丑の刻
夜中。草木も眠る時刻、丑一つというときだった。いつもの掘っ立て小屋ではうるさいほどに鳴りやまぬ虫も、大副邸ではなぜかひっそりと鳴りやんでいた。その中にかすかな衣擦れの音を聞いて目を覚ますと、隣で休んでいたはずの一の姫がいなくなっている。薄い衾の上に、彼女が来ていた唯一の表着がかかっている。
用足しに行っただけなら、このまま知らぬふりをして眠り続けることだ。しかし正直なところ、朝になってまた一の姫と面と向かうのも気詰まりだった。このままとんずらして、自分の掘っ立て小屋に戻りたいが、そんなことをしては梅太郎と同じ、不実な男となってしまう。
私は藁座布団のほつれた部分をいじりながら、どうしようかしらと考えていた。それから手を伸ばし、一の姫の表着をふとにおってみた。乾いた汗のような、血のような臭いがした。
唐突に思いついて、私は部屋を隅から隅まで見渡した。
見まいとしても先ほどまでしっかりと存在を主張し続けていた、木づちと藁人形がなくなっている。私は衾を蹴飛ばして飛び起きた。
縁に出るなり、姫の姿はすぐに目に飛び込んできた。擦り切れた単衣が闇夜の庭に白く浮かび上がっていて、ひどく目だったのだ。
ぼぅっと光りながら、ちょうど本門のところを通り過ぎようとしている。女一人が徒歩で、こんな夜更けに出かけるなんて正気の沙汰じゃない。一の姫は夢遊病なのかしら。
そういえば、最近夢遊病がはやっていると、宛木が話していた。六条に住んでいる、非常なたれ目の男とその従妹も夢遊病、兵部卿の家の下男もそう、それから中納言の息子もそうだという噂を聞いたことがある。もっとも中納言の息子に関しては宛木曰く夢遊病ではなく、浮気をしているのを隠そうとして、夜な夜なの外出は夢遊病のせいであると本人が言い張っているだけだとのこと。中納言の息子は、半ば無理やり身分の高い宮腹の姫を襲ったくせに、三月も経つと姫に飽きてしまったという。どいつもこいつも殿方は浮気ばかりで、本当にわたくしども女には頼りない世の中でございます、と宛木が嘆いていたのだ。
宛木はさらに、「三」という数字は男女間においては不吉であるというのが通説であるから、姫様におかれましてもよくよくお気をつけあそばせ、と言っていた。三月、三年、三十年。倦怠期や別離は三のつく月日に絡めてやってくる。だから結婚後の餅を食べる儀式も、三日目に行うのかもしれない。儀式をしないでほったらかしておくと、男という生き物は三日ですたこらとんずらしてしまうのだ。
そのときは話半分に聞いていて、『三が好きなんて、口裂け女と一緒だね』なんて茶化していたのだが、もしかして本当かもしれない。だってよく考えれば、私も、梅太郎に逃げられたのは通算三回目の逢瀬の後であったのだ。
そんな風にちょっとした考え事をしていたのは、最初は飛び起きたものの、時間がたつほどに焦りが消えたせいであった。なぜなら一の姫は、門をくぐるときに夜番の者に押しとどめられるに違いないので、邸の外に出られるはずはないのだ。沓を履く前に一度母屋に入り直し、姫の表着を取りに戻ったくらいだ。しかもしわの寄らないように手早く畳んでさえいる。
ところがどういうことか、姫はそのまますいーっと門を通り抜け、外に出て行ってしまったのだ。すわ、大変だ!あんな無防備な姿で一歩でも外に出たら、すぐに夜盗、人さらいに襲われかねない。本職の泥棒でなくても、普段はおとなしく物乞いをしている人たちだって、弱そうな人を見れば急に襲い掛かってくる世の中なのだ。単衣の女なんて格好の餌食になる。
