名見の指令
その日の午後、梅太郎に客があった。神祇伯の名見教資であった。神祇伯とは梅太郎がこの世界に現れた当初、即ちかなぐり抜きの儀の際と、その後に神祇大副である藤原師胡に伴われて二度ほど神祇伯邸を訪ったときに顔を合わせたことがある。やせた肩を狩衣に包み、不健康そうな顔色の男だったが、会うたびに梅太郎の方が体の調子を心配された。どうも名見に会う時は梅太郎も相当疲労しているときらしい。
「今日はいつもよりも体の調子が良さそうですね」
そう言ってきた名見の方は相変わらず土気色の肌をして疲れが見えた。腎臓を患っていた梅太郎の伯父も、このような顔色だったことを思い出す。
「本当はもっと早くこちらへ伺いたかったのですが、申し訳ない」
山中で名見配下の者に見つかり、大副邸に戻らずに毛藻の邸に行くと明かされた際、見知らぬ男から一通りの説明は受けた。
「そろそろあなたの安否を大副殿に教える潮時かと思いましてね」
そうなると、元いた師胡邸に戻ることになるのだろう、と梅太郎は考えた。
「おや、残念そうですね。ここは居心地がいいですか」
確かに毛藻の邸は梅太郎にとって大副邸よりは居心地がいいが、肯定したくはなかった。自分にとってはこの異質な世界のすべてが居心地悪いのだと伝えたかった。
黙っていると名見は続けた。
「ふふ。戻りませんよ。あなたには違うところに移っていただこうかと思ってはいますが。大副殿には、無事に見つかったことをお伝えするだけです」
元の世界に返してくれるのでなければ、神祇官のごたごたから多少は距離のおける毛藻の邸にいることが一番良いような気がしていたところである。ただ、この世界には梅太郎の意思を尊重してくれる人などいないのだ。梅太郎がどう思っていようと、どこか違う場所へ移動させられるのは変えようがないのである。だから名見も行ってもらえますかなどと相手の都合を伺う形式ではなく、すでに決定したように話すのである。梅太郎はそれでも抵抗の姿勢は崩すまいと、姿勢を正した。
「いや、人間界に返してください」
「おやおや。まだご決心がつかないのですか。大丈夫、あなたから聞いた話では、こと男女の仲については人間も人もやることは同じ。初めてだって何のその、臆することはありませんよ。本能に従えばいいのです」
「そこを心配しているのではありません。仕事もあるし、健康のため毎日チーズと牛乳とレーズンを食べるよう医者に言われているので」
「婚儀が終われば、里帰りと言って一旦絶間を開いて人間の世界に返して差し上げる予定になっております。さてさて、本日のお話ですが、単刀直入に言いますと、大副殿の別宅に行っていただきます」
「大副の、別宅」
「そう、別宅です。今まで梅太郎殿が起居していたところは本宅です。大副殿は摂関家に連なるお方ですから、各地にお屋敷を所有しています。そのうちの一つ、白城野のお屋敷は釣り殿に趣があると有名です。なんでも南都の増臨寺から強奪してきた材木でできているとか。そこに、あなたは身分を隠してひそんでらっしゃい」
「な、なぜわざわざそんなことを。身分を隠したって、すぐにばれるでしょう」
「変装していれば大丈夫ですよ。私の屋敷で、遠の君に会ったときのように」
名見はにやにやと笑った。それはこの世界に来て三日目のことであった。