14.皇帝の本音
暫くして、ヴァイオスが皇帝の執務室に戻って来た。
執務室の入り口の左右の壁際には、衛兵が一人ずつ、厳めしい顔をして立っている。彼らは基本的には壁である。中の話が聞こえても、聞かない。
執務机では、皇帝がゆっくりとお茶を飲んでいる。ヴァイオスは、今日の面会人と招待客に対し、内心、罪悪感を感じながら皇帝のもとへと歩いて行く。
ヴァリスマリスは、カップを口から離すと、ヴァイオスを見て微笑んだ。ゆっくりとカップを受け皿に戻しながら、口を開く。
「あの男と話したか?」
ヴァイオスは、執務机まで数歩、という所まで来て、足を止め、
「話しました」
と、答えた。傍らにいるリメリオをちらりとだけ見て、すぐに皇帝に視線を戻す。
カップを置いた皇帝は、ヴァイオスを見た。
「何か言っていたか?」
「陛下と直に会い、信頼できる、賢明な方と分かり、安心しておられました」
皇帝は、少し冷めた笑みを浮かべた。
ヴァイオスが続ける。
「それ故に、オリビスの件を何故、エランドルクに託されたのか、不思議がってもおられました」
リメリオは、この件に関わっていない為、よく分からないまま、皇帝を見た。
皇帝は、感情の無い顔で、しかし、思いのほか鋭い目つきでヴァイオスを見ていた。何も言わず、置いたカップをまた摘まみ上げると、中身をヴァイオスに浴びせた。
ヴァイオスは、咄嗟に避けることが出来ず、まともに顔で紅茶を受けた。大した量ではなかったが、顔から顎に流れた滴が、喉元の飾り布に落ち、茜色の染みをつくった。
リメリオは、ぎょっとして、目を剝いていたが、はたと我に返り、
「陛下!」
と、怒鳴った。
ヴァリスマリスは、変わらず、鋭い目でヴァイオスを見ている。音を立ててカップを受け皿に置き、
「ヴァイオスが悪い」
と、低く呟いて、顔をよそに向けた。
リメリオは、ヴァイオスに歩み寄りながら、自分の官服の首元から飾り布を外し、ヴァイオスの顔にかかった紅茶を拭き取る。
「大丈夫ですか、ヴァイオス様」
「大丈夫だよ、リメリオ。ありがとう」
リメリオは、悲しげに皇帝に向き直る。
「陛下、謝って下さい」
ヴァリスマリスは、リメリオを見て、すぐに顔を背けた。しかし、明らかに動揺しており、やがて観念したようにリメリオに顔を向けた。
「悪かった。折角、お前が淹れてくれたものを」
「相手が違います」
呆れて、リメリオが言った。皇帝は、また、ふい、と顔を背けた。
リメリオは困惑したが、ヴァイオスは苦笑を浮かべ、
「代わりの飾り布を用意して貰えますか」
と、言った。
リメリオは、皇帝と、補佐官を二人にする為に、素直に頷いて、秘書室へ戻って行った。
ヴァイオスは、何事も無かったように、微笑む。
「如何されましたか」
ヴァリスマリスは、顔を背けたまま、何も答えなかった。表情は、暗かった。
「私は、訊かれた事に答えただけですが」
ヴァリスマリスは、反射的にヴァイオスを見た。目に微かな怒りがあったが、すぐに鎮まった。うなだれ、溜息をつき、背もたれにもたれる。
「私は、皇帝になるべきではなかった」
ヴァイオスは、顔を顰めた。「何を仰います」
ヴァリスマリスは、暗い顔でヴァイオスを見る。
「分かっているのだろう。私は、あの男の前に出るのが怖かった」そう言って、苦笑を浮かべる。「自分が何をするか分からない。それでのらりくらりと会う時間を延ばした」
ヴァイオスは、穏やかに微笑む。
「時間は、誰にとっても必要です」
ヴァリスマリスは、何も言わなかった。唯、静かに、ヴァイオスを見ている。
「陛下は、自分に勝てるお方です。皇帝に相応しいと存じます」
そう、ヴァイオスは言った。
ヴァリスマリスは、一度小さく顔を伏せ、またヴァイオスを見た。
「悪かった」
ヴァイオスは、微笑む。
「もう忘れました」
ヴァリスマリスは、苦々しく顔を歪めると、椅子から立ち上がった。何も言わず、ヴァイオスの方へ歩み寄って行く。
ヴァイオスは、不思議そうに皇帝を見ている。ヴァリスマリスは、ヴァイオスの傍まで来ると、
「外してやろう」
と、言って、ヴァイオスの首元の飾り布を緩め始めた。
「恐れ入ります」ヴァイオスは、恐縮する。
ヴァリスマリスは、小さく微笑む。
「普通にしてろよ」
「はあ」
「お前は、誰が良いと思う?」
ふいに、声を落として、ヴァリスマリスが訊いてきた。ヴァイオスは、一瞬、何の事か分からなかったが、すぐに、結婚相手の事と察した。
現状、キンレイ帝国皇帝、という身分の上で釣り合いの取れる独身女性など、いなかった。となれば、次に考えられるのは、一定の身分の上で、帝国の維持、発展に貢献できる家の者、という事になる。平たく言えば、金を出せる家か、という事だ。これは、皇帝自身の裁量、権力を奪われる可能性を秘めていた。更に、水面下では、それを狙って、有力な貴族・商人たちが、自分の娘を妃にする為に争っていた。一歩間違えば、内戦へと突入する。
ヴァリスマリスの立場から言えば、誰と結婚しても同じである。もっと言えば、結婚などしたくなかった。今の力の均衡を崩したくないし、内戦など以ての外だ。
「これまでの方の中にはいませんでしたか」
ヴァイオスが、静かに訊いた。
ヴァリスマリスは、手元に視線を落としたまま、口を開く。
「誰が相手でも変わらない。結局は、金と結婚するのだ。せめて、私の邪魔にならない従順な者が良い」
ヴァイオスは、微笑んだ。今までの招待客の中で、待たされた事を怒ってきた者は、一人もいなかった。皆、皇帝を相手に、従順に振舞った。
「陛下が探しておられる方は、仰った方とは違う方の様に見えます」
ヴァリスマリスは、ヴァイオスを見た。
「それが、宜しいかと存じます」
と、ヴァイオスは、言った。
ヴァリスマリスは、ヴァイオスの首元から、飾り布を抜き取ると、そのまま彼の胸に押し付けた。
「新しいのを着けて来い。面会に戻るぞ」
「はい」
ヴァイオスは、微笑んで受け取ると、秘書室へ向かった。