夜這い 1
どうも結婚が延期になってからというもの、よく寝つけていなかったらしい。牛飼い童の前で気絶してからというもの、こんこんと眠り続けること丸二日、目覚めると頭がすっきりしていた。
そこで私はまず、やるべきことを洗い出すことにした。
ひとつ、やしきおくに とどめおくべき けの このみまでを そとのこものが しるは けしきありて きたのかたに ごようじん したまふやふ いはむ
ひとつ、きうりの こと はづかし かしきやに ゆりは きづかい いらぬことを つたへる
ひとつ、をとこをんなと みおとされるは くちおし うめたろうが はな へしをらむ
ひとつ、うしかひわらわ ならびに おほきすけに たずぬるも こと おぼつかなし みずから ゆかむ
とまあ、こんな感じだろうか。まず、姫君である私の食の好みについて、他のお屋敷に務める牛飼い童が知り得るとは良くないことである。使用人は、邸内で起こることについては口を固く閉じているべきだ。人の口に戸は立てられぬのも事実ではあるが、こんな話が漏れていますが、大丈夫でしょうかね、という感じで、北の方にそれとなく言っておきましょう。
二つ目、これも簡単だ。台盤所に、私の好みを気にして食事を整えること、今後は不要であることを伝えさせる。胡瓜を調理した器具を都度水洗いすることも不要だし、胡瓜そのものも出してもらって構わない。
三つ目、梅太郎におとこ女と呼ばれたのは、結構傷となっている。なんとかあの無駄に筋の通った鼻を折り、目にもの見せてやりたい。私だって装えば美しくなるし、これまでもてないわけではなかったのだ。そうだ、神祇大副からのお文は、読み方次第では恋文っぽく見えるんじゃないか。これを今度奴の目につくところにおいておき、私がもてないおとこ女ではないということを、奴に知らしめよう。おほほ。
四つ目、おほきすけとは神祇大副のことだ。牛飼い童はまあまあ役に立った。しかし当然と言えば当然だが、神祇大副の邸の奥の様子を詳細には知りえなかった。むしろ小者の割に、よくぞあそこまで内情を知りえたとほめてもいいくらいだ。比べて、こちらの事情もあちらの事情もすべて知っているはずの神祇大副の方は、まったく見当違いな文を下さるばかりで、彼を通しても梅太郎の様子はぼんやりともわからない。神祇伯への意趣返しの一環として私をじらしているのかもしれない。まだるっこしいので、いっちょ神祇大副の邸に乗り込もうではないか。
というわけで、ある星月夜に、私はこっそりと牛車を用意してもらった。家人が寝静まるのに通常より時間がかかり、それはずいぶんと遅い時間だった。
「姫様、やはり、このようなことはおやめになってくださいまし。万が一、見咎められましたらどうなさいます。神祇伯様のお名にも傷がつきます」
「大丈夫だってば。誰も私だと気づかないよ」
今宵の私は狩衣姿で、立派な男に見えるはずである。昔取った杵柄で、素敵な殿方ぶりは宛木も鼻の下を伸ばすほどであった。
「うっかり姫様の若君ぶりに見惚れて、こんな無茶に同意したわたくしが悪うございました。お願いでございます、お考え直しになって。夜道はどんな物の怪が現れるやもしれませぬ」
「心配性ねぇ。まあ、待っておいで。梅太郎にちょっと喝を入れたらすぐに戻るから」
「わざわざこんな無茶をなさいませんでも、素直に『お便りをお聞かせくださいませ」とご本人にお文をお出しになれば良いものを」
「それじゃ相手がつけあがるでしょう。ぎょっとさせてこそ、なんぼよ」
宛木に片目をつぶってみせる。その後も宛木がついてくるだのなんだのとひと悶着あったが、なんとか彼女は神祇伯邸にとどめ置いて、単身借り物の網代車に乗り込む。
簡素な網代は夜道をからからと走る。途中、梟や野良犬の鳴き声、動物の死体の臭いがして恐ろしかったが、物の怪は出なかった。伴の男は慣れているのか、いたって平気そうにしている。心強いものである。
やがて目的の神祇大副の邸に着くと、車を止めた。いよいよである。
私は深呼吸をすると、網代から出た。出た瞬間に物の怪が襲い掛かってくる、などということはなかった。空気は涼しく、凛としていた。
門に向かうと、普通の顔をして門番に挨拶をする。門番は最初、怪訝な顔をしていた。そこで私はこちらお邸に仕える何某という女に会いに来たと告げ、彼女ついての熱い思いを打ち明けた。涙を流さんばかりのその様子は、我ながら、真に迫っていると感心する。すると門番はそれをすっかり信じたようだった。私は人を説得するのが巧みだが、それにしても甘々な門番で、まったくもって論外である。大副は警備のお金をけちってるのかしら。
「がんばってこいよ!」
声援まで受けて、邸内に入ることを許された。はは、ちょろいね。
梅太郎がどこにいるのかはわかっていないが、西の対から灯りが漏れていて、御簾の内側の調度が少しだけ見える。几帳の模様などがいかにも華やかで女物らしく、ここは大副の二の姫が使っている対と思われる。では、梅太郎は東の対にいるのだろうか。
東の対はかなりのあばら家だった。昨夏の台風で壊れたのを、より豪華に作り変えるための立派な木材が届くのを待っていて、いまだ壊れたままでいるのだと伝え聞いている。結構辛抱強いね、大副は。私だったらそこらの木材でいいからさっさと修理してしまいたくなる。あばら家にはよくないものが宿ると言われていたのは、神殿の中だけでだろうか。
一応東の対から探してみることにするが、見た感じでは、とてもむさくるしく、人が住める状態ではなさそうだった。まず屋根が傾いてしまっているし、その屋根には夜目にも穴が開いている箇所があるように見受けられる。それに格子が付いていない廂が目立ち、ついていたとしても外れかかっているようで、戸締り、という概念がなくなっている。どこもかしこもすかすかである。、
母屋はうらぶれていて、風が自由に吹き通っている。これでは夜も寒かろう。私は対の屋に上がったが、不用意に足を踏み出すと板がきしむので、そろりそろりと足を運ぶ。
かろうじて戸締りされていると言えなくもない塗籠の戸をほとほとと叩いてみると、「誰だ」と、あの、憎たらしい、落ち着き払った声が聞こえた。
なるほど。良くない待遇を受けているのではと宛木も心配していたが、ここまで打ち捨てられているとは。こんな淋しい建物の中で一人とは、うぷぷ、いい気味である。よっぽど、「おばけだ!」と言って躍り込んでやりたかったが、驚いて大声を出されると困る。
「梅太郎殿。私よ。開けてよ」
声を抑えて言うと、しばしの沈黙がある。妻戸を開けてくれるまでの間かと思いきや、いつまで経っても戸は開かない。耳をそばだてると、寝返りを打つような音さえ聞こえる。
私は妻戸を開けようとしたが、錠がさしてあるのかびくともしない。
妻戸の下の方を力を込めて叩くと、戸が外れて大きな音を立てて向こう側へ倒れて行った。
邸の者が音を聞きつけて様子を見に来るかと肩を縮こまらせたが、誰かが騒いでいる気配もない。結構大きな音がしたはずなのに、どこまで放任されているんだ、私の婿殿は。
部屋の中に梅太郎はいないようだ。先程きちんと彼の誰何が聞こえたし、衾のこすれる音もしたのに、一体どうしたことだろう。まさか私の声を聞いて逃げたのか?