梅太郎殿
神祇伯に続いて宛木も自分の曹司に戻ると、私は一人になった。静かな薄暗がりの中にいると、ここ一週間の疲れも出てきて、眠たくなってくる。早く来てくれないと、眠ってしまいそうだ。
築地塀のあたりに牛車が停まる音がしないかと耳をそばだてていると、予定されている時刻を知らせる鐘の音が響いた。私の心の臓も鳴り響いている。
ところが一向に牛車の音はしない。さんざめく虫の音が心地よいが、眠ってはいけない、もちろん。
だんだんと瞼が重くなってくる。燈台の火がちらちらしているのも眠りを誘う。いっそ消した方がましかもしれない。私は一つの燈台に近づき、灯を消した。次いでもう一つの燈台も消そうと思ったのだ。だが、そのまますとんと膝をつくと、ほとんど気絶するように眠ってしまった。
目覚めた時、ひどく気だるく感じた。体が重く、身動きするのが億劫だったし、何やらくすぐったいような気がした。変な場所で、変な体勢で寝てしまったからだろうか。
燈台がすべて消えているため、暗闇の中で体の感覚を取り戻すのが難しかった。しかししばらく待てば目も慣れて、感覚も戻ってくるだろう。
少し経ったが、やはり体が重たい。誰かにのしかかられているようだ。ああ、そうか、金縛りか。そういえば神祇伯邸に来てからはなくなっていたが、私はもともと金縛りにあいやすい体質なのだ。
それから私は、耳元で「はっ」と誰かの吐息を聞いた。途端、もうろうとしていた意識が覚醒し、事態が急速に把握されていった。
私の上に、本当に誰かが覆いかぶさっている。先ほどの「はっ」の感じからするに、男だ。そして小袖の上から体を掻き探っているのだ!虱がこそばゆいなぁと思っていたが、虱ではなかった!
「のっ」
のけ、と言いたいのだが声がかすれてきちんと言えない。それでもうめき声をいくつか発すると、相手の男は私の口を手で覆った。
私は抵抗した。ところが相手の方が有利な体勢にあるので、なかなか力が入らない。こういうとき恐慌状態に陥って、大声を出したりすると相手を逆上させ、必要以上にやられてしまうことがある。冷静に対処すること、これが肝要である。これは神殿にいたときに先輩方に教わったことである。不貞を企む神子に襲われた場合、かなわないと悟ったら諦めて相手を受け入れ、またかなう相手であれば、死なない程度に攻撃してその場を去る。神子なので、いえ、神子でなくても相手を死なせてしまってはならないのだ。
そう、冷静になって、相手の急所、龍だったら喉元の逆鱗、熊だったら眉間、猪だったら心臓、鮫だったら鼻、蟻だったら必ず親指で潰す、確実な一撃を狙わなければならない。もちろん相手は龍ではない。感じ取れる骨格からかんがみるに、猩々でさえない。ただの男だ。おそらく人間の男、つまり私の婿殿だろう。
たは、なぁんだ、人間か。人間相手に、私が負けるわけはない。聞くところによると、孫悟空が頭にしてたような枷を首につけているらしいじゃないか。いざとなれば、この枷で神祇伯に動きを封じてもらえばよい。いえしかし、神祇伯に頼むまでもない。なんせ、人間なんだから。私は強いのだ。神殿でも相撲の黒星の数は少ないほうだったと思う。めったなことでは負けることはない。むろん、冷静を保てれば、だが。冷静といえば、冷製おかゆというのがこの夏、朝餉に何度か出てきたけれど、あれはとてものど越しが良かった。冷静と言えば、『レ・イセイ』という人がこの世の中に存在するだろうか。大陸にはいるかもしれない。
「いけない、れいせいを保つのだ」
「はっ?」
私だって、だてに神殿で襲われてきてはいない。襲う側に夜這い道、襲われる側に夜這われ道とでもいうものがあるとしたら、私はその道の古つわものである。比べてこの男は夜這いの道に長けていない。私の冷静な声音に、愚かにも隙を見せた。そこをついて私は腕を伸ばし、近くにあった脇息を掴むと、相手の背中あたりを思い切り叩いた。
くぐもった声が響き、相手は倒れ、私の上から退いた。私は素早く立ち上がると、この野郎を蹴り飛ばし、御帳台の外に追い出した。
「誰かある!」
相手は戦意喪失したようで、床に転がったまま、身を起こさない。しかし私は追いかけて行って、上からこの男を乱暴に押さえつけた。
「宛木!」
さらに呼んだが、宛木はやってこない。もっと大声で叫ぼうと息を吸うと、男が
「ま、待て」
と言った。
「もう何もしない。痛いからどいてくれ」
「不遜!」
「いって、痛ってぇ。俺、俺だ!」
「俺など知らぬ。なんの詐欺だ。はっ。まさか、あなた私の生き別れの兄上?」
私は一瞬この男を抑える力を弱めると見せかけ、この男が身を起こそうとしたところをもう一度力任せに床に叩きつけた。
「なあんて、痴れ者が。兄上な」
どおらぬわ、と続ける前に、梅太郎がかぶせてきた。せっかく少し楽しい雰囲気にしようとしたのに、台無しにしおって!
