後悔しないと分からない
幼馴染が軽音楽部に入部した。
小さい頃からよく演奏の真似事なんかしていた彼女。高校に入学して、初めて軽音楽部の見学に行ってきた彼女は、興奮気味にどんな様子だったかを僕に話してくれた。
部の雰囲気は良かったとか、同じく見学に来ていた同級生に一人凄い奴がいたとか、普段はどちらかと言えば口数が少なくて、女の子のくせにクールでカッコいいとまで言われているような彼女が、興奮しながら語るその様子は、年相応の子供らしさが漏れ出していて、正直微笑ましかった。
一方、部についてのあれやこれやを聞かされていた僕はといえば、音楽に関する知識はまったくない。ギター、ベース? 単語としてはもちろん聞いた事はあるけれど、それぞれにどんな違いがあって、どんな役割があるのかとか、彼女が持っている楽器がどれに当たるのかもまったく分からない。
中学の時の音楽の授業は、音符が読めなくて幼馴染によく助けてもらっていたくらいだし、そんな素人に向かって専門的な用語を交えて話されても、難しい事はあまり理解できなかった。
ただ、嬉しそうにキラキラした目で喋り続ける幼馴染の顔だけは、よく覚えている。
中学の時の彼女は170センチの長身と、その類いまれなる運動神経を活かしてバスケ部に所属していた。部内ではエースとしてチームの中心だったし、地区内の他校からも知られている程有名な選手だった。
すらりとした細身の長身。長い黒髪をポニーテールにしてコートを駆けまわる彼女は、男の僕から見ても嫉妬してしまいそうになるくらいにカッコよくて、一度、女の子にマジ告白されたと、悲壮な顔で相談してきた事がある程の人気っぷりだった。
常に頼りにされて、慕われている存在。
それでも彼女がどこか楽しくなさそうに見えていたのは、きっと本当にやりたい事ではなかったからなのだと、今ではそう思っている。
同じ高校を受験して、無事二人とも合格。何の因果か同じクラスに配属。
入学式を終えて、新入生は帰るだけだったのに、軽音楽部の練習を見たいからと、音楽室や部室まで連れまわされた。結局その日は練習はなかったけれど、彼女が生き生きとしているのは、僕も自分の事のように嬉しかった。
高校のバスケ部からの勧誘も退けて、無事に軽音楽部に入部した幼馴染。
昔から勉強も運動も人並み以上に出来た彼女。ギターの演奏も、小さい頃から父親に教えてもらっていて、きっと同級生の中では一番上手いのだと思うし、下手をすれば先輩たちよりも上手かもしれない。
そんな才能と経験を持って、やっとやりたかった事を始められた彼女は、これからの学校生活でもきっと毎日を笑顔で過ごすのだろうと、僕はそう思って疑わなかった。
そんな風に考えていた僕が、疑問に思い始めたのは、夏を過ぎた頃の事。
春先、入部したばかりの彼女は、毎日のように軽音楽部での話をしていたと思う。
今日はこんな事があった。
本当に同級生かと思うくらい凄い奴がいる。
そんな事を学校で、家で、時には電話してきてまで、大いに語っていた。語って聞かせるだけでは満足できなくなったのか、僕を軽音部に入部させようとした時期まであったくらいだ。
あの時は、必死に断った。音楽の授業も苦手な素人以下の僕が入部したところで、他の人達の迷惑にしかならない事は目に見えていたからだ。
と、そんな感じで彼女の話の大部分を軽音楽部の話が占めていたのが春先。
夏ごろから、彼女はあまり部活の話をしなくなった。
僕を入部させようとする事もなくなって、初めは諦めてくれた事にホッとしていたけれど、そのうち部活でどんな事があったとか、練習が楽しかったとか、その程度の事も聞かなくなった。
初めはもちろん心配した。何か部活で嫌な事でも起きているのかもしれないと不安になったりもした。けれど、どうやらそんな事はないらしい。
部活には熱心に毎日参加しているし、友達と部の事について楽しそうに話をしている姿も見た。そんな彼女の姿を見ていれば、軽音楽への情熱を失ってしまったわけでも、部内で嫌な事が起きたわけでもなさそうだという事は分かる。
けれど、それからも彼女が部活の話を聞かせてくれる事はなかったし、僕から聞かれる事も嫌そうにし始めた。曖昧に誤魔化したり、別に関係ないでしょと突っぱねたり、その様子はまるで、僕には軽音楽部について関わって欲しくなさそうに思えた。
そして、それはたぶん正解だ。
普段から部活の友達と一緒に過ごすようになっていって、僕と一緒にいる時間は段々と減っていった。離れて行く幼馴染に、少しだけ寂しい気もしたけれど、新しい友達の中で過ごしている姿を見ていれば、そこが彼女の本当の居場所に思えてきて、僕は離れていく姿をただ見守った。
