痕が幾つも残っている。抗がん剤治療を行っていると言っていたが、この血管では今日に限らず差し損じられることも多いのであろう。
それでも、治療や検査の為だと我慢を重ねて腕を差し出す―――
医療者は、そんな患者の思いを真摯に受け止めて処置に当たらなければいけない。
“もう血管がない”等、容易に患者の前で口にすべきではないだろう。
(まだ抗がん剤のクール数が残っているのなら、安全な投与管理を行う為にCVポートの増設を聞いてみよう)
患者に視線を合わせ、静脈ルートの必要性と 刺手を変えてもう一度刺入を試みたい旨を説明する。
患者は、何度も刺されて辛いと訴えたが、造影検査は患者にとって必要な検査である。
説得を重ね、後一度だけだと念を押されながら、なんとか再刺入の了承を得た。
「有難うございます、一度で入れます」
チャンスは一度。
このプレッシャーは、不謹慎だが嫌いではない。
如何なる時でも、失敗はするものかとの思いで臨んでいる。
放射線技師達も見守る中、
七汐は宣言通り、右上腕に静脈ルートを確保した。
CT操作室に出てきた七汐を、澪は笑顔で出迎える。
「さっすが、七汐!助かっちゃった♪」
「刺した血管から末梢側は使えない。何度も刺す前に呼んで欲しい」
「だって―――」
造影剤注入時のアレルギー反応が起こらないか、映像モニター越しに患者を観察する七汐の隣に並ぶと、澪は口を尖らせた。
「七汐、怒ってるでしょ?あんな風に言われたら、職場で話しかけにくいし」
彼女が言う“あんな風に―――”とは、先日の電話での事だろう。
食事の誘いをきっぱりと断り、交際もやめて別れるとはっきりと伝えた。
「そんなガキっぽい事はしないよ。それに、これはインストラクターからの指導。
怒っているように聞こえたなら、伝え方が悪かった。謝る」
仕事とプライベートは別の話だ。
別れても、職場が同じの為こうして顔を合わせる事もあれば、共に仕事をする事だってある。
同僚としてなら協力は惜しまないし、助けになれる事なら呼んでもらって構わない―――。
ふと、
七汐の脳裏に 過日の出来事が過った。
職場内恋愛からの破局で気まずくなった祥子は、元職場を退職に追い込まれた―――
それまで築いてきた彼女の輝かしいキャリアをリセットしてでも
その会社に居たくないと感じた何かがあったのだろう。
そうは―――させたくない。
「仕事は―――辞めるなよ?澪」
「え?」
検査が無事に終わった事を確認し、台から患者を移乗しようと部屋に入る澪を、呼び止める。
脈絡のない七汐の言葉に、澪はきょとんと瞳を見開いた。
「仕事は。
澪と一緒に、ここで頑張りたいから」
言葉の意味を理解するまでに時間を要したが、意図を察してしまえば
なかなか可愛げのある“お願い”だと、揶揄いたくなってしまう。
同僚の―――萩原 七汐は、こういう男だ。
澪はにんまりと含みを持たせた笑みを浮かべると、覗き込むように顔を寄せた。
「―――……じゃぁ、ご飯一緒に行こうよ」
「それはヤだ。“仕事は”って、言っただろ」
「けちーッ。
―――っでも、七汐はそういう人だよね。
今度は、ダメだと思ったらすぐに七汐を呼ぶから。だから、私を助けてね?」
「勿論。職場では同僚を助けるよ―――全力で」
彼女の“含み”を持たせた言葉も、今日は“曖昧”で終わらせない。
七汐の毅然とした態度に、澪は「はいはい」と肩を透かしながら負けを認めた。
患者を連れて病棟へ帰っていく澪を見送り、七汐も放射線科を後にする。
定時に帰る予定が、気がつけばこんな時間になってしまった。
それでも、心がすっきりと晴れ渡っているのは
言いたい事をキチンと言えたから。
彼女がそれを、理解してくれた(だろう)から。
「さて、一っ走りいくか!」
タイムカードを切った七汐は、バイクの鍵をくるくると指で回した。
・
・
・
Glass 12 :手本
⋆
水曜の夜は、Bar INFINITY∞での勤務。
23時を終え客足が途切れたタイミングで、七汐は一矢からカクテルの作り方を教わっていた。
酒の種類と名称、アルコール濃度は、勤務中の会話やボトルのラベルを見ていると自然と身につく。また、道具の使用方法や名前、一連の作り方の知識だけなら、一矢という手本の手元を観察する事で得られた。
「問題は、それぞれの酒の特徴と相性。
