面白いキャラクターの作り方
始めに
いざ小説を書こうと思って、自分が好きなシチュエーションを妄想してそれを書く。
誰もが最初に小説を書く時に経験することだと思います。
じゃあそのシチュエーションの中に入る人物をどのように描くのか。果たして自分が書いているキャラクターは魅力的なキャラクターなのか。
それとも単語から想起させるイメージに依存しているだけなのか。
例えばですね。
ぷっくりとした唇、通った鼻筋、きめ細かな肌に猫目、すらっとした体形の美しい少女。
なんて書いて、その少女が。
「あふぅ、あたしは、あなたに、惚れちゃいました~。大好きです~。」
こんなことを何の前触れもなく言ってたら、私はゾッとします。
なんでそういった結論にたどり着いたのか納得が出来ないからです。だから結局のところ、妄想を書くにしても、そのキャラクターがどのような思考回路を持つのかに対して自分なりに先に考察をしないといけません。
そんなに難しいものではなく、練習すれば誰だって出来ます。ただのコンセプトです。才能が必要と言うより、練習するかどうかにかかっているのです。
それでスムーズな会話を行えるように調整する。読者が納得できる会話を提示する。すると自分でも納得する。満足できる。
妄想が形となる。
要するにですね、登場人物のセリフを作ることにも先に考えるべき仕組みがあるということです。
その登場人物の特徴だけを長々と描写するだけではその人物は魅力的に映りません。
それか、説得力のある悪役だって、これに関してもちょっと言いたいことがあるんですけど、悪役令嬢が悪役令嬢になる背景は繊細に描写していますよね。
知ってますよね。知らないわけではない、人の心がどのような仕組みをしているのか、何となく察しているんですよね。
なのになぜ悪役令嬢に婚約破棄を突きつける王太子とかは皆ぼんくら王子と一言で片づけて、それ以上キャラクターを深く掘り下げて個性を持つようにはしないんでしょうか。
キャラクターのパーソナリティを作る工夫はせず、テンプレと言う読者から安易に受け入れられる状況だけを提示して、状況に合わせてパーソナリティをつなぎ合わせているだけ。
なろう系に関して男性向け作品での批判はよく見かけてますけど、この手のものに関しての批判は、ふんわりとしたものしか見たことがないんですけど。
特定の人格パターンを量産している気がしてなりません。
いくら産業でも同じ作り方をしたキャラが乱立しているだけなら、個性なんて感じないと思います。
悪役令嬢の個性を際立たせるためのプロット装置として使われるだけなら、その状況に置かれた悪役令嬢だって没個性になるだけではありませんか?
個性のないキャラを増やし続けたところで、たった一人の個性的なキャラを超えることは出来ません。誰も某木登りが得意なポンコツ悪役令嬢と同等のインパクトを出せるキャラクターを提示出来てない。
それは怠惰ではありませんか。アメリカでは多くのキャラクターが提示されて、開発されて、皆に消費され続けています。
俳優さんがいなくとも、最近だと皆が知っているキャラクターが先にあって俳優がそれにキャストされるような傾向になりつつある。
アメコミとかですね。
そう言うの、日本でもやろうと思えば出来ると思います。実際に少年漫画で提示されるキャラクターは世界的な知名度を持っていたりしますからね。
単純に副業として書いているという世知辛い理由で冒険が出来ない、なんてこともあるとは思いますが、時間と余裕のある人も少なくないはず。
そもそもそういう問題じゃない気もします。
せっかく自分の時間を割いて書いているんですから、量産されるキャラではなく読者の印象に残るようなキャラクターを作りたい、そう考える人のためにいくつか簡単なTipを紹介したいと思います。
1.○○ issue
英語圏ではFather issue, Mother issueなどと言う表現をよくしています。
親が単純に人間の屑の場合もありますけど、死んでるとか、離婚してるとか、それこそ幼年期にトラウマの原因となる原風景があるんですね。
家庭内の育て方によって人の人生は半分は決まると言っても過言ではない。それは皆さまからも共感できると思います。
