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“アリウステラ”の物語ーアルヴァイオン大公国ー

旦那様は○○人間

作者: 杜野秋人

「デイモン様、お話があると伺いましたが」


 リッチモンド侯爵レイバーン家の、領都本邸にある嫡子デイモンの執務室。来訪を告げ中に通されたアデライン・ド・ラートンは、奥の執務机で書類を処理している婚約者に声をかけた。

 デイモン・ド・レイバーンは16歳でヨーク市立大学を卒業したあと、父のリッチモンド侯爵の補佐として領政に関わるようになっていて、それで本邸にも彼の個人執務室が与えられている。

 そのデイモンは今年18歳、婚約者のアデラインよりひとつ歳上だ。ふたりは婚約してもう5年目になる。


 普段から、仕事中は邪魔をするなとアデラインは言われているのに、仕事中に呼び出すとはどういう風の吹き回しだろうか。


「来たか」


 書類から顔を上げることなく、デイモンはそれだけ言った。


「これを読んで、理解したらサインしろ」


 そうして、顔を上げぬまま彼は手元の書類にサインすると、その書類をアデラインの方へ滑らせた。

 執務机の端まで滑ってきた書類を、アデラインは慌てて駆け寄って受け止めた。大事な書類を床に落としたりなどすれば、きっとまた叱責を受けるに決まっている。


「こ、これは……!?」

「読んでも分からないのか。婚約の破棄証紙だよ」


 アデラインが受け止め、目を通したそれは、婚約を破棄するという旨の書かれた証紙(証明用書類)だった。記載された内容に同意し、婚約関係にある両者が⸺当人が子女などで決定権を持たない場合はその当主(おや)もだが⸺サインを記入して然るべき窓口へ提出すれば婚約は破棄される。

 貴族の婚約は家門同士の契約だ。ゆえに必ず、結ぶときも解消するときも証明書類を作成して公的機関の窓口へ提出する必要がある。だがなぜ白紙でも解消でもなく『破棄』なのか。


「なぜ……でございますか」

「決まっている。ハンブルトン伯爵家の不履行(・・・)だからだよ」


「そんな……!我が家は締結した通りに農業支援を行っているではありませんか!」

「だが結果が出ていない。それは即ち不履行と同義だ。違うかい?」


 アデラインとデイモンの婚約、それはリッチモンド侯爵家がハンブルトン伯爵家に農業支援を依頼して実現したものだった。

 リッチモンド侯爵家の所領はアルヴァイオン大公国の中北部にあるノースヨークシア地方の、最西部に連なるペイニーン山脈とその山麓が大半で、元々農業生産が盛んな地域ではない。だからリッチモンド侯爵は自領の領民のために食料を他領から購入する必要があり、それがなかなかバカにならない経費がかかっている。

 それを少しでも解消すべく、隣接するハンブルトン伯爵領の農業技術を導入して自領の農業生産力を向上させるため、リッチモンド侯爵家の側から打診されたのがアデラインとデイモンの婚約だったのだ。


「だってそれは、作付面積に限りがあるからではありませんか!」


 山間部と山麓が主で平野部の少ないリッチモンド侯爵領では、そもそも耕作地を増やすにも限界があるのだ。その少ない耕作地で、少しでも生産量を増やすべく今まで頑張ってきたはずなのに。


「そんなものは言い訳に過ぎない。こちらが求める収穫量を達成するという約束を、君の父上、ハンブルトン伯爵は果たせなかった」


 だからハンブルトン伯爵家の有責で婚約を破棄するのだ、と言われてアデラインは絶句するしかない。婚約してから5年、確かに短くはない期間だ。だが収穫量の改善という観点ではいささか足らないのが事実である。

 元々困難が予想されていたのだから少なくとも10年、場合によっては数十年単位の長いスパンで取り組まなければならないはずなのに、農業技術にノウハウのないデイモンにはそれが分からないらしい。かくなる上はリッチモンド侯爵に直訴するしかない。