これは人間と同じで、見る人・飲む人によって捉え方が違うから厄介だ。
先ずは自身がぶれないように、自分の中の基準を見つけるところから始めてみよう―――
どれが辛くてどれが甘いのか……。
香りも、華やかとは何か、香ばしいとは何か―――それぞれの違いを見つけ自分の中の基準に落とし込んでいくと良い」
初めは分かりやすいように―――と、テイスティング様に特徴的な酒を幾つか並べられる。
一矢が指導用に吟味しただけあり、七汐の乏しい語彙力でも十分に表現できる物ばかりだ。
間に水を挟みながらとは言え、気づけば度数の高い酒を短時間でかなり口にした。
酔いが回って来たのか、段々と味の違いが分からなくなって来る。
すると、厨房の奥から真依がグラスに水を持ってきた。
夜間の空いた厨房で、試作品の研究をすることが多いと聞いていたが、0時近くまでやっていたとは。
「短時間で多くの種類をテイスティングする時は、酒は飲みこまない。
どうして教えてあげなかったの、一矢さん」
真依と一矢の会話が、咀嚼されぬまま頭の中を通り過ぎていく。
(飲み込まない―――って?)
ぼっとする視界の前で、一矢はにこにこと笑っていた。
そう言えば、テレビなんかでソムリエが、テイスティング時にワインを吐き出す姿を見た事がある。
その時は、飲み込むより吐き出す方がより多くのアロマを感じられるからだと説明していたが――。
「失敗から学ぶことも多いからね。
どんなお酒をどれだけ飲めば、味覚や嗅覚などの感覚が麻痺してしまうのか―――初めに知っておくことは勉強の内だよ。
酒に呑まれた事のないような君みたいな子は、特にね」
確かに。
この状態でテイスティングを継続する事はもう無理だ。
立ち上がると、一瞬平衡感覚がぐらりと歪む。
だが、踏ん張りは十分に利くし、幸いリスク回避への思考を働かせるほどには意識を保っている為、部屋まで戻る事には問題はなさそうだ。
「すみません、考えが及んでいませんでした。今日はもう、帰ります―――」
「謝る事はないよ、オレがワザと仕組んだことだからね。
色んな種類の酒を一度に胃に入れると悪酔いする。酔い冷ましの方法は、知っているか?」
「問題ないです、暫く起きときます」
「そうだね。早く戻って、ゆっくり休みなさい。お疲れさん」
「有難うございました、お疲れ様です――― 真依さん、一矢さん」
ぼんやりとする頭を抱えながら、カウンターを後にする七汐を見て、真依は短い溜息を零す。
水の入ったグラスを七汐に強引に押し付けてカウンター席の端に座らせると、調理用のエプロンを脱ぎ始めた。
「送っていくから、これ飲んで少し待っていて」
「え?」
七汐は、押し付けられたグラスに視線を落とす。
「いえ、大丈夫です。歩けるし、一人で戻れます」
「ついでだから、送ってく」
その様子を見ていた、一矢はくすくすと笑った。
「君の事だから、片付けは粗方終わっているのだろう?後はオレがやっておくから、真依ちゃんもそのまま上がりなさい」
「―――……いや。片付けまでが調理だから」
「七汐をそんな風に酔わせてしまった責任は、オレにあるからね―――片付けくらいさせてくれないか?」
暫く考え込んでいた真依だが、「今回は、一矢さんが悪いから」と睥睨を向けると、七汐の肩を押して居住エリアへと戻って行った。
・
・
「本当に、大丈夫です―――」
付き添い隣を歩く真依に、七汐は申し訳なさそうに声を掛ける。
彼女の普段の仕事ぶりを見るに、片付けを残して帰るのは かなり不消化に感じる事だろう。
自分事で彼女の手を止めてしまったと心が痛むが、真依に気にする様子はない。
寧ろ「もう少し早く止めておくべきだったね」と眉を顰めている。
薄暗い通用口を抜け、エレベーターの到着を待つ。
静かなエントランスホールに、自動販売機のモーター音がやけに響いて聞こえた。
「ふらつくのだろう?もっとウチに体重を乗せてもらっていいよ」
―――キミを支えられるくらいには力はある。
突如ずいっと距離を詰める真依に、七汐は思わず視線を逸らす。
彼女は時折、距離感をバグらせることがある。それは、七汐に限っての事ではなく、I-nfinity∞の住人や親しい者に対して見られるのだが―――
(“今”は流石にヤバいでしょ……)
「いやいや。俺が体重かけたら、真依さん潰れるから」