実際にこれらを経験しないとわからない、なんて考えるのは早計です。自分が知らないからと書けないなんて、怖気づく必要はありません。人の心にある深いところにまで踏み込むことを躊躇う、そういう気持ちは、社会生活には必要なことですけど。
例えばです。
お絵描きの勉強をすると、ヌードデッサンとかします。裸のモデルさんを見てね。
社会生活では他人の裸を直接見るのは、親密な関係や特殊な状況ではない限り忌避されるべき行為です。単純に気まずいですよね。
けどお絵描きをしている人たちは、ヌードデッサンを通じて人体の線がどのようにできているのかを理解することになります。
それで繊細な描写が出来るようになるのです。
心の傷はいわば他人の心の裸に刻まれるもの。英語ではstigmaと言います。
人の心に一度踏み込んでみたら、stigmaがある人もいればいない人もいる。いない人もいます。いない人はいないことはないです。いる人はいる、いない人はいない。そういうものですけど。
これがですね、いない人よりいる人の方が心の均衡を崩しやすいんですね。
心の均衡が保たれた状態の人間はですね、そんなに長く人とぶつかり合ったりはしません。
セリフなんて何かに対しての説明じゃなければ数行で終わるでしょう。
人は心の均衡が崩れた状態じゃないと事件なんてものも起こしません。
それもそれでキャラクターとして魅力的に描こうと思えば描けると思います。
人には家庭内の問題以外にも社会的な立ち位置からの考え方や行動がありますからね。
ですが家庭内の問題がある場合、そのキャラは濃密に物事を語る状況に置かれます。
双極性障害、境界線パーソナリティー障害など、家庭内の問題はそれらを引き起こせるファクターになりやすいんですね。
するとどうなるか、そのキャラが際立った形で読者にインパクトを与えるようになります。
スパイダーマンとか、親がいませんよね。
それで内向的な性格になってると。親がいないので早くから親のいない子供としてのアイデンティティを確立させてる。
なので少し成熟した価値観を持ちながらも、根本的な部分では愛に飢えている子供っぽいところがある。ギャップですね。こういうところでスパイダーマンと言うキャラクターの魅力を感じるのは私だけではないはず。
そしてそのスパイダーマンの真の英雄的な姿は、親からの愛を当たり前のように受ける人たちを妬むことなく、当たり前のように救うところ。
自分がどのような状況に置かれようと困っている人に手を差し伸べることを忘れない。
そしてそれを称えられることは最初から考えない。
ただ彼は死にゆく伯父に、大いなる力には大きな責任が伴うと言われ、人々を救うようになりましたけど…、個人的な問題と多くぶち当たりながらも自分で出来ることをしようとする姿は単純に好感が持てます。
このように、親にまつわる問題は登場人物に深みを与えてくれます。
だから、Father issue, Mother issueを含む家庭内の出来事を理解して、それらを物語の中に反映させるのは、普通に面白いと思います。
それでそれらを作者の立場から描く方法ですけど、まあ、最初は自分の経験ですよね。
私も自分の経験から物語を書くのも少なくありません。自分の特殊性を活かす形となるんですね。
ただですね、これをするためにも自分以外の比較対象を必要とします。
私の場合は映画をよく見ました。
ハリウッドの映画だけではなく、色んな国々の、ドキュメンタリー映画も含めて。
大変勉強になったと思います。
それ以外にも単純に心理学の本とかも読みましたね。
それと人から話を聞くのも参考になります。
実際に長く付き合った人のこととか、わかりやすいですし。
最近だと、ブログとかでよく見られるじゃないですか。それと動画とか?最近はyoutubeなどで自分の話をよくする人とか見つかりますけど、日本では…、よくわかりませんけど、ニコニコ動画とかで少し見た覚えがあります。
そうやってissue、問題を抱えている人のことを考えるのは、単純に人生の意味を自分なりに納得することにも役立ちます。
その役立つ自分なりの考察を、物語の中で披露する。それって、素敵なことだと思いませんか。
2.特徴付け、或いは属性盛り
それでパーソナリティを作ったら、それに似合う特徴が必要ですね。
見た目や属性のことです。
