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Episode0-1 矛盾
――どうしてこうなった?
そもそも、警備を甘く見すぎていた。どれだけの護衛が『奴』に付いているか、考えなくとも想定されていたではないか。なのにも関わらず、流れのまにまに行動していると意図も容易く見破られ、捕らえられてしまった。
その後は酷い有り様だ。
顔面を棍棒で殴打されたり、水漬けにされたり、得体の知れない薬物を注射されたり、下半身を掘られたりと……散々、生きている限りの地獄を味わい続けた。それでも何事もなく生きてしまっているのだから、己の精神性にはつくづく驚かされる。
「あーあ、どうしたもんかね」
白と茶だけの縞々模様の囚人服を身に纏い、体中傷だらけで薄汚れた黒髪の男。彼は、全てどうでもいいように地面を見つめながらそう呟いた。
死に場所へ向けて冷たいコンクリートの階段を上っている。
そんなときに零れ出る言葉などたわいもない失望感だけだ。
ただ――男に、死への恐怖などない。
両手両足は過剰に重い手錠で繋がれ、著しく体は重い。もう暫く胃に何も入れておらず、栄養失調で視界が朦朧としている。全身をくまなく痛めつけられた障害による、震えも尋常ではない。
とはいえ、どの道もう終わる。後先の心配をする意味もない。
『はぁ、完全敗北ですね』
脳内に、女の『声』が聞こえてきた。
存在はしなくとも、幻聴ではない確かにそこにいる『声』に、遇の値も出ない事実だけが広がっていた。反論する余地もない……はずだ。
(どうしようもないだろ。こんなの、無理な押し付けだって。あー、んーとはいえ、まだ負けちゃいないさ。五分なら狙える)
と、余裕綽々と心の中のそいつに語りかける。
頂上、壇上へと着いた。
左右には真夏日なのに厚い軍服を着せられた可哀想な兵士が二人、前方には殺せるはずだったチョビ髭男が一人いる。横流しに固めた髪も傲慢でナルシストな顔も、想像通り過ぎて笑えてくる。
男が対象Hと名付けた、歴史に爪痕を残すはずの人物である。
加えて、目下眼前に広がるのは男の処刑を今か今かと待ち望む狂った民衆達だ。誰も彼も、どの子もあの娘も男の顔を嘲笑っては悪態を付いているのだろう。
――死ね。
――悪い人。
――テロリストが。
――閣下を狙うなど、どういう神経をしている。
まあ、Hにマリアナ海溝の底まで陶酔している単細胞な国民達が思い浮かべるセリフなどこんなところだろう。
「気分はどうだ?」
Hはニヒルな笑みを浮かべて、男に問いかけた。
「ああ、そうだな、大物俳優になった気分で悪くない」
男のふざけた言葉に反応することもなく、Hは壇上に取り付けられた新品のスタンドマイクへと口元を近づた。
「親愛なる国民達よ、私達は共同体である。この国の再建を目指し、一致団結する共同体である。今では、全ての者が志を同じくして活動しているだろう。さて……今日は悪い知らせと良い知らせがある。悪い知らせは、この国の民でありながら、共同体として団結していながら……テロリストが排出されてしまったことである。そして良い知らせは、そのテロリストを今ここで、排除できることである!」
彼の腕を振った熱意の篭った演説に民衆は湧き、拍手喝采が起こる。誰もが瞳を輝かせて疑いなく、Hが絶対的な改革者であることを疑わない。
「……」
男には、この現状が狂っているかどうかなど分からない。いや、強いて言うなら興味がない。
――どうだっていい。
たとえ国民が全員血も涙も無い殺人鬼を崇拝する狂信者であったとしても、この国の中でそれが普通なのであれば問題などない。
「では、最後にこの男に語ってもらうとしよう」
処刑前の捨て台詞くらいは、口を開く許可が下りた。
促されるまま、男はマイクの前に立った。
固唾を呑んで、男の汚い言葉を民衆達は待っている。とはいえ、純情無垢に狂ってしまっている彼らに掛ける『教え』などあまり多くはない。
男は、ニコリと笑ってみせた。
