2. 萱草の袴
婚儀の準備は着々と進んでいる。厨子も素敵なものに変わったし、几帳の中の畳も新しくなって、鮮やかないぐさの香りがする。新しい畳が運び込まれてきた時には思わず小躍りした。それまで使っていたぼろぼろの紫縁の古畳には都乃牟之(ごきぶりのことだ)が巣を作っていたようだった。女房に言ったら「そんなわけございますまい」と一笑に付されたけれど、何しろ出現する頻度と量が半端な数ではなかった。夜中に、ぱさっと部屋の隅で音がするたびに、すわまたあいつのお出ましかと、私は体をこわばらせていた。たとえ顔の上を這われても、驚いてすぐに口をあけてはならぬ、口の中に入ったら取り返しがつかぬ、とりあえず目をびゅっと閉じて都乃牟之の奴を驚かせ、顔から退散させねばなるまい、いやしかし、その際にできる目じりの皺にきやつの足をとらえてしまったらどうしよう、などと毎回同じ作戦を反芻しては、おちおち眠っていられなかった。その心配が解消されてからの、眠りの健やかなこと。
これ以外にも調度は入れ替わっていて、私が寝起きする小寝殿がすっかり建て替わってしまったように感じるほどなのに、婚儀終盤にかけてさらに刷新が進むらしい。私をいやでもうきうきさせてしまおうと、屋敷の主である神祇伯が配慮してくれているのかもしれない。
装束も変わる予定だ。この邸に来てからひと月、麻で作られた染めのない簡易な衣を着ていた。麻なのでやたらしわが目立ち、しわがつかないように日常の挙措に気を遣う日々だった。それから白い絹の衣に変わり、絹はやっぱりいいなぁ、としみじみと思った。そして今現在の私は、上衣は濃い灰色の袿に、下は萱草色といって、赤みの強い黄色の袴を着用している。この装束を見た時も、色のある衣装とはなんと素敵なのだろう、と感激した。
もっともこの配色は、喪に服するときに用いる凶色だという。私は別に喪に服していたわけではなかったが、何かの慣習だろう、結婚は人生の墓場ともいうし、とにかく萱草色の袴をあてがわれたので、それを穿いていた。
萱草は忘れ草とも呼ばれ、春先に出る若芽を食べると憂いが晴れると言われていたから、これももしかすると神祇伯なりの配慮、あるいはまじないの一種かもしれない。婿取りを境に、私はこの黄色の袴を卒業し、緋色の袴を着用することができる。黄色も悪くはなかったけれど、緋色はやはり格別で、女はやっぱりこれでなきゃ、と長く憧れている色だ。楽しみである。
なぜこんなに長々と調度だとか衣の話をしているのか。
普通こんなときだったら、やはり一番気になるのは相手のことや、婚儀自体のことだ。来たる良き日にあの方といよいよ、ほほ、いやだわ、あれってどうやるのかしら、ほほ。……。おほほ。なんて色々妄想しながら、嬉し恥ずかしの毎日を送っているはずだ。しかし残念ながら、私にはその余地がない。
なにしろ相手の殿方と会ったことがない。それどころか、諸事情があって文さえ交わしたことがない。よって、婿殿が風流を解するかどうかだとか、優しいかとか、見目好いかとか、どんな人なのか、まったくわからない。わかっているのは相手の出自だけで、これは遺憾ながらというか、まあ私も十分に承知の上のことだが、とても低い。ところが私も妙齢(人は大年増というけれど)であるので、婚姻という言葉だけでもう舞い上がってしまって、ついつい相手に期待をかけて想像を膨らませてしまいがちだ。油断するとすぐに気持ちが夢の世界に漂いだしてしまうので、これは重々戒めねばならない。