「俺、お、私は君の結婚相手だ。痛え!」
「では合言葉を言え」
「あいことばぁ?」
本当は私もこれが婿だと気づいている。先ほど一瞬、土の匂いを嗅いだので、それはもう確かだろう。だが認めたくないし、不届き物を簡単に離すわけにはいかない。
「証拠は」
「懐に、手紙が入っている」
私は男の懐をごそごそと探った。確かに文はあるが、暗くて読めない。
「宛木、来なさい」
もう一度宛木を呼ぶと、宛木の代わりに、宛木が使っている、青羽根という女の童が、いかにもおずおずといった様子でやってきた。御簾越しに押さえつけられている男を見ると、「きゃっ」と声をあげた。
「宛木はどこに行ったの」
「宛木様は、大殿様に呼ばれています。なんでも、梅太郎様の乗った牛車が襲われたとか。あの、そちらの殿方は」
「その梅太郎殿よ。待ちきれずに忍んでこられました。灯りをつけて」
「ひっ。に、にんげん……」
女の童はこちらを見ないように顔を背けながら入り、燈台に向かう。その間ずっとびくびくおどおどしていて、紙燭を持つ手がぶるぶると震え、灯をともすのに手間取った。ようやく灯をつけてしまうと、私の許しも待たずに退出した。後で宛木によく教育しておくように言っておかねば。
灯りの下で文を読むと、確かに神祇大副の手による文である。神祇大副は字が上手なので、参考になると神祇伯に見せてもらったことがあるが、まさにその字だ。美しく男らしい筆跡だが、多少押しつけがましい感じのする文字。
「爪を見せて」
そう言うと、男は素直に握りしめていた拳を離し、指を見せた。いささかきちんとしすぎていると感じるほど切りそろえられていると感じられるが、人のものと同じ様子だ。猩々のように指先が黒くはない。
念のため足爪も確認しようとすると、男は「ひっ」と息を吸いながらもやはり素直に足を出した。こちらも短く切り揃えられた清潔な爪だ。そしてこれもすべて色なしである。でも男のくせに足の指に毛すら生えていない。なんとなく言い表すのに抵抗があるが、『洗練』という言葉がぴったりくる指姿である。これが本当に蒙昧な人間なのだろうか。
念のためのとどめに臭いも確認するか。土臭いことは感じるが、どこが臭っているのだろう。衣服は香を焚きしめられているのでわからない。髪も、実葛の髪油がついている。むむ、割といい油を使っているではないの。まあこいつが身を寄せている大副のところはお金持ちだしね。首や耳は、特に土の匂いではない。しいて言うなら、若い男の匂いか。汗臭いような、そうでもないような。
「息を吐いてみて」
「断る」
男が初めて抵抗した。となると、やはり息に重大な秘密があるのか?私はもう一度こいつに体重をかけ、耳元で囁いた。
「いい?お前は重大な作法違反をしているの。私がここでお前をこのお役目に適任でないと判断したらどうなると思う?警備の荒くれ者たちが飛んできて、お前は雑巾みたいにぎゅうぎゅうにしぼられ、さんざん痛めつけられた挙句、絶間に放り込まれるわよ。この世界に来た時に通ったでしょ?魑魅魍魎がうごめく穴に、神祇の仲立ちもなしに放り込まれたらお前は終わりよ。さあ、吐きなさい」
「くそ」
口を開かないまま器用に悪い言葉を吐き捨ててくる。仕方ないので私は男を拘束する腕に力を加え、男の口に鼻をつけた。すると男がうめき声をあげたので、その臭いを検分してみる。
これも特に土臭くはないし、口の中に牙もはえてはいない。ちなみに誰かの口の匂いなど、こんなに一所懸命嗅いだのは生まれて初めてである。
この男が入ってきたときに、外気の土臭さを束の間運び入れただけかもしれない。それにしても、なんの秘密もないのに息のにおいを嗅がれたくないなんて、なんの羞恥心だろうか。うつけかね、こいつは。いやしかし、やはりなにかを隠しているのかもしれない。不本意ながら、もう一度こいつの口元に鼻を寄せると、