「あ、ああ、うん、マイクテストマイクテスト。あー、オーケーだ。さて、皆さんがどう思っているかは知らないが、俺は別に間違っちゃいない。俺は俺の『仕事』があり、それがこの男……閣下を殺すことだっただけだ。だからこうして捕まって処刑される結末も、恨んじゃいない。ただ……民衆の皆さんには謝らなくてはならない。悪いとも思ってはいないが」
今から殺されるというのに、最後の一言は理由なき謝罪である。
謝罪される謂れのない民衆達はどよめき、疑問が広がっていく。何に対しての懺悔なのか、大衆は理解できていない。
「もういい。殺れ」
Hが合図を出した。
男は、布で目元を覆われ視界を奪われた。
そこで――、
「あー、ちょっと待った。今、スウィッチ押すからさ。ふー、やっと腹の痛みから解放されるな。意外とずっしりとくるもんだ」
「何か、言ったか?」
Hは、一寸、男の方へと顔を向けた。
顔を布で覆われ、銃口を向けられたとしても、男は口をパクパクと動かした。
「いやー、何でもないんだが……。ただ、何か最後に言っておくことはないか? そのー、民衆の方々に……」
「私が? 馬鹿を言え。そんな機会、これから幾らでもある」
男は、Hの懐疑的な言葉に対して一度だけ首を振った。
「それがーそのー、悪いがそうでもないんだ……」
「何?」
男はHの疑問に答えることなく、口の中に仕込んでいたとある小さなスウィッチを奥歯で噛み砕いた。
刹那――一帯は、爆風に巻き込まれた。
Episode0-2 仕事
最悪なエンディングを迎えたせいなのか、最後に見た光景がありったけの憎悪だったせいなのか、それとも肉と骨が吹き飛んだ瞬間の異常な衝撃音が耳に残っているせいなのか――ともかく、精神状態が良くない。
失敗はしていなくとも、成功もしていない。
微妙な結末だ。
結果的に、追加で『仕事』をしなければならない。そういう、約束らしい。
それもまた、男に取って気持ちを憂鬱にさせる要因となる。
「あー、一日中ハイボールを飲み続けて三時間吐き続けた気分だ。それでー、どこだ、ここ」
男が目を覚ましたのは誰もいない、強いて言うなら芋虫やら羽虫やらが飛んでいるだけの広大な森だ。ひたすら奥を見渡してみても、大きな暗闇の中に僅かな光が見えるだけで他には何もない。
まさか、遭難したわけではない。
どうなってどうなってどういうことで、こうなったのか。男には、大方理解できていた。
ただ、信じたくないだけだ。
「あーまったく、二日酔いで寝込んでいるときよりきつい状況だな。ここが牢獄だった方がまだ希望が持てた」
誰もいない荒野では、応える声もない。
代わりにあるのは――、
『仕方ありませんよ。彼女は残業を指示してきましたから』
どこからともなく心の内に聞こえてくる女の声である。
いつからか、頭の中に住み着いている女だ。
そういうい意味だと、男は解離性障害なのかもしれない。
「無理難題押し付けてきた挙句にそれってねえ……どうにも泣きたくなるぜ。お前はそう思わないのか、ティス?」
『ぼやいても事は進みませんよ。ここでの『仕事』を完遂させて早く帰りましょう』
心象穏やかではない男とは裏腹に、ティスと呼ばれた女は冷静に諭してくる。
良い相方を持ったものだと、常々思う。
「それじゃあ何でも知ってるデータベースさんよ、仕事内容を話してくれ」
気乗りはしないが、男もようやく『仕事』に向き合う姿勢を作った。ここで立っていたところで何も変わるわけでもなく、野垂れ死ぬだけだ。
それよりも、男に取っての絶対的な情報源であるティスに『仕事』の話を聞いた方がマシである。
『世界線F-1、世界線A-1の一七〇〇年代初頭のヨーロッパに類似しますが、銃火器、爆薬の類はかなり発達していて、二〇〇〇年代に匹敵します。移動は未だに馬車と徒歩が主流であり、乗用車は開発されていません。電気は発見されていますが、爆破物以外への実用には、ほとんど至っていないようです。基本情報は、こんなところでしょうか』
「あーあー、魔女狩りやら疫病やら絶対王政やら複雑で面倒な時代……疫病に掛かって顔中ぶつぶつだらけで死ぬのは御免だな……それで、ここどこだ?」
そんな男から漏れるのはいつでもぼやいた声だ。
『はい、ここは南西に位置するストリビア国に当たります。この国についての説明を行います。よろしいですか?』
「ああ、どうぞ」
『はい。まず、この国にはヴァンパイアと人間の二つの種族が存在しています』
