滝石の武士 1
思っていたのと違った。思えばそんなことがたくさんある。甘いと思ってかぶりついた柿が渋柿だったとか、嬰ロの音だと思って歌っていた音が、実は違う音だったとか。やわらかそうと思って踏んでみたおたまじゃしが意外にもゴリゴリしていたとか。
清涼に見えた神祇伯は意外にも腹黒かった。いや、まだ本当に腹黒い人かどうかは見極めが必要なところだが、真っ白でつるつるやわらかな素麺みたいでないことは分かった。大陸風の辛くて噛み応えのある油麵のほうに近いようだ。
思っていたのと違ったことのもう一つは、神祇大副邸への潜入方法だ。本邸ではなく、郊外の別邸に行くことになった。大副も後ろ暗いことは本邸ではやりづらいのだろうか。そして、その別邸には夜中にこっそり忍び込むのではなく、しばらくあちらで雇われてください、とのこと。これを聞いて二度驚いた。雑仕女にでもなるのかしらと思ったら、武士として詰めてくださいと言われるではないか。三度目の驚きである。
折良く神祇大副別邸では警備を増強するようで、腕の立つ警備員を大募集中であった。
しかし、たかが従五位の下の別邸で「兵大募集」なんて、冗談でしょう。「芋ほり人小募集」の間違いじゃあないの?神祇伯は私を動かすために、舌先三寸で適当なことを言っているのに違いない。
なんて鼻白みながらもその邸に行ってみると、なかなかどうして立派な門構えの邸だった。暗がりの中で見た本邸も立派だと思ったが、白日の下で目にするからか、この別邸の豪華さには目を見張るものがある。まず格式の高い貴族にしか許されないはずの中門が設けられており、その造りも立派である。
神祇伯は邸の敷地こそ広いけれど、周りを憚っているのか、ただ予算がなかったのか、建物自体は地味にしている。でも神祇大副にはそういう配慮はないようで、いい木材を使って豪奢に造りこんでいる。釣り殿などもとても趣があって、あそこで風に吹かれて昼寝をしたらさぞ気持ちがいいだろう。
私が仕入れた情報によれば、五位だったら邸の広さは半町(二千坪弱くらい)までと決まっているはずだ。神祇伯同様、大副も位階に許されているよりも大きい邸に住むことを特別に許されているのかもしれないし、大副の伯父君は今を時めく関白殿なので、その方名義の屋敷なのかもしれない。あるいは、大副がただ勝手にやってしまっているか。そういう邸を作る見栄っ張りの貴族が、ここ最近多いのだ。大副は権力者たる伯父君に疎まれていると聞くし、豪華な邸のそこかしこに見られる荒んだ箇所はまさしく大副の境遇や鬱憤を表しているようではないか。
警備員として採用されるにあたり、上司になる男に資質を試される試験のようなものがあった。そのときに、薪を割ってみよと言われたので、薪に向かって斧を振り下ろしたところ、斧は見事に手からすり抜け、近くの木の枝に突き刺さった。これではいかん、と青ざめた私は、とっさに斧にかけより、木の程近くで死んでいた美しい蝶を拾った。男のところに持っていくまでに蝶の羽をちぎり取り、
「薪を割ってもつまらないので、蝶を狙いました。ほらどうですか、真っ二つです」
と、強気な笑みを浮かべてみた。
男は顔を真っ赤にして憤怒の形相を作った。すわ、『ふざけるな』とののしられて半殺しにされるのだろうか。
私は逃げるためにわらじを脱ぎ捨てようとした。しかし次の瞬間に男は「採用!」と、寺の大鐘が鳴るような声で叫んだのだ。いい加減な面接もあったものである。
今、私は滝石という名でこの邸に詰めている。ともに採用されたのは私の他に一名のみ。やはり、大募集とは言っても大規模な求人ではなかった。
この滝石は声をかけやすい色男、という設定にしている。本当は物語に出てくるような貴公子になってみたいけれど、にじみ出る身分の高さなんてどうやっても真似できない。ここは私の手持ちの武器、にじみ出るお手ごろ感を売りに出していこうと思っている。この屋敷とその周りには男よりも女の方が数が多いようで、私は色男らしく振舞って、ここに出入りする女たちから呪詛上についての様々な情報を引き出す、というのが計画だ。ただ目立ってしまうと逆に隠密行動ができないので、ここらへんは匙加減が必要で、私の腕の見せ所である。眉をきりりと引き、肌をくすんだ色合いにさせ、頬はこけさせて精悍さがでるように化粧をしている。これで見た目はすっかり優男であると信じる。背が高くて良かった。
仕事はもっぱら雑用であり、現在私の手には鍬が握られている。見た目だけでなく、本当の男の膂力が欲しい、と切に願っているところである。数年前、より男に近い存在であったときは、今より幼かったにも関わらず、私にはもっと力があった。私は神殿の菜園に捨てられていた木の板を拾って、固い地盤をもろともせず秘密基地を掘ったりして遊んでいたのだ。
ずっと使っていないまま筋の萎えた女の細腕に、畑仕事はつらいよ、と思いながらも、ひたすら鍬を振り下ろす。台盤所の裏に、小さな畑があるのだが、ここの土を耕すように、と言われているのだ。何よ、やっぱり芋ほり人小募集じゃぁないの。
「なんだぁ、滝石。もう息があがってるじゃあないか」
私を採用してくれた塩自という男は、あまり邸にいることがない。日中はほとんど外へ出かけて、夕方になるとふらっと帰ってくる。帰ってくるなりあれこれと私に指示を出したり、鍛えてくれたりしようとする。特に相撲が得意らしく、私のことも相撲人にさせようと思っているのか、教えに熱が入りすぎてどうにも有難迷惑な場面が多い。