「言っておくけど、ウチはこれでも結構筋肉あるんだからね」
毎日重い材料を運びボールを回しているパティシエは、確かに体力仕事だろう。
自慢気に腕まくりをして見せるが、その細い腕のどこにも七汐を支えられる要素がない。
「その台詞は、せめて俺より太くなってから言って下さい」
エレベーターに乗り込み3階に到着すると、
七汐は4階ボタンを押し、続いて降りようとする真依を制した。
「ここまでで大丈夫です、有難うございました」
「すぐそこだから、構わないのに」
「いえ、これ以上は―――(色々と)
申し訳ないので。お休みなさい」
何か言いたげな真依を、笑顔で手を振って見送る七汐。
階数表示が4階で点灯するのを確認し、B号室の鍵を開けた。
ドアのカギを後ろ手で閉め、座り込む。
「今度からお酒、もっと気をつけよう―――」
自己嫌悪に苛まれながら、アルコールが抜けるまで待つうちに
東の空が薄っすらと、青い光に染まってゆくのだった。
・
・
・
Glass 13 :手綱
⋆
「お人好しというか、抜けてんにも程がある!」
―――大体、あの女から浮気してんのに、七と分かれたくらいで職場辞める訳がないだろ。
「あの雌ギツネを、繊細な祥子さんと一緒にするな」と文句を張り、カウンターの正面を陣取り不機嫌に酒を煽る翔の正論に、
一矢の隣でグラスを拭く七汐には反論の余地がなかった。
「ですよねぇ……」
冷静になって考えれば、翔の言うとおりである。
ただ、あの時は―――
数日前の祥子の姿と被ってしまい、それだけは避けたいという思いが傲りの言葉となって出てしまった。
(ああ―――。恥ずかし過ぎて、隠れたい)
段々と視線が下を向く七汐に、「そんなだから、澪になめられるんだ」との追撃が襲う。
「何なに?恋バナ?澪って誰よ~」
厨房の奥で在庫管理をしていたはずの若葉が、嬉々とした表情で駆け付ける。
翔の隣にちょっこりと座り、「楽しそうな話をしているじゃない!」と説明を求めた。
若葉は基本、月~金曜のcafeタイムに勤務しているが、イベントがあった月や遠くへ遠征に行った時はBarタイムにも勤務を入れる。
なんでも、趣味のコスプレの衣装代やイベントの遠征費(交通費)、グッズの購入費がかなりかさむため、直ぐに金欠になるようだ。
だが、趣味の世界に妥協はしたくない―――だから稼がなければならないのだと、以前勤務が一緒になった時に熱く語っていた。
今月も、そのイベントとやらが重なったため、Barタイムの勤務に入る日が多い。
可愛らしい見た目に反し、酒の種類に詳しかったり珈琲の淹れ方が上手いのは、
Barタイムに一矢から指導を受けていた為だという。
そして噂好きのこの人―――明日香も、水・木の18:00~22:00はBarタイム勤務をしている。
こんな日に限って翔が来店し、この話を持ち出すなんて。
己の行動の恥ずかしさだけでなく、噂話を嗅ぎつけて集まる彼女達への説明について考えるだけでも
頭が痛い……。
「大体、どうして翔が院内で起ったその出来事を知っているんだよ」
翔が今日、Bar INFINITY∞に飲みに来る事も、七汐は知らされていなかったというのに。
すると、翔はにんまりと不敵な笑みを浮かべ「院内にスパイがいるんだよ」と、どこぞの刑事ドラマのような台詞を平然と述べた。
翔は、七汐が務める医療センターの元職員だ。当然院内スタッフに知り合いは大勢おり、顔も効く。
恐らくあの場に居合わせた―――宮原放射線技師あたりに、事の経緯を(面白おかしく)聴いているのだろう。
そんな事情を知らない明日香と若葉は、「凄い!」と目を輝かせている。
(騙されるな―――お嬢さん方。
奴等は面白さの為なら同期の個人情報を容易く友人に話す悪徳警官と悪徳技師だ)
これ以上尾ひれはひれのついた噂が広がる事は避けたい。
七汐は湧き上がる悪態を、心の中だけに留めた。
「へぇ。じゃぁ七汐、今フリーなんだ?」
「だったら何?誰か紹介してくれんの?」
半ば投げやりに、吐き捨てる。
折角“噂の新入り”という注目の波が収まったというのに、今度は同僚に振られた可哀そうな男として噂されるのだろうか。
揶揄いの言葉が続く事を予想していたが、若葉は丁度いいとばかりに両手を会わせて目を輝かせる。
「いいよー!丁度友達に誰か男紹介してって言われてたの!
