2.ヴァルキリアス
「ひとりにしないで!」
ヴァルキリアスは泣きながら叫んだ。
その時、亡国の王子は未だ6歳だった。
もともと人懐こい性格だった。他の歴史ある王家に倣い、様々な教育を与えた為か、生意気な口を利くようになっていたが、多くの者に愛されていた。
ヴァルキリアス、とは、その地域に伝わっていた神話の戦神の名である。
何を思ったか、父王は2番目に生まれた愛くるしい息子に、そのような勇ましい名前をつけてしまった。
その国は既に無く、国王も長男も殺されてしまった。城にいた多くの者が殺された。
そんな中、侍従たちに助けられたヴァルキリアスは、侍女と二人で逃亡を続けていた。
侍女は国境の、ある家を訪ねた。彼女の父親の弟の家、ということだった。
幸いにして、彼女の叔父は、ヴァルキリアスを受け入れてくれた。しかし、ヴァルキリアスは受け入れられなかった。
独りでここにいろというのか。
お前はどこに行くのだ。行く当てはあるのか。
お前はどうなるんだ。
独りにするな。独りに
「独りにしないで...」
戦神の名を持つ子供は、ただただ泣いて、彼女を引き留めることしか出来なかった。
侍女は困り果て、腰をかがめて王子の顔を見る。
「泣いても無駄です。涙で人を助けることは出来ません」
そう言っている侍女の目は、涙を堪えて赤くなっている。
「これからは一人です。私の心配は不要です。家の人の言うことを聞いて、しっかり生きて下さい。あの約束を絶対に忘れないで。いいですね」
約束。
自分の名と、出身を誰にも言わない。死ぬまで隠し続ける。
ヴァルキリアスは、良く分からないまま、侍女と約束した。名前など、どうでも良かった。こんな仰々しい名前、こっちから捨ててやる。
「行くな」
ヴァルキリアスのふっくらとした頬に、ころころと涙が流れていく。
侍女は揺れた。あともう少しで腕を伸ばして抱きしめる所を踏み止まった。追手が何処まで伸びてくるか分からない。自分がいれば、どうしても目立ってしまう。
彼女は歯を食いしばって腰を伸ばすと、ヴァルキリアスの後ろで、じっと二人のやり取りを見守っていた叔父に深く頭を下げた。
叔父は、小さく頷いた。
「エウレラ」
ヴァルキリアスは別れを察し、侍女の名前を呼んだ。
「行くな!」
侍女は何も言わず、他人の顔をして、背を向けた。ヴァルキリアスの体がとっさに動いたが、家主の腕に止められた。
「どうか、あの娘の為にも、聞き分けて下さい」
そう言われても、耳には入らない。
「行くな!」
ヴァルキリアスは叫んだが、侍女は止まることなく、歩き去って行った。
そして、
ヴァルキリアスは、いつもの様に朝を迎えた。長い睫毛と骨張った頬が濡れている。泣きながら目覚めたのだ。
あれから何年も経つのに、時折、あの時の事を夢に見る。
子供だった自分を振り返ると、情け無く、溜息が出る。今なら、他に方法があった、とも思う。
あの後、彼女がどうなったのか。ヴァルキリアスは知らない。