滝石の武士 2
私は痛む体を引きずって西の対へ向かった。こちらは中の君が滞在している対屋で、しじゅう明るい笑い声で満たされている。ここで中の君の声を聞いてしばし心をいやそう。運が良ければ中の君が私に気づいて、声をかけてくれるかもしれない。驚かれるだろうけれど、直接会って話したいことがあるのだ。
文では他の者に読まれる危険があると思い、大副が人殺しを目論む悪人であることを伝えきれていない。やんわりと退去するように書いたものの、中の君は元気になったにも関わらず、まだ里に帰らず居座っているのだ。昔からあの子は長っ尻で、お友達の家から全然帰ってこなかったのよね。
日差しが柔らかく、のどかな日だった。時節鯉が池で水音をあげるほかには、風がかすかに葉を揺らす音しかしない。大副邸の庭の造作は均整がとれて美しく、たとえ世界の終わりの日が来てもここにいれば安心、という気持ちにさせられる。こんないい日に、妹とゆっくりお菓子を食べながら日向ぼっこができたらさぞ素敵だろう。
そんな空想にうきうきしながら、西の対に着いて、そういえば今日はどうしたって中の君には会えないことに気が付いた。友達ができたということで、どこぞに遊びに行っているのだった。久しぶりの晴れ間に、西の対の他の住人もこぞって外出しているようで、普段は賑やかな西の対が静まり返っている。だが、風邪をひいて留守番をしているという修理の君には会えた。浜名から付き添ってきている中の君の侍女で、少し幼さを残す、美しい人だ。修理の君は私を見つけると、花が咲いたように笑った。
ここに来てからというもの、彼女には興味を持ってもらえるよう、積極的に爽やかに言い寄っているのだ、艶福家滝石たる私は。その努力がしっかりと実を結んでいる。
「まあ、滝石さん、怪我をしていらっしゃいますわ」
修理の君は目ざとく私の脛の傷を見つけた。
「先ほど塩自殿に稽古をつけていただいたので。なんの、これしきの傷、ご心配には及びませんよ。あなたこそ、曹司で休んでいなくてもいいのですか」
本当は結構ひりひりしていたのだが、私は強がって傷をぴしゃりと叩いて見せた。
「一人で閉じこもっていると少し恐ろしい気持ちがして、ここで庭を眺めていたのです。どうぞ手当をさせてくださいませ」
「いやいや、大丈夫ですよ」
「傷口からどのような病が入ってくるかもしれませんわ。わたくし、些細な傷から大事に至った、そういう方を見たことがございますの。恐ろしゅうございました。滝石さんに何かがあったら、わたくし、わたくし……」
「修理の君、落ち着いてください。それじゃ、お言葉に甘えて」
私は簀子縁に上がると、袴をさらにたくし上げ、むきっと足を見せた。昔に比べれば筋肉はおちたが、それでも我ながら美しいふくらはぎであると思う。
「このような下人の仕事ばかりさせるなんて、塩自様も人使いが荒うございますね。どうにかならないものでしょうか」
「ふふ。私のような新参者には、ちょうどいいんですよ。あ、染みる」
水で洗われている足を少し動かすと、修理の君の膝に私の足が当たった。修理の君は顔を赤らめ、潤んだ瞳でこちらをじっと見つめた。
「滝石さん……」
「これは、失礼しました」
「いえ、どうぞ、もっとこちらに足を乗せてください。その方が、よく手当をしてさしあげられますので」
むき身の足をぐいとひっぱって自身の膝に乗せる。修理の君ったら、幼い顔して大胆。さすがの私も近すぎる距離感に居心地が悪いほどだけれど、彼女の方は目をらんらんとさせて傷口を凝視している。
「えっと、あなたたちは、つまり浜名の姫君ご一向はまだしばらく、こちらにいらっしゃる?」
緊張していたので、私はまるで食べ物が喉に引っかかったような声で訊ねた。
「ええ。ご存じの通り、大副様のご寵愛が深くって。姫様をお放しにならないのです」
修理の君は声を潜め、息を私の傷口に吹きかけた。一気に脛が泡立つのを、私は慌てて撫でさすってもとに戻した。
そうなのだ。ここにきて、梅太郎と呪詛に加えて、私の悩みの種は増えることになった。
なんと、神祇大副のひひじじいは私の妹、浜名の姫にちょっかいを出しているのである。ここに来るまでの数日間、私が再三文を出して帰郷を勧めたにも関わらず、これがために妹はここに留まっているようだ。
「浜名の姫君は、どのようなご様子ですか」
「ご本人はいつも通り、お元気でいらっしゃいます。けれど、夫もある身の姫様がこうしてよそに長居するのは外聞が悪いことで、困っております」
