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北風日記  作者: 小烏屋三休
神殿
83/88

出火

 それにしても、権禰宜は暗がりでも本当に肌がきれいだった。あんなに肌がきれいな男の人っているんだな。あんなにきれいな男の人が、私を生きる意味にしてきた?どれだけ淋しい人生を送ってくれば、年増の人妻たる私を生きる理由にしたくなるのだろうか。私としてはまんざらでもないが、彼にとってはかわいそうなので嘘であってほしい。

 そうだ。嘘っぽくはなかったし、惜しい気もするが、万が一の可能性で、あの熱烈な言葉が虚妄だとする。私を連れて行く理由はというと、私が過去に神殿を脱走することに成功した父を持つからである。

 年齢を重ねて気難しくなっている神子たちは、忌札の存在を権禰宜に教えないくらい、頑なで非社会的、非協力的である。抜け子たちは脱走の手配、食糧や宿の確保など何から何までお世話になっているくせに権禰宜の陰口を叩いている。動作が大げさで格好つけているだとか、顔がきれいすぎてうさん臭いだとか、言いたい放題しながら、こっそり彼の烏帽子に豆を投げつけたりするのだ。権禰宜は我慢強い人だから、毎回知らんふりをして少し位置のずれた烏帽子を直したりしている。

 そしてある日、あの恐ろしい事件が起こってしまう。先だって干滝殿を訪ねてきた先輩に付いて来た若い男神子、あの子が権禰宜に後ろからぶつかっていったのだ。その手には短刀が握られていて……。男神子は権禰宜の美貌に先輩神子がたらしこまれるのではないかと勝手に嫉妬して凶行に及んだ。先輩神子は泣きながら男神子を小突き回し、根性を叩きなおそうとする。ところが男神子は先輩の腕をとらえ、とうとう告白をする。先輩は雷に打たれたように驚き、微動だにできない。その後ろからふらりと、もう一人の女神子が現れる。過去に千の恋を経験したが、権禰宜こそ運命の相手だと思っているちりめん髪の人だ。瀕死の権禰宜を里の医者に診てもらおうと、周りに悪態をつきながら勝手に山を下りていこうとする。それを阻止せんと、荒くれもので会話をすべて逆さ言葉で話す面倒臭い神子が「ぞんせかい!いなじゃかんなれずばあはえまお」と登場して……。ともうてんやわんやで収拾がつかなくなっているはずだ。

 以上の事件は私の勝手な憶測にすぎないが、神子たちは恋愛沙汰が好きなのには違いないので、結構な泥仕合を繰り広げているのはまず間違いない。

 そんな彼らをまとめ上げるため、権禰宜は私を担ぎ上げたかった。過去に神殿を無事脱走して子まで為した伝説の勇者である父の血を引く私。神子たちの取り扱いを心得、経験と実力に並ぶもののいない、押しも押されぬ神子界の星たる私に、彼らの旗振り役をやってもらいたかったのだ。ただ私は神子の出奔には反対であることを表明しているので、あくまで権禰宜の恋人としてついてきてほしいという風に運ぼうとしたのだろう。考えれば考えるほどこの線が濃い。宛木がいたら『最初から恋愛詐欺だと申しておりますでしょう』といいそうだ。

 そろそろ考えることをやめ、本気で寝にかかないと明日が辛い。寝不足だと体温が低くなり、夏場でも朝の水浴びで風邪をひくことがあるのだ。

「お腹空きすぎてるからかな、眠れないのは」

 宛木が近くにいたら、夜に食べるなんていけないとぶつぶつ言いながらも、どこかに取ってあるおかしを持ってきてくれるのに。お腹は先ほどからゴロゴロと音を出して私を元気づけてくれているが、おかしを運んではきてくれない。

「そう言わず、持ってきなさいよ、なんかおいしいものを」

 ぽこんと腹を打つと、またごろごろと動く。

「あなたが行ったらいいんじゃないって?こんなに長くて素敵な足があるから?いいわよ。ちょっとなんかあるか探しに行ってみようか?」

 私はそっと房を出て、隣の宿舎に行ってみることにした。そこには昔一緒に外回りをしたことのある神子がいるはずで、彼女は食糧を備蓄していることがあるのだ。

 外に出ると、空気がかすかにきな臭かった。火事かと思ってあたりを見回すも、火で空が明るかったり、誰かが騒いでいる様子もない。見回しているうちにきな臭さは消えてしまった。

