9.エンドル
まだ夜が明け切らない内に、シドウェルと、その三人の部下は城下を出発した。
都から、エランドルク国境を越えるのに約2日、中立地帯からキンレイの首都まで約2日、といったところだ。
皆、旅人の格好で、荷袋を担いで歩く。エランドルクの街道は場所によっては切り立った崖に出来た道や、山を削ってやっと通れる様になった道もある。馬が通れない訳ではないものの、あまり速度は出せない危険な道も多かった。
休み休み進んで、中立地帯に入ったのは、出発して二日目の夜だった。
中立地帯・エンドル。中心地は商人が仕切っている町がある。各国を結ぶ中継地点にある為、毎日の様に市が開かれている。周辺には、酒場や、宿場があり、女と遊ぶことも出来た。国ではない自治地域である為、はっきりとした法が存在せず、入る者を拒まない。故に国を追われたり、罪を犯して逃亡している者など、居場所のない者が集まる場所でもあった。犯罪も多く、まっとうな商人は、防犯の為にエランドルクの国境の町まで来て商売をし、そこの宿に泊まる。
夜は市が終わっているが、周辺にある酒場は一晩中灯りが灯っている。シドウェルたちは一旦は宿を探したが、空いているのは馬小屋だけだった。むしろ酒場の方が多く、行き場のない男たちが酒場の周りをたむろしていた。
賑やかなのは良いが、あてもなく、うろついていると強盗に狙われる。シドウェルは仕方なく、隣に馬小屋のある酒場で飲むことにした。
問題が起きたのは、まだ辺りが薄暗い夜明け前である。
身支度を整えたシドウェルは藁の上で寝ている部下を起こしにかかった。4人は夜更けまで飲み、馬小屋で寝た。自分たち以外にも何人か小屋の床に転がって、或いは壁にもたれかかって高鼾をかいている。
部下の内、グインとヨークはすんなりと起きたが、残り一人がぐずっている。フィンだ。彼はこの中で一番若い。決して酒に弱い訳では無い。ただ、甘ったれなのだ。
シドウェルがフィンと出会った頃、フィンは盗みをしながら生活をしている流れ者だった。他人の荷馬車に、こっそり乗り込んでエランドルクへ流れ着いた。フィンはさっそく、身なりの良い男から財布をすり取ろうとした。しかし失敗した。相手がシドウェルだったからである。
シドウェルは、自分の手足となって働く者を探していた。自分から財布をすり取ろうとする無謀な子供に興味を持ち、自分の屋敷に連れ帰った。始めは使用人たちと同じ仕事をさせ、読み書きを学ばせ、戦い方を教えた。フィンが15歳で成人すると、速やかに情報部の人員として雇い入れた。彼は持ち前の度胸と体力でシドウェルが必要とする情報を集める事が出来た。その反面、やる気を持続させるのが不得手であった。
シドウェルは、フィンの傍にしゃがんで、彼の柔らかい頬を手の甲でペチペチと叩いた。フィンは寝かせろよと言って藁の上で丸くなって目を開けない。
部下の中で先輩格のグインが、責任を感じたのか、おら起きろと言って、フィンの腕を掴むと強引に上半身を引き起こした。
フィンは、ようやくうっすら目を開けて、目の前の上司を見た。完全に何の為に今ここにいるのかを忘れた顔をしている。
フィンは眠そうに顔を伏せ、両手で目を覆った。
「なあ、このまま向こうに行ったことにしてさ、どっかトンズラしない?」
グインが顔を歪める。「何言ってんだお前」
シドウェルは黙ってフィンを見ていたが、内心、無理もないと思っていた。
フィンは掌で目の辺りを揉みながら、潰れた声で呟く。
「どうせ上手くいきっこないって。春までどっかでゆっくりしてさ、やったけど上手く行きませんでしたって帰りゃいんだよ」
グインが目を剝いて怒声を上げようとした時、シドウェルの右手がフィンの頭を引っ叩いた。乾いた、良い音がした。
「ってえな。なにすんだよ!」