別の高校に進学して、中学の時以来連絡を取っていない友達を思い出す。高校生になれば、こういう事も珍しくはないのかもしれない。
イケメンだと女子に噂されている男の子。可愛いと男子から評判の女の子。軽音楽部にいる人達は、皆が学校の中でも存在感のある人達で、そんな人達と一緒にいる彼女の姿は、目立たない僕といるよりも、何倍も自然に見えた。
だからこそ、僕は彼女に付きまとうような事もしなかったし、自分から軽音楽部に首を突っ込むような事もせず、ただ静かに距離を取った。
そうして秋が来た頃、僕は一度だけ軽音部のライブをこっそり見に行ってみる事にした。
文化祭で賑わった学校。後夜祭では体育館のステージで、様々なパフォーマンスが行われた。軽音楽部のライブのその一つ。部内でいくつもあるバンドが順々に演奏を行うらしい。まだ一年の彼女も、同級生たちと檀上に上ることになっている。
軽音楽部は、どこかの会場を借りてライブをする事もあるらしいけれど、本格的なものを見に行く勇気は流石にない。ただ、体育館でする演奏くらいなら、端っこの方で少しくらい見れるだろうと考えたのだ。
きっと幼馴染は、楽しそうに、生き生きとした姿で演奏しているに違いない。
その姿を一目だけでも見る事が出来たら、急に距離ができた幼馴染との関係も、すっきりと割り切れそうな気がした。
僕は檀上からかなり離れた場所で舞台を見ていた。何組かの演奏が終わり、会場に詰め掛けていた生徒たちもかなり盛り上がってきた頃。幼馴染が檀上に上がって来た。
どうやらメンバーは皆女の子らしい。五人の女の子がそれぞれの立ち位置に着く。僕が知っていたのは、全員が同級生だと言う事だけ、幼馴染が何を担当しているのかも知らないし、楽器を肩から下げて、音を確認し合っている様子を見ても、彼女がギターなのか、ベースなのかも分からない。
僕がそんな事を考えている間にも、大勢の生徒から注目されている中で、堂々としている舞台上の幼馴染。その姿を見ていると、まだ演奏も始まっていないのに、やっぱり住む世界が違うんだと思い知らされた。
音楽の事は何も分からない。他に誇れるような事もない。距離が離れて行くのも当然だ。
この時、僕はもう満足していた。
自分と彼女との距離がどれだけ離れていたのかを実感できたからだ。
これでもう、何の未練もない。元々、好きだったとか、そういう関係ではなかった。ただそれでも、幼馴染という、常に一緒にいた存在が自分から離れて行くのは、自分が思っていたい以上に、心の穴が広がっていくような気がして、少し悪あがきをしてみたけれど、結果的に見に来たのは正解だと思った。
舞台の上と下。
幼馴染が住んでいる場所は、自分が住んでいる世界とはまったく違う場所であり、僕が行く事は出来ない場所。それを理解した事で、これからは距離ができた事を気にしないで済みそうだ。
満足した僕は、演奏を聞く前に体育館から出ようと歩き出した。これ以上住む世界の違いを見せつけられると、惨めな気分になってしまいそうで、足早に出口に向かう。振り返ることもなく、扉に手をかけた、その時だった。
「まだ帰んないでよ! 楽しいのはこっからだから!!」
思わず僕は振り向いた。
その声は、ボーカルらしき女の子のものだった。
別に、僕に向けたメッセージではないらしい。近くにいる観客に語り掛けるようにしているその子の声に応えて、皆も声を張り上げていた。
カン、カン、とドラムの子がスティックを叩く、次の瞬間。演奏が始まった。
声も出ない程圧倒されていた。
今、舞台の上で音楽を奏でているのは、本当に自分と同じ年月しか生きていない女の子たちなのかと、割と失礼な事を考えてしまうくらい、僕は動揺していたし、その影響かは分からないけれど、舞台上の光景が輝いて見えた。
ただ、自分でも予想外だった事がある。
僕がライブを見に来た理由。
距離ができた幼馴染の演奏を最後に一度だけ見ておくこと。それがここに来た理由だった。
それなのに、僕の目は、幼馴染の姿を捉えてはいなかった。
舞台の真ん中に立った女の子。
ギターを演奏しながら、歌声を響かせるその姿はから、僕はどうしてか目を離す事が出来なかった。
音楽に合わせて揺れる明るいブラウンの長髪。
長い前髪の中から見え隠れする鋭い眼光。
細身なのに力強い音を奏でる白い腕。
綺麗で繊細なのに、荒々しさを感じさせる声。
全てが脳に焼き付いて、一生忘れられない想い出として記憶されていく。
気が付けば、僕はそのまま立ち尽くしていて、結局は演奏が全て終わっても、少しの間呆然として動くことが出来なかった。
ボーカルの女の子から受けたのは、それだけの衝撃だった。おかげで幼馴染の勇姿はまったく見ることが出来ず、一体何をしに来たのかと自嘲するしかなかった。
