清流の滝
神祇伯邸の干滝殿につくなり、私は帳台に倒れこんでしまった。ここにきて、ひどく腹が鳴りだして気持ちが悪い。無茶をして夜更かしをしたことがきっかけで、とうとう毒が本格的に体を蝕み始めたのだろう。
宛木は私の帰還に安心したのもつかの間、慌てて看病を始めてくれている。自身もよく眠れぬ夜を過ごしただろうに、私がいつもの枕はいやだの、宛木に直接お粥を作ってもらいたいだのとわがままを言うのに異を唱えず、あちこち走り回って世話を焼いてくれる。
お粥を食べると少し落ち着いて、私はひと眠りすることにした。眠っている間、宛木に見守っていてほしい、と言うと、宛木はいかつい顔を綻ばせた。
「ほほほ。いつも強気な姫様が弱気になっていらっしゃいます。おかわいらしいですわ。風邪を召されている間は無茶な夜歩きもなさいませんでしょうし、たまにはこういのもよろしゅうございますね」
風邪どころじゃないのだ。こちらは毒を盛られて死にかけているというのに。
早く解毒してもらわなけりゃ、それにしても宛木はのんきだなぁ、と思っているうちに、私はふーすー、とまたぞろ寝息を立て始め、不覚にもそのまま一昼夜寝込んでしまった。
「姫様。お休みのところ失礼いたしますが、大殿様がお見舞いにいらっしゃりたいと仰っています。起きられますか?」
翌日の昼過ぎだろうか、宛木がそっと声をかけてきたので私は目を覚ました。その日は晴れていて、格子の隙間から入り込むうららかな光が母屋を照らしている。
「先に何か召し上がりますか」
「いや、いい」
どこに毒が盛られているのかわかるまでは、安易に食べてはいけないのだった。宛木に作ってもらったとはいえ、なぜ私は昨日おかゆなどを食べてしまったのだろう。悔やまれてならない。
体はしんどかったが、多忙な神祇伯が帰宅していて、見舞いに来てくれるのであれば、ここはぜひとも起き上がらねばなるまい。そして、タコ大副の奴の悪だくみを余さず伝えねば。清流のせせらぎのような神祇伯に私が見聞きしたことを伝えて、果たしてその流れを汚してしまわないか、心配な部分もあるけれど。
身だしなみを整えると、待つほどもなく神祇伯が部屋にやってきた。邸内のどこかに毒を盛っている人物がいるはずなので、まずは二人だけで話そうと決めていた。宛木さえも人払いをした部屋に、神祇伯はちんまりと座った。
顔を見るのは久しぶりである。ここ最近では、こんなに早い時刻に帰宅することはめっきりなくなっていたので、珍しいことだ。焼けた太の宮の後処理の目途がついてきたのだろうか。過労気味だろうに、いつも通り清水のように澄んだ笑みを浮かべているのを見ると、こちらも少しばかり胸が軽くなった。
「お休みのところ、申し訳ないですが」
「いえ、こちらこそ、お忙しい方をよそに、昼過ぎまで寝てしまうなど、申し訳ないのです」
「いえいえ、私こそ忙しさにかまけてご無沙汰しておりまして、申し訳ないです」
「いえいえいえ、そのようなお気遣いを頂いてしまって、却って申し訳ないです」
二人して頭を下げていると、なんだかおかしくなってきた。こらえきれずくすりと笑うと、神祇伯もさらに柔らかい笑顔になった。
「ここに来ると、落ち着きます。あなたが住んでいらっしゃると、空気が清らかになるようです」
「もったいないことです」
この身は清らかどころか、死に至る毒物を蓄えているのです。私はさっそく本題に入ることにした。
まずは時間軸に沿って、梅太郎の塗籠に潜入したところから始めると、神祇伯は土色の肌を蒸気させて目を白黒させながらも、黙って聞いた。この人は、自分がどんなに驚こうが、人の話を折ることなく、最後まで聞く姿勢を崩さない。偉い人である。おかげで、廂の下で盗み聞きした神祇大副と何者かの会話まできちんと伝えることができた。
「ここに来て、私の腑に溜まり続けた毒が、とうとう体中をめぐり始めたようで、耐えきれずに寝込んでしまいました。もう長くはないかもしれません」
げほごほと咳こんでみると、神祇伯は少しためらいながらも帳台に上り、私の背に手を副えてくれた。
「お見苦しいところをお見せしました。でも神祇伯様。あなた様のお具合はいかがですか。あなた様にも毒が盛られている可能性はないのでしょうか。最近、とみに疲れておいでですし、ああほら、ここにも御髪が抜け落ちております」
