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北風日記  作者: 小烏屋三休
神殿
64/88

不機嫌な梅太郎

 以上のこと、貞淑な人妻にしてはやや不徳な出来事ではあった。不徳に恥じ入りつつ、それでも私は梅太郎に苦言を呈せざるを得ないと考えていた。

 なぜか?夫婦の間の連絡は人を介して行うものではないのだ。長く関係を続けていくのであれば、報連相は直接、密に、かつ迅速であらねばならないのだ。

 そもそも梅太郎が早く木簡をくれていれば、私は在命にお断り状を渡せていたはずで、自分から先手を打てていたら今日のようにへどもどせずに済んだのだ。私はそういったもろもろを、二人の今後のためのもろもろを、彼と話し合いたいと考えている。

 ただ問題として、あの口吸い以来、私たちの間はぎくしゃくしていて、以前のように言いたいことを言える雰囲気ではなかった。私は気恥ずかしくてそうしていたのだが、彼の方は私のことが嫌いで、話しかけられたくないような素振りを見せた。いつも不機嫌そうに眉間にしわを寄せ、ふとした拍子に目が合ったときなど、苦虫をかみつぶしたような表情をしたり、つぶやきだか舌打ちだか判別できない音を発して目を逸らしたりするのだ。私と口吸いをしてよっぽど嫌な気持ちになったのかもしれない。この調子じゃもう二度目はないだろう。あーあ、である。

 まあそれは諦めるしかないとして、伝えるべきことは伝えるというのは、夫婦が長続きするための秘訣であるような気がしているので、その日の夜、梅太郎が(かわや)にたったときに追いかけて、私は勇気を振り絞ることにしたのだ。そのときはちょうど突き抜けるような冷たい風が吹いていて、私は小走りにならざるを得なかった。追い風と小走りの勢いに背中を押され、私は彼に走り寄った。

「あ、あの、ちょっと。梅太郎殿」

 梅太郎は歩みを止めることもなく、不愛想に視線だけを移した。胸がきゅっと縮まるが、追い風は私を押し続ける。

「以前、あの、木簡を融通してほしいと言ったじゃない?それがさ、今日になってなんか在命殿から料紙をもらうことになってさ」

「その話ならしたくない」

「いえ、あなたがしたくなくても、私はしなけりゃならないと思ってるんだけどさ、ははっ。梅太郎殿はずっと木簡くれなくて、今日になって在命殿から紙をもらうことになってさ。私はとっても面食らってしまってね。だからつまり、もっと早く、直接木簡をくれれば良かったし、用意できないならできないと直接私に言ってもらいたかったのよ。わざわざ他の人に頼まなくてもいいじゃない、夫婦なんだからさ」

「気安く夫婦などと言わないでもらいたい」

 梅太郎は冷たく言い放つと、さっさと桟橋の先に行って尻をめくる。私は驚いていたのでしばらくその様子を見るともなしに見ていたが、途中で行為の内容に気づいて回れ右をした。そうそう、厠に立ったんだったものね。それにしても。

「ちょっと、梅太郎殿。何さ、怒ってばかりいて」

 後ろを向いたまま尋ねるが、梅太郎からの返事はなく、私の声はするりと上滑りしてから黒く冷たい川に沈むように消えていった。都に近づいているために空気がとても冷えていて、息を吸うたびに鼻やのどが痛いほどだった。冬の盆地には山の神が冷たい風を送り込んでくるので、とても寒いのだ。

「梅太郎殿?まだ桟橋にいる?もう終わった?振り向くわよ」

 声をかけつつ、私は後ろ向きで桟橋のほうに進んだ。濡れた草を歩んでいた足先が、ようやく桟橋の板にたどり着いたと感じた時、少しく平衡を失ってよろめくと、後ろからたくましい腕に抱きとめられた。

「気をつけろ。川に落ちたら今度こそ心臓麻痺を起こすかもしれない」

 梅太郎が私を後ろから抱えた。私はお礼を言おうと思って振り向こうとしたが、梅太郎の腕が腰にがっちりと巻き付いて離れない。厠を済ませたばかりの男ではあるが、私は背中から抱きしめられる心地よさに次第にうっとりとなってきた。

 ところがもう少し彼の方に体重を預けようとした途端、私は枯れた草原に投げ捨てられたのだ。顔まで倒れこまないようになんとか手を突っ張って頑張ったが、手足から伝わってくる地の冷気に体がしびれる。

 その上冷気のように冷たい声が、上から降ってきた。

「君は割とすぐに人に身を任せる。男なら誰でもいいのか?」

 梅太郎を見上げると、もともと細い目をさらに糸のようにしてこちらを見下ろしていた。

「な、何をたわけたことを言うの」

「ふん」

 そのまま私を残してその場を立ち去ろうとするので、私は大きな声を出した。

「私は、夫婦御供を誰よりもよく勤められるわ。夫以外の人には見向きもしないわ」

「夫婦御供に選ばれた男なら、誰でもいいんだろう?」

 間髪いれずに当たり前だ、と答えようとしたが、寒さのせいか胸のあたりがつかまれたように痛んだので私は言葉を飲んだ。

 梅太郎が二、三歩戻ってきて、手を差し伸べてきた。私もつられて手を伸ばしたが、直前になって彼はふと身動ぎして手を引っ込め、私の手は空しく宙を舞った。しびれている私の手はそのまま再度枯草にばたんと落ちていく。私の我慢もそろそろ限界である。