たった十五年しか生きていない短い人生。その中で、いや、これから歩んでいく人生を足しても、これ以上の衝撃はないと思ったその出会い。高一の秋、文化祭での出来事。
それから季節は進み、冬を越え、新しい春がやって来た。
文化祭以降、幼馴染の事は気にならなくなった。話す事もなくなり、二年では違うクラスに、これで本当に接点はなくなったかもしれないと、どこか他人事のように考えていた僕は、またあの衝撃を味わう事になるなんて、この時は思ってもいなかった。
気が付くのが遅すぎだと言われたら、まったく反論する事が出来ない。
僕だってどうして今まで気が付かなかったのかと、自分の事が信じられなくなりそうだ。
視力検査をするのが怖くなる。
新学年早々に始まった授業中。
何気なく隣の席に目を向けると、そこには授業中にもかかわらず、イヤホンを付けて音楽を聴いている人物がいた。
明るいブラウンの長髪。
ライブの時の鋭かった目つきは、今はだらしなく緩んでいる。
真っ白な細い腕は、教科書ではなく、音楽系の雑誌をめくる事に忙しいらしい。
だいたい半年前以来の衝撃。
あの時、舞台の上で歌っていたあの女の子が、今、僕の隣に座っていた。
それに気が付いた時に、僕が受けた衝撃は、それはもう言葉にできない程で、授業をしている先生の声が聞こえなくなるくらいに、心臓の音が大きくなった。
あり得ない、と思う。
あの時、ステージに立っていたこの女の子は、住んでいる世界の違いを圧倒的な存在感で僕に見せつけて来た。
この人は舞台の上にしか存在しなくて、ステージの下に住んでいる自分は、一生会う事が出来ないと思わされた。普通に考えれば、かなり偏ったあり得ない考えだけど、僕はどこか本気でそう思っていた。
同級生なんだから、同じクラスになれば同じ教室にいるのは当たり前なのに、脳内では『あり得ない』という言葉が繰り返されている。
一般人でしかない僕と一緒に授業を受けている……いや、授業は受けていなそうだけど、それでも一緒の教室にいる事が信じられなかった。
僕が受けた衝撃たるや、相当なもので、一切瞬きもせずにガン見してしまって目が離せなかった。
「……何?」
何秒、いや、何分見つめてしまっていたのだろうか、不意に顔を上げた彼女と目が合う。
短く投げかけられたその言葉には、不機嫌さや嫌悪はなく、単純な疑問である事が伝わってくる。話をした事もない隣の男子から、じっと見られていた事に対してのリアクションとしては、神がかり的に優しい気がした。
というか、僕は彼女が言葉を喋った事に軽く感動していた。
彼女がステージで僕に与えた衝撃は、計り知れない程大きくて、僕は自分の中で彼女の事を神聖視していたのかもしれない。天使とかそういう存在。ステージの上にしか現れない偶像。そんな姿を彼女に重ねていた。だからこそ、こうして言葉を投げかけられたのが信じられなかった。
何を馬鹿な事を思われるかもしれない。ただの同級生じゃないかと他の人は思うのかもしれない。けれど、僕が彼女のステージで受けた衝撃はそれくらい大きなものだった。
何も返答せず、ただ見ている事しかできない僕に、彼女は首を傾げて目の前で手を振った。
「生きてる?」
その声に僕の身体がビクッと反応する。授業中だというのに、まったく遠慮のない声量。まるで休み時間に友達と喋っているかのような気軽さだった。幸い、今はリスニングの音声を再生していて、先生までは聞こえなかったようだったけれど、慌てて人差し指を自分の口に当てて、静かにするようにジェスチャーで伝えてみた。
ただ、残念ながら彼女には伝わらなかったらしい。もう一度首を傾げられて、仕方なく小声で喋りかける事にした。
「今授業中だよ」
「……ん?」
聞こえなかったらしい。それはそうだ。だって、彼女はイヤホンをして音楽を聴いているわけで、僕の小声なんて聞こえるはずもない。三度首を傾げている彼女に、僕は耳を指さしてイヤホンを外すように伝えて見た。
今度のジェスチャーは伝わったらしい。彼女がイヤホンを外してくれて、思わずため息がでた。
「今授業中だよ」
先生に聞こえないように、なるべく小さな声で伝えたその言葉。
僕にとって、それは、今まで生きて来た自分の価値観を凝縮させた言葉だった。
小さい頃から、いい子だねと親に言われて育てられてきた。真面目に、危ない事もせず、ただルールや規範からはみ出る事のないように、普通という価値観を絶対的なものとして、家では親の、学校では先生の、自分よりも上にいる大人たちの言う通りにして生きて来た。それが、僕の今までの人生の全て。
忘れ物をした事はないし、出された宿題をやらなかった事もない。
友達からちょっとやんちゃな事に誘われても、一度も参加した事はない。
どうしてか?