 破棄証紙を握りしめたまま、アデラインは踵を返した。


「どこへ行く」

「リッチモンド侯爵閣下に直接お話致します」

「君はバカか」

「…………なんですって?」


「家門同士の契約を、僕が独断でどうこうできると思っているのか?そんなわけがないだろう」


 そう言われてアデラインはまたもや絶句する。ということは、この件はリッチモンド侯爵も諒解済みなのか。


「そもそも、父上の署名もあるだろう。よく見たまえ」


 再度書類を確認すると、確かにリッチモンド侯爵の署名も書き入れてある。デイモンの署名に気を取られて、そのすぐ上の署名は爵位名しか見ていなかった。


「そんな……ですが、我が家は!」

「ああ、あれは実に不幸な痛ましい事故だったな。そればかりは本当にお悔やみ申し上げるよ。⸺だがな、伯爵が事故死した以上は契約の続行も履行ももはや不可能じゃないか」


 口先だけでそう言うデイモンの顔は、言葉とは裏腹に、義両親になるはずだったハンブルトン伯爵夫妻の不慮の死を悼んでいるようには見えなかった。それどころか口角が上がってニヤついているようにしか見えない。気のせいであってほしい。



 アデラインの両親であるハンブルトン伯爵夫妻は半月前、嵐の日に崖から脚竜車ごと落ちて馭者ともども事故死したのである。夜間のことだったので捜索と救助が難航し、翌朝に発見された時には全員がすでに死亡していたのだ。

 ハンブルトン伯爵夫妻の葬儀は婚約者一族であるリッチモンド侯爵家が執り行い、つい昨日終わったばかりだ。

 そしてハンブルトン伯爵の死去により、その領地は一時的に領主が不在の事態になっている。



 だから実際、デイモンの言うとおりだった。自領の統治ならともかく、他領との提携は当主でなければ采配できない。ハンブルトン伯爵(ちち)が亡くなった以上は代替わりせねばならないが、アデラインはデイモンと婚姻して次期リッチモンド侯爵夫人となる予定だったし、弟のトバイアスはまだ10歳ですぐには爵位を継げない。

 つまり今、ハンブルトン伯爵領の統治に空白が生まれていて、それをすぐには解消できない状態なのだ。というよりこの場合、ハンブルトン伯爵令嬢でありすでに成人しているアデラインの婚約者とその家が、ハンブルトン領の統治を一時的に代行することになる。

 そこまで思い至って、アデラインは気付いてしまった。


「まさか……謀りましたわね!?」

「さて、なんのことを言っている?」


 リッチモンド侯爵家とハンブルトン伯爵家との婚約なのだが、ハンブルトン側に政治空白が生まれたせいでどちらも(・・・・)リッチモンド(・・・・・・)()采配する(・・・・)事態になっているのだ。そうなると破棄も解消もリッチモンドの自由自在、当然のようにハンブルトン側に瑕疵を求めるだろう。そしてハンブルトンはそれに異を唱えることもできないのだ。

 おそらくリッチモンド侯爵とデイモンはそういう腹づもりで一致したのだろう。元々、デイモンの女癖の悪さに幾度も苦言を呈していて煙たがられていたし、アデライン(じぶん)を切り捨てたかった彼の思惑がハンブルトン伯爵(ちち)の死と重なって、リッチモンド侯爵もそれに乗ったのだろう。


「ですが、結局リッチモンド侯爵領の食料自給問題は解決しないままでしょう?我が家と提携を続けた方がよろしいのではありませんか?」


 そう。疎ましいアデラインをこんなやり口で排除したところで、結局問題は何も解決しないままなのだ。


「ふっ、心配には及ばんさ。当家は政策転換し、新たに領内の鉱山開発に力を入れることにしたのでね」

「今までの採掘量で上手く行かなかったものを、今さらどうにかなるとでも?」

「そんなもの、採掘量を増やせばいいだけだ。新た(・・)()鉱脈も(・・・)見つかった(・・・・・)ことだしな」


 リッチモンド侯爵領の主要産業はペイニーン山脈に点在する鉱山の開発と採掘である。産出される宝石類を加工して、宝飾品として流通させることでリッチモンド侯爵家は利益を得ていた。

 今までの採掘量では先行きが厳しかったからこその農業生産力強化だったはずなのだが、新たに鉱脈が見つかったことで他領の手を借りずともよくなった、ということなのだろう。