とにかく大副が蛇のようにしつこく言い寄っているという。情に脆いところがある子だし、無碍にすると姉である私の立場が危うくなるとでも思っているのだろうか。まあ少しくらいは、私と神祇伯が嫌がらせをされたりするかもしれないが、そんなことは気にしなくていいのに。
まあ妹は賑やかなところが好きだから、田舎よりは都の方が肌にあうというのもあるかもしれない。
「浜名からは、再三帰郷を促すお文が届いておりますと言うのに。それにお世話になっているのにこう申しては何ですが、大副様は、節操がない殿方であるような心地がします。うちの姫様からなかなか色よい返事がもらえないからと、他の姫にもお文を出し始めたご様子で」
「かー!なんたる下司野郎だ!断然許せん」
「え?」
「う、うぉっほん、失礼。ちょっと喉の調子が」
思わず漏れた罵声を私はせき込むことでごまかした。滝石は娑婆の男だから、男の浮気心なんて夜寝て朝起きるくらいに当たり前だ。ましてや色男なのだから貞操観念なんて率先して放棄していかねばならない。
そうは言うものの、あんな男に妹がいいようにされてると思うと、血管がちぎれそうだ。私は怒ると額に本当に青筋が浮くのだ。梅太郎とおそろいの癖である。ま、どうでもいい情報でしょうけれど。
だがここは冷静を保つ場面である。大副邸の新参者である滝石と浜名の姫には接点がないので、必要以上に浜名の姫に肩入れしていたら修理の君に不審がられてしまう。修理の君は悪い子ではなさそうだが、口がぺらぺらに軽いので、うかつなことを言って周囲にばらされてはこの潜入作戦が破綻しかねない。
何度も言うけれど、男に何人も愛人がいるのは、ここでは普通だ。普通なんだ、これが。
女も浮気してもいいらしいけれど、やっぱり男の方が十割増しで浮ついている気がする。なんだろうね、心の臓が複数入っているのかもしれないね、男っていうのは。
その点、梅太郎の融通のきかない一途さは美点だ。ここにきて中の君やら大副の娘やらと、色々と浮名を流しているようだが、私はすべてがせねただと信じている。十割というか八割というか七割がた、信じている。梅太郎はお堅く几帳面な男だ。
いっそ地上の恋人とお別れして私に一途になってもらえたらいいのに。そうしたら私は、結構、いやかなり嬉しい気がする。あの黒い瞳でぎゅっと私だけを見つめてもらえたら、それこそ人の幸せというものではないだろうか。ああ、梅太郎は、今どこでどうしているかしら。貴族社会のしがらみがまだないから、胡瓜片手に川を泳いでいるかもね。
「滝石さん?どうしたのですか。急にぼんやりなさって」
「いえ、何でもありません。それにしても、大副様も困った方ですね。姫君も、そんな男のことは思い切られた方が良いのに。あなたから、なんとか言って差し上げたら」
「使用人の分限で、あまり出過ぎたことを申し上げるのも憚られます。それに、姫様にとってそれほど悪い話ではないかもしれない、などと考えてしまうこともあるのです。浜名にいらっしゃる婿殿はいい方ですが、財力がなくて何もかも浜名の大殿様に頼りきりですし。田舎暮らしよりも、都の方が楽しゅうございますわ。それから、私は、都にいるからあなたに会えるのですし。帰ってしまったら、もう会えなくなると思うと、もう胸が潰れる思いで。あ、考えただけで、もう頭がふらふらしてまいりました」
座りながらよろめいて修理の君は私の足にしがみついた。やはりこんなところに出てこずに、曹子で休んだ方がいいだろう。まあ一人で曹子にいるのが怖いという気持ちはわからなくもないけれど。私は彼女の肩をそっと撫ぜた。前にも言ったかもしれないが『心地よい撫でさすり』というのは、私の特技である。
「でもこのままでは、側仕えのあなたまで日陰の身となりますよ」
側仕えなら主人のことをもっと考えて、本気で帰郷を促しておくれよ!と言いたい。こんな土地から中の君を引き離してよ!言いたいが、私は滝石なのでそこをぐっと我慢して、せっせと彼女を撫でさすった。
「はぁっ。滝石様が、わたくしをさらってくれれば、日陰とはならないかもしれません」
修理の君は荒い息を漏らして私にのしかかってきた。白粉を塗っているはずの顔が真っ赤である。熱で浮かされているというよりも、興奮してしまってえらいことになっているようだ。どうも肩を撫ですぎたに違いない。
「さ、それは……」
返す言葉を濁していると、修理の君は全体重をかけてぐいぐい私の顔に自分の顔を擦り付けてくる。あまり強くやられると、男らしく見せるために施しているこちら側の化粧もはげかねない。
