梅太郎の行方
その日、妹である中の君は、太宮で知り合った五条の姫のところに遊びに行くという体で昼前に大副別邸を出た。ところが牛車に揺られている途中で先方から文があり、本日は具合が悪いのでお会いするのはまたの機会にしてほしいという知らせが入る。
ほぼ毎日を邸の中で過ごす貴族の姫たちにとって、たまの外出は大きな楽しみである。これを逃せばまたいつ外出できるかもわからない、せっかく出てきたのだから、と中の君は近くにあった神祇伯邸にいる年の近い姫君、即ち遠の君たる私を訪ねることにした、という経緯だが、実はこれは中の君自身が仕組んだ偽の文で、そもそも五条の姫とは会う約束もしていなかった。
というのも、大副が内心敵対視している神祇伯の邸なぞは到底素直に訪ねることができないので、わざわざ五条の姫という隠れ蓑を用いねばならなかったのだった。
さて、神祇伯の邸を訪ねると、ずるそうな顔をした出っ歯の女が出てきて、遠の君の体調が芳しくなく、面会ができないと言われた。
「少しだけでも良いのでお会いしたいのです」
中の君は粘ってみた。
「と言われましても、とてもお体のお具合が悪うございましてね」
「浜名守の娘が来た、とお伝えいただければ遠の君様もお会いくださるかもしれませんので、お伝えいただくだけでも」
「と言われましても、申し訳のうございますがね」
すげない対応で、取り付く島もない。出っ歯のせいか、少しにやついているようにも見える。もしや、こちらが田舎の姫なので侮っているのやもしれぬ、と相手の歯をぎりぎりとねめつけた。
そういえば姉は昔、中の君がふざけて投げた石を顔面で受け、前歯が二本とも砕けたことがある。二人で大泣きして家に帰ったものの、折れたものをどう処置できるわけもなく、そのまま神殿に取られるときまでずっと前歯を欠いたまま過ごしていた。いつだって間の抜けたところのある姉だったが、特にそのころは面白おかしな顔であった。
しかし前回会ったときはきちんと歯がそろっていたから、あの後、無事に大人の歯が生えてきたようだ。幼い子供の遊びの中で起こったこととはいえ、中の君の投げた石のせいであったので気に病んでいたが、生えてきて良かったわ、などと思いつつ、あれこれ言いながら時間稼ぎをしていた。時間が経てば相手も根負けするだろうと思ったのだ。しばらくすると案の定大内裏から神祇伯が帰ってきたようで、
「されば」
と言い、伯自ら遠の君のいる干滝殿へと案内してくれた。
ところが干滝殿についても、誰も出てこない。御帳台を取り囲むように紙垂がひらひらと揺れているばかりだ。中を覗いてみると、遠の君がいるような、いないような、なんとも言えない気配がする。何かしら、これ。
不審に思って神祇伯を振り返ると、笑みを浮かべながらこちらの様子を窺っている。目をこすりこすりもう一度御帳台の中をのぞくと、畳の真ん中に、小さな紙の人形が置かれていた。どうも、この紙を見る角度によっては、遠の君がそこにいて、さらにはしゃべっているようにさえ感じる。でも目を凝らすと、それはやっぱり紙なのだ。
「面白う……ございますわね」
「そうでしょう?」
中の君はその笑顔を見て、神祇伯は大副よりも食えない男であると感じた。姉がこんな男と暮らしていることを、頼もしいとも思う。一方で、単純な姉が騙されていやしないか心配なような、複雑な気持ちだ。幼いころから俗世間を離れていた姉はなんと言っても世間知らずだし、俗世間にいるときすら、憂き世に馴染まない人だと感じていたくらいなのだ。
中の君は大副の悪だくみについてすでに知っていた。彼女は何でも知っていたのだ。
中の君の祖父は郡司であった。しかし領地は実入りの良い土地ではなかったし、父の代になってもしばらくは羽振りが良くなかった。いかにも姫君のようにかしづかれるようになったのは、つい最近の話だ。
父は姉と同じで浮世離れしていて、村でも存在が浮いていた。中の君は実母と息を合わせて父を守り引き立てながら、しっかりと地に足をつけて暮らしてきたのだ。大切なところで間が抜けたことをしでかす父であったので、領地を実際に切り盛りしてきたのは、ほとんど中の君である。これが彼女を人一倍逞しく、姫にしては世間知に長けた女性へと成長させた。
中の君はこの逞しさと、生来の噂好きな性格から、神祇大副に関する情報をくまなく収集し、日々の無聊を慰めていた。田舎とは違い、都の邸にはさまざまな謀があるので、噂も多彩である。ここに来てからというもの、彼女は本当に生き生きとしていた。そして常より研ぎ澄まされた嗅覚をもってして、大副が自分を口説くときにうっかり口を滑らせている内容をつなぎ合わせ、陰謀のほぼ全容を掴んでいた。
