19.救世主キンレイ
エランドルクの短い秋が終わる。
アレクゼスと、クレイは、雪で動けなくなる前に、早々と城を出る準備をし、出発した。
王妃が自分も行くと言って来たが、国王が説得して諦めてもらった。流石に二人でいると目立つ。
二人は、馬でグラブスに向かった。供には、情報部のキンレッド、国王の警備兵一人、クレイの使用人が一人、の三人が付いた。
グラブスに着くと、町長のカルアルを訪ねた。事前に手紙は送っていた為、既に住む所を手配してくれていた。場所は町の中心地にある、商館の隣である。
アレクゼスの部屋は、二階建ての宿の、二階右端の最も広い部屋だった。隣にクレイの部屋も確保してくれていた。
グラブスは、住む者は都より少ないが、各国の中継地の近くの町という事もあり、訪れる者は都より多かった。冬を迎えても賑わっている町を見て、アレクゼスは複雑な気持ちになる。
かつて貿易商だったクレイは、さり気なく町に溶け込んでいた。隣の商館に早速顔を出し、今何が流行っているのか、など色々聞いて、アレクゼスに教えた。
アレクゼスは、商館の近くにある、マルク教の礼拝堂に来た。この教区にはアレクゼスが父の葬儀を行った際に世話になった司教がいた。
マルク教は、キンレイ帝国の主教であるキンレイ教から派生した宗派である。
キンレイ教は、救世主キンレイの教え、行いを実現する事を目的に生まれた。崇める対象は救世主キンレイである。
マルク教は、神の名代として地上に生まれたキンレイが伝えた、神の教えによって人々を救う事を目的に生まれた。崇める対象は、神の教え、そのものである。
二つの宗派は、最終の目的は、人を苦しみから救うという同じ目的の筈であった。
しかし、帝国キンレイは、救世主キンレイが最初に願った事からは、遠く離れて行ってしまった。
アレクゼスは、礼拝堂の、長椅子に座ると、正面に立つ像を見上げた。穏やかな微笑みを浮かべ、悩める者を安らぎに導く救世主キンレイの像である。マルク教にとっても、神の教えを象徴するのは救世主キンレイである。
アレクゼスは、あまり神を信じていなかった。何故なら、本当に辛い時、神は助けてくれない、と思うような事が何度もあったからだった。
幸いなことに、自分の周りには、自分を支えてくれる多くの者がいる。妻や子供たちがいる。それで十分だ。たが、国王が無神論者だと何かと問題になる為、これは誰にも言えない。
「アレクゼス様」
ふいに、後ろから、穏やかな声が聞こえた。振り向くと、司教のファーレインがいた。儀式用の服ではなく、普段着用の黒い詰襟の服を着ていた。主治医のハンネルも50歳を超えているが、ファーレインはもう60歳に近い高齢だった。髪は全て白く、薄く、顔は皺と染みだらけだ。背はアレクゼスと同じくらいで、少しお腹が出ていた。無神論者のアレクゼスは当然、聖職者も苦手だった。しかし、ファーレインは、何とも言えない親しみがあり、現役を貫く姿に尊敬もしていた。
アレクゼスは微笑んで、
「今は、べリアルドと呼んで下さい」
と、言った。最初の名前は、広く知られているので、あまり知られていない二番目の名前で呼んでもらいたかった。
「大変申し訳ありません。お邪魔でしたか?」
「いえ、どうも、礼拝堂は苦手で」
「なのに来られたのですか?」ファーレインは微笑った。
「克服しようと思いまして」アレクゼスは苦笑を浮かべた。
正直、部屋でじっとしてもいられず、馴染みのある所も無く、つい、一人になれるところに来てしまった。こういう所に来ると、自然と、自分と向き合う羽目になり、嫌な気持ちになる。礼拝堂が苦手なのは本当だった。
「無理をされる必要はありませんよ。神はあるがままを愛してくださいます。私も苦手なものは沢山あります。説教とか、儀式とか」
アレクゼスは驚いた。
「良いのですか、そのようなことを仰って」
「大きな声では言えませんね」
ファーレインは、そう言って微笑んだ。
アレクゼスは、司教に、キンレイは何故、世界統一を目指しているのか、聞いたことがあった。
司教は、原因は教典にあると言った。
教典には、救世主キンレイが言った、とされる言葉が記されている。その一つに、解釈の分かれる部分があり、時として、それが元で帝国は揺れるのだ、という。かくいうエランドルク王国も、それが一因で生まれた。
「平穏に暮らすことは出来ないのでしょうか」
アレクゼスは、長椅子から立ち上がりながら、残念そうに言った。
「亡き父君と、べリアルド様のお蔭で、私たちは平穏に暮らしています」
と、ファーレインは、言った。
アレクゼスは、一瞬沈黙すると、顔を上げ、ファーレインを見た。
「ファーレインや、皆が法を守り、つつましく暮らしているから、平穏なのです」
ファーレインは、何も言わず、微笑んだ。
グラブスに来て、7日目の朝。今年初めての雪が降った。町の子供たちがはしゃぐ中、シドウェルからの2度目の報告書が届いた。