それにしても夜番は寝ているのだろうか。まったく、今日の当番は誰だっただろう。丸まろかもしれない。あいつはいつでもどこでも寝るから。ちゃうちゃう、あいつは先ほど手ひどく折檻されていたんやった。すっかり忘れていたが、大事なかっただろうか。ま、あいつはちゃっかりしているから大事ないに決まってるけれど。
夜番は確かに丸まろではなかった。奥の方で丸まろが元気そうないびきをかいてはいたが。ほらね、やっぱり丸まろは大丈夫だった。夜番の方はきちんと目を開いていて、門を通り過ぎる私に、
「よっ。お疲れさん」
と声をかけてきたのだ。
「ちょ、ちょっと!今ここを人が通っただろう?何やってんだよ、きちんと止めてくれなきゃ!」
「ああ?誰も通ってねえよ」
「通ったでしょう。こう、ぼうっとした感じで」
「うん。今まさに通ってるよ。いつもぼけっとしているお前がさ」
夜番は耳をほじりながら言った。
「私以外にだ!」
「誰も通ってねえったら。この邸の女房たちはほとんど大殿様のお手付きだもんだから、てんで夜の訪いがないのさ。かわいらしいと評判の浜名の姫君が来てくださって、ようやく忙しくなりそうだと思ってたが、これも大殿様が囲い込んでるときた。毎日毎日、本宅から姫宛ての文をよこしていらっしゃる。まめなお方だが、この牽制のせいで姫君に手を出そうっていう殿方が一向に現れん。こういっちゃなんだが、暇で暇で眠たくてたまらんよ。もっとこう、貴族の殿さん方をそそるような女を新しく入れてくんねぇと、こっちも張り合いがねえや」
「お前の目は節穴か!そんな目、もぐらにくれてやったらいいんだ、この間抜け」
「なんだと!節穴どころか、俺の目にはなんでも見透かす仙力があるんだぜ」
そう言って太い眉の下のぐりぐりした目で私のことをじっと見た。
「おほほん。思った通り、筋肉のキの字もない寂しい胸板、だらしなく伸びた乳首に爛れたへそ、それに豆よりも小さいナニじゃ!」
「い、いや、変態!はっ。それどころじゃなかった。おい、起きろ丸まろ!追いかけるのを手伝って!」
私はさっとおへその辺りを手で隠しつつ、急ぎ通りに出た。姫はちょうど木辻通へと曲がるところだった。丸まろが起きだしてくるのを確認すると、ついてくるように言って私は走り出した。
姫の足は少しも動いていないように見えるのに、その進みは意外に速い。私は必死に走った。
姫の姿は他の人には映っていないように感じられる。皆彼女の姿が見えないの?一方私の方は誰からも普通に見えているようで、一人で駆け回っている姿がごろつきのような輩にとってみれば格好の餌食なのだ。途中、浮浪者だろうか、恐ろし気な男数人に追いかけられそうになって、回り道をしながらも、姫を見失わないように目を皿のようにして走った。昼間の労働の影響もあって膝が早くも震えだすが、なんとしても追いつかねばならない。迂回路から元の道に戻ると、眠そうに走る丸まろが私の後をついてこようとしていることが見て取れた。
「こっちだ、丸まろ」
どうせなら夢遊病であってほしかったが、姫の手には藁でできた人形と木づちがしっかりと握られているので、そうではないと分かっていた。私は目がとても良く見えるのだ。なんてことだ、一の姫は、丑の刻詣りをしようとしている。
