丸まろの教え
詰所にはまだ丸まろがいた。私が先ほど書いた文を枕にして寝こけている。なんという怠惰。許せん。許せんが、もはや怒ったところで文が届くわけでなし。それにここは職場である。冷静に、やんわり注意すべきである。
「あ、丸まろ。まだ帰ってないみたいだけど、神祇伯様のお屋敷には行ってくれたよね?」
「あ?行くわけねえだろ」
「文を頼んだじゃないか。何か行けない理由があったの?」
丸まろは大きなため息をついた。
「仕事でもないのに、わざわざあんな遠いところに文なんか届けるわけねえだろ、ぼけなすが」
我慢、我慢。我慢の油の油売りの油すまし汁こにうむ。私の滝石はこんなことでは怒らない。ところが、丸まろの方は続けて、
「ぼけなすのあほんだらのぷーたん」
と付け足した。なめき奴。最後に、
「どどんぱ」
と奴がいったとき、とうとう私はやつの前に仁王立ちになって、肩をぐいっと押した。
「言い方考えろよ、丸まろ」
丸まろは肩を押されてもたたらを踏むでもなく、逆に私の手首をつかんだ。自分が怒っていたので、相手がこのような対応に出る可能性をまったくもって予想していなかった。しかも丸まろのくせに結構力があるようだし、本気で怒っているようなのだ。その鋭いまなざしに、私は自分の輪郭がぼやけてしまうような気がした。なんなのよ。肩を押されたくらいで怒るなんて、器が小さいんじゃないの。と心の中で罵倒する一方で、認めたくないけれど、丸まろを怖いと思ってしまった。
「滝石。人にものを頼むときに、そいつを蹴りながら命令しろと、お前の母ちゃんはそう教えたのか?」
「……。なんの話だ」
「お前、さっき俺のこと蹴っただろう」
そういえば蹴った。蹴って「届けとけ」と横柄に言った。もしかすると「届けるくらいできるだろう、うすのろ」くらいは言ってしまったかもしれない。
でも認めたくなかったので、私は苦し紛れに、え?そうだったっけ?という顔をした。すると丸まろも、え、蹴ってなかったっけ?と少し意外そうに目を広げた。丸まろは嫌な奴だが素直なところもあるので、こうやってだまそうと思えばできないこともないのだ。それ、もう一息。
「嘘?そんなことしたかな。覚えてないや。でも蹴ってたらごめん」
私は目を伏せ、声が震えないように努力した。すでに先ほどの丸まろの威勢に委縮しきっているため、しらばっくれながら謝ることしかできない自分を、情けなく思う。
「お、おう。気のせいだったかな。こっちこそごめん、なんか」
「いいよ、もう。俺が悪かったの」
「いったい、何の文なんだよ」
「言えないけど、大事な用なんだよ」
「ふぅん」
「俺は分天寺に用事があるから行けないの。丸まろ、今からでも行ってくれる?」
「うん」
丸まろは鼻を鳴らしながらも文を拾い上げ、はじめはひょこひょこと跳ねるように、それから詰所の角を曲がるときには大股になって、逸散に駆けていった。これで神祇伯への知らせは達成されるであろう。
それにしても、なまけてばかりの丸まろがあれだけ威圧的に変貌するとは、娑婆の男というのは恐ろしいものである。すっかり驚いてしまったではないの、もう。私は滲んだ涙をそっと拭いた。でも本当に私が悪かったので、今度からは頼み方に気をつけよう。
今回の丸まろへの頼み方にも表れていたように、私は少々調子に乗りすぎていたのだ。
なぜなら、久方ぶりの自由は、本当に楽しかったからだ。
数え七つで神殿に入って以来、これほどの自由を感じたことはなかった。今この大副邸では仕事はあるけれど、それが終わればどこへ行くのも、どこまで行くのも、すべて自由である。走るのも、大笑いするのも、買い食いするのも、干し魚のかけらや芋のつるをかじりながら眠りにつくのも、なんだってできる。そうそう、蒸し栗、というおいしいお菓子が売っていたのでこれを買ったところ、見事にはまってしまった。もっとも、殻をむくときに手元を誤り、殻が爪の間に入ってしまっていてこれがとても痛い。もはや新たな栗を剥くことがかなわなくなって、その流行が一旦止まっている。実際、筆を持つのも痛いくらいだが、爪を一旦押し開いてこの殻を除去することは痛すぎてできないのである。この怪我と、まあ梅太郎の進退を極めている呪詛の一件を除けば、仕事を終えた私は野に放たれた鳥のように軽やかである。このまますべてから逃れてよその国へ行ってしまおうかしら。
この解放感が、私を大胆にさせ、なんでもかんでも無礼講にしてしまった。
さらにその大胆さが、適当に行動しても万事うまくいく、自分にはその力がある、というような誤った自信を与え、私は単身、何の作戦があるでもなく分天寺に乗り込んでしまったのである。分天寺にさえ行けばなんとなく呪詛状を手に取れるだろうと甘い考えのまま。私の無作法に対する丸まろの怒りを真摯に受け止め、自分の軽率な態度を反省する機会があったのにも関わらず。
その結果が、次のようなこととなったのである。