五節の舞姫 2
梅太郎は私を引きはがすでもなく、そっと私の背中を撫ぜた。背中にびりびりとしたしびれを感じて、私は慌てて身を離した。
「わ、私。ずっとお礼を言いたくて。たくさん助けてもらって、だからその」
梅太郎の眼鏡の奥で、濃紺の瞳が揺らめいている。お礼は今度落ち着いたときにきちんと伝えた方が良いだろうか。まずはこの雰囲気があるうちに今日のお勤めを済ますことである。
しかしこの端正な顔をした男に、果たして口づけできるかしら。間抜け顔の丸まろだったらできた。いつも口を牛額で汚している塩自や、おちょぼ口の大副だったら、ちょっとためらうけどそれが妻のつとめというのであれば、まあ大丈夫だと思う。けれど梅太郎は難しい。私の前歯の血で汚すにはあまりにも肌も美しすぎるし、何よりそろそろ心の臓が爆発しそうだ。
何を言っているアル、心臓は爆発寸前で止まる力が働くから、ちょうどいい感じになるネ。ダイジョブダイジョブ、女は度胸ヨ。私は目を閉じてぎゅっと口を彼につきだしたが、梅太郎の乾いた手のひらでぱしりと防がれた。
「ちょっと待ってくれ。今日はというか、今日もだけど、そういうことはできない」
「あ、はい……。そうですよね」
爆発寸前の心臓がぎゅっとつかまれたように締め付けられたのを感じた。私は俯いて前歯がなくなっているあたりを舐めた。
「いや、歯がないからとかそういう意味ではなくて。もっと根本的な問題だ」
ですよね。と相槌を打ちたいのが本音だけれど、それでは私の矜持が保てないので何も言わないでおく。というよりも、喉の奥がごつごつ痛いので何も話せなくなっている。
「俺は、きちんとけじめをつけたいと思ってる」
「けじめン」
「俺のことを心配している人がいる状態で結婚することはできない」
「かのじょとか?」
「彼女とか、家族とか友だちとか」
何度も繰り返されたこの話題ではあるが、その都度色々な思いが去来するものではある。しかしそれも心の内にとどめる。
「明後日の夜、元居た世界に帰る」
「へ?そうなの?」
近くすることは知っていたが、明後日とは初耳である。相応の準備も必要なはずなのに、宛木が何も言っていないということは、彼女も知らないのだろう。どこまでも思いがけない演出を狙うしゃらくさい神祇伯にしてやられっぱなしね、私は。
「またここに帰ってくる。正確には、帰ってこさせられるんだがな。だから、あっちに行ったときに、色々なことにけりをつけなければならない」
「え、でも、人間界にはこれからも年に一度は帰ろうと思えば帰れるわよ。三年後からはあなたが自腹を切って諸費用を負担することになるけれど。だから来年役職を頂いたら頑張って働きましょうね」
もちろん、絶間を使っての下界との行き来は危険を伴うから、毎回それなりの覚悟がいるだろう。だからこちらの世界に慣れればそのうち下界に戻りたいと思わなくなるのではなかろうか、というのが私たちの楽観的な予測である。つまり、心に反して色々なことに今けりをつけずとも、いずれ痛みもなしに忘れられるだろう。絶間を通る者の未練が薄まるにつれ、絶間も細くなっていずれは自然消滅する。そうして梅太郎はこちらの住人となる。
「俺はあちらの世界を失踪したことになっているだろう。周りの人に説明しないといけない。」
なるほど。それは確かにその通りである。なあなあにせず、関係各位に連絡をしたうえであちらの人生の終活をしてくるというが、几帳面で筋を通すのが好きな梅太郎のやり方なのだろう。おや?
周りの人間には恋人も含まれているようだが、つまり彼女との関係にけりをつけるとは、別れてきてくれるということだろうか?律儀者の梅太郎のことだ、恋人と別れたら、こちらで他に恋人を作ろうとせずに、私だけのものになってくれるということだろうか?