やがて整理された道から離れようとするところまで行ったとき、大副の家の網代車が通りの反対側を忍びやかに進むのを見た。早く進め、と牛飼い童を叱咤する声に聞き覚えがある。中にいるのは大副だ。誰か女のところに向かっているのだろうか。女の元を尋ねるにしては、時刻が遅すぎる。第一今日は情事を控えるべき忌日ではなかっただろうか。女の元ではないとすれば……。とうとう奴も呪詛の加持祈祷をしにどこかの寺にでも行くのだろうか。
呪詛を行う寺を突き止めたかったが、裸足で夜の都を歩く姫を放っておくわけにはいかない。私は後ろ髪を引かれる思いで網代の行方を可能な限り見届け、一の姫の後を追った。
一の姫はするするっと角を曲がり、長いこと人の手入れがなさそうに見える神社へと向かった。神社の石段を登るにあたって、ようやく一の姫の進む速度が遅くなった。
一の姫め、どうやら登りが苦手らしい。腿の筋とお尻の筋が弱いのだな。そこを鍛えるためには、日ごろの足の曲げ伸ばしが必要となってくる。女房と対になって、寝転んだ状態でまんぱんに衣が詰まった葛籠を足で押す。女房がこちら側に押し返したのを、また押す、というような動きだ。
姫の暮らしというものは、庶民に比べて外出も頻繁ではないし、家事もしない。まあ中流貴族くらいまでであれば折々に外出はするものの、その気になれば一日中座って過ごしても、だれからも咎められないどころか、おしとやかであるとほめそやされるのだ。
しかし将来的に子供を何人も生んで、かつ快適な老後を過ごすには、ぜひとも頑健な体がいる。したがって世の姫君たちは、人目につかないようにこっそり体を鍛える必要があるのである。一の姫はそれを怠っていたというか、不憫な境遇ゆえか、葛籠押し運動を共に行うような女房がいなかった。
今が巻き返しの時である。私は鼻息荒く石段に足をかけた。
ところが、ここにきて分かったことに、私も登りが苦手なようだった。すでに笑っていた膝が、もはや大地震のようにぶらぶらと揺れている。言い訳のようだが、私は昼間塩自にさんざんしごかれているし、ここに来るまでに相当な距離を迂回しているのだ。幸い、前方を行く姫の足もぶらぶらと揺れているので、ぎりぎり間に合いそうだ。
石段の上に姫の姿が消えてから数秒後、私は海に揺れる海藻のように揺れながら頂上に到着した。見るとそこでは一の姫がうつ伏せになって倒れている。藁人形と金づちと釘が転がっていて、私はそれらをまず拾って胸元にしまった。それから姫のすぐ隣に倒れこみ、しばし息を整えることにした。
姫が息継ぎの途中、何度も唾を飲み込む音が聞こえる。獣じみた息切れが少しずつ穏やかになっていき、一の姫は立ち上がって再び歩き出そうとした。
そのとき姫の横顔が垂れ髪の間から一瞬見えて、私はぎょっとした。糸のように細かった姫の目は眦が裂けたように広がり、ぎらぎらと金色に輝いている。口も同じように頬の半分あたりまで裂け、赤い舌が時節垣間見えた。それから額に一本の角を見たような気がしたが、瞬きをしたらその角は消えていた。しかし裂けた口はそのままだ。
これ、鬼になりかけの生なりってやつじゃないの?
『その人形と槌を返しなさい』
ぜいぜいした風のような声で一の姫は言った。私は縮み上がって返事もできず、ただ胸の中にしまった丑の刻詣り用具を衣の上から押さえつけた。
『お早く。もはや結願まで間がありませぬ』
「い、一の姫。あなたのようにたおやかな方が、なぜそんなことをなさるのですか」
『なぜ、ですって?』
姫の裂けた口が元通りのおちょぼ口に戻る。なんだ?どうなってるんだ?もう人に戻ってくれたの、一の姫?