宿題をしなければ先生に怒られるし、危ない事をしたら親や他の大人に怒られる事を知っているからだ。
友達にはつまらない奴だと言われた。ノリが悪いと言われて、中々友達が出来ない時期もあった。
周りの評価を気にせず一緒にいてくれた幼馴染からは、もっと自由に考えてみたらと言われた事もあった。
けれど、そう言われてもどうしたらいいのか僕には分からなかった。ふざけた事をして、大人から怒られている人を見ると、だからやらない方がいいのにと思ってしまうのが自分だと納得した。規範の中にいる事。それが、全ての行動の指針。
だから彼女にも忠告した。
今は授業中で、先生の言葉を聞き、真面目にノートを取る時間。それが常識。そんな時に、堂々とイヤホンを付けて、授業に関係のない雑誌を見て、遠慮のない声で喋るなんて、どう庇ったとしても、先生に見つかれば怒られてしまう。彼女にはそんな目に遭って欲しくはない。
僕はいい事をしたと思っていた。
「知ってるけど?」そう事もなく返答する彼女の言葉を聞くまでは……。
だから何? とでも言わんばかりの彼女に言葉が詰まる。
信じられなかった。僕にとって、授業中は真面目に先生の話を聞く時間で、自分の好きな事をする時間じゃなかったから。だというのに、堂々と自分の好きにすごしているような彼女。その姿をどう現していいのかすら分からない。
何度か口をパクパクさせていると、彼女に軽く笑われてしまった。急激に恥ずかしくなってきて、とりあえず必死に何か言葉を探す。感情のままに口から出ていく言葉は、日本語として成り立っていか微妙な出来だった。
「イヤホン、どうして、雑誌も」
「ん? これ? キミも見たいの?」
「ち、ちがっ! 怒られちゃうよ!」
まったく見当違いの返答をされて、思わず少し大きめの声を出してしまう。そんな僕の言葉を聞いて、彼女は納得したように訳知り顔で頷いた。やっと分かってくれた。そう思っていた僕は、彼女の返答にまた驚かされる事になる。
「さてはキミ、いい子ちゃんだな」ニヤニヤした顔で彼女はそう言った。
いい子ちゃん。その言葉はこれまでも何度か言われた事がある。
いい子ちゃんだからつまらない。
いい子ちゃんだから面白くない。
言われるのは、大抵がそうして馬鹿にされる時。それを言われる度に、いい子ちゃんで何が悪いのかと、モヤモヤした気分に包まれてしまう。どこか特別な目で見ていた彼女からもそう言われた事が酷くショックだった。
彼女も僕を馬鹿にして、つまらないと離れて行った人たちと同じなんだと、勝手に落胆もした。
「ほら、キミも聞いてみて、絶対好きになるから」
だから、僕の耳に何かがつけられて、彼女が気持ちのいい笑顔で何かを語りかけてきた時は、あまりにも都合のいい幻を見ている気分になった。
今時珍しい有線のイヤホン。
赤いワイヤーで彼女の右耳と、僕の左耳が繋がっている。
塞がった左耳からは、聞いたこともない曲が僕の頭に流れ込んでくる。
僕が疎いだけなのか、この曲がマイナーすぎるのかは分からない。けれど、そんな事はどうでもよくなるくらいに、その音楽は僕の中を駆け巡った。
「どう? いいでしょこれ」
その問いかけに頷くと、彼女は「お、趣味合うじゃん!」と楽し気に肩を組んできた。
サラサラの長い髪が頬に当たってくすぐったい。香水なのかは分からないけれど、いい匂いがする。馬鹿にされたのかと思えば、そうではなく、気が合うと親し気にされているこの状況。とても現実的じゃない。
僕にとっての彼女は、一応は知っている存在だった。話した事もないけれど、一度ステージの上にいる姿を見た事がある。けれど、彼女にとっての僕は、完全に初対面。それなのに、どうしてこんなにも彼女はフレンドリーなのだろうか。
たぶん、彼女は自由なのだ。
今僕は、初めて自由というものに触れたような気がした。
自分の感性に従って、自分の決めたように生きる。それは、あのステージの上で見せてくれた姿から僕が感じたものだったのかもしれない。
授業中でもお構いなし、我が道を行くその姿勢。彼女の姿勢が良いか悪いか、感じ方は人それぞれだと思う。ただ僕は、自分の中の価値観が崩れていくのを感じていた。
「それでさぁ、この曲のサビがまたいいんだよねぇ」
結局、あの後僕と彼女は先生に見つかって普通に怒られた。
当たり前だ。授業中に堂々と音楽を聴いていたら、それは怒られるに決まっている。誰だって分かるし、人一倍そういう事を気にして生きて来た僕に分からないわけがない。