「あ……」
と、男ではなく、御簾の外から声がした。どうも女の童が廂のところでまだ控えていたようだ。人間が怖くて引っ込んだものの、やはり思い直してもう一度戻ってきていたらしい。
「あの、決してのぞき見していたわけでは」
御簾越しでも彼女が慌てふためいている様子がわかる。
「わかってる。下がっていいよ。遅くに呼び立てて悪かったね」
女の童が去ったのを確認すると、私は男から身を離し、居住まいを正した。
「それでは、お前が梅太郎ね」
確かに、大猩々ではない。二十代後半だろうか、肌色は浅黒く、神経質そうな顔つきをしていて、一見ひょろそうに見せて油断を誘っている。
しかし私には隠しきれていないのだが、この男は着やせするたちで、首筋などに男性特有の逞しさが垣間見えた。見た目も雰囲気も、貴族たちに比べればやや粗野な出で立ちだが、まあ人でも下々の者たちにはこのような素朴な精悍さを備えている者は散見される。宛木の言う通り、言葉も通じているようだ。確かに爪に色づきはないが、ぱっと見では人とそれほど変わらないのではないか。ただ両の目に透明な氷のようなものを乗せていて、それが見慣れないけれど。そうか、これが人間か。
「初めまして。私のことは遠の君と呼んでいいわよ」
「手紙だけで俺が梅太郎だと信じたのか」
梅太郎が寝たままの姿勢で小ばかにしたように言う。むかっときたが、野蛮な人間界ではこのような口の利き方が通常なのかもしれない。ここは我慢するしかない。
「まあ、お水でも飲みなさい」
私は竹筒を手渡そうとしたが、梅太郎はあろうことかそれを払いのけた。
「竹筒は口の横からこぼれる。ストローをくれ」
「すとぅろぅ?何そ」
「やっぱり水なんていらないから、ほっといてくれ」
「手柄杓で飲むのは床が汚れるからやめてよね。ほら、竹筒にこんなふうに口をつければいいのよ。きれいな水よ。私は夜中に喉が渇くから、こうしていつも枕元に新しいお水を用意し」
「いらないと言っている」
この男、なんなのだ。先ほどから何度も、私の発話が終わらないうちに自分が話し出している。会話の蹴鞠という言葉を知らないのだろうが、盗人猛々しい態度は、かわいげも何もない。
今夜の前に、この男とは適当な交流もなく、人柄を知る機会はなかった。世の姫君たちがもらっているような、心をとろかすようなお文ももらえなかった。残念だが、もうそれはこの際ぶつくさ言わない。だって人間界から文は届かないから。文はこまめに出すものだと、そういう貴族の作法などは、これから学んでいけばいい。むしろ私だってわからないことだらけだから、二人で一緒に学んでいこうじゃないのと思っていた。
でもせめて今夜は、これからともに夫婦としてやっていく二人のいい先駆けとなるよう、無作法ながらも優しく、穏やかな雰囲気で過ごしたかった。うれし恥ずかしとまではいかずとも、少しくらいは甘みのある夜としたかった。ところが、訪いを告げる家人の案内もなかったということは、築地塀を乗り越え、いかようにしてか外から格子戸をこじ開けて侵入してきたということだ。さらに許可もなく姫君にのしかかるなぞ、まさに盗人、人殺しの所業、甘さもへったくれもない。
私はむらむらと沸き起こる怒りを鎮めるべく、几帳の陰に戻った。このまま怒りに任せて婿殿の頭はひっぱたいたりしては、幸先がよろしくない。大陸の淑女レ・イセイを思い出すのよ。
「なんで家人の案内もなくここに来たのよ」
努めて冷静に言うと、梅太郎もようやっと身を起こして座った。
「牛車に乗ってたら、襲われた」
「ま、物騒ね。夜盗かな」
