序 アレクゼス
麦藁色の石の階段を一歩一歩、息を切らしながら上がる少年がいる。彼の、最初の名はアレクゼス。この登りは3回目だ。
アレクゼス・べリアルド・ハーネスト。それが彼の全ての名だ。べリアルドは祖先の名、ハーネストは家の名である。ハーネスト家は西のマシリアヌ大陸にある、小さな国の王を務める家である。
アレクゼスは7歳。上に二人の兄がいたが、二人とも死んでいる為、父に何かあれば次は彼が王になる。
アレクゼスが上がっている階段は、自分が王になった時に居城となる、首都にあるエランドルク城の政務棟の東側にある階段である。この階段は、1階から3階まで全部で85段あり、アレクゼスは6日前からこれを毎日10往復していた。
次期国王が突如始めた「階段10往復」に、周囲は困惑していた。
1階から2階への踊り場に差し掛かった時、アレクゼスは両膝に手をついて休んだ。数段下から付いていく警護役のダウンセンは、息を殺すようにして見守っている。思わず、あれこれ言いたくなるが、邪魔をしてはいけない。
アレクゼスは何度も肩を上下させ、すでにかなり辛そうだった。
まだ3回目の途中だ。大丈夫なのか。ダウンセンも、アレクゼスもそう思いながら、息を整えきれずに、また上がり出す。
可愛い顔をして、王子殿下はなかなかの頑固者だ、と、ダウンセンは思う。結局のところ、始まりは彼である。
アレクゼスが階段を上がる時、いつも息を切らしているので、それをからかった。王子はその場では無表情にダウンセンを見ているだけで何も言わなかった。しかし、次の日から10往復を始めた。
ダウンセンはアレクゼスの母である王妃に「息子がおかしなことを始めたのはお前のせい」と怒られ散々文句を言われた。
王妃は息子の体が心配で、止めさせたかった。しかし、アレクゼスは
「王になる者が階段を上る程度のことで息を切らしていては駄目です」
と、崇高な正論で母を説得し、続けていた。
アレクゼスは、王位継承順位第一位の者として、あらゆる面で手厚く育てられていた。教育面においては特に政治、外交、法律、歴史、戦術、馬術、剣術の授業を受けていた。階段10往復はこれらの授業の時間を削ることになる為、王妃からこれを知った国王はすぐに止めるよう王子に言った。説得ではない。命令である。
アレクゼスは止めるしかなかった。
次の日の馬術の授業の後、アレクゼスはいつもの様に自分で馬を馬小屋に連れ戻しに行った。馬小屋には馬以外自分しかいない。思わず、こらえていたものが溢れてきた。
アレクゼスは恥ずかしかった。階段を上がる時、自分だけが息が切れる。何とか克服できないかと考え、10往復を思いついたのだった。子供の浅知恵だったのかも知れないが、真剣だった。自分で言った通り、父の様な立派な王になる為に必要と考えてのことだった。その考えすら否定されて、アレクゼスは悔しかった。声は必死に殺したが、次々に溢れ落ちていく涙を止めることは出来なかった。
外にいた馬術教師と、ダウンセンは、王子のすすり泣く声を聴いて、それ以上、近づくことが出来なかった。
ダウンセンは、アレクゼスが10歳になるまでの間、警護役を務めたが、彼の知る限り、アレクゼスが泣いたのはその1回限りだった。
アレクゼスはその後、二十歳で結婚し、その2年後に王位を継承することになる。