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北風日記  作者: 小烏屋三休
干滝殿
21/88

丑寅の風

 それから数日たったある日。私は仕事を終え、大副別邸の近くに手配してあるあばら家に帰る準備をしていた。一日の表門の人の出入りを記入した帳面を見直し、決められた場所に置いておく。それから簡単な日報を書く。

 私が読み書きできるということを知ったとき、塩自はたいそう驚いた。驚きすぎて何よりも大切にしてるはずの、(うし)(ひたい)の葉がたくさん入った籠を取り落していた。そりゃそうだろう。芋ほり人として雇った男が、まさか字を読めるなどとは。

 ちなみに、牛額は芽を食べる草だ。この塩自という男は、葛川のほとりでこの葉の大きく育ちすぎてしまったやつをしこたま採ってきて、暇があるとむしゃむしゃと食っている。体が大きい男なので、いつもお腹が空いているのだ。筋肉もたくさんついているし、空腹感に関しては私の比ではなかろう。

 唇に緑の葉っぱの欠片や汁をつけていて、体全体からお蚕さんのような臭いを発している。暑苦しくて迷惑な男なのだが、こういうのを目の当たりにすると、体が大きいというのも色々大変なのだな、とほろりとする。そういうときは塩自にお水を入れてあげたり、座る場所に柔らかい藁を引いてあげたりするのだが、塩自はそういった細かい配慮には一向に気づかない性質で、ありがたがる素振りも見せない。私が敷いたふわふわの上で一息つくと、さらなる元気を取り戻して相撲を挑んでくるか、やるのが面倒なので私がこっそり寝かせておいた雑用をわざわざ振り分け始めるかのどちらかである。声もいちいちでかいので癪に障り、優しくして損したわいと毎度思うのである。

 ただ塩自のこの細かいことには頓着(とんちゃく)しない性格のおかげで、読み書きができるとばれても私の身元が怪しまれることはなかった。せっかくの特技だからと、大副邸の出入りを帳面に記録するという、面倒で無意味な仕事を新たに増やしただけにとどまった。ちなみにこの帳面を一日の終わりに塩自に渡しても、奴はざっと字面を見るだけで、それを吟味したり、誰かに提出している素振りもない。ただ、「滝石は字が汚い。根性が曲がっているからかもしれん。よしきた、叩きなおしてやる」と、また相撲をとらされるだけである。一日の終わりが大体毎日これなので、げんなりである。

 ところがこの日は、珍しく定刻になっても詰め所に塩自が姿を見せなかった。私は相撲をしないで済むので、ほくほくしていた。丸まろの方は今日も仕事をしなかったくせにとっくの昔に帰宅したか、姿を消している。こういうことを意識してしまうと心にさざ波が立つので、考えないに限る。

 さっさとあの掘っ立て小屋に帰って、ゆっくり寝よう。私にとっては初めての一人暮らしをしているわけだが、ぶよついた虫がたくさんいるので期待していたほど楽しくはない。そして懸念していたほど寂しくもない。

 詰め所を出ると、もう日が暮れかけて辺りが燃えるように染まっていた。私は足を止めて、遠くを見やった。夕焼け空に、煮炊きの白い湯気が幾筋も登っている。

 今夜はめずらしく大副がこの邸に来ている。この人はあまり別宅に来ることがないから、今夜は邸内に緊張が走り、普段はほとんどぐうたらして過ごしている下人があちこちで立ち働く音がしている。

 昼すぎに到着した大副は、参内から直接こちらにやってきたようだった。私の妹、浜名の姫の部屋で随分時間をつぶした後、自分の寝殿に入った。そしてぶらぶらと袴もしめずに縁側で白湯をすすり、ぼんやりと荒れた庭を眺めていた。

 この屋敷に住まわせている他の女たちに会おうという気はないようだし、呪詛に関して何やら手続きをしている気配もまったくない。神祇伯は呪詛状を取ってくるようにいったけれど、本当にこの屋敷にあるのだろうか。それともこののんきさの裏でどこぞの寺とやりとりし、呪詛関係の手続きを進めているのだろうか。

 夕方の空気で胸の中をすっかりきれいにして、さて帰ろうか、と足を動かし始めたとき、普段は見かけない家人が追いかけてきて、大副が私をお呼びなので来いという。私は急に冷や水をかけられたように感じた。

 例のお札が破かれているのがばれたのだろうか。言い逃れる方法などをおいおい考えようとしているうちに、私はすっかりお札を破いたことを忘れて、対策もたてないまま無為に過ごしてしまっていたのだ。

「あ、今日はもう帰るんで、明日にしてください」

「たわけ。大殿様がお呼びなんだ、すぐに来い」

「帰り際に呼び出しなんて、環境の悪い職場だなぁ」

 渋っていると、男が尻を蹴ってきたので、私もそれ以上はやめておき、おとなしく男についていった。

 大副邸には夕餉の良い香りが充満している時刻だった。ぐぅぐぅ鳴るお腹をさすりながら寝殿へ行くと、大副はちょうど食事中だった。私は前庭から簀子縁に上がることを許され、大副が食事をする音を聞きながらおどおどと頭を下げた。