「俺がいいと言え」

 彼を睨みつけようと顔に力を入れたところだったが、梅太郎の言葉に面食らって中途半端な表情になってしまった。

「俺は優秀で仕事も抜群にできるし、容姿も良く健康だ。運動神経もいい。長く彼女がいなかったのは、仕事に没頭していたためであって、もてなかったわけではない。こちらの世界では俺の年で出仕を始めても大した出世は望めまいと言う人もいるが、俺だったら必ず成功することを、俺はあらかじめ知っている。俺ほどの男はいない」

「はぁ?」

 梅太郎ったら、オレオレと、なぜ自慢話を始めているのだろうか。年をとると男は自慢が増えると聞くが、急にそれが始まったのか?改めて考えてみると、以前から私たちの少ない会話のはしばしに、それとなくそのような気配はあったかもしれない。いや、それよりもしかし。

「俺を捕まえておきたかったら、相手が俺でなくてもいいような言動は控えるんだな」

 そう言うと梅太郎は私の手を乱暴につかみ、引き揚げて立たせた。

 私は勢いづいて立ち上がることになった。その場に立つだけで良かったが、私はその勢いであたかも重心を失った風に足をもつれさせ、再度梅太郎の腕の中に飛び込んだ。

「ねえ、梅太郎殿。あんたもしかして……」

「おい、あんたわざとよろけただろう」

 ばれているらしいが、それどころではない。私の予想が正しければ、

「私が最近もて始めていることに妬いているの?」

 私の腕を両手でつかむ彼の手に力がこもった。

 あまり表情を動かさない梅太郎だが、視線が泳いでいて明らかにうろたえているのが、無償に嬉しくなって、私は鼻を梅太郎の首筋に近づけ、彼の名前を呼んだ。我ながら、甘やかな声である。

「梅太郎殿。最近は、あなたの汗のにおいも甘く感じる。この香りは、桂芯というのだったかな」

「け、けいしん?」

「お薬の神様にお供えした、とても貴重な渡来のお薬よ。高貴な香りのする樹皮を乾燥させたものなの」

「木の皮……」

 梅太郎の手の力が弱まったので、私はするりと彼の腕の中から抜け出て、くるりと回れ右をした。

「仲良くしましょう。でないと神々が怒るわよ」

「神々か……」

 するとちょうど前方から在命が跳ねるような足取りでやってくるのが見えた。こんな場所で夫婦が抱き合っていたところを見られていたら気恥ずかしいが、都到着の前夜祭と称して酒を飲んでいるので、目がかすんで見えていないか、見えていても特段気にしないようだった。ほてった体からしゅぅしゅぅと湯気のようなものが出ている。昼間私を振ったことを気にも留めていないようで、ご機嫌らしいのが憎らしい。

 在命はそこらをきょろきょろと探しながら歩いていたが、やがてこちらの方に声を張り上げた。

「ちぇっ。適当なのがないや。おおい、梅太郎さんよ。籌木(ちゅうぎ)持ってる?」

 説明するのをためらわずにはいられないが、籌木とは、お尻についたうんちをこそぎ落とすへらである。

 梅太郎はちょうど手に持っていた木片を在命に投げると、また舌打ちともつかぬ音を出して、ぶつぶつと独り言を言いながら足早に小屋に向かって行ってしまった。「何が神々だ」というような不敬な言葉が聞こえた気もするが、聞こえなかったことにしよう。

 梅太郎の姿が見えなくなると、在命が私で暖を取ろうとするかのように距離を縮めてきた。

「梅太郎殿。いつも不愛想だけど、今夜もまた輪をかけて不愛想だね。照れ屋なんだろうね、彼。あ!ややや!」

 在命は木片を注視して大きな声を上げた。

「これ、梅太郎殿に返した木簡じゃないのよ。籌木にするなんてひでぇや!これ今あいつが使ったやつかなぁ」

 在命が舌打ちしながら木簡が使用済みか否かを検分しているので、私もつられて覗き込もうとすると、

「タキは見るなよ。俺が梅太郎殿へ書いた文なんだから。ほら、ちょっとした不満とか、嫌味とかをさ、ずっと不便な旅してるとたまっちゃうじゃない?冗談で書いたんだよ」

 在命は木簡を背後に隠した。

「悪口を木簡に書いたの?」

「いやいやいや、悪口っていうほどのものじゃぁ。ちょっとふざけてね。タキとのこともあったしさ」

「いやだなぁ。相手が楽しまなければ、それは冗談じゃないよ」

「お堅い夫婦だねぇ。だからついからかいすぎちゃうんだよねぇ」

「からかいすぎたと自分で思うなら、謝っといてもらいたいんだけど。最近梅太郎殿はご機嫌斜めと言うか、元気がないんだ」

「ふん、あいつの機嫌が悪いのなんて生まれつきさ。しかしタキも、偏屈の婿殿を持つと大変だね。俺はさ、あの変人と張り合うのが嫌になって、タキをあきらめたのさ」

 そう言うと在命は口の両端を引き上げた。へちまのような頭の形をしている在命だが、そうやって笑うと口もへちまのように大きく横に伸びる。

「ふふふ。在命殿は大きすぎる魚を諦めたんだな。まあ私はあなたのまな板には収まりきらないでしょうから、正解だよ」

「誰の事だ、大きすぎる魚って?年取った黒い(かはづ)しか見えないな」

「そう?でも蛙にしたって、醜いけれど声はとても美しいんだよ」

「言われてみればそうだな。ゆっぴぃがくれたやつは味も良かった。タキも試せばよかったのに」

「本当だね。かはづ嫌いは食わず嫌いというやつになってしまった」

「したり顔してるけど、たいしてうまいこと言ってないぜ、タキ」

 在命が声を立てて笑うので私もつられて笑ってしまった。


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