なんだったら、合コンでもする?」
「いいじゃん、それ!」「え……マジ」
双子は同時に、逆の言葉を唱える。
我が事のように身を乗り出す翔に、興の乗った若葉はどんどんと話を進めた。
二の足を踏む当事者の言葉は、聞き入れてもらえないようだ。
「ちょっと待て。別に今すぐに欲しいってわけじゃ―――」
「いいや。七はフリーにしておくと変な女に掴まっていい様にされそうだから、誰かに手綱を握ってもらっとく方がいい!」
「手綱って……(犬かよ、俺は)」
「ついでに俺も、彼女欲しいし♪」
「翔はそっちが本音だろ」「へへっ、バレた?」
なかなか首を縦に振らない七汐に、翔は「署内で柔道黒帯の最強女子を紹介するのと、若菜ちゃんの友達と合コンするのとどっちがいい?」と詰め寄り、仕方なく合コンを了承した。
かくして、翔と若葉が幹事を務める合コンが開催される事となったのである。
・
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Glass 14 :合図
⋆
金曜の夜―――
眠りを知らない繁華街の中心にある夜カフェで、若い男女が声高々にグラスを掲げた。
過日、七汐が元カノと別れたという話から、Bar-INFINITY∞で話が盛り上がり、
若葉と翔がそれぞれ男女の幹事となり合コンを行う流れは、
当事者の意見を他所に、早々と話がまとまっていく。
会場は、INFINITY∞が良いのではないかとの案も出たが、「知り合いの前で女の子を口説けるか(怒)」との七汐の強い拒否があり、繁華街で酒が飲める夜カフェを使う事となった。
合コンは初めてではないものの、知らない人と気を使って飲む酒は苦手だと最後まで渋った七汐に、翔は一つの提案を持ちかける。
『分かった。じゃぁ、“狙いの子がいないから帰りたい”って時の“合言葉”を決めようぜ!
七汐が合言葉を言ったら、お開きの流れに持っていくわ―――』
『―――……本当だな?絶対だぞ?』
『分かってるって、七汐の出会いの為に開くんだからさ!