『わたくしを、どうお考えですか』
姫のいきなりの問いに私の頭はなかなかついていかない。
「け、結婚のことでしょうか。私などは身分も財産もなく、降ってわいたような話にただただ恐れ入るばかりです。姫にはもっとふさわしい殿方がいらっしゃいます」
『滝石様はほんにご謙遜の方でございます。あなたはこんなにお優しく、若竹のように健やかではありませぬか。身分など、ご案じめされますな。父上はただ真弓君の言いなりになっているだけで、芯からわたくしを疎んじているというわけではございませぬ。にっくき義母上と真弓君が亡くなった後は、わたくしを一の姫として大切に扱い、あなた様のことも婿として盛り立てて参りましょう』
「義母がいるところは、私と境遇が同じですね。それでも私などは気散じな暮らしをしておりましたが、やはり姫君ともなると、私のような下々の出の者にはわからぬご苦労があるのでしょう。特に秋は催し物も多い上に今回の太宮の火事ですもの、大殿様もなかなかお身内の方々にまでお目が届かないのだと思われます。少し落ち着けば状況もきっと変わります」
言いながらも、呪詛が露見したら、神祇大副は失脚するだろうか、と私は考えていた。そうしたら、この姫はどうなるのだろう。
「今はただ、良き日が来るように祈るしかないですよ」
『祈っております。己の呪いで、邪魔者を亡き者にするために』
「は、恐れながら、そのような祈り方は神祇の司に縁ある姫には似合いません」
『何を言いますか。その神祇の司に直接仕えている父といったら、どうじゃ。近頃すっかり神をなくし、坊主に頼り切って呪詛をしておる』
言っているうちに、姫の声が再び震えて恐ろし気な雰囲気となってくる。いけない、なんとか落ち着かせないと。
「は、ははあ。確かに、悪しき祈りを知ることで、良き祈りにも力を宿すことができるというのは聞いたことがあります。それにしても、ご一家で呪詛に通じていらっしゃるとは、なかなか珍しい特技です」
『ぇえ?ふん、そんなことはない』
「いえ、めったにないことですよ」
一の姫はにたりと笑った。まんざらでもないらしい。いい調子、この調子で話を逸らそう、と思った瞬間、姫の口から蛇のように意思を持った動きをする舌がにゅるりと出てきて、私は一歩退いた。蛇は私の鼻先をかすめた。
『昨夜もまた、父は坊主に呪いの様子を聞きに、分天寺に行っておったわ。思うにあちらも結願が近いのじゃろうね』
「分天寺ですか」
『さよう。丑の刻詣りからの帰りに、行き合ったわ』
父娘でお互い呪詛帰りとは、嫌な鉢合わせである。それにしても、分天寺。重要なことが聞けた。ついでに、姫は大副がどこに呪詛状を持っているか知っているだろうか。呪詛状さえ押さえてしまえば、私の今回の任務は終了である。
「あの、呪詛状はどこに、」
『滝石様。このような姿になったわたくしを、あさましいと考えているのじゃろう?笑いたければ、笑うがいいわ』
「は、ははは?」
私は言われるがままに笑ってみた。しかしこれは失敗で、一の姫の額がみきみきと音を立てて、そこから角が生えてきた。とうとう本当の鬼になった!
『うぬれ、笑うたな!』
そう叫ぶと、私の股座を力一杯踏みつけてきた。あまりの痛みに目に星が飛んだが、私は歯を食いしばって姫の単衣の裾を握りしめた。
「で、でもやはりいけませんよ」
『きゃつらがこれまでわたくしにしてきたことを思えばこうなるのが道理じゃ。今後、あやつらがわたくしにすることを思えば、今やっておかねばこちらがいびり殺されるわ』
「それは、ううむ。ゆゆしきことで、なんとか方法を探しましょう。呪いなど、あなたも危険ですよ」
人を呪わば穴二つ、と言う。相手を呪った人は、その相手の祖先の霊に憑りつかれ、ひどい目にあわされる、そういうものだと私は教わってきた。
「どうか、思いとどまってください。いけないことは、どんな状況にあってもやっぱりやったらいかんのですよ」
あなたのためにも、あなたの家族のためにも。
一の姫はじっとこちらを見つめると、元の静かで寂しそうな顔に戻り、
『あなたには既に思う方がいらっしゃるのでしょう』
とぽつりと言った。返事に窮して黙っていると、
『あ、褌が……』
一の姫が急に言い、膝からがっくりと崩れ落ちてしまったのだった。
「一の姫」
頭を打たないよう、思わず抱きとめたときには一の姫は元の人の姿へと戻っていた。姫はうっすらと目を開き、
「どうぞ、わたくしたちをお助けください」
と言って気を失ってしまった。
私は祓いの詞を唱えると、姫を抱きかかえたまま、後からきっと来るだろう丸まろを待つしかなかった。