「ああ、滝石さんは美しゅうございます。女子のように、肌がすべすべ」
「む、むむ、それはどうも。そ、そうだ。大副様が浜名の姫以外に手に入れたいと願っている姫君ってどちらの方でしょうか」
「まあ。滝石さんも他の姫に興味があるのですか?教えたくありませんわ」
つつつ、と修理の君の指先が私の太ももまで上がってきたので、
「きゃっ」
と思わず叫び声をあげてしまった。まるで女の子みたいな悲鳴を上げてしまったことに焦った私は、かなり乱暴にはなったが彼女の体の下から無理やり脱出した。
「ふう、かわいい。滝石さんは本当にかわいい。だから特別に教えてあげます。大副様は、神祇伯の姫君にご執心なのよ」
「神祇伯の姫君って……」
「梅太郎殿の奥方になる方ですわ」
「梅太郎とは。はて、修理殿は何をおっしゃっているのですか」
なぜ修理の君が梅太郎の名前を知っていて、それを私に話すのか。
「ふふ。知りたかったことでしょう?かあわいい。もっともっと教えてあげますわよ。大副様はこの婚儀を破断にさせて、ご自分が後見なさる別の神子様を夫婦御供にと考えておいでなのです。それから神祇伯の姫をご自分のものになさるおつもりでしょう」
「そ、そんなわけございますまい。神祇伯の姫など、神祇伯の後見がなくなれば、それこそ取るに足らない姫でしょう」
「殿方って、常にめずらしい方に興味を持つものでしょう?神子姫様に毎日祈りを捧げてもらえたら、きっと栄達なさいますわ。それに神祇伯の神子姫は、人ならぬ、天上の歌声を持つらしいですし。もっとも、容姿も恐ろしく人離れしているようですけれどね。おほほほ、はぁっ」
再び修理の君の手に攻め立てられて、私はあとずさりした。
容姿も人離れしているとは、余計なお世話である。あんたがきれいだとほめて足を撫でさすっていたのが、そのご本人ですよ。
私たちは戯れているのか、本気で戦っているのかわからないような状態でもつれあいながら簀子縁に転がった。滝石は色男なので、あまり必死の形相で逃れようとしてはならない。あくまでも遊び人の余裕を見せつつ、若い娘を軽くいなすようにしなければならないのだが、修理の君の力はなかなか強い。じりじりと押し込められ、いよいよのっぴきならない状態になりそうなとき、「ぷくく」と誰かの潜めた笑い声が聞こえた。
二人して身を起こして辺りを見回すと、茂みのところに水浅葱の水干が見える。
「丸まろ」
呼ぶと、茂みからにやにや笑っている丸まろが姿を現した。ちゃっかり出刃亀していたようである。呆れた奴だが、今回は助かった。修理の君も気づいて青ざめると、さっと身を離してそのまま曹司に戻ってしまった。感心するほど素早い身のこなしである。
残された私はのそのそと修繕道具をまとめて、丸まろとともに小屋に戻る。
「仕事もできて、女にも襲われる、そんな滝石に俺もなりたい。ぺっ」
「覗きなんて、悪い趣味だぞ」
「手伝いに来たらあんなところで堂々と始めるので、邪魔しないよう、気を利かせて隠れていた」
「手伝いに来たって、じゃあ、手は治ったってこと?やってもらいたいことがあるんだけど」
「手はまだ治ってねぇ。修繕の板を、足で押さえるくらいの手伝いならできるがな」
「そんなの役に立つもんか。まったく」
「けつでも押さえられるぜ」
「それより、その口を私の足で押さえつけさせてくれたら、よっぽど気が晴れて役立つんだけどね」
「たとえ両手が怪我で使えなくても、滝石に負ける気はしねぇな、ぺっ」
「言ったな」
私は丸まろの足をめがけて蹴りを繰り出した。丸まろはそれをあっさりとよけると、布でぐるぐる巻きにした手で私の肩を押した。思いがけないその素早さと力強さに、私はよろめいて尻もちをついた。丸まろはおどけた表情を作って、せせら笑った。下の歯列をむき出しにして、目を布袋尊のように笑った形にしている。これほどまでにむかつくおどけた表情を、私は他に知らない。
「はーはは、びっくりするほど弱ぇよ、滝石。塩自殿もきっとあんまりひ弱なお前がかわいそうだからかったるい稽古をつけてやってるんだな。ありがたく思えよ」
「ぐっ。屈辱……」
丸まろは私に手を差し伸べて起き上がらせようとしたが、私はその手を払いのけて自分で立った。それから二人で詰所に戻った。丸まろは例によって時折唾を吐きながら二言、三言からかいの言葉を投げてきたが、私は無視を決め込んだ。
修理の君との一件で体がほてったからか、非常に疲れた。干滝殿に戻って、のうのうと昼寝をして過ごしたい。そのためにも早く呪詛状を見つけてここを引き上げよう、と心に決めたのだった。