夜這い 2
部屋には燈台が一台あるきりで、月明かりも入らず、とても暗かった。
ふと思い当って、倒れている戸を持ち上げると、これが意外に軽い。
それは、下から梅太郎が持ち上げているからだった。私は「ひっ」と声を上げ、戸から手を離した。
倒れた戸の下からゆっくりと現れたのは、暗がりの中でもはっきりとわかるほどの青筋を立てている梅太郎だった。
「あ、あの、ごめんね。大丈夫?」
「帰れ」
その声は地響きのように聞こえた。私はまたもや体を縮めたが、大丈夫、私が来たことに怒っているのではない。戸の下敷きにされたからちょっと怒っているだけだ、きっと。
「えっと、さっさと開けてくれたらよかったのに」
私はかろうじて戸に潰されなかった烏帽子を梅太郎の方に差し出した。
もう床につこうとしていたから、離れたところに置いておいたのだろう。神殿では男の神子たちは基本烏帽子などかぶっていなかったが、もう一年近く貴族社会に浸ったからか、むき出しの髻を見てたじろいでしまう。
眼鏡をかけていないのも、寝るときにはこれも外すのだろう。髪が乱れているせいもあるが、梅太郎は少し面やつれしたようである。赤茶けた肌の張りが失われ、疲れている。胡瓜の食べすぎじゃないだろうか。あれは水分ばかりで、滋養、というものが感じられないから。
「あの、胡瓜をあんまり食べない方がい」
「帰れ」
梅太郎の悪い癖、それは人の話を中断する癖である。
「あのさ、私が話してるんだから」
「こっちは寝てたんだから帰れよ!」
吐き捨てるように言った後で、梅太郎は私に顔を近づけてきた。その距離が少々近すぎて私が多少後ろにかしいだとき、梅太郎は自分の膝をばしんと叩いた。その勢いに倒れていた妻戸がまたがたんと音を立てた。
「まさか、男装してるというのか?それは狩衣か。なんという格好をしているんだ!」
眼鏡がなくてもこのくらい近づけばわかるようである。
「へへ、似合う?」
「あんた、仮にもお姫様なんだろう。ここに来て間もない俺でも、その姿がどんなに突飛なことかわかる。誰かに見咎められたらどうするんだ。ここは噂天国だ。そしてその噂一つで身が滅びかねないんだぞ。お姫様がそんな恰好するのも、夜に男の部屋に来るのも、あり得ないだろう?」
「あり得たんだな、これが。あんたにはまだまだこの世界を知る余地があるわね。ささ、早くそのちびた髻を隠しちゃいなさいよ、恥ずかしいわよ」
もう一度促すと、梅太郎もしぶしぶとそれをかぶった。これでお互い少し気分が落ち着くだろう。落ち着いてくると、私はさっそく先ほどから気になっていたことを切り出した。
「それより、ねえ、このにおい、ここでは燈台に魚油を使ってるの?」
私はくんくんと鼻をうごめかせた。庶民は臭いのきつい魚油を使っているが、貴族はたいてい植物性の油を使うはずなのだが。
「ああ、そうみたいだな。でも、今夜も夕飯が鰯だったから、その香りも残ってるんだろう。よい鰯だった」
梅太郎は心なしか口元をほころばせ、魚の味を反芻するように遠い目になっている。
「鰯!神祇大副はお金に困ってらっしゃるのかしら。鰯なんて下魚、貴族は普通食べないわよ。梅太郎殿、あなたに教えてくれる人は誰もいなかったの?まあでもこの建物の具合からするに、ほっぽらかされてるみたいね。すうすう風も入ってくるじゃない。古いのでもいいから、障子や几帳を貰えるようお頼みなさいよ。障子で囲ったり、几帳の布を隙間のところに挟んでおくといいのよ。はあ、それにしても鰯とは恐れ入るわね。あのね、貴族ってのはね、たっくさん決まり事があるのよ。あんたはこれからぜーんぶ一から学ばなきゃね」
「ふん」
梅太郎は鼻で笑った。
「例えば?そうねえ、例えば、眉は極力動かさないで喋る、とか。あと何があったかな」
「いや別に聞いてない」
いい機会なので、私は日頃宛木に耳にタコで説かれ続けている『貴族道』について、受け売りで伝えることにした。人に言われるとうんざりするが、教える立場というのは楽しいものだ。
ところが悦に入って話しているうちにどうも梅太郎がこちらの話を聞いていないような様子であることに気づいた。耳をほじってあからさまに違う方を見ている。
まあ、今日はあまり突っ込まないで早めに畳んでやるとするか。