 でもなぜか胸騒ぎがする。私はふらふらと神殿の敷地内を彷徨った。

 結局そろそろ起床時刻というころまで歩き回って何も異変はなかった。まだまだ夜明けには程遠いものの、空の黒さが和らいできて、風の香りがしめしめした土臭い香りから、さらっとした草の香りに変わってきている。とにかく隣の宿舎にだけ寄って食べ物をもらってから帰ろうと思っていると、そこでとうとう宿舎の西側の壁がちりちりと燃えているのを見つけたのだ。

 私はそこらにあった箒で勢いよく火を叩きながら、大声で応援を呼んだ。早起きの神子たちはすぐに火消の応援道具を持ってそれぞれの宿舎から飛び出てきた。ところが彼らは私を見るばかりで、一向に火消を手伝ってくれようとしない。

「疾く、疾く。手伝って!」

 良く見ると火は私の宿舎だけでなく、他の宿舎にもついている。それも皆建物の西側、同じ柱から燃えだしているようなのだ。一刻も早く皆で力を合わせて消さねばならないのに、何を突っ立って見物しているのだろう。

 やがて私を後ろから羽交い絞めにする者が現れた。いつものニキビ面の安福他だ。

「おい、目を覚ませ。火なんかどこにもない」

「やい、年上に対して言葉遣いがぞんざいだぞ。しかし今はまず火消を手伝いなさい」

「だから、火なんかどこにもないってば」

「この分からず屋めっ」

 安福他の腕を振り払うべく渾身の力で箒を握った手を振り下ろすと、その勢いで叩かれた火がとうとう消えた。では次の宿舎へとりかかろう、と目を隣の棟に移すと、隣の宿舎も、その隣の男宿舎も、すべて火が消えている。

「ありゃ、消えたわ……」

 狐につままれた気分であたりを見回すと、集まっている神子たちも狐をつままれたような表情をしている。ただし、彼らが不安げに見ているのは私だった。

「あの人、大丈夫?」

「人騒がせだなぁ」

「しっ。あれでしょ、一の宿舎の出戻りは。関わらない方がいい」

「でも、あの目の色はまさか……」

 あれ……?なんだろう、この反応。まるで私が悪いことをしたかのような雰囲気である。でもとりあえず、手伝ってくれなかった周りの人々を詰ろうかと口を開いたとき、また私の鼻が新しいところから運ばれてくるきな臭さを感じ取った。

 鼻をつんと空に突き出すと、それはかなり遠くから香ってくるようだった。私は急いでそちらに駆け出した。

「こっちでもっと燃えてるよ!皆も一緒に行こう!」

 皆はしびれているかのように立ち尽くすだけで、そこから動かなかった。私は構わず走った。

 足に翼が生えたように感じた。こんなに速く走れるなんて感動的だ、と思いながら私は足を動かし続けた。宛木には、長すぎると着物を着せかけられるたびに言われていた足だったが、走るとなると俄然都合がいいものだ。師永津で鍛えられたからか、以前よりずっと速く走れるようになっているのだ。もっと早く活用してたくさん走り回っていれば良かった。

 足はまるで足自信が意思をもった天馬のごとく、猛烈な速さで昨日の夕方歩いた道を辿っていく。そうだ、この焦げ臭さは神殿の向こう、吉川大神宮の隅っこの忌札のお堂から流れてくるのだ

 神殿には警邏(けいら)の者がいるので、門のところに着くころには騒ぎを聞きつけた者たちがわらわらと集まっていた。彼らは私を抜け子と思い、笛をぴりぴりと鳴らしてさらに仲間を呼んでいる。

 何人かは走る私に当身をくらわせるべくこちらに襲い掛かってきたが、私はすべて躱した。かつてこれほど身軽だったことはないし、これほど相手の動きを緩慢と感じたこともない。

