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北風日記  作者: 小烏屋三休
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名見の指令続き

 とまあ、このような経緯があったので、口に詰め物をして眼鏡をはずせば本人とかけ離れた姿になって誰にもわからないだろうと、そう名見は言っているのだった。加えて白城野別邸はいわば師胡にとって臭いものには蓋扱いをしている場所で、面倒になった女だとか使用人を離縁できないまま詰め込んでいるところなので、師胡や師胡に仕える主要な家人はめったなことでは足を運ばない場所であった。なんというならこのままの姿でいてもばれないかもしれないということだった。

「白城野邸には遠の君にも行ってもらう予定です。彼女は大副に呪い殺されんとしています」

 師胡は名見が後見する遠の君を亡き者にし、夫婦御供が成る前にこれを失敗させ、名見を神祇伯から引きずり落す魂胆だった。梅太郎は夫婦御供の夫の座に据え置きで、師胡が神祇伯になったあかつきには新しく用意する妻の相手となるらしい。

「代々神祇官に務める我らとは違って、大副殿は藤原の家の方で、こう言ってはなんですが、半ば左遷のように神祇司へやってきました。昨日今日着任したばかりの人物では、絶間を開いて人間を呼び出すような複雑な段取りは整えられないのです」

 それに引き換え、神子を迎えるのは単純だった。この人、と見込んだ人物を神殿に依頼して還俗させる、事務手続きのみである。

「あの、神祇伯になると、それほど大きな見返りがあるものですか」

「いいえ。彼は自尊心が高いので、年も若ければ家格も低い私の部下に甘んじている今の状況が気に食わないという、ただそれだけで私を破滅させたいように思います。大副殿はご身分が高いご家庭の出なので、今のしがない大副職に憤慨しているのでしょう。性格に難があるため、この先も大した出世はなさりますまい。本当に乱暴で、神祇官内でも傷害沙汰を二月に一度は起こすのですから。本当に、やめてほしい……」

 これなんて、喧嘩の仲裁に入ったときに怪我させられた傷、と言って名見は袴をめくって脛を見せた。治りかけているのかもしれないがほんのかすり傷で、大した怪我ではなかったので、梅太郎は曖昧にうなずいた。

「はあ。しかし命を狙われているなら、なぜわざわざ大副の別宅に行くんですか。違うところに隠れた方が安全ではないですか」

「それには呪詛というものの性質が関わっているのです。呪詛を仕掛けると、その呪詛は最初雨のように降り注ぎ、やがて対象者を見つけるとそこに集中して向かっていきます。微弱な毒の雨のように都中に降り注いで対象を探している間も、祈願者自身の屋敷は探索範囲の外となるので、呪詛の雨は祈願者には害が一切及ばないようになっているのです。だから呪詛者本人の家にいれば、どこにいるより安全なのです」

「しかし、俺は狙われてないんでしょう。遠の君だけ行ってればいいじゃないですか」

 名見は口の中で何かつぶやいているようだったが、梅太郎が再度、

「俺が行くべき理由がなければ、行きませんよ」

 と言うと、

「ひいてはあなたのためになるのですよ。先輩風を吹かさせていただきますと、妻が幸せであれば、夫にも平安が訪れるというものですよ」

 と答えた。

 鼻白む梅太郎をよそに、名見は庭に咲く白と赤紫の貴船菊に視線を移して、目を細めた。

 豪華な師胡邸や質素だが手入れされている名見邸と異なり、毛藻の屋敷は草花が奔放に美しく生えていて、野趣に富んでいた。

「遠の君はお役目一途にあなたと結婚せんと気張ってはいますが、やはり胸の内には、婿となる殿方と結婚を前に恋のやりとりをしてみたい、という、女人らしい柔らかい思いがあるのですよ。ですから潜伏先についたら遠の君にだけは身分を明かして、二人で親睦を深めていらっしゃればいいと思いまして」

 それに続く名見の話によれば、遠の君は自分ではなく、梅太郎の命が狙われていると思い込んでいるらしい。そして梅太郎を救うべく呪詛状を奪い取ってこい、と名見に言いくるめられたのだ。梅太郎は眉間にしわを寄せた。

「呪詛状を取ってこいと言ったのは余計でしたね。無茶するに決まっています」

 これに名見は何か返答したが、声が小さすぎて聞き取れなかった。たくさん話して疲れてしまったのか、名見はしんみりと肩を落としている。その薄い体を、梅太郎は見つめた。以前から思っていたが、名見はその外見が梅太郎の高校の友人に少し似ていた。

 自分と友人のあだ名はともに石鹸だった。それは学校の手洗い場に、ネットに包まれてぶら下がっていたクリーム色の石鹸に由来する。生徒たちは通常、手を洗う際は壁面に据え付けられたハンドソープを使った。洗い場に放置されたまま更新もされず、顧みられることもない石鹸を唯一消費するのはこの友人だけで、それゆえのあだ名だった。友人は石鹸を使う自分をどうしてか誇りに思っていたようだった。最初は理由もなく使っていたようだが、いつからかハンドソープが人間にとって有害であり、これさえ使わなければ日本人は二十年寿命を延ばすことができると独自の説を唱えだした。

 梅太郎はハンドソープ派で、この化石じみた石鹸を敢えて使うことはなかった。ところがこの友人と親しいからか、梅太郎もいつの間にか石鹸(ツー)と呼ばれていた。もしかすると、一度だけほんの出来心でこの石鹸を使ったところを、目ざとい誰かに見られたせいかもしれない。

 遠い昔の話である。社会人となって久しい今では、彼のことを石鹸2と呼ぶ人間は周囲にいない。

 梅太郎は心の中で名見のことを石鹸(スリー)と呼んでいた。友人にたたずまいや顔つきが似ているのもあるが、懐から小豆のようなものが入った小袋を取り出して、手でこするようなしぐさをしているのをよく見かけるのである。もしかしたら本当に石鹸代わりのようなもので、名見は潔癖症という可能性もある。そう考えると、いかにも細かいことにこだわりそうな顔つきをしている。

 石鹸たちは使うたびに摩耗されていくという定めにあるからか、自分を大きく偉大に見せることに腐心していた。梅太郎は当時、身長や体重をより大きい数値へと詐称していたし、友人は人生経験を多く、偉大な人物に見せるため、奇妙で古風な言葉遣いで喋った。おぬし、もう学問は終わりか。帰参するならわが城にきませい、などと言うのだ。城というのは彼と彼の母親が住む十畳一間のアパートのことだった。

 石鹸はこの大げさな口ぶりで、一日中よどみなくしゃべり続けていられた。特に異性を前にすると、石鹸の舌は翼を得た。その話は多分に法螺と、相手にとって大きなお世話だと思われるものを含んでいた。

 石鹸3も元祖石鹸のようにいろいろと話を大きくしていくうちについ口が滑ったのかもしれない。あるいは深い考えが横たわっているのかもしれない。とにかく、遠の君にとっては呪詛状探しなんて余計なことだ。このまま一人で潜伏させてはあの人物だったら必ず無茶をして、怪我でもしかねない。

 本意ではないと不満げに鼻を鳴らしながら、梅太郎も師胡別邸に行かざるを得ないのだった。



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