しかし私滝石は、無茶な体力仕事でも稽古でも、優雅な色男という滝石の雰囲気を壊さないよう、真面目にこなしている。誰に見られているのかわからないのでへばった顔もできないし、奴の無茶な四股ふみでたとえ鼻に砂埃が入ってこようとも、いつものように自由奔放なくさめをしたりせず、物静か、かつどこか色気の漂うくさめを、すん、と鼻から漏らすのみだ。油断が許されない、緊張と忍従の日々である。しかしその甲斐あってか、塩自はもう一人の新人よりも、私の方を特に気に入っているようだった。
私とともに採用された丸まろという男にまったくやる気がないといのも、塩自の熱血指導が私に集中する理由の一つである。たぶん塩自は丸まろが期待外れだった分、私の育成に力を注いでいるのだろう。
私は日中、丸まろと二人きりで侍所の横の小さな掘っ立て小屋にいるのだが、この男は事務仕事も、雑用も、すべて私に回してくる。理由は、手が痛いから。この男、面接の際に私と同様に斧を手から滑らせてしまった。こざかしいことにその際の私の対応まで真似てきたのだが、塩自に見せた蝶が、非常に毛深い蛾だった。この国にこんな蛾がいましたっけ?というほどの大物に、二番煎じながら塩自も面白く思い、採用したらしい。一から十まで蛾のおかげ、この男の機転とかそういうものは何にもないじゃないか。
この蛾の鱗粉に毒があり、丸まろの手はひどくかぶれて膨れ上がってしまったのだ。仕事を言いつけられても、「手が痛いのでできません」と、そればかり。たまに水汲みなどをやらせてもその手つきのなんと怪しいこと。これまでこの男はいったいどうやって生きてきたのだろうと思うくらい、普通と思われることができない。
もっとも、私も都での暮らしは初めてで、戸惑うことが多かった。井戸の作りなんかもこれまでいたところとは違うので最初は塩自にすべて教えてもらった。塩自は口調はぞんざいだが、屋敷にいるときはなんだっていとわずに丁寧に教えてくれる。私も一応教わったことをそのまま、ついでに偉そうな口ぶりも真似ながら丸まろに教えてやるのだが、こいつの手つきはなんとも頼りない上に時間がかかるのだ。
そういうわけで結局なんでもかんでも私がやることになっている。そりゃもう許しがたいが、こいつと同じ小屋で息をつめているよりはましなので、私は外に出て仕事をすることにしている。それに私は、こいつがくちゃくちゃ何かを一日中噛んでいる音に我慢がならないのだ。口に綿でも詰まっているんじゃないかと思えてくる。そういえば、本当に何かを詰めてそうなくらい不自然な膨らんだ頬をしている。これで目も頬のようにくりくりしていれば栗鼠のようでかわいげもあるのだが、糸のような目は異様に異様に下がっているが笑っているわけではなく、いつも無表情で親しみが持ちにくい。
とにかく雨の日の事務仕事は、この音に煩わされないよう、できるだけ窓際で雨の音を聞きながら作業している。
しかもこの男、よくよく見れば実は数日前まで大副の本宅で牛飼い童をしていたはずの男である。あのときはもっとおじさんかと思ったが、よく見ると大分若いようだ。私があげた水干、どっかの爺さんに売り払ったはずのを、ちゃっかり取り戻して着こんで澄ましている。
どうして本宅ですでに雇われていたのが別邸で採用されなおしているのか。聞いても要領を得ない返事が返ってくるばかり、私もあまり突っ込んだところを聞いて神祇伯邸の姫だとばれても困るので、経緯は不明のままである。大方、本宅で失敗をして解雇され、ふらふらしているうちにこちらの求人に応募したというところだろう。本宅と別邸では使用人同士の行き交いもあまりないようで、丸まろに気づく人もいないのがこの男にとっては幸いしている。なんて強運の持ち主だろう。
丸まろがどんなに怠惰でもこんな風な強運の持ち主であるので、こちらがどんなに奴について不平を言おうとも状況は変わらなかった。ぶぅぶぅ言い続けているとかえって私の立場が悪くなりかねないと感じられてきたので、諦めることとした。正直腹にはすえかねるが、奴は神々に愛されているのだ。触らぬ神に祟りなし、である。
「さーあ、滝石。お待ちかね、相撲の稽古だ」
今日も残念ながら塩自が私めがけて帰って来た。しかもいつもいないはずの日中にやって来た。
待っちゃいませんよ、とつぶやきかけ、丸まろの視線を感じて慌てて口を閉じる。こいつは告げ口屋でもあるのだ。
塩自は張り切ってすでに四股を踏んでいる。黒の柴犬のような毛が胸を覆っている。勘弁してよ、もう。為すすべなく私は塩自と相撲を取って、四、五回投げ飛ばされるはめになった。
「ようし、ずいぶん良くなったじゃないか。お前だってあきらめることなんかないぞ、この調子でいけばいいんだ。さ、じゃあ後は西の対へ行って北側の簀子縁の壊れているところを直してこい」
塩自は自分の無限の体力が私にもあると思っているのか、しごきこそが心身の基礎を作ると思っているのか、私に休む暇を与えない。
そういうのって、古いと思うんだよね。いかに効果的な休息を取り入れながら体力向上に励むか、それが昨今のもののふたちの体づくりの要である。塩自流じゃ生徒もついてこないし、あなた自身の筋肉にも裏切られますよ、と言ってやろうかしら。