第二夜 1
それでも妻問いは続くので、今夜も梅太郎の奴はここに来るのだろう。憂鬱で仕方ない。
思えば昨日の今頃は、準備の忙しさに目を回しながらも、いよいよか、と心が逸っていた。さらに一昨日の今頃は、妹の中の君が来て、久しぶりの再会に心を躍らせていた。それが今宵、またもや崩れた天気を映したように、心の中にも雨がしとど降っている。
今朝早くになって、痩せて幸福感が薄まった恵比寿様のようにニコニコした神祇伯が部屋を訪れた。
「遠の君、昨晩は婿殿の牛車が賊に襲われるなど、一時はどうなることかと思いましたが、恙なく初夜をお過ごしのこと、お慶び申し上げます」
入ってくるなりそう言うものだから、私はあっけにとられてしまった。
宛木は昨晩の首尾を神祇伯にお伝えしていないのか。宛木に目をやると、「お伝えしたはずでございます」と小声で返してきて、腑に落ちない様子である。
「ふふふ。やはり女の方は初夜を迎えられると美しさが際立つと言いますが、その通りですね。今朝の遠の君は、何やらしどけなく、なまめかしく」
それは、あれから悶々としてしまって寝付くことができず、疲れているためだ。
「賊をたたきのめして一人ですんなりこの寝殿までたどり着くとは。もっと手間取るものと思っていましたが、さすがは険しい絶間を通り抜けてきた猛者です。それで、もう後朝の文は届きましたか。後学のため、人間の筆跡というものを見てみたいものです」
「いえ、さすがに文は来ないのではないかと」
私が言葉を選びながらそれだけ言うと、神祇伯は一瞬顔を曇らせた。でもすぐに幸の薄い恵比寿様に戻った。
「そうですか。梅太郎殿も、長旅でお疲れでしょうし、まだこの世界の歌のやりとりに慣れていないのかもしれませんね。なあに、ご心配には及びませんよ。なんせ、お二人はお若いですからね。この老神祇伯などは、形にばかり捕らわれ、いらぬ取り越し苦労ばかりするのが悪いところです。若い二人が寄り添えば、自然と良き夫婦になるものですのにね。ねえ、宛木。私は年よりじみてしまったね」
「大殿様も若夫婦殿もあまりお年は変わらぬではありませぬか。皆さままだまだお若くいらっしゃいますよ」
「そうだね、まだまだ花の盛りなのだからね。もちろん宛木もだよ。ところが、私は、私だけは老体もいいところなんですよ……。梅太郎殿も遠の君も、若くっていいなぁ」
神祇伯が突然肩を震わせ始めたので、私と宛木は顔を見合わせた。
「まあ、大殿様、お酒を召してらっしゃいますのね」
そういえば先ほどからしきりとしゃっくりをしている。それで宛木がした報告もきちんと理解されていないのだろう。
「若いって本当にいいなぁ、うらやましい。私だってねぇ、ひっく。本当はですね、ひっ」
急にがっくりとうなだれたかと思うと、しばしの沈黙が下りた。
伯は本当に悩みの多いお方である。それからまた急にかくかくと顔を上げると、
「……まあこの調子で今晩、それから明日と、お励みください。ひっく。契りよければすべて良し」
「し、しばらく。神祇伯様。昨晩のことですが」
このまま黙っていようかとも思ったが、みんなで一丸となって挑んできた神事である。私は恥を忍んで、昨日はどちらかというと喧嘩別れの形で婿殿を帰したとを告げた。
「いえ、でもまあ一時ではありますが同じお布団に入りましたし。考えてみれば、初対面の者同士がいきなりなれなれしく打ち解けるわけありません。神様にもご斟酌いただける範囲だと思います。思ったよりも人の形に近く、幸先はよろしいかと」
すると神祇伯は赤らめていた頬をみるみる土気色に戻した。鬼気迫る色あいである。
「で、では。昨日はことならなかったと。え?若い男女が、暗闇で出会って、何もなかったと!部屋のしつらえが足りませんでしたか。ああ、なぜ私はあんなに吝嗇だったのだろう!いえ、そんなわけない!やはり勢いが!いろいろと足りない分は、勢いでごまかそうとしていたのですが、まだ足りなかったと!やはり賊に襲わせただけでは不十分だった!しかし、女の童の話では、遠の君が梅太郎殿の上に乗って、息を吹きかけあっていたと……」
「姫様、息を……?」
ほう、ほう。身を乗り出してきた宛木は放っておいて、順に整理してみよう。
まずは梅太郎の牛車を襲った賊について。『賊に襲わせた』ということは、あれは、もともと仕組まれていたのだ。
なるほど、急にこの世界に連れてこられ、結婚せよと脅され、混乱のさなかにいる人間だ。乗り気でないまま無理やりここに連れてこられても、共寝に応じないことは容易に予想がつく。実際、あやつの態度はふてぶてしく、まったく協力的でなかった。