遠の君から自分宛に届く文はこっそりと大副が目を通していたが、中の君はもちろんそれを見て見ぬふりをした。大副が血眼になってすべての文に目を通そうとするのを、面白がっていた。もっとたくさんの人が大副を大変がらせるために文を書けばいいと思っていた。ただ姉の文は少々うかつに過ぎるきらいがあり、今回の訪問では厳しく注意する予定であった。大副は姉を狙っているのだ。夫婦御供から廃するために亡き者にするか、ぼろぼろにさせて自分専属の神子にせんと企てているのに、姉は危機感が薄すぎると。しかしその肝心の姉が紙切れになっているとは、どうしたことか。
辺りを見回すも、どこに姉が潜んでいるわけでもなさそうだ。開け放された塗籠の中も見えるが、誰もいない。二階厨子には飾るように文が立てかけられていて、これがなんと神祇大副からの恋文のようである。人から見える場所に飾るなんて、よっぽど文をもらいつけない田舎者のやり方だ、と中の君は情けなく思った。ずいぶん昔に呼んだ物語で、そういう話があった気がする。浮かれて自慢したいのか、すげない梅太郎に見せつけて少しは焦らせてやろうという魂胆なのか、いずれにしてもいけてない女丸出しである。
文を凝視していると、神祇伯も中の君が何に注目しているのかに気づいた様子である。
「中の君も目が良くお見えでいらっしゃいますね。お血筋でしょうか。私などは、その位置からはそこに文があることさえなかなか気づかなかったものですが」
「本当に、ふつつかな姉でお恥ずかしゅうございますわ」
「いえ。姉君様は、おっしゃることもなさることも、本当に素直でおかわいらしい」
「では姉上はこちらにいらっしゃらないのですね」
姉は梅太郎同様、陰陽寮の博士のところに身を寄せているのだろうか。いや、梅太郎はそのようには書いていなかった。
実は中の君には、梅太郎から消息を知らせる連絡がひそかにあったのだった。
というのも、大副邸にいる間、中の君は梅太郎への興味を隠しきれず、しょっちゅう呼び出したり、文をやらせて下界の話を聞いていた。もちろん、大副の手前おおっぴらには呼び出せなかったが、大副やその周りの者たちを出し抜いて情報を集めることなど、中の君にはたやすいことであった。そして今やこの世界随一の下界通となった中の君は、色々教えてくれたお礼代わりに、下界へ通じる絶間が間もなく閉じることを彼に吹き込んだ。またそこまでの道筋を教えたのも、旅立ちの準備を手伝ったのも中の君であった。
その計画が失敗に終わると、律儀な梅太郎は、神祇伯の手配により陰陽寮は天文博士の邸にその身を寄せていることを、一連の逃亡援助をした中の君に文で伝えたのである。もちろん、あけすけにことの仔細が書かれているわけでもないし、文の寄こし方も周到で、大副の目を通させないような功名な工夫がされていた。さらに言うと、この世界に来た当初は筆の持ち方さえ危うい感じであったのに、すでにかなりの筆遣いになっているし、言葉選びにも問題がない。天文博士のところでよく勉強しているのだろう。それにしても、人間ずれにしては梅太郎という者はよほどできる男らしい。中の君はひそかに舌を巻いたのだった。とはいえ、しょせんは人間だ。
「神祇伯様、お答えくださいませ。姉はどちらにおりますか」
「敵をだますには身内からと申します。遠の君様はあなたと同じ、神祇大副別宅にいらっしゃいますよ。姿を変えて、ばれないようにして。燈台下暗し、というものですね」
「なんと無謀なことを。そんなことをなさってどうなさるおつもりです」
「無謀といえば中の君、あなたもでしょう。この世界で右も左もわからない梅太郎殿を、遠く離れた馬五井山まで一人で行かせるなど」
「梅太郎殿ご自身が帰還を望まれているのです。それを少しお手伝いしたまでですわ」
梅太郎が下界に帰ろうが途中で野垂れ死のうが、中の君にはあまり関係がなかった。それでこの夫婦御供がだめになり、姉がお役目から解放されるのであれば、むしろその方がいいような気さえしていた。姉はまた神殿に戻るなり、自分と一緒に浜名に戻ってもいい。世間体はひどく悪いが、人間と結婚するよりはいいだろう。
神祇伯は咳払いをひとつすると、じり、と中の君の方に寄った。
「都大路をどう思いましたか?」
「え?」
「遠江から参られて、この都の道をどうお感じになりましたか」
「あ、ちょっと臭うと思いましたわ」
都大路には家々から出た汚物、物乞い、行き倒れの死人などが好き勝手に放られていて、不衛生である。中の君の住まいしている国は今では豊かなので、行き倒れはきちんと世話するし、死ねば埋葬されるが、ここでは放置されたままであるので、外を歩けば毎回何らかの死体を目にすることになる。