けれど、どうしてか僕は、彼女に着けてもらったイヤホンを外す事が出来なかった。
授業をしている先生の言葉を聞かなければいけないのに、楽しそうに曲について語ってくれる彼女の言葉の方を聞こうとしてしまった。
そんなふざけた事をしている生徒を先生が放っておくはずもなく、見つかった後はその場で一緒に立たされて、クラスメイト皆の前で残り時間いっぱい怒られた。
今はもう解放されて休み時間だけど、普通なら、というか今までの僕だったら、恥ずかしくて今日一日はまともに顔も上げられなかったかもしれない。
それなのに、不思議と先生から怒られた事が気にならなかった。
それは、同じく怒られたのに微塵も気にしていないように喋り続けている彼女の影響だと思う。
路傍の石。彼女にとって先生からのお説教はその程度のものなのかもしれない。何事もなかったような彼女の様子に、クラスメイト達も先生が怒った事をすぐに忘れてしまったかのようで、話題にする人は誰もいない。
「最後邪魔が入ったからさ、続きも聞いてほしいなぁ」
和やかな笑みを浮かべる彼女にイヤホンを片方渡される。ライブで見た時の切れそうな鋭い雰囲気とはまるで違っていて、朗らかなその姿はまるで別人のようだ。
躊躇していると、ほらほらと、急かす彼女に、またイヤホンを着けてもらってしまった。躊躇なく触れてくるその動作にドキドキしてしまうのは、女の子に耐性がないから仕方ないと、誰に聞かせるでもない言い訳を心の中で繰り返した。
そうして、曲が流れ始めた時、急に左耳からイヤホンの感覚がなくなって、曲が聞こえなくなった。
「何してんの? 夏美」
代わりに聞こえてきた馴染みのある声に、正直なところ驚いた。
僕の耳から引き抜いたイヤホンを持って、長身の女の子が不機嫌さを隠す事なく、僕の真横に立っている。女の子が威圧するように腕を組むと、長いポニーテールが少し揺れた。その子の視線と言葉は僕に向けられたものではなく、『夏美』と呼ばれた彼女に向けられていた。
「あれ、真由子じゃん。なんでここにいるの? 教室違うよ」
質問に応えではなく、質問を返された長身の女の子。僕の幼馴染の『真由子』は元々鋭い目つきをさらに細めた。あの目で睨まれると、大抵の人が身体を震わせて縮こまってしまう。
小学生の頃、意地の悪い女の子に揶揄われていた時、真由子が間に入ってくれて、睨まれた女の子は惨めなくらいに委縮していたのを覚えている。
ただ、その鋭い眼光も、この自由な人には何の意味もないのかもしれない。
「真由子ってさぁ、クールな感じ出しといて、以外とおっちょこちょいだよね」
夏美さんは委縮するどころか、愉快そうに笑っている。その様子に、真由子も諦めたのか、ため息をついて、こめかみを押さえた。
「聞いたわよ。アンタ授業中に堂々と音楽聞いて怒られたんでしょ?」
「あぁ~、そんな事もあったかもね」
「部の印象にだって影響するんだから、ちょっとは真面目にやりなさいよ……って言ったところで無駄なんでしょうけど」
「さっすが真由子! 分かってるじゃん! やっぱりバンドメンバーは以心伝心じゃないとねぇ」
真由子は嫌味を言ったつもりだったんだろうけれど、夏美さんに満面の笑みを返されて何も言えなくなり、大きなため息を口から漏らしていた。
二人の関係は、同じガールズバンドのメンバーという事しか知らないけれど、何となく自由な夏美さんのお目付け役として、普段から気苦労している真由子の姿が見えた気がした。
「はぁ~、とりあえず、アンタが自由なのはもう諦めたけど、私の幼馴染を巻き込むのは止めてくれる?」
「……え?」
「お、何々? 二人は知り合いだったの?」
興味津々といった様子で、まるで抱き着くように距離を詰めてきた夏美さんを、真由子が瞬時に間に入って突き飛ばした。僕はといえば、二人の動きに反応もできず、ただ、真由子の言葉に驚いていた。
「ちょっと、何ぼーっとしてるのよ」
「えっと、てっきり真由子からは嫌われたと思ってたから、なんか意外で」
「はぁ? 何で?」
「だって、去年の夏ごろから距離おかれてたし、自然と話さなくなったから、そうなのかなって」
「……そんなわけないでしょ。部活が、というか夏美の世話が忙しくて時間がなかっただけよ」
「そ、そうだったんだ……」
それ以上言葉が続かない。真由子の言葉が本当なのか、僕には分からなかった。