それを見越していた神祇伯らは、あえて夜闇の中、賊に見せかけて奴の乗った牛車を襲い、死ぬか生きるという、ぎりぎりの思いをさせたのだろう。
そうして人間は命からがらこの屋敷に駆け込んでくる。生き物の本能で、死ぬ前に子孫を残したいという衝動の塊になっているはずだ。その衝動にまかせて私を襲わせ、既成事実だけを作ってしまおうとしたのか。
ひどい仕打ちである。人間にも、私にもひどい。新婚の甘酸っぱい夜など、端から用意されてはいなかったのだ。目の前が暗くなってくる。
それから、私たちが息を吹きかけあっていたという話。私が人間を押さえつけながら、口のにおいを嗅いでいたことだろう。あの女の童、やはり教育が必要である。いくら相手が大殿の神祇伯だからって、直接の主人は私ではないのか。その主人の秘め事を、おいそれと明かしてはいけないんじゃないの。
「この結婚が成らないとなると、お、お、ひっく、お恐ろしい天変地異が、下は人間界だけでなく、この世界にも及びます。ひっく」
もはやしゃっくりなのだか泣いているのか判断がつかなくなってきた。私も一緒に取り乱したい気分だったけれど、そんなことをしても仕方ない。まずはお役目、これを果たすために私は還俗したのだ。お役目を完遂することだけに焦点を当てていこう。後で一人になったら少し泣こう。
「神祇伯様。昨夜のことに何か問題があるのでしょうか。私としては、よしんば仲良く共寝できなかったとしても、最後に三日夜の餅を頂いて露顕をしてしまえば、目下の婚姻の儀は済むと考えているのですが」
「私は!」
神祇伯は手を横にして、私の発言を遮るような仕草をした。
「愛のない結婚というのには、反対です。結婚は、政治でもなければ、家の存続でもないのです。神々に対する誓約なのです。適当に体裁だけ繕うような、そんな嘘があってはならない」
言うねぇ、神祇伯。
「最初はいびつでも、それぞれの定めが交わる男女であれば、やがては必ずお互いを思いやるようになる。遠の君と梅太郎殿は、交わるどころか同じ定めに乗っているのですから、それは絶対によき夫婦になるはずなのです。ですがお二人のうちどちらかでも意地になっていては何も始まりません。まずは契りを、体当たりで、思い切りおこなっていただきたいのです。そしてそこに真実の愛を見出してほしいのです」
神祇伯は自分で言ってすっかり感極まってきて、潤んだ瞳で私の手を取らんばかりにすり寄ってきた。
「お、お任せください。今晩は、今晩こそはきちんとしますので」
今夜も失敗する予感しかないが、そう言っておくしかあるまい。
「とにかく、神祇大副殿にも使いを出し、うまく梅太郎殿に言い含めるように伝えましょう。今宵こそ、私は梅太郎殿の沓をしっかと抱きかかえ、雷に打たれようとも、犬に噛まれようとも、放しません。ええ、放しませんとも」
そう言うと、神祇伯はふらふらとした足取りで戻っていった。
なんだ、あれ? と思いながら宛木を振り向くと、宛木はなぜか袖で涙を抑えている。え?こっちもどうしたって言うの?
「いえ、失礼いたしました。つい感極まってしまって。大殿様と、北の方も、ご結婚なさるときにはそれはそれは悶着したのでございます」
「あ、そうだったの」
人それぞれ、物語があるものね。神祇伯も今のように情熱を胸に秘めているようだから、相当な大恋愛だったのだろう。
「大丈夫でございますよ。最初はぎすぎすしても、そのうち情が湧いてくるものでございます」
「あら、宛木にもそういった方がいるの?」
「いいえ、私はまだ特定の方はいらないのでございますけれど。ただ人に聞いたところによると、そのようでございますよ」
今の私に恋人は不要よ、という言い方に宛木の矜持を見出しつつも、そこに過剰反応すると機嫌を損ねるので、私は、そうかなぁ、とだけ返事をした。
「そうでございますとも。それに、昨日燈台の薄明かりの下で梅太郎様のお顔を拝見しましたが、大殿様のおっしゃったとおり、なかなかの男前でいらっしゃいましたよ」
どんな顔をしていたのか、今になってはつぶさに思い出せない。黒い髪に、黒い瞳をしていた。それだけ言うと神祇伯も他の殿方も、女性も皆、黒髪、黒目だが。梅太郎のは、少し印象的な黒さだったかもしれない。容貌はどうだっただろう。そうだ、手も足も爪がきれいに切りそろえられていた。
「でも私よりも弱かったのよ。簡単に取り押さえられちゃって」
「手加減なさったのでしょう。女人に本気で抵抗するなど、それこそ賊でございますよ。お優しい方なのです」
そうかなぁ、と私はもう一度言って、降りしきる雨を眺めたのだった。