折角なんだし楽しもうぜ♪』
・
・
等と、調子のいい事を言っていたというのに。
いざ会が始まると身を乗り出して楽しんでいる弟に、七汐は営業スマイルの裏で睥睨を向ける。
「翔の行きつけカフェの店員さん、超かわいくない?!え、どこどこ?俺も常連客になりたい~」
「友達もみんな可愛いよね!専門学校時代の友達って事は、みんなタメ年~?」
「アパレル店員さんなんだ?みんなお洒落だと思った~!今度俺の服もコーディネートして欲しいなぁ」
「え~っ!質問攻めなんだけどッッ。幹事君のお友達、面白すぎ~」
「翔君の元同僚ってことは、皆さんお巡りさんなの??」
「違う違う!翔昔、うちの病院で理学療法士してたんだけど、1年で辞めちゃってさ。その時の同僚なんだ~」
「って事は、医療関係者?!すっごーい!!」
(何が凄いのか、全く分かんねぇ……)
流石若葉の友人と言ったところか。女性陣全員が可愛気あってお洒落でノリもいい。
適当な相槌も、モテない男達を喜ばせるには十分なようで、
これは相当、“合コン慣れ”しているようだ―――。
対して翔が集めた男性陣は、七汐の務める医療センターの同期で彼女が居ない男共。
職場以外になかなか出会いの無かった彼等の食いつき様に、女性陣が心なしか退いて見える。
女の子数名が席を立った隙に、七汐は翔にこっそりと抗議する。
「職場の同期だなんて聞いてねぇ!!」
「だって、俺の同僚連れてくると、お前浮くだろ?」
「いやもう―――空気でいいんだけど、俺は」
「周りが知っている奴等の方が、絶対話しやすいって!」
翔は、軽い笑顔を浮かべ抗議をさらりと聴き流す。
「そういや女の子、帰って来るの遅いよな―――トイレ混んでるのかな?」
的の外れた事を口走り危機感の湧かない翔の態度に、七汐は短い溜息をついて呟いた。
「―――……“情報交換”だろ?」
(ノリだけで幹事やるつもりかよ―――)
―――ああ、酔ってないのに頭痛がする……。
そうそうしているうちに帰って来る女の子達に、再び話しかける翔を横目に、
七汐は呆れ心を隠し
作り笑顔を浮かべて、場を流した。
オーダーした食事の皿が空いていくのに比例して、酒の量も増えていく。
双方で、一部の子達の言動が大胆になり、段々と羽目が外れてくる。
立ち替わり席を立つうちに、さりげなく端席をキープしていた七汐の隣に、
話の中心にいたはずの若葉は、酎ハイグラスを片手にストンと腰を落とす。
「ちょっと~?七汐君の為に合コン開いたのにさ、女の子みんな、翔君に取られてるじゃん!」
「ははっ―――……まぁ、いつもの事です」
「そうなの?」
「顔が同じなら、ノリのいい男を選ぶでしょ?」
「ふぅん」
両膝を立て、脚を両腕で抱えながら、若葉は尖らせた唇でちょびちょびと酒を口にする。
「七汐君さぁ―――「七汐くん、グラス空いてる?次何飲むぅ~?」」
「ありがとーじゃぁ梅酒ロックで!気遣いできる子ってイイね!エリカちゃんやさしー!」
突然のフリにも、即座に営業スマイルを作って返事する七汐に、
若葉は何かを言いかけた言葉を呑み込んだ。
女の子との会話が一通り終わった後、七汐はようやく、隣でちびちびと酒を飲んでいた若葉に返事を返した。
「ゴメン、何か言いかけてなかった?」
「―――……いや、君も十分ノリいいよ…」
後から聞き返すも、彼女は機嫌を損ねてしまったようで―――
ふいと、わざとらしく視線を逸らせてしまう。
「そうかな。空気は読めるつもりでいたんだけど」
「どこがよ?天邪鬼め」
「褒めてくれてありがとう♪」
「褒めてないやい!!」
ぽかぽかと、七汐を叩きにかかる若葉の手からグラスを取り、零れないようにテーブルに戻す。
普段言わない軽口を言うからてっきり酔っているのかと思いきや、こういう所は冷静でぶれない。
「七汐君はさぁ―――今日の合コンで気になる子いる?」
「ん―――。若葉ちゃんは?」
「若葉は全然……!あ、いや。みんな面白くていい人だけどさ、ほら若葉は幹事だし。
それより、七汐君が気に入った子いるなら、連絡先教えるよ―――次も会えるように取り持ってあげる」
さり気なく質問返しを行いながらも、肝心の答えは考え込む素振りをする七汐に、