男は顎を摩り、小さく唸った。
ヴァンパイアという名の響きにも、驚いていない。
「ん~、ヴァンパイアって、人間の血を吸うヴァンパイア?」
『いいえ、少し違います。鋭い牙に、薄い赤の瞳、高い運動能力を持ち合わせていますが、食事に関しては人間と変わりません。ただ、取らなくてはならない栄養の量が、少し多いだけです』
血を吸わないヴァンパイア、何とも違和感があるかもしれない。
ただ、ヴァンパイアだから血を吸うに決まっている――それがあるシステムにおいて定義された一つの固定概念でしかないと、男は知っていた。
「なるほど。それで?」
『しかし、現在、国内はヴァンパイアを主としたレジスタンス『アンティ・パシ』と政府軍との内部紛争中です』
「内戦か……」
『原因は、この国の身分制度にあります』
「ふむふむ」
『おおまかに分けると、三つしかありません。平民である人間と、奴隷身分であるヴァンパイア。それから、見つけ次第即刻処刑されるバルロイ。そこで、この身分制度に抗うべく立ち上がったバルロイ、ティンバートン・エステロスが設立したレジスタンス組織がアンティ・パシになります』
「なるほどなるほど。あーそのー、バルロイてのはどうしてそこまで扱いが酷いんだ? 何か、酷い趣味でもあるのか? 人間を食べるだとか? あるいは、めちゃくちゃにキモい見た目してるとか? トロルみたいに」
『いいえ。しかし、バルロイは人間とヴァンパイアとのハーフであり、この国では忌み子とされています。バルロイを即刻処刑する法案が十年前に施行されたこともあり、数もほとんど存在していません。それから……残念ながら、あなた様はバルロイです』
「おいおいおい、それ笑えないぞ。見つかれば処刑される種族だなんて、動きにくくてやってられないだろ」
男はその場にあった石を蹴り飛ばして、怒りを顕にした。
『とはいえ、今回は良い知らせもありますよ?』
「何だ?」
『二度までなら、死んでも構いません。正確には、二度生き返っても問題ないわけです』
二度死ねる。言葉の意味はまだ分からない。ただ……。
男は、その多大なるプラス要素に何度も頷いて満足気だ。
「つまり、三回死んだらゲームオーバーなんだな?」
『そうなりますね』
「それってつまりはだ、そんな条件が付くくらいにめんどうな仕事ってことじゃあないのか?」
『さあ? それは我々の力量次第ですね。そもそも、あなた様が本気で『仕事』に取り組めば案外早く終わるかもしれませんよ?』
「あー分かった分かった、真面目にやればいいんだろ。それで、何をすればいいんだ?」
『はい、我々の目的はストリビア国、王位――イルトムソン・シュレーゲルの殺害、並びにティンバートン・エステロスへの王位継承、となります』
「はぁ、聞くだけでだるい仕事だと分かったよ」
男は深く溜息を付いた。
ティスはそんな男の消極的な態度など鑑みず、話を続ける。
『ぼやいても仕方ありませんし、始めましょう。この国における名前はどうされますか?』
「まあ、んん、そうだな、テル……てのは、どうだ?」
『少しこの国ではおかしいな名前ですが、覚えやすくてよろしいかと』
「決まりだな」
男は眼前を見つめた。
その先にある試練など、まだ掴めてはいない。
とはいえ――その苦難は、自分に対してのものではない。
男はあくまで、『試練を与える側』だ。
『どうされますか?』
「まずはそのアンティークだか何だかのレジスタンスのボスを探し出し、接触する。場所が分かるか、ティス?」
『勿論です、システムの情報は一元管理していますから。ふむ……ちょうど、混沌としていて接触しやすい地点にいますよ』
男は、首を鳴らして一歩踏み出す。
「よし」
時間差なく、ティスから解答が返される。
『とはいえ、あくまで相手は組織の総司令官です。殺されずに接触するのに、必要なものがあります。とあるリストバンドに、それから……アホ面、でしょうか』
「あーあー、得意分野だ。いつもやってる」
『ええ、そうですね』
「肯定しなくてもいいんだが。まあいい、始めるか。……はは、楽しみだ」
そう言っては、小さなそれでいて鋭い牙を剥き出しにして凶笑を作ってみせる。