「とまあ、そんなこんなで貴族として暮らすのはいろいろ制約があって面倒だよ、ということ。ねえ、鰯を食べてることは内緒にしといた方がいいわ。鰯を食べてるが尾ひれをつけて、ナメクジを食べてるになって、そのうち体がナメクジ、って陰口をたたかれるわ。知らないかもしれないけど、ここはなんと言ったらいいかな、そう、噂天国なのよ」
そう言ってから、私はさっき梅太郎がしたように、鼻で笑ってみた。
「うまい具合に言った顔してるが、それはさっき俺が言った言葉をパクッただけだろう」
「ふふ。もしも服に臭いがついたら、魚油の臭い、ということにしときなさいな」
「なぜだ」
「さあね、私も宛木にそう言われたの。明日からは、頼んで夕飯は他のものにしてもらうのよ。神祇大副がどんなに貧乏でも、鰯しかないわけないんだから」
「いや、俺は鰯がいいんだ」
ふむ。私もそんな風に素直に言えば良かった。私だって膳に乗るわかめの酢の物を毎日毎日、おとなしく頂いているけど、実は鰯の方がおいしいと感じている。貴族の食事は乾物が多くて、味気ないものが多い。塩を足しても、酢を足してもいかにもおいしくないものばかりだ。そのせいか、最近元気が出ない日が多いような気がしている。
「いいなぁ、梅太郎殿は」
「簡単なことだ。今からでも鰯をくださいと言えばいい」
私は内心、そりゃそうだ、今度そう言おう、と思ったが、素直にそれを伝えることはしなかった。
「あんたさ、そういうもんじゃないのよ。鰯を食べないにはきっと深い理由があるのよ。まあいいわ。そうそう、それよりも」
私は懐に隠していた胡瓜数本を抜き出し、床に並べた。
「瓜太郎に、お土産よ」
梅太郎は「さっきあまり食べるなと言ったじゃないか」と言うと、さしてありがたくもなさそうにそれを脇に片付けた。あれ、大好物じゃなかったのか?なんとも薄い反応である。
「まさかこれを届けるためだけにきたのか?」
「まっさか!私はさぁ、えっとね」
あら、私は何をしに来たのだろうか?胡瓜を届けたかっただけのような気がするが、そんなわけはあるまい。
「あ、そうだ。私はね、礼儀知らずのあんたに色々と教えに来たのよ」
そうだ。思い出せて良かった。
「はあ……」
「まずね、なんで私に文を出さないのよ。こういうときは男の方から何くれとなく文を出すものなのよ」
「結婚はしないと、前に言ったはずだ」
まだそんなことを言っているのか。神祇大副は、そこのところを第一に言い聞かせておかねばならないのに。私は、大げさにため息をつこうかと思ったが、喉に息が絡まってうまくいかなかった。ため息なんて、普段つきなれていないのだ。しかし、前回たくさんため息をつかれたので、今回は絶対にこちらが先にため息をつこうと思っている。
「そこはもう変えることはできないので、諦めなさいな。私たちが結婚しないと、天変地異が起こって、地震、雷、火事、おやじ、大変なことになるのよ」
梅太郎は納得できない表情である。
「信じられないなら、詳しいことは、陰陽寮の方々に聞けばいいわよ。神祇伯様と仲良くしている方が何人かいらっしゃるので、こちらを尋ねていただけるようにお願いしとくわ。それはさておき、まずは、私への文よ。あんた、やっぱり字が書けないの?」
「何を言うか。字は書けるが、俺のいたところの字とは違うんだ」
「なによ、えばっちゃって。こちらの文字が書けないと意味ないのよ。練習くらいしてるんでしょうね。毎日暇してるんでしょ?」
「失敬な人だ。俺はこれでも色々と忙しい。それにこの世界に長くいるつもりはないから、練習は不要だ」
「ふん、何が忙しいよ。暇太郎のくせに」
忙しいとは、やはり日がな一日、中の君やら大副の娘のところに入り浸っているのだろうか。大副の姫がどうかは知らないが、妹は確かに愛嬌があってかわいい。でも中の君は絶対に興味半分、怖いもの見たさで梅太郎をからかっているだけに違いないのだから。後で愛想をつかされるに決まってるんだから、あまりのぼせなさんなと忠告しておくべきだろうか。
いや、やきもちを妬いていると思われたら情けない。焼けてしまったのは太宮のお餅だけ、私は梅太郎がどんな恋愛をしていても、てんでかまわないのだ。恋慕に身を焦がす暇があるなら、冷たい水浴びでもして心を清らかに保っているべきである。
ただ、一緒にいるときは仲良くしたい。そしてそのときだけは彼も私のことを見てくれればいいじゃないか。もやっとする部分もあるけれど、それでいい。そうだ、それでいいのだ。