しばらくぶりに会話をした幼馴染は、一見昔のままのようで、それでも確実に僕の知らない期間を生きている。その期間が真由子をどう変えたのか、僕は知らない。
「幼馴染かぁ、いいなぁ真由子! 私も男の幼馴染が欲しいぞ! 頂戴!」
夏美さんは本当に自由な人らしい。僕と真由子の間に流れる微妙な空気にも反応せず、我が道を進んでいる。その裏表のなさそうな態度は、今の僕にはとても好意的に見えた。
「あげたり貸したりするものじゃないから」
「えぇ~いいじゃんかよぉ。キミも私と幼馴染になりたいでしょ?」
「え⁉ そ、それは、どうだろう?」
「ちょと夏美! いい加減にして!」
刺さるような鋭い声に思わず身体がビクッと震える。自分に言われたわけでもないのに、真由子が怒っているような気がして少し怖い。
「そんなに怒んなよぉ。バンドにひびが入るぞ」と両手を上げる夏美さんは、それでもあまり気にしているようには見えなかった。
「はぁ、心配して見に来てみれば、同じクラスになっただけじゃなくて、まさか隣の席だなんて……」
「真由子? どういう事?」
「何でもない。それより、あんまり夏美と関わらない方がいいわよ」
「え⁉ ど、どうして?」
真由子からの急な忠告に面食らう。同じ部活の仲間に対してあまりにも失礼だと思った。
「酷いぞ真由子! なぁんで私と関わっちゃダメなんだよぉ!」
「そうだよ。友達なんでしょ? いくら何でもそんな事を言ったらダメだよ」
「お、優しいじゃんキミ! 分かってるねぇ」
夏美さんに同調すると、目を輝かせた彼女がまた肩を組んできて、僕は自分の顔がどんどん熱くなっていくのが分かった。ただ、分かってもどうしようもない。女の子と密着する事に慣れるなんて一生無理な気がする。
仲間を得てご機嫌そうな夏美さんと、顔を赤くして照れているのが丸わかりな僕。真由子の目にはいったいどう見えたのだろうか。一瞬、真由子の顔が苦痛に歪んだように見えたけれど、たぶん気のせいだ。
「とにかく、忠告したからね」
「真由子……まだそんな、どうして?」
「私は、心配してるから言ってるの」
戸惑う僕に、真由子は真っすぐな目を向けてきてそう言った。
どうして? 何が心配なのか?
真由子の目から、真剣さは伝わってくるけれど、自分の友達と関わるのが心配だという彼女の気持ちが理解できない。ぽっかりと開いた半年という時間の重みを、僕は充分に味わっていた。昔は何でもわかるような気がしていた幼馴染の事が、まったく理解できなかったという事実は、それだけ僕たちの距離が離れた事を実感させられた。
「元気だしなって、嫌な事もあれば、いい事だってあるってよく言うじゃん?」
夏美さんかけられた気遣いが心にしみる。楽観的、もしくは前向きで明るい性格なのだろう夏美さんに励まされると、少し元気になれたようなきがした。
「ありがとう。えっと、夏美さん、でいいですか?」
「いいよ。ていうかさんもいらないけど?」
そうは言われても、ついさっきまで、ある種アイドルのような住んでいる世界が違うと思っていた人を、いきなり呼び捨てにする度胸は流石にない。
「夏美さんで」とお願いすると、「この恥ずかしがり屋さんめ」と揶揄われて腕を突かれた。さっきから思っていたけれど、ボディタッチが何気に多い。慣れていない僕は、その度に心臓が早鐘を打ってしまう。そんな風に一人だけ緊張しているのが恥ずかしくて、なんとか話題を変えようと思った。
「夏美さんは大丈夫ですか? 真由子が結構酷い事言っちゃってたけど」
「全然気にしてないよ。 真由子はいつもあんな感じだからね」
「そうなんですか?」
「そうだよ~。何でか私には結構辛辣でさぁ、もう慣れちゃったけど」
夏美さんから聞いた真由子の様子は、僕には意外の一言だった。
確かに真由子は気の強い所は昔からあったけれど、友達に訳もなく辛辣な態度をとるような性格じゃなかった。中学の時も、男女問わず慕われていたし、高一の時もクラスメイト達から頼りにされるような存在だった。
それでも、人は変わるもの。半年の間に、僕の知っている真由子はいなくなったのかもしれないと思うと、言いようもない寂しさが襲ってくる。
「それよりさ! 私は真由子に幼馴染がいた事に驚いたよ! しかも同じ学校にいたなんてね」
「真由子からは、何も聞いてなかったんですか?」
「うん。まったく、なにも」