もちろん都でも徐々に改革は進められていて、邸から出た汚水、汚物は専用の水路を使うことになってはいるが、まだその水路の整備が未完な部分もあり、捨て方の改善は徹底されていない。また孤児や身寄りのない人、行き倒れ人の救済のために悲田院という施設が昔からあるのだが、昨今はすっかり荒廃していて機能していない。
「梅太郎殿が人間界に帰り、この結婚が万が一ご破算になったとします。その結果、遠の君が夫婦御供のお役目から更迭されると決まった場合、彼の方はどうなるとお考えですか?」
じりじり、とまた神祇伯がにじり寄った。伯から無数の影のようなものが発されて、こちらに忍び寄ってくるような気がする。彼の鼻の毛穴まで見えるが、その毛穴一つ一つからも細かい何者かが顔を出し、こちらを窺っているような気がする。
「そうです!」
ぴしゃりと扇を打って神祇伯が言った。
「え?まだ何も申し上げてな、」
「万が一に備え、遠の君には次の神子をお迎えするまでは都にとどまっていただかねばなりません。その間、後ろ盾を失った遠の君には都中の蛆虫貴族どもがよってたかるでしょう。垣をどんなに巡らせても、彼らは霧のようにその隙間をかいくぐってくるのです。そして興味半分に遠の君を弄び、一通り遊んだら打ち捨てるのです。」
「え?まさかそんなひどい」
「あんなに俗世に疎い、優しい心根の方ですからね。都で遊び暮らしている貴族の手にかかれば、すぐにたぶらかされてしまうでしょう。かといって頼りになる後見も都にないので、正式に妻にしようという者がいるはずもなく、そのまま零落し、餓鬼のように痩せさらばえ……」
「み、都大路に捨てられるのですか?」
「もしも夫婦御供から外された場合は、そうなるやもしれません」
ごくり、と中の君は唾を飲み込んだ。
「しかし申し上げておきますと、あなたの姉君はたぐいまれな、素晴らしい神子様でいらっしゃいます。今回の夫婦御供は神祇の歴史に残る儀になります。私は何があっても、今回の夫婦御供には遠の君に妻役を務めていただくべきと考えております。梅太郎殿が人間界に帰ってしまったら、他の人間を呼び出すまでですが、姫程の逸材は他にありません」
「その人間もまた、自ら帰ることを望むのではありませんか?無理やり連れてきてるんですもの。姉上がいかに素晴らしい神子であろうと、心を持った人ですわ。そう何度も結婚相手に逃げられたら、立ち直れませぬ。どうぞもうお解き放ちになって」
「相手が逃げるとは限りませんよ。今回、夫婦御供となる人間の候補にどのような者がいたか。さすがの浜名の姫君様もこれはご存じありますまい。一人は、前回夫婦御供として下界から呼び出された者の末裔で、次にも御供となることがあるかもしれぬと、代々言い含められている家系の者でした。そういう風な心づもりをしている人間もいるのです。今回も梅太郎殿の代わりにその者でも良かったのですが、いかんせん、年齢も離れていますし」
聞けば、五十二歳男性、会社員。趣味は烏賊釣り。二度の離婚歴があり、前々妻と、前妻、現在の妻とのそれぞれの間に、合わせて八人の子供がいる。子らはそれぞれまだ幼く、今後長きにわたって養育する必要があるが、本人はいつだって夫婦御供に選ばれる気に満ち満ちており、選ばれたら即刻会社を辞めようと、辞職願を懐に出勤する毎日である。
「本人にいかに心構えがあろうとも、あまりにも歳の離れた子持ちの男性では、遠の君が哀れではないですか。残された家族も哀れですし」
他にも候補があったのを、神祇伯はつらつらと諳んじた。
四十四歳、自営業。賭博癖、借金あり。女好きだがモテないため、女性と付き合う代わりに足の指一本一本に女性の名前をつけて無聊を慰めている。
五十二歳、公務員。既婚。勤務態度はまじめだが、自宅では「てれび」や「えあこん」なる、一家において共有すべき利器を独占せんと、それらの操作盤を穿き物にねじ込んで片時も離さない。
七十五歳、無職。家中に人形を敷き詰め、納豆だけを食べて暮らしている。最近物忘れが多いが、性格は穏やかで善良。
六十歳、農場経営者、昔のあだ名は奇天烈斎、毛の生える薬を開発すると称して怪しげな薬を毛根に塗布、その刺激で脱毛が進み、それを苦にするあまり周囲へ罵詈雑言を浴びせるため、最近はもっぱら、ばいおれんすという呼び名になっている……、などなど。
「あな、恐ろし……!」
「そうです。梅太郎殿こそ、最高の婿殿なのです。遠の君様をお幸せにして差し上げるのは、あの者を置いていないのです」
神祇伯は唾を飛ばしながら、拳を振り上げて語った。
中の君もその熱を受け、敢えて自ら神祇伯の唾の射程範囲内にずずぃっと体を移動させると、
「ほんに、その通りでございますわ!断然、応援いたします」
と賛同したのだった。