ひらりと畳に舞い落ちた神祇伯の毛をつまみ上げた。いつだって神祇伯が訪れた後はそこらに大量の毛が落ちているのだ。当然女性の髪より短くはあるが、なんとも美しい絹糸のような毛だなぁ、落とすにはもったいないなぁ、といつも思ってきた。
神祇伯は静かな仕草で私から髪の毛を受け取ろうとしたが、ごみを渡すのもどうかと思い、私はそれをぎゅっと握りしめた。神祇伯は目をきょろきょろさせ、
「ええと、何から申し上げてよいものかと、案じております」
と俯いた後、
「まず、あなた様の身に毒は盛られておりません。それに私の体も健康そのものです」
と再び顔を揚げた。
「でも」
私はちらりと手の中の毛に目をやった。神祇伯の顔色はもともと土色であまり良くなかったような気もするけど、それにしたって髪の毛、抜けすぎですよ、あなた。
「神祇伯様。私はあなたのお体が心配です。この髪も」
「そ、それは」
「それは?」
「それは、北の方の毛なのです。ここに来る前に、その、少し会っておりましたので」
神祇伯は顔を扇で覆って隠した。
ああ、そうか。北の方は大陸からお迎えした方だ。大陸の女性は、この国の姫君のように身の丈ほどには毛を伸ばさないのだ。確かに男性にしては少し長めの髪だとも思っていた。そもそも、神祇伯は髪をきちんと結っているので、はらはらと毛が抜け落ちるわけもないのである。
「なるほど、さようでしたか。昨春に太郎君をご出産されたからでしょうね。こんなに抜けてしまうなんて……。そうだ、先だって北の方に分けていただいた毛の生える薬を、お返ししましょう。まだ残っているはずです」
「お気遣いありがとうございます。でも北の方は、元来多毛なので大丈夫です。今もまだ、美しい毛が波打っていますので」
神祇伯は袖口にも抜け毛を見つけたらしく、それをそっと摘まみ上げて、きちんと畳むように折って手のひらにしまった。
つまり、神祇伯は仕事を終え、帰宅して、北の方としばし仲良く過ごしたのだろう。そしてひと段落したら、ほくほくした気持ちでこちらの寝殿にやってきたのだろう。彼女の髪の毛を衣のいたるところにつけたまま。今回に限らず、いつも神祇伯の通った後にはこの毛が落ちているので、神祇伯は北の方ととても仲の良い夫婦なのだろう。
別に悪いことではない。善きことである。ただ、私は自分と梅太郎のあまり良くない仲などを考えてしまって、なんだかつまらない気持ちになり、手に持っていた髪の毛をぽいと板の間に捨てた。けっ、なんだってんだよ。
それもこれも、すべて梅太郎のせいである。梅太郎を夜這いに行ったはいいものの、朝まで一人で放置されていたと気づいたら、私だって気持ちがやさぐれるのだ。そういやあいつ、どこに消えたんだろう。
「ご健勝でなによりですこと。さて、私は毒が回って少々気持ちが悪いので、一度やすみます。今後の食事は自分で用意しますので、ご心配なく。ささ、早く北の方のところに帰って差し上げて」
私は神祇伯の目の前でごろりと畳に横になった。なんの、失礼なものか。こっちは病人なんですから。お腹がすいてきたが、胡瓜でも食べていればいい。その気になれば胡瓜だって食べられるのだ、私は。幸い、懐には朝になったらまた梅太郎にあげようと思っていた数本の胡瓜が残っていた。二日前のだからちょっと潰れてしまっているけれどね。
「ははあ、ご気分が悪いところ、長居してしまいました。今日のところは、毒のことについてですが、これはご心配なく、とだけ申し上げていきますね。詳しいことは、また今度」
神祇伯はそそくさとその場を後にしようとしたが、私の手がふいに動いたかと思うと、その指貫をはっしと握り、伯はたたらを踏んだ。そうだ、やけになって大切な話をしないで済ませてしまうところであった。でかした、私の右手。大副の陰謀についてをきちんと話さなければ。
「心配ないって、どういうことですか」
「お加減が悪いようですので、またにしましょう」
「聞かせてください」
「いやぁ、なかなか」
「聞かなきゃ安心できないでしょう。お聞かせくださいってばよ」
「では。実はですね」
神祇伯が言うには、料理に毒を盛ろうとしている女がいることは、数か月前から気が付いていたという。ちょうど胡瓜が目に入って私が寝込んだときだ。目やらお腹をお医師が検分したところ、料理にここらでは珍しい毒物が混入しているのが明らかになったのだ。ただ、私を怖がらせないように、内密にしておいたらしい。
