三人酒
初夜が首尾よく済まなかった翌日、梅太郎は藤原師胡に伴われて神祇伯邸を訪れた。この神事の責任者から婚儀の重要性について言い含めてもらうということだった。梅太郎は行きたくないかったので、体の調子が悪いと言い訳をした。当然このときも取り合ってはもらえず半ば力づくで神祇伯邸に連行されたのだが、せめてもの抵抗として梅太郎は師胡から支給された狩衣をまとわず、元の世界から着てきたショートパンツにパーカーといういで立ちを貫いた。
この訪問で師胡は、梅太郎後見としての自分の監督不行き届きを謝るでもなく、横柄に神祇伯に挨拶をしたきり黙り込んでしまった。やがて名見がぽつりぽつりと神事について話し始めたのを、一同は静かに聞いていた。
名見の話が一通り終わると、師胡はじろりと梅太郎をにらみつけ、顎をしゃくってみせた。梅太郎に発話の順番が回ってきたらしいが、一体何を言えというのだろうか。名見の方も梅太郎が話し出すのを待っているような風情だった。どうやら、二人とも梅太郎が自発的に己の不甲斐なさを陳謝すべきと考えているらしい。
梅太郎としては自分は暴行拉致の上、強姦の強要をされた被害者であるので謝る筋合いもないと考えていた。そのためその場はひたすら沈黙に満たされるだけとなった。我慢ができなくなった師胡が扇で梅太郎の肩を切り上げるように叩いた。その鋭さたるや、本当に刃物で切り付けられたような痛みだった。
腑に落ちなかったのは、顔つきから判断して道理をわきまえていそうな名見でさえも、婚儀が成し遂げられなかった非は梅太郎にあるかのようにかまえていることだった。
「それでは、何度も聞くが、お主は男女の営みについて知らぬというわけではないのだな」
師胡は折れてしまった扇をつまらなさそうに床に置いてそう言った。
人払いされた部屋で男三人膝を詰めあってなんの話だ。冗談じゃない、と梅太郎は目をむいたが、続けて師胡が男女の営みの詳細を話し出すと、ついつい聞き入ってしまった。身なりは派手だが決してハンサムというわけでもないのに、さすが三十代の花盛りの貴公子というべきか、経験豊富で話が実に興味深い。学ぶところが多かった。
「どうだ、人間もこのような感じか」
「ま、そう……、ですね」
「それで、あなたの体に何か不具合があるというわけでもないのですね」
名見も食い気味に割って入る。
「俺は健康そのものです。できる男は健康管理も万全なんでね」
「ではなぜ」
名見と師胡が、同時に同じ言葉を発し、お互い心底不思議そうに顔を見合わせている。
「なぜって。普通そうでしょう」
急にあてがわれた相手、しかもあまり協力的でもない相手と、どうやってそんなことになるのか、逆に梅太郎が聞きたいくらいだった。
「我らが人間と男女の仲になれないように、人間も人のことを受け入れられないと、そういう意味か。人間のくせに、選り好みするとは生意気な。あの娘とは特別にやっていいと言っておるのだから、黙って従え」
「まあまあ。そんなに責めては気の毒です。昨夜は絶間越えの疲れや戸惑いもあったでしょうし、なかなか思う通りにいかなかったのかもしれません」
「神祇伯殿。この男には精が出るようにと貴重な血の煮凝りも与え、少しでも乗り心地がいいようにと、私の網代車に乗せてやったのだ。賊に襲われ、半壊しましたがな」
苦々し気に師胡が名見を見やった。名見は慌てて床板に手をつき、
「それは誠に申し訳ない。景気づけと思って若い衆にやらせたのですが、やりすぎました」
と頭を下げた。
「挙句、景気づけどころか怖気づかせたというまさかの結末だったがな。肝から何からすべて縮み上がってしまったと。神祇伯殿、これはつまり、腑抜けた初夜の責任はあなたにあるということだ。いやはや、神祇の歴史にこのような体たらくな夫婦御供があっただろうか、いやないだろうな。さてさて……。それはそうと、網代は耳をそろえて弁償していただけるのでしょうな。来月は行事が立て込むので、是非とも網代が台数そろっていないと困る」
名見は急に蒼白になって、床についている手を震わせた。
「それは、ちと」
「なに。責任がないと言いますか」
「責任はあるかもしれませんが、あのような高価な車となりますと、いささか」
「これはなんと無責任な」
昨晩乗っていた車が賊に襲われたというのは、名見の演出であったらしい。梅太郎が乗り気でないことは知れていたので、夜盗から辛くも逃れた直後の猛った勢いで結婚を済ませようと、そういうことらしかった。この世界の人々は、やることが無茶苦茶である。
師胡は縮こまっている名見を小気味良さそうに見下ろし、大儀そうに替えの扇で自分の肩を叩いた。
「まあ弁償についてはおいおい話すとするか。今日はまだ第二夜がこれから続くのだからな。そうそう、その二夜が訪れるのか、どうかだ」
師胡が梅太郎に向き直ると、名見は明らかに安堵した様子だった。
「確かに、伯の後見する娘にも多少は人離れした箇所があるにせよだな。暗闇の中では大して気になるまい。どうしても気になるなら、袋をかぶって目と耳と鼻をふたいでことに望めば良い」
「あの、袋姿はさすがに相手を傷つけませんか。そこまでせずとも、頭の中で違う女人のことを考えてことに望めばよいのです。要は想像力です」