若葉は慌ててフォローを入れた。
(気になる男は、居なかったんだな―――)
どうやら同期の男一同は、揃って彼女に玉砕したようだ。
―――正直で宜しい。
「あ―――ね……」
暫しの無言で言葉を濁した後、七汐は大きく片手を挙げて声を上げた。
「翔ぇー!俺、“スイーツ食べたい”」
「え?そんなの、頼めばいいじゃん」
わざわざ幹事に頼まなくとも、各自食べたいものはそれぞれオーダーしている。
今更だと思いながらも、近くのメニュー表を引き寄せる若葉の腕を、七汐はそっと制した。
「じゃぁ、若葉ちゃんお持ち帰りします」
「はぁ?酔ってんの」
返事の代わりに、ニコリと笑顔を向ける七汐に、
若葉はようやく「ああ……」と、“言葉”の意味を察した。
向こうでは、既に翔がお開きの音頭を取っている。
「えーっ、もうお開きかよ、早すぎねぇ?」
「解散後は、各自節度を守ってご自由に!七酔ったみたいだからさ、俺は七送って帰るわ」
文句も適当に受け流す姿は、飲み会の幹事に相応しい。
「スイーツ食べるなら、二件目いくぅ?」
「賛成~!」
未だ飲み足りない様子の一部のメンバーの背を押し、取り敢えず店の外まで誘導して清算を済ませると、翔は七汐と若葉を連れて店の裏手に向かった。
ピピッ―――
と、軽い電子音で開錠ランプが点灯する車を見て、若葉は目を見開いた。
七汐も、躊躇いなく助手席に乗り込んでいる。
「若葉ちゃんも、I-nfinity∞まで送ってくよ」
「いやいやちょっと!飲酒運転はまずいでしょ?翔君警察でしょ?!」
「え、俺――― 一口も飲んでないよ?」
「翔は飲み会では絶対飲まない。毎回ハンドルキーパーだから」
そう言うと、店で貰ったソフトドリンク割引券を若葉に見せた。
アルコール検知器で飲酒していない事を、清算の際にレジで確認すると、次回以降に使用できる割引券がもらえるらしい。
(素面であのテンション保っていたの―――?!)
呆気にとられる若葉に「これ、あげる」と割引券を手渡し、運転席後ろにエスコートすると、
七汐と若葉をI-nfinity∞まで送り届け、そのまま家へと帰って行った。
静まり返ったエントランスでエレベーターを待つ間、若葉はちらりと隣を見上げる。
「七汐君は―――飲んでたよね?」
「俺は飲み会では絶対飲む。運転手にされんの嫌だから」
「―――……もぉ。変な双子」
2階フロアでエレベーターから降りた若葉は、後ろを振り向いた。
エレベーターの奥壁にもたれたままの七汐は「おやすみ」と穏やかな笑みを浮かべて手を振っている。
「酔ってないでしょ、七汐君」
「酔ってないよ」
「―――……“お持ち帰り”は、しなくていいの?」
「……して欲しかった?」
「―――ッッ別に!“ユエ様”のお相手は、イケメン“男”じゃなきゃ認めないんだからッ!」
「ははっ。(まだそのネタ、諦めていなかったんだ)
それは、ご期待に添えず申し訳ない」
エレベーターの扉が閉まる頃、
穏やかだった七汐の微笑は、口角を引きつらせ、苦笑に変わっていた。
若葉は大股でD号室に駆け込むと、靴を脱ぎ捨ててベッドにダイブする。
息が荒れる―――
顔が赤い……
酒は強い方だと自負していたし、いつもの若葉なら、あのくらいの量で酔う事なんてないのに。
危うく要らぬ事を口走ってしまう所だった。
早く―――
シャワーを浴びて、着替えて、化粧も落とさなきゃ。
なのに、
身体が熱くて、怠くて―――動くのも億劫だ。
「飲みすぎちゃったじゃない……。ばかっ」
枕に顔を埋めながら、若葉はぼそりと呟いた。
・
・
『“狙いの子がいないから帰りたい”って時の“合言葉”を決めようぜ』
『じゃあ “スイーツ食べたい”で―――』
『いや、分り難すぎるから……!』
・
・
・
Glass 15 :相棒
⋆
当直を終え、I-nfinity∞に戻ったのは10時前。
七汐が勤務に入った直ぐは、赤色灯が救急センターの入り口前に並び、慌ただしいスタートだったが
0時を回る頃には波も引き、しっかり仮眠もとれた程に落ち着いた勤務だった。
体力も気力も残っている―――
さて、20:00からの勤務まで、何をしようか。
