1. 萱草の袴
二、三年程前までは、ふとした拍子に無性に帰りたい気持ちになった。どこに帰りたくなるのかは毎回同じではなく、何かを目にしたとき、耳にしたとき、それに呼ばれたような気持ちになって、帰れる場所にせよ物理的に不可能な場所にせよ、がむしゃらに帰りたいと願っていた。
朝まだきの時間にぽちゃぽちゃと水の入った桶を運ぶ人の足音を屋外に聞けば、幼いころに遊んだ、足の指に木の棘が刺さることのよくあった、あの暖かい縁側に戻りたいと思った。野原に寝転んで、ぐるりを取り囲む背の高い木が天を刺すように上に向かって生えているのを見たときは、その狭い空に吸い込まれたかった。薄暗い曇りの日にネコヤナギの銀色の花穂が揺れていたとき、その固い蕾のような花穂の中で眠りたかった。ふいに近くの木でセミが鳴きだしたときはセミそのものになりたくなり、夜静かに月を見上げたときは月に帰りたかった。
私は生まれてからしばらくは海辺の村で暮らしていたのだけれど、打ち寄せる波を見ては、あの向こうにこそ自分の本来の巣があるのだ、と考えていた。
帰りたい、という衝動は六つの歳に親元から引き離されて、神殿と呼ばれる施設に住み始めてからより強くなった。
そこには同じように家族や故郷から引き離されて暮らしている人たちがいて、ふとした瞬間に、途方に暮れたような表情をした。皆似たり寄ったりの気持ちだったのだろう、そこでは帰宅、帰郷を主題としたほの暗い調子のわらべ歌を口ずさむ人も多かった。私はどちらかというと、海辺の村で耳にしたことのある、明るい調子の大漁節を好んでうたっていた。ゆいさー、はっ、はっ、という元気の良い合いの手が、軽い子供心をどこかに高く飛ばし去り、心行くままと物思いに耽ることができた。
今思えば、ぽっかりと感傷に身を任せていられる、素敵な時間だった。残念ながら、最近はそういうことはない。それどころか、今の今まで、かつての自分がそんな感傷に身を任せていたことすら忘れていた。年をとったというのもあるけれど、それよりも感傷にどっぷりと浸れるような、心静かな時がないからだろう。常に胸の辺りがざわざわして、落ち着かない。何しろ私は忙しい。まあ当然かもしれない。なにしろ、三日の後にはいよいよ、私は人妻となるのだから。