例えば何か気に入らないことがあるたびに烈火のごとく怒る人のパーソナリティを知っていて、それを描ける自信がある。
ならそのキャラに炎や熱にまつわる能力を与えてみたらどうでしょう。能力とパーソナリティが繋がった相乗効果が生まれます。
最近のゲーム開発などでは先にキャラクターの性能を決めて、逆にそれにイメージを作るような形をすることも少なくありませんが。
まあ、それはゲームですからね。物語だとパーソナリティに合わせて好きに能力を与えることの方が、書いている人からしたら連想しやすいですね。
そしてこれは、性質を決めたらそれに合う形でオーソドックスに展開させるだけにとどまらず、捻りを加えることだって可能です。
余計に複雑になるのではないかと言う話ですけど、どこまで複雑にするのかは作者が自分の判断で決めることが出来ます。
アイアンマンの胸にはコアがあって、赤と金色のデザインを愛用する、億万長者に慈善家、科学的な知識が豊富、知能が高い、などなど。
これらの属性が、親を子供のころに失ったお金持ちの見目のいい筋肉質の軽薄そうな印象を持つ男性にまつわっているんですね。
いくつものの属性を組み合わせて、キャラクターを作り上げる。これはいわば料理に近い。
何かの属性を強調しすぎると味が台無しになったり嫌いな人がたくさん出てきたり、もう踏んだり蹴ったりな場合もありますけど。
それも試行錯誤のうちだと考えて、何回もキャラクターの開発に取り組んでみるのは、普通に創作に対する情熱を燃やすにいい題材となります。
プロットだけを気にして、こんなことを提示したんだから次に必ずこの事件を、必ずこのタイミングで起こさないといけないとか。
確かに私もそう言った自分なりの目標は設定していますけど、作者が自由にできる範囲にあるのがキャラクターのパーソナリティです。
ただ美青年や美少女を描くより、いくつかの属性が絡み合って相乗効果を生み出すようにした方が、読者の印象にも残りやすいですし、普通に面白いと思います。
物語って現実ではありえないことだって簡単に作れますから、そう言った部分を際立たせるようにするだけで読者の楽しさは天元突破します。
私も多く経験しています。最近だと、親が死に、自分が犯した過ちによって一人になったところをギャングのボスに拾われ、精神的に不安定な状態のツインテールで、射撃と爆破に才能がある半ばサイコパスみたいなことをするようになった少女とか、これは素晴らしいと思いましたね。
アーケインと言う作品のJinxと言うキャラクター何ですけど。
自分でも自分が書いてる作品の中では属性をふんだんに詰め込んだキャラクターとか登場させるのが好きです。普通に楽しいですよ。書いてる側からしても。
3.絡み合いは秘密と誤解によるもの
かける、カップリングとか皆好きですよね。私も好きです。
ただ、この絡み合いは、継続的な緊張関係の上に成り立つものです。
何の緊張関係って、結局のところ他人ですから、理解し合えないところは必ず出てくるということですね。
つまり互いに理解してないところから絡み合いが発生するようになるということですね。
逆に理解している場合は、あまり話すことなんてありませんよね。
知らないから、分かり合えないから話すことがあるんですよね。
なのに、私がちょっと残念だと思うのの一つが、転生した事実とか割と早い段階で暴露する作品とか。
互いに対しての誤解がないと絡み合いに緊張なんて生まれないし、作者側も緊張が存在しない会話なんて書けないと思いますが、ただの説明の乱発になるだけですから。
そんな説明だけをする話より、説明出来ないところを互いに抱え込んだ状態が、互いの行き場のない感情などが色んな所へ飛び回りますからね。
相手の心が知らないから、それに触れたくて行動を起こしてみたりね。
なんでお前はそんなに可愛いのか、俺はそんなお前が理解できない、みたいに言いながらも主人公を抱きしめるとか、キャッってなるじゃないですか。
割と多くの方々が書いているのが、自分が好きな人が自分を好きなはずがないと思い込むこと。
私も気が向いたら書いてる時もありますが…、ずっとこれ一つだけが出てくる作品とか…。
まあ、漫画とかにはよくある気がしますけど。
いくら何でもこれ一辺倒って、これ以外にも何かの関係がずっと一つだけ描かれてるとか。