 そのとき私は顔から身元がばれるなどとは(ごう)も疑っていなかった。大副とは直に顔を合わせたこともなかったはずだ。御簾(みす)()(ちょう)越しでしか見られたことはないし、私も相手の顔を覚えていない。かろうじて覚えているものと言えば、あの晩縁の下で聞いた奴の奇妙に甲高い声のみ。それも私の方で認知しただけだ、大副に私がわかりっこないじゃないの、と。ところが奴の顔を目にした途端、思い出した。そうだ、この男、確かに見覚えがある。

 確か、私が初めて神殿から神祇伯邸に来た日のことだ。

 ひと月ほどの旅程だったので、色々なところに寝泊まりしながら進んできた。神祇伯邸到着の前夜に泊まらせていただいた邸には神祇伯が迎えに来ていた。文は交わしたことはあるが顔を合わせるのは初めてで、お互いにしみじみと今回の還俗をめぐる長い道のりを振り返り、労いあっているところ、ふらりと貴人が現れた。神祇伯をはじめ邸の方々もこれほどにやんごとないお方がいらっしゃるとは想像だにしたことなく、一同蒼白になって、上を下にする騒動でおもてなしをしたのだ。その晩の酒宴はもはや舞い上がって発狂したような人々の乱痴気騒ぎで、私は早くに下がらせてもらったが、神祇伯は最後までおつきあいをして、それは翌朝の出発時刻に大いに影響した。ようやく神祇伯邸にたどり着いたのはすでに日が山の端に沈んでからしばらくのことだった。

 神祇伯邸ではその日、神祇官に勤める面々を呼んで落着(おちつき)の宴をする予定であった。客人は続々とやってきていたが、日が暮れても主人と私が現れないので、しびれを切らした大副は勝手に仕切って宴を始めていた。私たちがようやく邸にたどり着いたときには、すっかり宴もたけなわであった。人の家でやりたい放題、大副もつくづく図太い男である。

 ただその宴がいかにも楽しそうで、私は車から出る際に思わず首を伸ばして、一足早く様子を探ろうとした。すると思いもかけぬほど近い場所にこの大副が立っていて、あちらも物珍しそうにこちらを覗いていたのだ。三十半ばの、煌びやかな衣装をまとった男。思わず目が合って、二人で束の間見つめあった。

 顔を見られたのはその一瞬だけだが、果たして今夜ばれやしないだろうか。顔がばれたら下手すると一巻の終わりなのだと思うと、汗がとめどなく出てくる。

 いっぱいいっぱいの私の様子に頓着せず、大副は新たに飯を口に放り込みながら、

「面をあげよ」

 と偉そうな口調で言った。日頃の横柄な態度がすっかり染みついた物言いである。こういう風に上から物を言われると、自然と私もへりくだりたくなるが、そうは問屋がおろさない。私に毒を盛っていた奴なんだから、本当は一発ぶんなぐってやってもいいくらいだ。飲まれてはいけない、闘争心を呼び起こすのだ。この禿ぽまんじゅうめ。

 心の中で悪態をついていると、ぐうう、とお腹が鳴った。

「どうした、面をあげいと言っている」

 仕方ない。私は顔をできるだけ変形させたうえで、しぶしぶと言った態で大副の胸元を見上げた。

「なんだその態度は」

 と、横からつきそいの男が小突いてきたので、もう正面切って大副を見据えることにした。

 一方の大副は何かを思い出す風でもなく、感情のない顔で私を見下ろしている。そうそう、この顔。髭の剃り跡が青々として、口が小さい人。食べ物をほおばりながらであるが、例の奇妙な高い声音で話している。食事中でも、さらには私のような家来にもその話し方を貫き通すところはさすがである。もしかしてそういう声なのかしら?

「お前か、魔除けのお札をはがして破ったのは」

 やはりばれている。しかし進退がかかっているので、すんなり肯定するわけにはいかない。私は変形させた顔に力を入れて、何のことやらわからないといった感じを装った。

「お前が破いたと言うものがおるのじゃ」

 大副が箸で示した先には、折檻され、ぼろぼろに汚れて転がっている丸まろがいるではないか。

 そのあまりのやられように言葉を失っていると、丸まろはにやりと口の端を上げた。いえ、痛さのあまり顔をゆがめただけかもしれない。あの男、私を売ったのね。なんて卑怯な奴だ。そもそも、破いた範囲は圧倒的にあいつの方が大きい。

「ちゃいますちゃいます。わてらが柱掃除すっときにはもう破れてぺっこぺこいいながら柱にこうくっついたりはがれたりしてたんで。へぇ、まあ、なんとも魔除けの札だったんですかいな。恐れ多いこっちゃ。ほな、なんや生暖かい嫌な風がここ数日丑寅(うしとら)から吹いてくるんは、この魔除けの札破れてるせいかもしれまへんなぁ。おお、こわこわ」