「ま、いいわ。それより私、他にもいいものを持ってきたの」
私は懐から料紙を取り出した。そこにはすでに男から女への切ない恋心が綴ってある。書いたのは私だが、梅太郎から私への文ということになっている。
「これを、あんたのへたくそな字でもいいから、見よう見まねで写して私に送ってね」
梅太郎は一応その文を手に取って眺めてくれている。言うことは尊大で嫌味だけど、話を聞いてくれるのはいいところなのよね。
「内容は何て書いてある?」
「内容なんて知らなくていいから、とにかく写せばよろしい」
私はすぐに紙をたたんで、次の話に移ろうとした。ところが梅太郎はその紙を抑える。
「なんて書いてあるんだ?」
「え?」
梅太郎の真剣な表情に、私は不本意ながらたじろいでしまった。
文には、あなたに会えなくて寂しいだのなんだのと恥ずかしげもなく書き連ねてある。そして最後には、こんな歌をつけてある。
ひとすじに 我たちゆかむ 通ひ路の
かたきも遠きも 恋しきほどに
頑張って頑張って、練り上げた歌である。これなら宛木が見ても、「梅太郎様もなかなかの歌をお読みになりなさる」と見直すのではなかろうか。
歌について説明すると、まず、梅太郎が人間界からこちらに来るときに通ってきた絶間は、一歩間違えれば黄泉路に迷い込んでしまう恐ろしい道である。しかしその通い路の困難をものともせずに恋しいあなたに会いに行くよ、と詠んだ歌である。
工夫したところは、「かたきもとほきも」というところである。
私の寝起きする干滝殿を重箱読みすると「かんたき」となり、音が難きに近い。私は遠の君とも呼ばれているが、かんたきさま、と呼ばれることもある。どうも「ひたきさま」は発音しづらいらしい。「したきさま」となっちゃうものね。
とほき、も私の呼び名である「遠の君」に通じる。つまり、難き、遠きといった言葉は私を思い出させて、むしろ行くほどに恋しさが募るわい、どふふ、というふうな歌となる。
まあそんな歌も添えつつ、臆面なく恋心を訴えている文であるため、素直に梅太郎に内容を伝えるのが恥ずかしく、
「私のことが割と好きって書いてあるのよ。いいでしょ、それくらい」
と、早口に言った。梅太郎はじっと私の文に見入っていたが、やがて、
「なるほど、読み書き。練習しておいても良いかもな」
と呟いた。あら、これはいい傾向である。頑張って歌を考えて良かった!
「梅太郎殿、偉いわ。じゃ私も張り切って、次は後朝の歌を考えてくるよ。またその時になったら言うけれど、これと同じように、あらかじめ私が渡す後朝の文を写しておいて、初夜を終えてこの邸に帰ってきたら、それを使いに持たせてなるたけ早く神祇伯邸に寄こすのよ」
「初夜はしないが、まあその話を続けると、君が既に文を書いてるなら、その文をそのまま送り返せばいい。同じ内容で書き直すのは非効率だ」
「そんなの、私の筆跡だってすぐにばれちゃうじゃない。どへたな字でもいいから、あんたが自分の字で書くのよ」
「それでは内容もこっちで決める。俺の名前で出すものに、変なことは書きたくないからな」
ちょっと、せっかく考えたんだから、無駄にしないでよ。
「余計な遠慮をするもんじゃないわ。夫婦になるんだから、遠慮とか、申し訳ないとか、そういうのはまず忘れて、どーんと来なさい」
「わかったわかった」
梅太郎は面倒くさい、というふうに横を向いて、肩をすくめた。適当にあしらっている感を醸し出す腹の立つ仕草である。やり方が胴に入っていない感じから鑑みるに、梅太郎も普段はしない仕草なのだろう。私をやり過ごすため、あるいはやきもきさせるために新たに取り入れたのではないか。許せぬ。許せぬが許そう。険悪な雰囲気になりつつあるが、これでは今夜の趣旨にそぐわないからね。私は気を取り直して明るい声を出した。
「ま、今日のところはこれくらいでいいわ。さ、疲れたから、さっさと寝ましょう」
衾を持ち上げると、梅太郎はこちらに向き直った。
「まさか泊っていく気か?」
その通り。車は一旦帰した。
「だめだ。帰れ。俺には恋人がいる。それにあんたの眉毛、それ太く描きすぎじゃないか?男だってそんな眉毛の人なかなかいないよ。直視できない。まあ俺には恋人がいるから直視する必要はないがね」
「そんなのどうでもいいじゃないよ」