「抵抗はしたが、妙な感じだった。本気でないような、襲っておきながら逆にびくついているような。どうにかして手首をこう、ひねったらすごい悲鳴をあげて。それが聞いたことがないくらいの変な声で、さすがにびっくりして」
梅太郎の話では、夜盗が来てもめているうちに検非違使が来た。牛車が壊れてしまったのと、従者に怪我をした者がいたので、皆は一度引き返させ、梅太郎単身はここに来るようにと言われたらしい。
「わかりました。それにしても、門のところでどうして案内を乞わなかったの」
「夜這いをするのになぜ家の人に案内してもらうんだ。こっちは会ったこともない女を夜這いしろ、相手はもう十分承知している、私がやらないと皆死ぬって、脅迫されてきたんだ」
梅太郎は憮然として言う。
「お前、今夜の結婚の進め方について何も説明されていないの?」
穏やかに聞いてみると、梅太郎も思うところがあるようで、居住まいをただして呼吸を整えてから答えた。
「む。やり方が違ったようだな?確かに、乱暴だとは思っていたんだが」
「非常識すぎるわ」
「そうだな。戸惑うことばかりで正常ではなかった。すまなかったな」
意外と素直に謝るではないか。いえ、でもこれ、すまなかったなという言葉だけでは軽すぎやしないか。
「言い訳になるけど、ここの言葉は少しわかりづらい。それにここの人たちは結構野蛮なところがあるから、これもその手の類かと思った。そもそも君らは、いきなり俺を拉致したからな」
「らちって何よ」
「ああ?人さらいのことだ」
「お前、無理やりこの世界に連れてこられたの?」
「そうだ。言っておくと、俺は明日も仕事があるし、か、か彼女もいるので、君と結婚はできない。でも死ぬのはいやだ。今夜だけ、この茶番につきあうので、ちゃっとやったら家に帰してほしい」
ちゃっと結婚の儀をしようとか、この世界が下界に比べて野蛮だとか、色々聞き捨てならないことがある。でもそこに憤る前に、聞きなれない、ちょっと不吉な香りのする言葉があった。
「彼女って何よ」
「あー、つまり、ここ恋人のことだ」
今まで傲岸不遜な態度をしていたくせに、自分の言葉にたはっと照れている。
なんと。なんとなんと。ハナから不実な夫である。末は主計頭で、私も大君のように思い悩む日々を過ごすようになるのだろうか。レ・イセイ、レ・イセイ。
しかしよくこの邸の場所が分かったものだ。それに、この神祇伯の邸の中でも、間違えずに干滝殿の場所を探し当てている。西の対の大君を襲っていたら大事であった。
あらかじめ地図でも見てきたのだろうか。地図がしっかり頭に入っているところを見ると、知能もそう低くはないらしい。でも、事情がよく呑み込めていないらしい。いったい何から、どう説明すればいいのだろう。
「あのねぇ」
「とにかく、そういうことで」
「何がそういうことで、よ。あんたと私は、次の大規模な蝕が来る前に結婚する定めなの。定めなのであんたの都合でどうのこうの変えられないのよ。でも長く束縛するわけじゃないから、安心なさい。とりあえずこの三日はここに通い、三日夜の餅の儀を済ませます。それから時が経って、神祇官のところで人間界につながる道、絶間というのだけどね、これを再度開いてくれたら、あんたは一旦家に帰っていいわよ。そしてまあ束の間、自分の好きに生き、恋人とも仲良くおやりなさい。でも定期的にここには来なくちゃならないわよ。あんたは私の婿なんだから。きちんと妻問いしないと縁が薄れ、良き神々とも疎遠になるわよ。そうしたら荒ぶる神々が力をつけて、人間界は天変地異で大変なことになるって、忘れないでね。あんたは、神々と人間界の仲介となり、世に安定をもたらすという重大なお役目を賜った、選ばれた人間なのよ」
「定めって。いい加減にしてくれ」
「栄えある定めよ。ありがたがりなさい」