確かに、いかな速度で飛んできたにせよ、胡瓜が目に当たったくらいで目があんなに腫れあがるのはおかしかったのだ。神祇伯はすぐに対策を練って、その後の料理は秘密裏に安全なものと差し替え、私のところに運ばせていたらしい。毒を盛り続ける不埒な女についても調べさせ、指示を出しているのが神祇大副というところまではわかった。ところがこれだけでは神祇大副を問い詰めるのには弱いらしく、決定的な尻尾を見せるまでは気づかぬふりを通すことにしたのだった。
つまり、毒は盛られていなかった。少なくとも最近は大丈夫だった。じゃ、昨日お腹の痛かったのはなんだろう。まさかまさか、夜更かししすぎて、お腹が空きすぎて痛いように感じていただけだったりして。だってお粥を四杯食べた後、すっかり痛みは引いている。身を起こしてみると、先ほど寝たおかげかいつになくぴんしゃんしている。
「なんだ。元気だ、私」
「そうですか。何よりですね」
神祇伯はにこにこしている。私は今までのものが仮病だったととらえられると思うと、恥ずかしくなった。本当に痛い気がしたのだけれど。
私は咳払いして、話題を変えた。
「神祇伯様、あなた様ご自身が狙われることはないのですか」
「そうですね……。まずないでしょう。神祇官の長官は、他の官職と異なり、任命に唯一神前での誓約の儀がある職なのです」
候補者の中から、帝が選んで任命する職らしい。拝命した長官は、神前で「これから長官になります」と誓約をする。神聖な職なので、毒殺の対象などにするには恐れ多いという理屈らしい。人殺しなぞしたら誰にだって神罰は下りそうだが、そこはまあ、隣の家の戸棚から牡丹餅を盗んだ人と、仏様のお供え物になっている牡丹餅を盗んだ人では、仏様の前から盗んだ人の方が分が悪い気がする。神様なんていったら特に、仏様より情け容赦ない報復をする気がする。
そのために神祇伯本人でなく、夫婦御供に選ばれてはいるが、まだ露見前で正式には捧げものになっていない私や梅太郎が標的にされたのだ。
神祇の長官という職は従四位の下という、宮廷を牛耳る三位以上の方々から見れば取るに足らない身分ではあるものの、神様を後ろ盾に持つ、結構重要な職らしい。娘を入内させたり、一定の発言力を持つ特典があるとは聞いていたものの、私が思っていた以上に皆が欲しがる職なのかもしれない。
ふうん、神祇伯って、やっぱりすごいんだ。それに、毒のことも前もって把握していたなんて、しっかりしてるわ、この人。
「それから、梅太郎殿のことですが。遠の君のお体の具合が良くなるまでは秘めておこうと思っていたのです」
「なんですか」
「いえ、やはり、また後日にしましょう。夜中に婿殿のいる邸へ忍び込むほどお元気だとしても、やはりつい先ほどまで寝込んでいらした方ですし」
神祇伯はちくりと嫌味を言った。私の夜中の外出について、これまで何も言われてはいない。私は寝込んでいたし。しかしこれはきっと、本当に元気になったと私が宣言でもしたら、結構なお小言がある気がする。普段おとなしい方なので、一度怒ったらしつこそうだ。
「お教えてください。お願いします」
殊勝な感じで頭を下げると、神祇伯は手に持っていた扇をきちんと閉じて、膝に乗せた。
「実は、梅太郎殿は行方不明です」
ふむ。
それでは私を置き去りにした後、梅太郎は雲隠れしてしまったのだな。夜中にほっつき歩くから、物の怪に見入られたとか?結構良さげな人間なので神様に気に入られて、神隠しにあったとか?それとも、私が寝ているこのわずかな合間に神祇大副がさっさとひょろ瓜暗殺を執行してしまったのだろうか。
「ふむ」
でも私はこれしか言うことができなかった。
「遠の君、遠の君」
ふと、神祇伯が私の手を取って揺すぶっているのに気が付いた。あら、神祇伯ったら、先ほどから、妻のある身で、いくらなんでも距離が近すぎやしませんこと?よその女の毛をつけた袖で、私に触れないでください。腐っても元神子、私の機嫌を損ねれば……。
「お顔が真っ青ですよ」
「あらそうですか?」
「ご安心ください。夜に出かけるなどと無茶をなさったので、少し意地悪をしてみたくなり、あんな言い方をしたのです。お許しください。表向きは、行方不明ということで、身柄は確保しています。どうも梅太郎殿は昨晩逃亡を試みたようです。人間界へと通じる絶間が一旦閉じるのが昨日だと、どこからか聞きつけたのでしょう。周到な計画を練っていたようで、あなたが昨日彼のところを訪ねてくださったおかげで、この計画にずれが生じ、結果、絶間が開いている間に梅太郎殿はたどり着けなかったようです。ですので、遠の君。いろいろと申し上げたいことはあるのですが、今回はお手柄、ということで不問にいたしましょう」