「門を固めろ!抜け子に門をくぐらせるな」

「な、なんだ、目が燃えてるぞ」

「怯むな、押しつぶせ」

 警邏の怒号が行き交う中、私は自分もその声に負けないよう、火事だ、火事だ、とただそれだけを叫びながら走った。

 警邏の人たちは私が門に飛び込んだら潰してやろうと腰を落としている。

 私は速度を緩めず、男たちの群れに駆け込んでいった。ところが、私が跳躍しようと足を踏み切ったとき、

「神下ろしだ!通せ!」

 と、よく通る声が響いて、男たちはさっと門の脇に避けて、私を通してくれたのだ。良かった、たとえ跳躍したとして、さすがに人を飛び越えるほど高くは飛べないから。

 前方から「その者を通せ」と指示を出しながら速足にやってくるのは権宮司だった。

「あの者に続いていけ!神下ろしの邪魔をすることは許さぬ」

 間もなくして私は、あの肌を刺す藪を抜け、忌札のお堂にたどり着くことができた。

 ところがたどり着いたときにはすでに遅し、すでにお堂は燃え盛っていて、一人の力ではとうてい火を叩き消すことが叶わぬほどだった。私を追ってきている神宮の人たちが到着するにはまだ時間がかかりそうだ。

 それでもせめて火を叩けるものがないかと探していると、お堂の横の荒れ放題の睡蓮池に不自然な波紋があるのに気づいた。どうも人の後頭部に見える。権禰宜の髪も、これ位の長さがなかっただろうか。

 騒ぐ胸に拳を当てながら睡蓮の葉の影を覗き込むと、その人は水面にうつぶせになって浮いているようだった。私は無我夢中で池に入って、その人の足を手繰り寄せた。その人はいくつかの睡蓮を手足に絡ませながら引き揚げられたが、動く気配もない。

 仰向けに直し、顔にまつわりついている髪をどかした。権禰宜ではない。実は手繰り寄せている途中、権禰宜とは装束が違うことに気が付いていた。これは吉川大神宮の神官の装束だ。袴の色が浅黄だから、まだ下級の神官だ。このお堂には許された禰宜以上の同伴がないと来てはいけないはずだから、禰宜がどこかにいるか、あるいは異変を感じて規則をすっとばして確認にきたのだろうか。いずれにせよ、とにかく私の権禰宜ではないことは確かだ。

 震える指を抑えるためにぎゅうぎゅうと手を結び合わせながら、短い呼吸を繰り返した。心臓がしびれたように感じる。

「も、も、もしもーし」

 息をしていないようだが、そう長く溺れていたわけでもなさそうだ。肌に張りがあったし、男の周りに起きていた波紋は大きかったから、私が到着する直前まで池で動いていたのかもしれない。

 いつぞや梅太郎に教わった蘇生術を試すときがきた。私は男の胸に両手を重ねて腕をつっぱり、もしもしと連呼しながら胸を圧迫した。あばらやふくふくし(肺)が壊れないよう優しく、かつ果断に行うべし。この間隔で圧迫するとほとんどもしもしの『もっ』しか言えないが、これで正しかっただろうか。まあ仕方ない、やるしかないのである。次はいよいよ人工呼吸である。

 梅太郎に教わったものの、やり方も効果も半信半疑だし、何より人間界の秘儀を行っているのだと思うと恐ろしかった。

 しかしそれは確かに効果があり、間もなくするとこの無精ひげで茱萸(ぐみ)の実みたいに膨張した唇をした男は、げほげほとせき込みながら水を吐き始めたのだ。ちょうどそのときに、私を追いかけてきていた神宮の人が到着した。もうこの茱萸の男の世話を私一人で見ないで済むのだと思うと、自分が助けてもらえたような気がして胸が震えた。

「お、遅いじゃないか。この人、怪我をしてるし、さっきまで息をしてなかったんだ。それから、それから、どこかに禰宜がいて助けが必要かもしれない」

 お堂の火を一刻も早く消さねばならないが、神宮の人はこぞって無精ひげの男の介抱にかかってしまって、火消に回る人がいない。このままでは忌札が燃えてしまう。そもそも、ここに来たのは三人だけで、あとに続くはずの火消の人はいつまで待ってもくる気配がない。