「くっ……」

「悔しがってもどうにもなるまい。さあ、分かったらさっさと署名して、荷物をまとめて出ていくがいい」


 今度こそ言葉を詰まらせたアデラインに、もはや勝ち誇った顔を隠そうともしなくなったデイモンが言い放つ。万策尽き果て、ペンを借りて署名するしかないアデラインに、署名の合間にもデイモンは侮蔑の言葉を連ねる。


「そもそも君は、婚約者(ぼく)を立てるということをしない生意気な女だった。女というものは主人の後ろに控え、主人を飾る花として付き従っていればいいのだ。だというのに君は、多少知恵が回るからと事あるごとに苦言や反論ばかりで可愛げも何もあったもんじゃない。忌々しいにも程がある」


 冗談じゃないわ。こっちこそ女をアクセサリーとして見た目しか愛さずに、人間扱いしない貴方なんて願い下げよ。この1年、夫人教育と称してリッチモンド侯爵邸に住み込ませ、その実侍女のように扱われた恨みは決して忘れませんわよ。

 そう言いたかったがアデラインは黙っていた。何か言えば倍以上になって返ってくるのは今見た通りで、しかも当主を失った今のハンブルトン伯爵家の力では対抗することも不可能だ。だからどれほど悔しくとも耐えるしかなかった。

 だが、そうして耐えるアデラインに、トドメとばかりにデイモンは言い放ったのだ。


「おっと、そうだ。いくら僕でも5年も婚約していた相手を無情にも捨てたというのは外聞が悪いからね。ハンブルトン領のこともあるし、次の婚約を世話してやろうじゃないか」

「…………えっ?」

「ハンブルトン領は、君の次の(・・)婚約者(・・・)に任せればいい。きっと彼も喜んでくれるだろうさ」

「な……何を仰っておられるのですか……?」


 ニヤつくデイモンの顔に不吉なものしか見えてこない。どう考えても、まともな縁談を用意しているはずがない。


「まあそう不安がるなよ。君の次の婚約者はライデール伯爵にお願いすることにしたんだから、何も心配は要らないさ!」


 思わず悲鳴を上げそうになった。30歳以上も歳上の、今まで一度も結婚できずに悪い噂ばかり聞こえてくる、あの“偏屈伯爵”に嫁げと、そう命じられた(・・・・・)のだと理解して、アデラインは絶望に目の前が真っ暗になった。

 そうして、茫然自失とするアデラインはわずかな手荷物とともに脚竜車に乗せられ、ライデール伯爵領まで連れて行かれたのだった。



  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇



 ライデール伯爵ことブライアン・ド・ヘルムスリーは、その日も半ば日課になっている領内の見回りに出ていた。

 ライデール伯爵領は牧畜による羊毛生産と、主食のひとつである黒麦(くろむぎ)の生産、それに領内を縦断する街道を利用した南北の通商と通行料収入が主な財源である。

 だがそこを治める領主であるブライアンは、いまだ未婚であった。


 ブライアンはフェル暦680年の今年、もう48歳になる。とうに家督も継いで伯爵家当主として領内を監督し、立派に治めてはいるものの、実のところまだ一度も良縁に巡り合ってはいなかった。これまでに3度ほど婚約者を得る機会があったのだが、そのたびに紆余曲折あって破談になり、それでここまで未婚を通している。

 年齢も年齢だし、ブライアン本人はもはや婚姻など諦めている。貴族なんて普通は10代の後半から20代の前半のうちに結婚してしまうものだし、そうした年齢のご令嬢がたから社交界で自分がなんと呼ばれているかもブライアンは知っている。


 ⸺偏屈伯爵、と。


 曰く、幼女趣味であって妙齢のご婦人には興味がないのだとか、そもそも女性を愛する御仁ではないだとか、今までの婚約者たちには奴隷もかくやという扱いをして、それで逃げられたのだとか、婚約者に求めるものが多すぎて、気に入らなければ癇癪を起こして追い出してしまうのだとか。

 人の噂なんてほんとアテにならんよなあ。そうは思っても、自分ひとりで火消しに走ったところで根も葉もない噂を根絶できるものでもない。現に最初はブライアンと同世代のご令嬢がたが噂していたのに、今その噂を広めているのはそのご令嬢がたが嫁いで産んだ、その子世代なのだ。