「お手柄……。身柄は確保って、どういうことですか?」
「梅太郎殿を発見したのは、私の手の者です。神祇大副邸の動きは日々探らせているのですが、昨日の明け方、梅太郎殿が邸を抜け出して夜闇に消えたと報告があったので、大副殿より一足先に捜索を始めさせました。昼になる前に、絶間のある馬五井山近くで梅太郎殿を発見しました」
な、なるほど。日々探らせていたとな。では私が男装をして忍び込んだのもきっと報告されていたのだろう。門に入る前、気合をいれるためにおならをしたのまでは知られていないよね。
「彼は今、陰陽寮の天文博士のところに身を寄せています。その方がこちらも動きやすいので。しばらく身を潜めてもらい、ついでに色々とこの世界について勉強していただきましょう。神祇大副殿はご自分の管理下に置くべき梅太郎殿の逃亡を、おおやけにはしておりません。今のところ、隠そう隠そうとしております。まあいずれ言わざるを得ないのですが。しばらく慌てさせておきましょう」
神祇大副は面白そうに笑った。今までただただ礼儀正しく、物静かな方と思っていたけれど、少し違うようだ。したたかで、大胆だ。今日に限っては声もよく聞こえる。ようやくこの方の声量に私の耳が慣れたせいもあるけれど。
「しばらくとは、いつまでですか?」
「大副殿が梅太郎殿の行方不明を打ち明けてきたら、無事であることだけ伝えてあげましょうか。居場所まで明らかにしなくてもいいでしょう。もともと、私のところでお二人とも引き受けたかったのです。それを、大副殿が出張ってきて、夫婦御供のうち一人はどうしても自分の屋敷に置いておきたいとおっしゃったので、今こうして二人が離れて暮らしているわけです」
「神祇伯様のお目の届く範囲にいるということは、梅太郎の命についてはもう安心していいのですか」
「どう思いますか?」
ふと私は考えた。大副はこの夫婦御供をなしにするため、早いところひょろ瓜こと梅太郎を殺そうとしていた。居場所が分からないからと言ってそう簡単に諦めるだろうか。
「呪詛……」
「さすが遠の君、ご明察です」
神祇伯は嬉しそうに手を打った。
「そ、そんなに軽い感じなんですね」
「呪詛となると、証拠がつかみやすいのです。呪詛状や護摩木に、願主の名前を書きますからね。その呪詛状さえ手に入れてしまえば、神祇大副も言い逃れできないでしょう」
「でも、呪詛とは恐ろしいものではないのですか?」
字面からして不吉である。
「ふふふ。呪詛の効果がでるのなど、のんびりしたものです。それこそ、次の婚儀にぎりぎり間に合うか、合わないかというくらいです。その間に、あなたはもう一度、神祇大副邸に忍び込んで、呪詛状を取っていらっしゃい」
さらりと簡単に言う。私が宛木に「ちょっとおかわりのご飯もらってきて」と言うのと同じ感じだ。私も思わず宛木のように『またですかぁ、でも、はぁいただいま』と応えるところだった。いけないいけない、何を気軽に言っているのだ。昨晩こっそり乗り込んで、ばれずに帰ってきたのは奇跡と言ってもいいくらいだ。先ほど神祇伯に説明した時もつとめてその時の気持ちなどには触れなかったけれど、わくわくしていたのは最初に梅太郎に会う時まで、置き去りにされてからは、幽霊の出そうなあばら家だし、男女の業も深いし、犬がいたし、猫も鳴いていたし、館の主人は不穏な話をしているしで、色々と怖かったのだ。この明るい干滝殿に帰ってこられて、心底ほっとしているのだ。
私は『お世話になっているあなた様のご指示ではありますが、いやです』と言おうとしたが、神祇伯に先を越された。うぬぬ、手ごわい。
「彼の邸に手の者をもぐりこませたくても、信頼できる者は出払っているか、大副一派に面が割れています。あなたなら、直接神祇大副に顔を見られたことはないですし、ご自身の進退に関わっていることなので、決して裏切ることもないでしょう。大丈夫、昨晩一度やったことです。二度目も成功しますよ」
この人、この間庭に針を撒いたときも思ったけど、やるとなると見境がないな。
「で、でも、まだ呪詛されると決まったことではありませんし」
「そこはこの神祇伯、腕によりをかけて神祇大副殿に呪詛させてみましょう」
そう言った神祇伯がにっこりと笑うと、私もつられてにっこりと笑ってしまったのだった。