漫画は、ぶっちゃけ絵があるから許されるところもあると思います。
アニメなら声優さんと映像の美しさ、音楽までついてくる。
一辺倒な関係でも楽しむ要素は他にもあるからいいかってなりますけど。
だからとそんな作品になれた自分はそれしか書かないとなると、小説が持つ潜在的な可能性、多様な絡み合いを繊細な人物の内面描写を通して描けるというのを、自分から捨てるようなものではないでしょうか。
まあ、自身の経験からそう言った形を書くのが好きってのは…、仕方ない部分もあるとは思いますが。
一辺倒な関係とか、経験している人多くいると思いますし。
それでも、です。
主人公が恋愛をする話だとしても友達とか仲間とか家族とかいるわけですから。
その人物たちとの関係性はまた別のものになるはずでしょう。
それを描くためには、やはり登場人物が隠していること、誤解されている、誤解していることが前提として存在しないといけない。
悪役令嬢ものだってそうでしょう、互いを誤解しやすい状況は主人公の出生が転生持ちの時点で簡単に成立する。だから未だに人気なナラティブの一つとして広く使われてるんですけど。
その作者側が最初に用いれるアドバンテージを捨てて、主人公が自ら皆にその事実を公表して皆がそれに納得するとか、台無しじゃないですか。
納得した段階では何の誤解も生まれないから、実際に会話の描写はぐんと減る。彼らの心理状態とか主人公への思いだけが書かれて。
映画にですね、このような言い方があります。
“Show, don't tell.”
物語は語られるのではなく映されるものと言う意味です。
主人公や登場人物が自分の感情がどうなっているかを長々と内面の描写で語るより、登場人物が絡み合いを通して互いへの思いをぶつけあうのを描写する。
すると読者も納得するし、作者も書いて楽しいです。
ただですね、誤解と緊張状態、ストレスに感じますよね、人間は。
だからそれは嫌だとやらない作品とか、単にイチャイチャしている物語とか?多くみられるんですけど。
それはそれで一つの消費の形ではあるでしょう、それを否定したいわけではありません。
ですけど、それに個性を感じない、特に記憶に残ることもない、と言うのは、不思議でも何でもないと思います。
私もそういう作品、割と多く読んでますが、文句を言っているように見えても割と楽しんでますが、じゃあ誰が印象に残ったのか、思い出せる登場人物はいるのかと言うと、一人も思い出せません。
全部忘れました。
逆に人の記憶に残りたくはないのなら、そう言った描き方をした方がいいでしょうけど…。皮肉じゃなく、私も結構内向的な人間なので目立ちたくない気持ちはわかってるつもりです。
だけどですね、どこかの時点で物足りなさを感じるでしょう、人はストレスが完全に存在しない環境には行けないんですから。
それはまるでヘロインのように、精神を麻痺させるだけでしょう。
まあ…、現実のストレスから逃げるにはそう言った麻薬的な効果の方が望ましいかも知れませんけど。
終わりに
なろうでは日々テンプレが繰り返されてますね。まあ、物語なんて有史以来からテンプレの繰り返しと言えなくもないですけど。
基本筋は同じだとしても多くのものが変わってきました。
特に物語で使える心理学の発展は、門外漢からしてもいくつかの概念を理解できるようになってますね。
心理学と言う学問が出来て百数十年。
自然科学に比べたら歴史も短く学校でカリキュラムにするなんて、どこから手を付ければいいのかもわからないでしょう。
そもそも心理学を成人前の人間が学んでちゃんと理解できるのか問題もありますけど。
だからこそ、文学作品では人の心を描写して読者に新たな地平を開くように手助けすることが出来ると、私は思っています。
ここだけの話、英語圏は人の心を作品内で複雑かつ繊細に描写しているのは、脚本だけではなく映像においての編集技術が結構大きな役割を果たしています。
文章としての特徴づけや心理描写の繊細さは、日本文学には多く見られると私は感じています。
つまり、あまり日本が不得意とする分野ではないんですね。
むしろ心の動きに対しての繊細さだけ見ると世界屈指ではないかと、思うことも少なくありません。
そんなアドバンテージ、活かさないままにしておくのはもったいないと思いますが、どうでしょう?