いよいよ凹みそうだ。真由子は部活の友達には僕の事を隠していたらしい。それは話す意味もないと思ったからか、それとも、僕のような幼馴染を紹介するのが恥ずかしかったのか、もちろん、直接理由を聞く勇気なんてない。
僕とは対照的に、夏美さんは元気いっぱいのままだ。真由子に厳しくされているのは慣れているらしい。まったく気にしていなそうなメンタルは、流石に人前に立つような事をしているだけあると感心する。
「夏美さんは人から言われた事もあまり気にしないんだね」
「まぁね。なんて言ったって、私は自由だから。私の好きなようにやるの」
「……自由、かぁ」
その言葉は本当に彼女にピッタリだった。
何にも縛られず、批判を苦にする事なく、我が道を行く。
そんな風に考えられたら、僕も少しは変われるのだろうか……。
「ふふ、いい子ちゃんには難しい?」
夏美さんに至近距離から覗き込まれる。大きな瞳は透き通っていて綺麗だ。いい子ちゃんなんて嫌いなワードも気にならないくらい見惚れてしまう。
「そうかも。僕、誰かの言いつけ通りに生きて来たから、自由ってどういうことなのか分からないや」
夏美さんにそうさせる魅力があったのだと思う。
いい子ちゃんなんて言われても気にならないし、そんな自分の嫌な所を素直に認めて吐き出す事ができた。今初めて話をした相手に、こんな事を言うとは思わなかったけれど、あの日、ステージに立っている夏美さんの姿を見た時から、僕は彼女に、自分にないものを見出していたのかもしれない。
「私が教えてあげるよ。本当の自由を」
「……あっ⁉」
手が温かくて柔らかい感触に包まれた。僕の手を包んでいるのは、夏美さんの白く、綺麗な手。
教室に差し込む光に照らされて、輝いて見えるその姿に、僕はまるで羽が生えているような幻影を見た。
どんな事にもひるまず、どこまでも連れて行ってくれそうな、本当の自由。
僕はただその姿に見惚れていて、もう真由子の事で落ち込んでいた事も嘘みたいに忘れていた。
彼女にされた忠告の事も一緒に……。
本当の自由を教えてくれると言った夏美さん。彼女の事を僕は今までほとんど知らなかった。
知っていた事といえば、真由子と同じバンドのメンバーだという事と、歌声が綺麗だと言う事だけ。
二年になって偶然同じクラスになり、偶然隣の席になった。真由子との関係もあって、喋るようになった彼女は、ステージ上の印象とはガラリと纏っている空気が違っていた。
普段は気が抜けているだけなのか、ステージに上がるとスイッチが入る人なのかは分からない。教室で会う夏美さんのその瞳は、穏やかで柔らかかった。
人を寄せ付けないような凄みもなく、至ってフレンドリー。
明るくて、よく喋り、よく構ってくれる。
それまでは、住む世界の違う人だと思っていた夏美さんは、僕と同じ高校二年生の普通の女の子だった。
そんな想像とは違いすぎた実際の様子に、少しの戸惑いこそ感じたけれど、すぐに彼女の明るさと自由な考え方に好感を抱くようになった。
良く言えば自分の意志を持った人。
悪く言えば自分勝手で気ままな人。
人によってどうとるかは変わってくるのかもしれない。僕にとっての彼女は前者。
今までずっと大人の言いつけ通りに生きて来ただけの僕には、本当の意味で自分自信で決めた事なんてなかった。そんな生き方をしてきた僕には、彼女の自由さは眩しくて、憧れだ。
そんな彼女が言ったのだ『私が教えてあげるよ。本当の自由を』と。
その言葉通りに、それからの夏美さんはことあるごとに僕に色々な景色を見せてくれた。
例えば、夏美さんと友達になってから、僕は初めて授業をサボった。不意に立ち上がる彼女に手を引かれ、風のようにフラフラと歩いて行く、チャイムがなってもお構いなし、気分次第でどこまでだって進んで行く。校舎裏でお喋りをしながら空を眺めたり、学校を抜け出してコンビニにお菓子を買いに行ったり、本当は立ち入り禁止の屋上に忍び込んだりもした。
学校という縛られた時間の中で、今まではその決まりのままに生きる事しか知らなかった僕は、枠組みを壊して色々な場所に歩いて行ける事を知った。
放課後には、もっと出来る事が増えた。
今まで僕は、学校が終わったら真っすぐ家に帰った事しかない。
夏美さんと一緒にいると、真っすぐ家に帰る事なんて一度もなくなった。
ある時は、駅前のオシャレなカフェに初めて入った。お客さんが女の人ばかりで緊張したけれど、夏美さんが一緒だったからそのうち気にならなくなった。
またある時は、二人で映画を観たりもした。スプラッタもののホラー映画。ぶっちゃけかなり苦手で、自分からは一切見ようとしなかったような映画。