 そういうわけで、ブライアンはもはや社交の場に顔を出すこともなく、領地に籠もってその経営に専念している。平民を差別することなく領民に気さくに話しかけ、陳情も快く聞いて民の暮らしが少しでも良くなるよう尽力するブライアンは、社交界の噂とは裏腹に領民からの支持が非常に篤い。



「領主様!」

「おう、どうした」


 領内を視察して、今年は黒麦が不作になりそうだと聞いて対策を練っているブライアンの元へ邸から伝令が飛んできた。


「すぐにお邸にお戻り下さい。急な来客でございます」

「来客?」


 そんな予定は聞いていないが、とブライアンは首を傾げる。


「急な、ということは先触れもなかったということか。誰の使いだ?」

「それが、リッチモンド侯爵の脚竜車でして」


 リッチモンド侯爵。このノースヨークシア地方で唯一の侯爵家で、ノースヨークシアの最西部のペイニーン山脈とその山麓に、南北に長い広大な領土を持っている。少領の伯爵家が大半のノースヨークシアにあって、その権勢はなかなか強大なものがある。

 現当主はいけ好かない陰険な男だが、格上の家門だし怒らせては面倒だ。


「それは待たせてはマズいな。よし、すぐに戻ろう」


 だからブライアンは愛馬を飛ばして邸へと駆け戻った。

 だが、そうして戻ってきたブライアンの目に飛び込んできたのは、侯爵家の脚竜車と使者と、そしてひとりの妙齢のご令嬢の姿。

 それはくすんだ赤毛と蘇芳色の瞳の、まだうら若き少女と言える年齢の娘だった。着ているのは平服に近いドレスだが、礼法に則った最低限のドレスコードが整えられていて、確認しなくとも貴族家、それも伯爵家以上の家門の令嬢だと分かる。


「では、確かにお届けしましたからな」


 侯爵家からの使者はブライアンの顔を見るとそれだけ言い捨てて、脚竜車とともにさっさと帰って行ってしまった。


「お待たせして申し訳ない。私がライデール伯爵ブライアン・ド・ヘルムスリーです。貴女は?」


 侯爵家の使いの置いていったご令嬢とはいえ、粗雑に扱うわけにもいかない。ブライアンは礼法に則り挨拶をする。

 だがそんなブライアンに対して、彼女は涙を湛えた目で睨みつけるようにして、声高に宣言したのだ。


「お嫁に!来ました!」


 いやいや、なんで半ギレなんですかね?

 そもそも一体どちらさま?



  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇



「とりあえず、事情は分かりました。お互いに否も応もありませんし、ひとまずは婚約しましょう」


 半ギレの押しかけ嫁、つまりアデラインから仔細を聞いたブライアンは天井を仰いで嘆息した。

 やりやがったな侯爵家め。ハンブルトン伯爵が事故死したのをこれ幸いとハンブルトン側に瑕疵を押し付けて、奴らはまんまと婚約破棄してアデラインとハンブルトン領を見捨てたのだ。


 とりあえずハンブルトン領は中央に代官を要請して任せるのがいいだろう。そしてアデラインの弟が成人したのち爵位と領地を継承できるよう、自分が後見となればいい。そうすればハンブルトン領はひとまず安泰だろう。

 だがそのためには、アデラインとブライアンが婚約する必要がある。長女ですでに成人済みの彼女の婚約者とその家でなければ、ハンブルトン領内の政治的決定に関われないからだ。


「そのために、まずは婚約のメリットとデメリットを洗い出しましょう」

「はい、お願い致します」


 アデラインも神妙に頷く。最初はやはり噂を鵜呑みにしていて耐えなければと思っていた彼女だが、ライデール伯爵邸に置き去りにされてからブライアンや邸の使用人たちに慰められ労られ、すっかり印象が改善していた。

 ブライアンはとても優しかった。それに年齢差があるせいで父親のように頼もしい。愚痴を聞いてくれて一緒にリッチモンド侯爵家に腹を立ててくれたおかげで、もうすっかり嫌悪感はなくなっている。


