15.主の面影
アイーダが馬の嘶きを聞いたのは、山に茸を取りに来た時だった。相変わらず霧の多いこの山は、今日も霧に覆われている。だから、今日も深く入り込まずに帰るつもりだった。
「ガルロフ、聞こえた?」
「馬の声ですか?」
「そう。霧で誰か足を滑らせたかもしれない。」
「この霧では、里人も山には入らないのでは?」
あれ以来、すっかり辺境伯領民のように暮らしているガルロフは、アイーダの世話係となっている。
「余所者が入って来たのかも。」
「それならありえますね。どうしますか?」
「怪我をしているだろうから、助けないと。ガルロフは道が分かっていないから、どうするかな?」
「でもお一人では駄目です。」
「仕方がないなぁ。ジェス、私にきっちりついて来るんだよ。ガルロフは、ジェスの走りを邪魔しないように。良いね?」
こういう時、ガルロフは、この馬以下なんだな…と、少し悲しい気分になる。仕方がないので、手網を緩く持ち、ただ馬の走るままに、振り落とされないように乗っているだけ。
霧が有ろうとアイーダには、山の全貌が頭に入っているのだろう。悩むでもなく馬を走らせている。
悩みもせず軽く岩場を超え、崖下の方に降りて行く。
「居た。」
アイーダに言われ、近づくと、男性が一人倒れていた。狭い崖だ。この霧では崖であることに気づかなかったのだろう。
主人を気にかけるのか馬の嘶きが頭上からする。
「大丈夫。骨折はあるようだが、生きている。斜面を上手く使って滑り落ち、衝撃を和らげたのだろう。その代わり擦り傷が酷いな。」
そう言われ近づいたガルロフは、衝撃で言葉を失った。
なぜアーロン王子がここに?護衛もなくとは、どういう……。
「知り合いか?」
感がいい、とガルロフは思った。表情も見えない霧の中で、息遣いだけで気がつくとは。
「そうだ。助けて欲しい。」
「屋敷に連れて行け。そうだ。私の馬も頼む。私は、崖の上の彼の馬を連れて戻る。」
「待てよ。そこまではどうするんだ?」
「崖を登る。得意なんだ。任せておけ。」
そういうなり、アイーダは、さっさと崖を登り始めた。
「猿か?」
とにかく、アーロンを屋敷に運んで治療しないと。
「あーそうだ。ルーとチェス。屋敷に先に戻ってて。」
馬二頭が返事をするように鳴く。
ガルロフは、自分の信用の無さにやはり残念な気持ちになった。多分、多分だが、迷わず帰れると思ったのに……。
******
アイーダは言葉に出さなかったが、あの怪我人を見て驚いた。あまりにも記憶にあるローエンにそっくりだったからだ。
レイラが覚えていたローエンに。
少しそれよりも若いだろうか。王妃と結婚する前の、出会った頃のような……。
結婚前、レイラはほのかな想いを抱いていた。
2人の結婚でその気持ちは、いつしか大切な主君を仰ぐ気持ちに変わっていった。
彼の顔を見て、昔のほろ苦い想いを思い出した。
「てっきり忘れたと思ってたのに、自分でも意外だな。死ぬ時に思ったのは、マクスだったのに。」
年が離れすぎたからなのか、今マクス本人を目の前にしているのに、昔のような気持ちは湧いてこない。
今は、ただ懐かしいだけ。
自分の見た目も随分違うからかもしれない。
今の自分は、レイラではなくアイーダだから。
マクスに、レイラの最後の気持ちを、いつかは伝えられたら嬉しいと思うだけだ。
******
目が覚めたアーロンは、全身の痛みに呻いた。
「気が付きましたか?」
問われる声に目を向ければ、
「ガルロフ?ガルロフなのか?」
会いたかった男だった。彼と話がしたかった。彼がいなくて、気持ちが抑えられなくてユラニアに向かってしまったのに。
自分はユラニアに着くこともできず、一体どこにいるのだろうか?
「崖から落ちたのは、覚えてるか?」
「崖?あ、ああそうだ。すぐそこに道があったので、崖とは思わず進んで……。」
「近くにいて良かった。」
「お前がまた助けてくれたのか?」
「手助けしただけだ。助けて、馬もここまで運んでくれたのは、お嬢様だ。」
「お嬢様?」
「ここは、ユラニア王国、辺境伯の屋敷だ。」
様子を伺うつもりが、突然ど真ん中に突っ込んでしまったらしい。コルニエ王国の王族の身で、とんでもない事をしてしまった。
アーロンは、痛み以外の嫌な汗が流れるのを、感じた。
******
なぜ一人でこんな真似をしたのかは分からないが、ガルロフが国を離れた途端、何かが起こったらしい。
─タイミングが悪かったな。いや、これが運命かもしれない。
アーロンが何をするつもりか分からないが、できる限り、手伝ってやりたいと思う。
目を覚ましたアーロンは、まだ混乱状態だが、よく話をしてみよう。もしかしたら、アイーダに助けを願う手助けが出来るかもしれない。
つまらない独占欲だが、ガルロフは、レイラに似た瞳のアイーダに、アーロンを会わせたくはなかったと、胸に込み上げる苦い気持ちを飲み込んだ。