あれこれと考えを巡らせながらエントランスに入り、郵便ポストを確認していると、
足元から熱い視線を感じた。
こんな低い視点からの視線は、珍しい―――
「ワン!」
「おぉ?」
そこには、ふわふわの毛並みとワイルドな風貌を兼ね備えた、ミステリアスな見た目の犬がこちらを見上げていた。
尻尾をぶんぶんと振り回し、七汐に興味津々の様だ。
I-nfinity∞は、他住居者のアレルギーへの配慮から共用スペースでの抱っこもしくはクレートの使用を条件に、犬・猫・鳥何れか1匹(羽)のペット入居が可能な物件である。
同じ3階に住む浅葱姫子とも、先日クレートに猫を入れて出てきていた所に遭遇している。
入口は、ポストやインターフォンまでの外部用ドアと、カード鍵がないと入れない住居者用のドアの二重構造になっているため、外部から迷い込んだ犬とは考えにくい。
恐らく住居者の誰かが飼っているペットだろう。
犬の関節にとってはよくないが、この大きさなら自分で階段を降りる事も可能だろう。
飼い主が目を離したすきに、エントランスまで降りてきてしまったのだろうか。
七汐は腰を落とし、犬を怖がらせないようにとゆっくり手の甲を差し出す。
そのミステリアスな犬は、くんくんと七汐を確認すると、尻尾を振りながら前足を挙げた。
灰褐色と白の毛並みを持つその犬は、顔こそは凛々しいシベリアンハスキーを彷彿とさせるが、体格は小さく毛並みはポメラニアンのようにダブルコートでふわふわとしている。
初対面の七汐にも笑顔で尻尾を振り背を撫でさせるところを見ると、好奇心旺盛でフレンドリーな性格の様だ。
「珍しい犬種だな―――子供のハスキー?にしては、もこもこしてるな、お前。ご主人は誰だ?」
ごろりと転がり腹を見せる犬を撫であやしていると、
パタパタと階段を降りながら叫ぶ声が聞こえた。
どうやらご主人様が探しているようだ。
この声は―――
「ポンちゃん!どこ?!」
「ワフッ!」
主人の声に応えるように、仰臥位で甘えていた犬はくるりと転がり立ち上がる。
そして、主人の声がする階段の方を向いて尾を振った。
「ポンちゃん!!」
相棒を見つけて駆け寄る明日香の息は荒れている。
両膝に手を置き、ゼイゼイと肩を揺らすところを見ると、4階まで階段で探しに上がっていたのだろう。
「よかったー。七汐が見つけてくれたんだ」
―――もう、どこに行ったのかと思ったよ。
「いえ、丁度そこで会っただけです、明日香さんとこの犬だったんですね」
―――人懐っこい子だね。
「ゴメンね、アレルギーとか大丈夫?抱っこかクレートがルールなのに、鍵かけていたらハーネスをつける前に居なくなっちゃって」
「俺は、大丈夫です」
―――でも、気を付けて下さいね?
動物アレルギーは、人によっては呼吸が出来なくなる程の症状が現れたり、動物に慣れていない人との接触で噛傷を負ったり、酷い場合は指を失う等のトラブルもなくはない。
可愛らしい見た目とは裏腹に、彼等の顎の力は人間の骨など容易く噛み砕いでしまうのだ。
「ほんっと、ゴメン―――。ごめんなさい……」
相棒の首を抱きしめながら、明日香は声を震わせた。
幸い何の被害もなかったわけだし、これ以上彼女を責めるつもりはない。
寧ろ、動物との触れ合いはそれだけでオキシトシン(幸せホルモン)の分泌を促すという研究については今更弁じ立てるまでもないだろう。
「俺の方こそ、癒されていたくらいだし」
急いでハーネスとリードをつけ、犬を抱き上げる明日香。
10㎏弱はあるだろうか―――中型並みの大きさのその犬を抱きかかえていると、小柄な彼女の顔が見えない。
その姿が微笑ましくて、二度 癒される。
「今から散歩?」
明日香の腰に巻かれたポーチには、ペットボトルに入れた水や器等の散歩グッズがぶら下がっている。
「そうなの―――今日はちょっと遅くなっちゃって……」
「そうなんだ。ねぇ、俺も一緒に行っていい?」
「良いけど―――アンタ、犬好きなの?」
やった!としゃがみ込みワシワシと犬を撫でる七汐は、
子供のように無邪気で弾ける笑みで明日香を見上げた。
「大好き!」