 私はしゃべり方も声音もなるべく変えて、めちゃくちゃにしゃべりだした。

「なんじゃ、丑寅の風とは。こやつ、胡乱(うろん)なしゃべり方で、胡乱なことを言いよる」

「へぇ?大殿はんはお気づきにならはりまへんどした?わては霊感体質ちゅうか、結構敏感肌ですのん。わての常識ちゅうもんはどうしたってこれ破いたの幾多郎君やって主張しとるんやけど、大殿はんがそない言わはるんどしたら、ちゃうのかもしれまへん。せやけどわて、幾多郎君が棒やら泥団子やらもって高いところいじくり倒してはるの、よく見かけますよって。へえ、ほんま。大切なお札だとは幾多郎君も思わんでやってしまったことやき、堪忍したっとくれやす。いや、こんなこと誰に言われんでも、あんなおぼこいお子相手に無体な罰を与えられる大殿はんでないことは、知恵の足りないわてでもようわかっとります。わかっとりますがな」

「お前は、べらべらと……!何を勝手に幾多郎のせいにしているのだ。大体どこの生まれだ、その話し方は。奇態で煙に巻こうとしているなら、甘いぞ。」

「あたし?あたしは本当は、ずっと南の方から来たんですわいね、そっちゃけどここらの言葉でしゃべった方が旦那さんにも聞こえやすいかと思ったわいね。へちゃろ?」

「こやつ、いいかげんにせい!」

「ほほほ。まあ誰の仕業でも、こないなときに怒ってはいけまへんな。なんでって魔除けの札が破れた今、丑寅からの風が、今か今かとこちらを伺っていますもの。埃っぽい黒い風がごんだらごんだら言う音が、耳の中の毛をぴりぴりさせてますわ。あ、南の方の人ってここらの人と比べると毛が深うて、耳ん中もぎょうさん生えてますのや。このごんだら言う音のせいで網代につなぐ若い牛が()っぴてよう眠れんと、すこぶるご機嫌ななめになっとりますがな。そのうちこの牛が気ぃおかしゅうして、もう一匹の婆牛をどつきだすんちゃうかと、心配しとります。例え穏やかな婆牛でも、そんな風な無法をされたら、どついた牛を恨むもんどすが、これは絶対に避けんといけまへん。こんなときに邸内に恨みの渦が芽生えれば、それが邸の内から穴をこじあけて悪いものをこのお邸に通してしまうことも考えられます。あ、折檻されてそこに打ちひしがれてる丸まろのことあてこすってるんや思わんといてください。気ぃ悪うなさらはったら、えらいすんまへんな。丸まろは心配せんでもええと思いますよ。こいつはちょっと考えが足りない言うか、まああんまり悪意を持とうにもこまいことは考えられん男なんで。いやいや、大殿はんともあろう方が謝る必要なんどありまへん。ちょっと傷薬でも放ってよこしてやっとけば、それ塗って明日にはけろっと忘れてまひょ」

 理由ははっきりとはわからないが、神子として祝詞を読み上げるときに使うよう教わったこの低い声音を使って説得にあたると、うまく相手を丸め込めることが多い。さらに、この声で関係あるようなないようなことをべらべらと並べたてると相乗効果となり、ほぼ説得は成功すると言うことも経験上知れている。ましてや優雅さを売りにしている貴族たちなんて、こんな風に早口でまくしたてられることがあまりないものだから、いちころだ。

「そうなの、か?風が?」

 ほらね。それ、最後の一押しだ。

「びゅんびゅん吹いてますよって。干してある水干がどれももう横向きに乾いてしもうて、着るときにえらい難儀してます。体を倒してねじこまにゃぁ、だめだにゃぁなっとりまふ」

「そ、そうか。……。では、急ぎ新たな札をもらおう。なぁに、前回の祈祷でたくさん金を渡したのだから、今回の札はただで書かせよう」

 大副は傍らにいた男にすぐにけちくさい指示を出して、再び夕飯にとりかかった。神仏のご加護を頂こうというときに、渋いこと言っちゃいけまへんで、大殿はん。とにかく、もう下がっていいのだろうか。

 下がっていいと言われないため、身の処し方がわからずとりあえず頭を下げて顔を休ませていた。思い切りいろんな表情筋を酷使しているので、顔が痛い。そうしながら、大副が箸をちゃかちゃか動かす音を聞いていた。やがて音がやんでしばらくなので不審に思って顔を上げると、思いのほか近い場所に大副が移動してこちらを凝視している。私は慌てて顔を再び変形させた。

「悪くない、かもしれぬ……」

 大副は私の烏帽子の先から膝の上に置いてある手の先までじろじろと見てそう言った。

「わかった。まあいいだろう。そっちの方は好きなようにするがよい。だが今日は忌日じゃ。私がいる以上、邸の者一同、今宵の情事は控えよ」

 それからさも面倒くさそうに手をひらひらと振り、それ以上何も言わずに私を部屋から追い出した。


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