「まずライデール(わが)領の主要産業は黒麦生産と羊毛生産、それに物流と通商です。そしてハンブルトン領は黒麦生産がメインで、他に羊毛加工もやっていますね」

「その通りです」

「ではこちらで生産した羊毛をそちらに割安で卸しましょう。そしてそちらで加工した品を、こちらの商人に委ねて北や南で売ることにしましょう」

「今年は黒麦が不作になりそうですし、来年以降に向けて農業技術の改革が必要になるかと。ですのでハンブルトン領(こちら)からは技術協力をお約束致しますわ」

「それはありがたい。あとは……何かデメリットがありますか?」

「ええと……特には……?」

「まあ強いて言えば、貴女のようなお若いご令嬢が30以上も歳上の、悪い噂しかない私などに嫁がねばならん、というのが大きなデメリットですか」

「あら、ブライアン様はとてもお優しくて、お噂とは大違いですもの。わたくしはもう気になりませんわ」

「はは……そう言っていただけるとこちらとしても安心しますな」


「あの、これもしかして」

「まあそうかなとは思いましたが」

「「私たちの婚約、メリットしかないのでは?」」



  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇



 デイモンは新たにチェスターフィールド子爵家のタバサ・ハーパーと婚約した。チェスターフィールド子爵家はリッチモンド侯爵領の南隣に領地を持ち、主要産業はリッチモンド領と同じくペイニーン山脈の鉱山開発である。リッチモンド侯爵家とチェスターフィールド子爵家は鉱山開発で提携したわけだ。


「よろしくお願い致しますわデイモンさま。ふふ、とうとうあの女(・・・)の追い出しに成功したのですね!」

「そうだとも。これで晴れて君を迎え入れることができる」


 何を隠そう、タバサはデイモンの浮気相手のひとりだったのだ。ふたりはヨーク市立大学の在学中から関係を持っていて、すでに何度も肌を重ねた仲だった。というか彼女は今年卒業したばかりの16歳である。

 タバサは伯爵令嬢のアデラインさえ追い落とせば自分が次の侯爵夫人になれると考えて、それで日頃から様々に画策していた。それが思いがけずハンブルトン伯爵の死去によってまんまとデイモンの婚約者の座を手にしたのだから笑いが止まらない。


「しかし君も悪い女だな」

「あら、デイモンさまだって人のこと仰れないでしょう?」


 そしてそんなタバサの腹黒な面をこそデイモンは愛していた。なんたって自分と(・・・)同じ(・・)匂いがする(・・・・・)のだ。ならば公私ともに、あるいは心身ともに彼女は自分を理解してくれるだろう。表情も豊かだし、身体はもっと色々豊かだし、頭でっかちでお堅いばかりのアデラインなんぞよりよっぽどいい。



「ちょっとデイモンさま!」


 だがそんなタバサにも欠点(・・)があった。


「なんですのこのルビーは!?」


 執務室に怒鳴り込んできた婚約者(タバサ)に、デイモンは面倒くさそうに目を向けた。


「何って、見たら分かるだろう。“ヴィクトリアンレッド”だ」


 鉱山経営の子爵の娘のくせにそんなことも分からないのかと言いたげなデイモンに、タバサは目を吊り上げる。


「貴方の目は節穴ですの!?ヴィクトリアンレッドとはもっと深みのある“紅”い色で、石の内面から赤の魔力(マナ)の輝きがにじみ出るもののことを言うのです!こんなただのルビーがヴィクトリアンレッドなはずがないでしょう!」

「何を言っている?これを我が領ではヴィクトリアンレッドとして売っていて、社交界でも好評なんだぞ」

「…………ああ。最近贋物(ニセモノ)が出回ってて価値が落ちているとウチの鑑定士たちが零してましたが……リッチモンド家のせいでしたのね……」


 タバサは宝石を扱う子爵の娘らしく目利きが鋭かった。


「冗談ではありませんわ!この指輪のダイヤモンドはせいぜいVS1ではありませんか!」

「それの何が問題だ?」

「侯爵家では婚約者に夜会で身に付けさせるジュエリーに傷物(・・)を用意して平気なのですの!?FL(フローレス)とまでは言いませんが、最低でもVVSクラスを用意するのが常識でしょう!?」