問い詰めたいのはやまやまだけれど、私と結婚しても恋人とそのままの関係を続けてもいっこう構わなくてよ、などと度量の大きいところを見せようとしてきた手前、あまりそこを突っ込んで訊くのも体裁が悪い。私はようやくしがみついていた梅太郎の首から手を離した。
「わかった」
次に会う時までには私の大人の歯が生えそろっていますように。とりあえず今日はまた、物語でもしようかしら。ああ、そうだ。言っておかねばならないことがあるのだったわ。でもあまりつんけんするといけないので、今日はやんわりした雰囲気を保たねばならない。
「梅太郎殿、蝕の日のお勤め以来、全然寄り付かなかったから、私としては少しこう、なんというか情緒に欠けるなあなんて感じてしまったわ。まあ身辺のけじめをつけるまでは妻に会わないと、そういう気持ちもわからないこともないし、誠意があっていいとさえ思うわ。でもさ、髪の奉納のとき、私は結構な重症だったわけじゃない?儀式の後にばたーんと倒れちゃったのも見てたんじゃないかしら?つまりさ、ともに窮地を抜け出した仲間として、せめて文で体調を聞くとか、もう少し心ある振る舞いがあったって良かったんじゃないかな、とそんな風にも思わないでもないわけ」
「忙しかったので」
梅太郎はぶっきらぼうに返した。
「そうよね。お仕事で忙しかったのよね。じゃ、この話はここでおしまいにしましょうか。志摩国はどうだった?おいしい海老があったんじゃない?」
私は知っている。梅太郎はどうも食べることが好きらしいのだ。
「新鮮な魚介はおいしいものね。美食家の梅太郎殿には嬉しかったでしょう」
「食い物など、二の次だ。役人の物見遊山的な内容ではあったが、一応仕事だ」
「ふふふ、とかなんとか言っちゃって、自分ものりのりで食べて、美しい采女候補にうつつを抜かしてたんではなくて?」
「一丁前にやきもちか?ご心配なく、采女候補とは何もなかった」
采女候補とは何もなかった?
「では他の女の人たちとは何かあったの?」
「何を急に」
「海女ね?そうでしょ。こんがり日焼けしていてかわいいなんて思ったんでしょう」
「なんなんだ、一体。思い出したくもない、あんな面倒なこと。何かあったって言うか……、しかしそれが仕事だと言うんだから仕方ないじゃないか」
「つまりあんた、たっぷり海女にもてなされたって、そういうわけ?そういえば、鼻の下がなんとはなしに伸びっぱなっしになってるわね」
「そ、そんなわけないだろう」
「それで何がけじめよ、汚らわしい」
「言いがかりだぞ。本当に忙しかったんだ。貝にもあたったし。君の方も、忙しいって聞いてたし」
確かに、大副が罷免されるにあたり、神祇伯の仕事の負荷が増えたうえ、十一月は新嘗祭が行われるのでそれの準備もあった。かつ明後日の梅太郎の里帰りのお膳立てと、神祇伯は八面六臂の働きをしていたということで、極度の疲労により先日牛車に乗り込むときに足を踏み外して転げていた。
「新嘗祭の準備ね。まあ幣帛に入れる短冊を切ったりしたけれど、私が手伝えることなんて大してなかったわ」
神祇伯は忙しかったけれど、私は暇していたのである。
「新嘗祭?」
「一年の収穫をお祝いする祭祀よ。宮中でもあるけど、全国の神々にも幣帛を送るから、それのお手伝いを申し出たの。私が神殿にいたときは、私たちこそがお祭りを切り盛りする側だったのよ。準備もしたし、舞も歌も神子たちがやるのは本格的で、宮中で行われる五節の舞なんて目じゃないんだから」
「へえ」
五節の舞は新嘗祭の後に行われる節会の饗宴で催される舞である。貴族の娘から四、五人の未婚の少女が舞姫として選ばれる。選ばれることは大変な名誉であり、普段外出できない姫たちの晴れの舞台だった。選ばれた姫たちは猛特訓を受けるのだが、常日頃屋敷の中でろくな運動もしていない姫たちのことなので、専門の舞踏集団と言ってもいい神子たちが日ごろ奉納している舞とは出来栄えが全く違う。所詮はわが子を自慢したい貴族の道楽、付け焼刃の姫の舞だろうと、神子たちは冷めた態度でこの話を聞くことが多い。
でも本当のところ、衆目の中、紫地綾の袿に蘇芳の唐衣、白地地摺りの裳をつけて、蔓のついた扇をひらひらさせ、歌に乗せて舞うという話を聞いて、皆内心では一度見てみたい、その舞台に上がってみたいと切望していたのだった。
「俺がいない間、宮廷でその五節の舞というのを見たのか?」
「まっさか。でもね、昔先輩神子で見る機会に恵まれた人がいて、その人が教えてくれたから詳しく知ってるのよ。私たちの方が百倍も上手に踊れるんですって」
「踊れるのか」
「もちのろんよ。でも本当の五節の舞と同じかどうかはわからないの。見たことないからね」
「そうか。ではやってみせてくれるか」
「今?」
「あ、まだ手首の骨が折れてるのか」
「骨なんか折れてたって、へっちゃらで踊れるのよ。なんせ元神子なんだから」
梅太郎は無理しないでいい、と言ったけれど、私はすでに扇を持って位置についていた。
本当は大歌所の人が歌う大歌に合わせて踊るのだが、私は歌も上手なので自分で歌いながら踊ることにする。ほほほ、とくとご照覧。かつて神殿一の神子と言われた私の舞と歌よ。
私が舞っている間、梅太郎は静かに座っていた。折れた手首で私が扇を振り回さないよう、見守るように見つめていてくれた気がする。途中からは舞と歌に夢中になってしまって彼がいることを忘れてしまったが、舞が終わってようやく彼のことを思い出した時、最初と同じ姿勢で放心したように私のことを目で追い続けていたので、私はとても満ち足りた気持ちになった。