「落ち着いてください。ここにいるのは溺れていたこいつだけのようですから」

 男たちは鷹揚な様子で溺れていた男の周りに立ってなんとなく見下ろしているばかりで、あまり身の入った介抱をしていない。私は歯がみした。

「他に応援はこないんですか?」

「ま、この男はなんとかなるでしょう。神殿の方が大変みたいですよ。神子様たちが次々に苦しみだしたかと思うとばたばたと倒れたという知らせが入りましたから。そちらの救助に大半の人がかかってます」

「えっ?」

「あなたは大事ないですか?神下ろしは体にひどい負担がかかると聞いておりますが」

「神おろし?」

「ご自分でお気づきではなかったのですか?目の色がおかしくなっていますよ」

「え?ま、まあとにかく、大丈夫です。とりあえずここの火を消さないと」

 私は動顛したまま、両手を合わせた。

 神子が次々と倒れた?私は食べることかなわなかった、昨夜の夕ご飯が悪かったのだろうか。それとも、まさかこのお堂の忌札か焼かれているからだろうか。私の忌札はまだ権禰宜が持っているから、私には影響が出ていない?このままお堂が焼け落ちたら、神子たちは皆死んでしまうのだろうか。

高天原(たかまのはら)神留座(かんづまりましま)す すめむつ神かむろぎ神呂美之命(かむろみのみこと)をもちて すめみまのみことをば」

 鎮火祝詞(ひしづめののりと)を口早に唱えるうちに、ついさっきまで取り乱して考えていたことが次々と頭から抜け落ちて集中していく。蘇生術に比べれば、こちらの方がもう少し自信をもって行える。神宮からここに来た三人のうち一人は神官らしく、私の祝詞に声を合わせてくれる。

 お堂の火がはぜる音は徐々に小さくなり、祝詞を無事唱え終わってしばらくしてから合掌を解いて目を開けると、無事鎮火していた。息をついて後ろを振り向くと、神宮から来た人々が平伏している。

「消えましたよ」

 私は立ち上がって、濡れて膝に張り付く袴をぱたぱたとはたいた。

「美津狩内堂の中を見に行きましょう」

 忌札が無事かを見に行かねばならないが、三人は立ち上がる気配もない。

「誰か一人でも、一緒に行ってくれませんか。この際、偉い人の許可は不要だと思いますよ」

 重ねて言うも、

「お、恐ろしや。本当に火が消えましたぞ。人ならぬ技ですぞ」

「しっ。口を慎め。神子とはそういうものだ。が、それにしてもあれほどの火をこんなに早く消すとは」

「で、でもこの神子様は、もしや鬼人ではないでしょうか」

 どうも一人は神宮に入りたてのようで、神子の祝詞を初めて聞いたのだろう。二人に腕を盗られながら立ち上がって私を見る目が、まるで物の怪を見るような目つきである。ふん。こういうもんなんだよ。

 私は三人を放っておいて、一人でお堂に入らんと歩を進めた。

 その時、別の神宮の人が茂みをかき分けてこちらに走ってきた。

「おーい、一白(いちしろ)殿、早く、こちらに」

 どうでもいいことではあるが、いちしろというのは、私のここでの正式な呼び名である。神殿に連れられてきた七つのときは色白だったのでそういう名を与えられた。今では通年日焼けしていてその名が不適当なので、もっぱら愛称の波羅蜜(波羅蜜というごつごつした果物の名が愛称と言ってふさわしいかはわからないけれど)とばかり呼ばれているのだが、神宮の若い人たちは私のことをきちんと呼んでくれる。

「神宮で不審者が捕まったのですが、都での一白殿の名をうわごとで呼んでいるのです」

「都での名って、遠の君ってこと?」

「さようです。怪我をして今にも死にそうなのですが。とにかく一緒に来てください」

「わ、わかりました。そこにいる怪我人を運びながら行きましょう」

「いえ、不審者の息のあるうちに急ぎましょう。怪我人は残りの者にまかせて」

 私の都での名を知る不審者?今度こそ権禰宜だろうか。それが権禰宜で、今にも死にそうならなんとしてでも駆け付けねばならない。でも本当は不審者が権禰宜かどうかなど確かめたくないのだ。それに実際のところ、もう足がへとへとで歩きたくもないし、ましては走るのもいやだったが、私は案内について再び速足でついていくことになったのだった。


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