「そんなもの、いくらかかると思っているんだ!?」


 しかも“本物”が分かるだけに、生半可なものでは妥協してくれなかった。


「クッ……!なんて金のかかる女だ……!」

「あら。我が家はこの婚約を破棄して頂いても構わないのですよ?」


 そしてタバサとの婚約は破棄できない。リッチモンド侯爵領で新たに見つかった鉱脈とは魔鉱石の鉱脈であり、宝石類とは採掘方法が異なるのでリッチモンド侯爵家にはノウハウがなく、それを持つチェスターフィールド子爵家の力を借りるしかないのだ。

 魔鉱石とは魔力(マナ)を内包した特別な鉱石のことである。“無色”のものは安価だが魔道具に広く使われるので需要が高く、そして黒、青、赤、黄、白の五色の魔力に純化した“色付き”の魔鉱石は非常に希少で、その価値は宝石類の数十倍にもなるのだ。


「“色付き”が採掘できなくても良いのなら、いつでも婚約破棄なさいませ?」

「クッソ……足元見やがって……!」


「おい、大丈夫なのかデイモン!?」

「父上……!」


 下手すると魔鉱石採掘の利潤をも食い潰しかねないタバサの要求と散財に、リッチモンド侯爵も青い顔だ。


「タバサ嬢との婚約は、元々結ばれていたペンデル伯爵家との婚約を破棄させてまで結んだのだぞ!それを今さら破談になどしたら、社交界で何を言われるか……!」

「分かってますよ!」


 分かっていてもどうにもならない。もはや後戻りなどできるはずがないのだ。

 というかお互い婚約者のある身で浮気の恋に溺れて、すでに彼女の純潔まで頂いてしまっているのだから、今さらペンデル伯爵家に返せるはずがない。というかデイモン以外のどこの誰にも彼女はもう嫁げない。


「クッ……どうすればいいんだ……!」


 リッチモンド侯爵家の今季の赤字は、というかこの先もずっと、ほぼほぼ確定事項である。



  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇



「旦那様!だ・ん・な・さ・ま!もう朝ですよ!起きてくださいませ!」


 ライデール伯爵領のヘルムスリー邸では、毎朝アデラインの声が響く。


「う〜ん、あと5分……」

「“5分”の意味が分かりませんが、今すぐ起きるのです!さっさと起きて、とっとと朝食をお済ましになって、今日もキリキリ働いて頂きますからね!」


 ヘルムスリー邸でブライアンと同居するようになってから、アデラインは“真実”に気がついた。


「もしかしてこの方、とんでもないダメ人間なのでは……!?」


 そう。ブライアンが、実はダメ人間だということに彼女は気付いてしまったのだ。


 なにしろ朝ひとりで起きれない。そればかりか実はサボり魔で仕事なんて本当はしたくなく、事あるごとにサボろうとする。まめに行っている領内の視察も、実は書類仕事から逃げ出していただけなのだ。

 密かにプライドが高く、人からの賞賛がなければやる気を起こさないくせに、些細なミスをちょいちょいやらかす。しかもそれを指摘されると不貞腐れて仕事しなくなる。その割に誰も何も言ってくれないと急に不安がって周囲にうざ絡みする。

 しかも風呂が嫌いでさらに水虫持ちである。その上ムッツリスケベで、密かに領内の娼館を足繁く利用している事まで判明した。


 仕事ができて領民にも使用人にも優しくて、穏やかで有能な普段の彼の姿は、最低限その程度はやっておかないと当主失格の烙印を押されてしまうからなのであった。

 そりゃあ過去の婚約者たちが逃げ出すのも無理はない。こんな面倒くさい男を生涯世話しなくてはならないなんて、普通に考えれば嫌すぎる。負債以外の何物でもない。

 だがアデラインは同時に気付いてしまった。


「というかこの人、誰かが面倒見てあげないとますますダメになるのでは……!?」


「お分かりになりますかアデライン様」

「ニコルソンさん?」

「旦那様のお世話をするのは本当に大変で」

「ドーラさん?」

「もう私たちは旦那様は一生このままだと諦めておりました」

「ジェイムズさんまで!?」


 家令と侍女長と執事に口を揃えてそう言われ、アデラインは愕然とする。だが彼らの献身があったおかげで、ブライアンは今まで無難に伯爵領をまとめ上げて来られたのだと理解した。


(これって、わたくしが(・・・・・)いないと(・・・・)ダメ(・・)……よね?)