私の元に来る婿殿は、きっとむさくるしい、粗野な殿方に違いないのだ。畳だろうが板敷きだろうがそこらじゅうに唾を吐いて回り、たんまり毛をはやした足指でぺたぺた、ぺたぺたと、清められた寝殿を歩き回り、体をかきむしっては皮膚を飛び散らすのだ。それは本当にもう、大猩々(ごりら、のことよ)みたいな人物が来るに決まっているのだ。そう心しておかないと、いざ共寝をするときに怖気づいてしまうので、今はただ、覚悟を決めるために「大猩々、大猩々」と念仏のように唱えて自分に言い聞かせることにしている。
私はもう覚悟を決めている。最初は葛藤もありはしたが、今や婚儀を目前にして、大猩々でもなんでもござれといった心境に至りかけている。もうあと一歩で、仙人のようにこの結婚を達観できるだろう。
それにしても、いったい、話もできなければ、文字が読めるかも怪しい。熱い夜の感想というか余韻を伝える後朝の文ももらえないだろうから諦めるしかない。
普通結婚と言ったら、殿方から何度か文や歌を頂いた後、実際の訪問を受け、少しずつお互いを知り合う。もちろん会うのは几帳や御簾越しでこちらの姿は見えない。相手はちらっと見える私の髪や装束や、それ以前に仕入れた噂話から、ひたすらこちらの人となりを夢想、空想を重ねていく。その後も何度か文のやり取りをしていく中で、こちらが色よい返事をしたところで夜に殿方が私の部屋へと訪れ、愛の共寝となるのだ。
ここのところが急展開であるので、多いにとまどうことが予想されるが、宛木に詳細を尋ねても、「ま。おほほほほ」とにやにやするばかりで、今一つ心の準備ができない。
まあここはなるようになるとして、一旦保留しよう。
共寝の後、殿方は夜明け前に家に帰り、冷めやらぬ気持ちを後朝の文にしたためる。この文をなるたけ早くに届けるのが、相手の女性に誠意を伝える際のみそである。
そして双方に異存がなければ訪れは三日続き、三日目の晩に二人で餅を仲良く食べる。これを以て神々に私たちが夫婦であることを誓約するのである。結婚の一番の要はこの餅食いということだ。
実は私の大好物はお餅である。お餅の食べっぷりなら、どんな姫君よりも潔いのではないかと自負している。
しかしこのお餅、食べ方に作法があるらしい。聞いたところによると、この餅をふわっと口にいれて飲み込むのだそうだ。二人の縁を断ち切らないよう願をかけるものなので、歯で食いちぎってはいけない。
でもいくら小ぶりとはいえ、餅って丸のみしても危険はないのだろうか。一度聞いたときにさらっと聞き流してしまったけれど、詳しい食べ方をもう一度聞いておかねばなるまい。大方、噛まずに丸ごと口に入れた後は、細かく咀嚼していい、という意味であろうが、ここは大事な儀式であるので、隅々まで確認しておくべきである。
この試練を乗り越えてから、親族一同を集めて露顕と称するお披露目の式をして、晴れて結婚となるのだが、この露顕も重荷なのだ。二人だけの時の不作法はまあ大目に見ようと思っているが、露顕となれば他者の目に触れるところとなる。通常は親族だが、私たちの場合は双方実の家族などは呼び寄せかねるので、事情を知っている神官たちが代わりに立ち会うこととなり、この面々はただ儀式が完遂されれば、儀式の途中で多少妙なことがあろうと構わないでいてくれる。
しかしそれでも、私にも体面を保ちたいという、俗っぽい欲望が確かにある。
私の大猩々殿はきっと大いにうろたえるだけだろうから、私がうまい具合に誘導してやらねばならない。
ところが私の方もつい最近まで俗世とは関わりを持たず、神へ祈り捧げる日々を送っていたものだから、こういう場合のしきたりや作法に明るくはないのだ。一応流れや細かい作法については何度も説明を受けてはいるものの、うっかりぼろが出るような気がしてならない。ぼろが出るくらいならまだしも、大ちょんぼをして儀式の流れが滞ったりすることだってあり得る。そうなれば、私を引きとって短くない間姫君教育を施してくれた神祇伯の体面を傷つけかねないのだ。