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「へぇ、実家で柴犬飼ってたんだ」
―――だから扱いが上手いのね。
楽し気に尻尾を振り歩くポンの後ろを、並んで歩く七汐と明日香。
時々振り返り、「ヘッ」と舌を出す姿に、七汐の頬も緩んだままだ。
明日香の相棒は“ポンスキー”という大変珍しい犬種だ。
元はポメラニアンとシベリアンハスキーのMIX犬だが、日本では交配が行われていないため輸入された犬だという。
従兄弟の子供がアレルギーを発症し飼えなくなった事から、明日香が引き取ったのだとか。
デザイナーズドックや、ペットのこれらに関しては、様々な分野で賛否両論が論じられているが、生まれて生きている犬には何の罪もない。
明日香が何の打算もなく、ただこの犬を大事に引き取って育てている事は、
彼女のポンに向ける愛し気な表情を見れば疑いようもない。
「七汐んとこの犬は、何て名前なの?」
彼女達の“いつもの散歩ルート”を歩きながら、明日香が訪ねた。
犬を飼っていると聴けば、名を聞かずにはいられないのが、犬好きあるあるだろう。
「柴三郎」
「……随分と、古風な名前なのね」
真面目な顔して応える七汐に、
想像していた名前と違った明日香は、どうコメントすべきかと視線を逸らす。
「そう!萩原家の三男だから、母がつけた」
―――もう15歳で白内障も出ていて、ポンちゃん程元気じゃないけどね……」
実家の母から時々送ってくるメッセージでは、柴三郎の寝ている時間が多くなってきたと書かれていた。
それでも、3か月前に実家に帰った時には、七汐と翔の声がすると玄関までのっそりと歩いていき、玄関マットの上で二人を出迎えてくれるのだ。
柴犬の平均寿命は15歳前後―――
きっと柴三郎と居られる時間も、そう長くはないだろう。
「―――……」
「―――………」
暫くの沈黙を破ったのは、明日香の方だった。
「ねぇ、柴三郎の写真あるでしょ?見せてよ」
「え、あ―――うん」
スマートフォンを取り出しトップ画面を見せる。
ふにゃりと笑う柴犬の画像に、明日香の目尻も緩んだ。
途中立ち止まった公園のベンチで、画像フォルダーを流す七汐。
隣で画面を覗き込み見る明日香に、
今はこの時よりも白髪が増えた。だとか、昔は結構気がきつかったのに人間と同じで犬の性格も、年と共に丸くなるのだと、話をする。
そう言えば、実家を離れてこっちに来て、翔以外の誰かに犬の話をするのは久しぶりだった。
寮では勿論動物を飼う事はできないし、実家にもなかなか帰れていなかったから。
愛犬の写真を見ているうちに、懐かしさがこみ上げる。
柴三郎は、今何をしているだろうか―――きちんとご飯を食べれているだろうか
(元気でいてくれると、良いんだけど……)
「柴三郎に、モフりたいなぁ―――」
「分かる!出先で他の子見てると、早く帰りたくなるよね!」
にかりとはにかみ笑う明日香に、
センチメンタルに陥っていた七汐の心が、ほわりとした温かさに癒された。
帰り道は、明日香と共に犬好きあるあるで盛り上がり、あっという間にI-nfinity∞に着く。
エントランスから館内では、明日香とポンの許可を取り七汐が抱っこさせてもらった。
両腕にじんわりと伝わる温もりと、呼吸に合わせて上下する丸い身体。
ふわふわの柔らかい毛は実家の柴とは全く違うけれど―――
「ほんと、お前は人懐っこいなぁ」
―――愛おしくて、仕方がない―――
2階の明日香の部屋前まで送り届けると、名残惜しそうにポンを床に下ろす。
少し寂し気な彼の表情をみた明日香は、頬を掻きながら、少しの視線を逸らせた。
「七汐。時間が合えば、また一緒に散歩いく?」
「え、いいんですか?! 行きたい!」
即答する七汐に、明日香の表情が明るく弾む。
「うん、じゃぁ―――今度はもう少し、遠くを散歩しようか」
「有難うございます、明日香さん。また会おうな、ポン!」
明日香はポンをぎゅっと抱きしめながら、エレベーターの扉が閉まるまで手を振る七汐を見送った。
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