部下の文句に構わず、シドウェルは無感情に立ち上がって腕を組む。
「黙れ。酔っぱらいの戯言にゃ付き合わねえ。大体、そんな雑な言い訳が、旦那に通じる訳がねえ」旦那、とはアレクゼスの事である。
フィンは、黙って上司を睨み、すぐ目を逸らした。
シドウェルは、一度、今の音で目を覚ました者がいないか、周囲に目を向けたが、変化は無いように見えた。
シドウェルは改めてフィンを見て、微笑む。
「旦那は俺たちを信頼してくれている。俺はそれを裏切りたくない。お前だってそうだろ?俺を裏切らないでくれよ」
フィンにとって、これは泣き落としだった。一瞬、涙目でシドウェルを見ると、苦痛に顔を歪める。
「だって、面倒くせえ」
「そりゃ、あんだけ飲んだらそうなるだろ。だからほどほどにしろって言ったんだよ」
フィンはしれっと
「タダ酒だと思ったら、止まんなくって」
「ざけんな」
「俺、手当はいいからそれが欲しい」
「は?」
「頭のやつ」フィンの視線が、シドウェルの頭部を示していた。
「整髪料かぁ」シドウェルは呟きながら、苦々しい顔をする。
「それ俺も欲しい!」
「俺も」
ヨークとグインが乗ってきた。
シドウェルは眉間に皺を寄せる。
「手に入らないんだよ。高いし」
「欲しいなあ」「欲しいなあ」「欲しいなあ」「欲しいなあ」「欲しいなあ」「欲しいなあ」延々と続く、部下のおねだりの声に、シドウェルは根負けして顔を歪める。
「だあ、うるせえ!やりゃいんだろ、やりゃ。その代わり、成功報酬だぞ」
「やった!」
瞬間、フィンの体はしゃきりと引き締まり、その手に荷袋を掴んだかと思うと、背中に付いた藁もそのままに、素早く馬小屋の出口に向かう。
「じゃあな、おっさん!後でな!」
相棒のヨークが慌てて後を追い、二人はあっという間に朝靄の中に消えた。
顔だけで見送ったグインが、呆れたようにシドウェルを振り返る。
「あっという間にやる気になった」
「俺のやる気は誰が出してくれるんだよ」
「約束は約束ですからね」
「お前、冷てえ」
「うるせえなあ」
ふいに、低い、迫力のある声が聞こえてきた。出入り口付近の壁にすがって寝ていた、体格の良い髭面の男が、だるそうに上半身を起こす。
「旦那がどうとか言ってたな」
シドウェルの背後から、また別の声が言った。奥の飼い葉桶にすがって寝ていた筈の若い男は、にやついた顔をこちらに向けている。「金持ってそうだな」
「ひひひ」
髭面の男より奥にいた男二人が、嬉しそうな声を上げながらゆっくり立ち上がった。
シドウェルは何でもない、という様子で
「悪いな。もう出ていくから、ゆっくり寝てくれ」
と髭面の男に言ったが、髭面の男は、ニヤリとして腰の短剣を抜き、切っ先を向けた。
「その前に金を置いていきな」
「悪いが、人にやれるほど持ってない」
「死にてえか」
シドウェルは、鼻で笑った。
「そりゃ、そっちだろ」
「やっちまおうぜ」片膝をついた低い体勢で、飼い葉桶の男が言った。
「殺っちまうか」髭面の男がニヤリとして言った。
男は短剣を振り上げ、シドウェルに襲い掛かった。シドウェルは切っ先が届くか届かないか位のギリギリまで引き付けると男の腕を関節を抑えながら掴んで、短剣を奪い喉元に突き刺した。それらは全てが一瞬であったように見えた。男は呻き声をあげて、どおっと倒れ込んだ。あまりの出来事に、飼い葉桶の男は、そこからまったく動けなくなった。
そうしている間に、グインが一人を倒し、もう一人をシドウェルが倒した。
シドウェルは、飼い葉桶の男を振り返った。男は蛇に睨まれたカエルの様に目を見開き、固まっている。
シドウェルは、何事もなかった様に荷物を担ぐと、
「邪魔して悪かったな。もう出ていくから」
と言って、グインと共に、馬小屋から出て行った。