「いいわけねぇだろうが」
「お堅いわねぇ。人間界では知らないけど、ここではいいんですって」
梅太郎はぷいとそっぽを向く。
「あのねぇ、前回のあんたのやり方はひどかった。それがけちのつき始めだったと思うわ。そりゃ太宮の餅も焼けるわよ。だから次の結婚はうまくいくように、私が風流な夫婦のやり方の手本を示してあげるわ」
「な、何を言ってるんだ。お宮が燃えたのは俺とは関係ないだろう」
「神々は見てらっしゃるのよ。ほら、時間がないんだから、いらっしゃいよ!」
次の蝕まで二月を切った。失敗したり喧嘩をしている暇はないのだ。鬼気迫った感じで言うと、私は片手に衾、片手に梅太郎の小袖の襟をひっつかみ、古びた畳に倒れこんだ。どどどっと大きな音がした。
おっといけない、これではまったく雅じゃない。
私は胸に手を置き、気持ちを落ち着かせた。それから梅太郎の鬢の毛をそっと撫でようとしたが、梅太郎が激しくかぶりを振るので、危うく彼の目を指でさすところだった。
「ちょっと、静かにしなさい」
押さえつけようとするも、この間のようにうまくはいかない。気が付くと、形勢逆転され、初夜の時と同様、梅太郎に覆いかぶさられていた。
こうして体を受け止めてみると、胸板が想像以上にがっしりしている。宛木が言った通り、前回私が押さえつけた時は、奴も後ろめたさがあって本気で抵抗しなかったのかもしれない。胸を押し返してみるも、びくともしない。まるで石像だ。そこらの生なり貴族の男にしてみれば、そういうところが人間すなわち蛮人と考えられる所以なのかもしれない。それとも、下界でもこの男は武力を行使する職などを得ていて、人間の中でも特別に屈強な体つきなのだろうか。一応、絶間を越えてこられる者として選ばれたのだから。
梅太郎はじっとこちらの目を見据えている。私の目はもともと遠くのものまで見通すし、夜目も効くから相手の顔立ちの細部まで見えている。
梅太郎の方はどうだろう。この薄暗がりの中、ご愛用の眼鏡をつけずに、どこまで私が見えているのだろうか。彼の目には一応、私が映りこんではいる。両方の瞳が私の狩衣の色を受けて、濃藍に美しく光っている。やはり整った顔立ちをしているね、この男は。
「あんた、きれいね」
「む?」
「ね、下界では侍なの?」
「はあ?」
「はあ?じゃないわよ。さ、重いから、早く退いてよ。さっさと寝るわよ。あんたが寝るまで、鬢をずっと撫でていてあげるから。ありがたく思って、じっとしてらっしゃい」
梅太郎は私の上から勢いよく飛び退いた。
「してくれなくて結構。早く帰れ。これはあんたのためだ」
「恩着せがましいわね。ほら、じっとして。もしかして、知らないの?鬢を撫でてもらうと気持ちいいし、いい夢が見られるのよ。夫婦というのはこのようにお互いに優しくするの」
「やめ、やめろ。ちょ、ちょすな」
「ちよちよすなって何よ。はは、変なの、ははは」
「触るなって意味だ」
強い力で手を叩き落とされた。しょんぼり。どこまでもお堅い男だわね。しかし私だってどこまでもめげないので、再度彼の鬢に手を伸ばした。
「まあまあ、今日は遠慮はいらないから。私は撫ぜるのが上手なの。でも本番では、あんたも私にこうするのよ」
「く」
梅太郎は苦しそうに眉をひそめた。本当に辛そうである。もしかすると、人間は、人と違って鬢に急所があるのかもしれないと思えるほどだ。試しにぐいっと押してみようか。いえ、この膨らんだ額の血管を押したらどうなるのか、以前から気になっていたのだ。押すならこちらを……。
「くすぐったいから、やめてくれ」
なんだ、くすぐったいだけか。
「何よ。じゃあ今日は撫でないから、ともかく添い寝だけしましょう。いびきをかいたり、お隣さんを蹴っ飛ばしたりしちゃだめだからね。お行儀よく寝るのよ」
「本気で言ってるのか?」
「本気も本気。大本気よ。ふあーあ、おやすみなさい。あ、あくびもお作法上良くないわ。梅太郎殿はしないように」
梅太郎はしばらく布団の隅で身をこわばらせていたが、やがて、大きな、それはそれは大きなため息をついた。いっけない、うっかりため息で先手を打つのを忘れて、今回も相手に先につかせてしまった。まあいい、もう上の瞼と下の瞼は仲良くしたくってしようがないみたい。今度機会があったら、ため息も作法違反なので以降は禁止、と伝えましょう。