 そしてアデラインは全く自覚していなかった。自分が、面倒くさい男に尽くすことに生き甲斐を感じる“ダメンズ好き”であることに。しかも彼女、実のところ“枯れ専”でもあった。

 どちらも普通に生きている真っ当な貴族令嬢の生活では、まず気付けない特殊性癖である。


「……そう、そうよね。皆の頑張りを今さら無駄にはできないもの。これからはわたくしが頑張ればいいのだわ!」

「「「おお……!救いの女神よ……!」」」

「任せて!ブライアン様はわたくしが立派に更生させてみせますわ!」


 こうしてブライアンはアデライン監修のもと、強制的に自立更生プログラムを受けさせられるハメになる。


「旦那様!もう、朝はきちんと起きて下さいませ!」

「えー、だって寒いし」

「そう仰るからわざわざ高い暖房の魔道具を購入したではありませんか!」


「旦那様!お風呂は毎日!きちんと!」

「えー、いいよ3日に一度で」

「ダメです!」


「旦那様!だから邸内では専用のサンダルをお履きになってと申し上げているでしょう!」

「だってあれダサいんだもん」

「水虫の治療には何よりも清潔!そして患部の乾燥が必要です!少なくとも邸内では必ずサンダル(あれ)で過ごして頂きますからね!」

「…………どうしても?」

「どうしても、です!最低でも水虫が完治しなければ、わたくし婚姻して差し上げませんわよ!?」

「うっ……それは……困る……」


 いくらアデラインでも水虫持ちの旦那は嫌だ。

 そして自分を厭うこともなく甲斐甲斐しく世話を焼いてくれるアデラインのことを、もうブライアンも手放せなくなっている。もしも彼女に逃げられてしまったら、今度こそ本当に誰も嫁になど来てくれないだろう。


「はぁ……。しょうがない、頑張るか」

「あっそれから!毎朝邸の周りを2周走って頂きますからね!」

「えっなんで!?」

「だって旦那様、お腹出過ぎですわ!お若い頃の姿絵はあんなにシュッとなさっているのに、見る影もないではありませんか!」

「え、いや、あれは」

「言い訳は無用です!横に並ぶわたくしが恥ずかしくない程度には痩せて頂きますからね!」

「うええ、マジかぁ……」

「あと頭皮にも気を使って下さいませ!生え際が後退してるってドーラさんが嘆いてましたわよ!わたくしだって、ハゲた旦那様なんて嫌ですからね!」

「ううう……はい……」



「もしかして旦那様とアデライン様って」

「いや、もしかしなくとも仲いいだろ、あれ」

「やれやれ。これでワシもようやっと引退できそうだな」

「えっダメですよニコルソンさん!」

「そうですわ!ひとりだけ逃げようだなんて!」

「バカ言え!ワシはアレを48年も世話してきたんだぞ!?」

「「そこまで頑張ったなら、最後までやるのが筋でしょう!?」」



「アデライン〜捨てないでくれぇ〜!」

「はいはい。心配なさらずともわたくしはずっとここにいますわよ」

「うう〜ありがとう〜!」

「でもシャン(・・・)として下さらないと、ずっと情けないままでしたらわたくしも愛想を尽かすかも知れませんね?」

「ゔっ……!わ、分かった、ちゃんとする」

「……ふふ。旦那様はキリッとなさっていればそれなりに格好良いのですから、頑張ってわたくしを繋ぎ止めて下さいませね?」


(とか何とか言いながら、アデライン様とっても嬉しそう)

(ありゃ絶対に惚れてるよな)

(ううう……あのダメダメ坊っちゃんにはもったいなさ過ぎるのう……!)



 今日もライデール伯爵ヘルムスリー家は平和のようである。そしてライデール領とハンブルトン領の提携も順調だ。それもこれも、ひとえにアデラインが来てくれたおかげである。

 そんなふたりは社交の場にも少しずつ顔を出すようになり、その仲睦まじさを多くの人々に目撃されて、『奇跡の歳の差凸凹カップル』と噂になっているそうな。

 知らぬは当の本人たちばかりである。

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[一言] 活動報告から、飛んできました~ イマイチとのことでしたが、おもしろかったですよ? ダメンズ好き&枯れ専のしっかり者ヒロイン、よいです。 スパダリにはちょっと飽きてきていたので、水虫はいただけ…
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