「はぁ。とにかく早く帰らせてくれ。布団は臭いし、ちゃんとした歯磨き粉もないし、タオルもない。いったいここはどこの未開地域なんだ」
「たぅうぇる?」
「さっきからやたらと発音がいいな、あんた。せめてこれ以上迷惑をかけないよう、仕事関係者と彼女に連絡をしないといけない。それから具体的にいつ帰れるのか、知る必要がある」
「さあ、それは神々の決めることなので知らないわ。いい頃合いになったら、神祇伯がきちんと開いてくださるでしょう」
梅太郎ははー、ともう一度大きなため息をついた。
なんだよ、私だってため息をつきたいよ。こんな不実で、嫌々感満載で、人ですらない夫。
例えば大猩々であったら、言葉が使えず暴れる可能性はあっても、嫌々感や悪意、ためいきなどという高度な感情表現でもって相手を苛つかせないはずだ。そうであればこちらも根気よく接し、相手の敵意がなくなるまで餌付けするなりなんなりして、どうにか飼いならしてやろうと思えるのに。こいつはなんだかかわいげがない。が、文句を言っていても何も進まない。
「……。なんで目の上に氷をのっけてんのよ」
「はあ。これは眼鏡というんだ。視力を補正するものだ。俺は目が悪いので、これがないと良く見えない」
いちいちため息つけんなや!と、心の中で叫んでおこう。
「……。他には何も持ってきてないの?」
「関係ないだろう」
こいつめ。もはや淑女レ・イセイには抑えきれない。いやいや、それなら冷製おかゆの出番である。あの味を思い出すのよ。
「あのね、私は密林の大猩々が来ると、ずっと心の準備をしてました。それが意外にも人語を解する男が来て、動揺しております。会話をしてあなたという人間がどんなものかを推し量り、仕切り直したいと考えてるの」
「大猩々?」
「つまり、予想より大分いいって言ってるの。磨けばそれなりの貴族に見えるかもしれないわよ。光君とまではいかねいけれど」
「はっ。どーでもいい」
またまたこいつめ。下手に出れば調子にのりおって。
「で、他には何を持ってきたの?」
「なぜそれを知る必要があるのかわからないが、ポケットにセロハンテープが入ってたから、それもある。が、今日はない」
セロハンテープとは何かと聞いたらまたため息をつかれる気がするので、聞かないでおこう。
そのとき亥三刻を知らせる鐘が鳴った。梅太郎がもう一度ため息をついた。
「今三つ鳴ったな。あと一時間しかないということだな。さっさと済ませよう」
「痴れ者!おかゆも飛び出す噴飯もの!」
私は扇を奴に投げつけた。扇は顔に命中し、眼鏡なるものがぽろりと落ちた。さらば、冷静おかゆ。また来夏に会えることを祈る。
「おい。いい加減にしろ。乱暴がすぎるぞ」
「さっきから黙って聞いていれば!こっちだってお前など願い下げよ。とっとと帰りなさい」
面通しがすんだんだから、初夜としてはきっと十分だろう。もうたくさんだ。
「そっちが呼んだんだろうが!やらなきゃ家に帰さないって饅頭とかいうおっさんが言ってたんだから、やらせろ!」
饅頭じゃなくて大副だ。帰って大副に饅頭様と呼び掛けて怒られればいい。
「宛木、宛木ぃ!」
力を限りに叫ぶと、寝殿から戻ったらしく、今度こそ宛木がやってきた。
「ここに、姫様」
「婿殿のお帰りよ」
さすが気ごころの知れた女房であるので、それ以上は何も問わず、梅太郎に近づくと、有無を言わせぬ威厳で奴を母屋から引き出した。
先ほど一瞬見えた、眼鏡を落とした梅太郎の顔が、少しだけアメノマルツチ様のところから私を連れ帰ってくれた美しい権禰宜に似ている、と思ったが、すぐに頭を振った。いろいろ衝撃が多すぎて、心が乱れているようだ。
やがて神祇伯の車宿りから牛車の出る音がし、私たちの初夜は幕を閉じたのだった。