名見が遠慮がちに言うと、師胡は冷たい視線を投げかけた。
「人間にそのような想像力があるものか」
「無理なら仕方ない、大副殿のおっしゃるように袋をおかぶりなさい」
梅太郎は眉間にしわを寄せて、同じことを繰り返すのみだった。
「相手の問題じゃありません。知らない人といい加減な結婚はできないと、こう言っているんです」
またしも師胡は解せない、という表情をし、名見も少し卑屈そうではあるがさも不思議と言わんばかりにどんぐり型の目を動かし、師胡と顔を見合わせるのだった。梅太郎にしてみれば、二人のこの無理解こそが理解不可能だった。
「ああ、未経験なんですね」
しばらくしてようやく合点がいった、というように名見が目を見開いた。常ならず声が大きくなっていた。梅太郎が黙っていると師胡は、
「やはりそうか。そうではないかと私もうすうす感づいてはいたのだ。この朴念仁め、お前はいったい齢いくつだ。それとも人間界は女不足か?まあ今から急ぎ帰って手近なものに筆おろし指南させよう。大丈夫、怖くないんだよ」
「いや、そうじゃないんです」
「そう、大丈夫。練習しなくたっていけるものですが、練習しとけばなお大丈夫です」
早速腰を上げようとする二人を前に、梅太郎は慌てて手を振った。
「わかった!わかりました。こほん、経験はその、あります」
「ほう。では人間の女はどんなものか、つぶさに言ってみよ」
「誰か硯箱をここに」
「一つも省くなよ。省いたら殴る」
「ささ、大副殿を怒らせぬよう、しっかりお願いしますよ」
二人の貴族が異様な熱気をまとって迫ってくるので、梅太郎はたじたじとなって汗を滲ませた。間もなく名見の侍女が持ってきた紙と筆を用いて男三人が頭を寄せ合って話すうち、湧いたように酒が出てきて、宴会になった。そうなるともうてんで無礼講、大声で怒鳴りあったり、声を合わせて笑ったり、かと思ったらしんみりと泣きぬれたりしてもはや収拾がつかなくなった。
そのどさくさに紛れて、梅太郎は遠の君を喜んで妻とすることを何度も承諾させられそうになった。名見と師胡、特に名見がしつこく絡んで言わせようとしてくるのだ。
宴も半ばになると距離を置いていた師胡も次第に梅太郎に触れてくるようになった。至近距離でパーカーのチャックを上げたり下げたり、煩わしいこと限りない。パーカーを脱いだら脱いだでTシャツをぺろぺろとめくってくるのだった。
辛くも諾を言わされるのは避けたような気もするし、もしかして一度くらいはもちのろんで結婚しますと言ったかもしれない、なんとも要領を得ないままに宴会は幕となった。疲弊したのと、酒に強くはない梅太郎にはきつい濁り酒だったのとで、おぼつかない足取りで車まで歩いた。
帰る前に用足しに樋殿に行くはずが、酩酊しているためにうっかり道に迷っていると、ばったりと遠の君に出くわした。遠の君は広縁に四つん這いになって、副障子と呼ばれる腰高の屏風を食い入るように見ていた。夜闇の中で一度しかあったことがないのに、梅太郎にはそれが遠の君であることが不思議とわかったのだが、本当にこの人物が姫であるのかと疑いたくなるほど、その姿は想像する平安時代の姫とかけ離れていた。色白でもないし、髪も思っていたより短い。優雅さとはかけ離れていて、奇怪なほどに熱心に屏風を覗き込んでいる。それからこの時代の人々というのは梅太郎の時代の人々よりも小柄であると考えていたが、ずいぶんと背が高い。
観察したい気持ちもあるものの、気づかれては面倒なので踵を返した。しかしすでに自分の姿が見つかっていたらしく、やや経ってから人探し顔の宛木を見つけた。そこらの者にまさに梅太郎のその日のいで立ちを説明しながら、その男の行方を問いながらうろついているのだ。
見通しの良い庭の真ん中で逃げ場もなく、最後のあがきで早秋咲きの椿のつぼみをいくつか口に詰めこんだ。それからポケットに入っていたセロハンテープで目元の形を変えた。別人の振りをするべくした試みだが、詰め込んでから椿には毒性があったかどうかが気になった。いや、確か椿のつぼみからは椿油など有益なものがとれるため、そのものには毒性がない、椿が引き寄せる茶毒蛾がよく人をかぶれさせるのだ、と思い直し、梅太郎はふっと息を吐いた。
そんなことを考えている間に宛木がすぐ近くまでやってきたが、どうやら端から自分が追っている男が遠の君の婿であることに気が付いていないようだった。ということは、遠の君も自分のことを梅太郎とは気づいていなかったらしい。ではなんの用かというと、珍妙で貧相な衣をまとっている者を哀れに思い、施しをしたかったらしい。宛木は古びた水干を手渡して何か恩着せがましいようなことを言い、さっさと戻って行ってしまった。貴族の間にはやっている、慈善活動の一環のようだった。
その晩の太宮の火事により婚儀が延期となってから、大副の用事に伴われて再度名見邸に行くと、また遠の君に呼び出された。呼び出されるたびに梅太郎は背中の毛が逆立つような、妙な緊張が走るのを覚えた。このときも梅太郎は玉砂利をとっさに口につめ、眼鏡をはずして別人のふりをすると、遠の君はころっと騙された。梅太郎としては自分は瞬時にして遠の君を見分けられたというのに、幾分裏切られたような感じもしたが、一番印象的であったのは手もなく騙される相手の単純さであった。