まったく平気そうな夏美さんに、怖がっている事を知られたくなくて、必死に隠していた。自分では上手く誤魔化せていると思っていたけれど、どうやらそうでもなかったらしい。映画が始まる前、照明が暗くなった瞬間に、夏美さんが手を握ってくれた。
映画はまったく怖くなかった。というより、握られた手の感触に意識が集中してしまって、映画を見ることが出来なかっただけだけど……。
それ以外にも、家と反対方向の電車に乗って、適当な駅まで遊びに行ったりもした。
僕の今までの行動範囲は、自分の家の最寄り駅から学校の最寄り駅の間だけ。夏美さんに連れられて、大袈裟かもしれないけれど、未知の世界に踏み出した。
どこに行っても夏美さんが楽しそうだった。彼女の笑顔を見ていれば、僕もそれだけで楽しくなれる。二人で歩く道はどんな所でも特別なものに見えた。
今までは普通から逸脱しない、大人から怒られない生き方しかしていなかった僕にとって、夏美さんが見せてくれる景色は、その全てが一度も見た事がないものばかり。それらは自分一人だけでは決して見る事のなかった世界であり、そんな経験できた事は僕の人生にとっての宝物になった。
これまでの価値観に大きな影響を与えてくれた夏美さん。そんな人に惹かれていくのは、自然な事だったのかもしれない。
もっと夏美さんに近づきたいと思うようになった。
僕が興味を持ったのは、彼女の耳にひかるピアスだ。
僕がじっと見ていると、夏美さんは髪をかきあげてよく見せてくれた。
「穴も自分で開けたんだ」少し得意げに笑っている。
僕はピアスと、普段は見えないうなじから目が離せなくなっていた。
「興味あるなら、開けてあげよっか?」
だから、夏美さんからの問いかけにも、よく聞かないままに頷いていて、僕が気付いた時にはもう、耳に良く分からない機械のような物を当てられていた。
「一瞬だから」
何が、と言う前には、バチンとした音と同時に、耳たぶに鋭い痛みが走った。後から教えてもらったけれど、夏美さんが使ったのは、ピアッサーとか何とかという自分で穴を開ける事の出来るアイテムらしい。
それ以外にも夏美さんは、穴を清潔にとか、穴が安定するまで付けておいてとピアスを渡されたり、色々と説明をしてくれていた。
他にも髪の色を染めたくなった。
どんな色が似合うかなぁと、想像を膨らませている彼女には、申し訳ないけれど、僕はもう色を決めていた。
目の前にいる彼女と同じ、明るいブラウン。
ただ、まったく同じ色にする勇気は僕にはない。似たようなブラウン系で、少し暗めの色。
耳にひかるピアスと黒くない髪。それは自分が変われている証拠のように思えた。少しずつ夏美さんに近づけているような気がして嬉しかった。
夏美さんと、一緒に行動するようになってからは、僕にも新しい友達が立ちどころに増えた。皆、変わっていく僕を褒めてくれて、好意的に認めてくれているのがわかる。
ただ、そんな僕を見て、真逆の反応をする人が一人だけいた。
幼馴染の真由子だった。顔を合わせる度に嫌な表情をされるようになってしまった。
確かに、忠告を聞いていないのは悪いと思っていた。けれど、どうして夏美さんと関わってはいけないのか、その理由が僕には分からない。
夏美さんと仲良くなってから、僕は自分がいい方向に変わっている事を実感出来ているし、毎日が充実していて、今までの人生で一番いい時間を過ごしていると、自信を持って言う事が出来る。
だからこそ、夏美さんと関わるなと言った真由子の言葉に納得が出来なかった。
正直、最近は真由子の事がまったく理解できなかったし、自分の意見ばかりを押し付けようとしてくる態度も、少し気に入らない。
僕はもう昔の僕じゃない。
納得できなければ、真由子の言う事だって聞くつもりはない。
そう考えて、真由子の事は気にしないようにしていたある日の事。
僕は夏美さんから、軽音楽部の部室に誘われた。
間近で演奏を聞かせてくれるらしい。今まで軽音楽部にだけは付いて行った事はなかった。所詮は部外者だし、音楽の事を何も分からない自分が付いて行っても場違いになるのが分かっていたからだ。
緊張はあったけれど、夏美さんも一緒にいてくれる事を考えれば、すぐに感じなくなった。
今日は夏美さんに誘われて、練習を見に来た事を伝えると、バンドのメンバーも歓迎してくれて、すぐに準備を始めてくれた。
夏美さんの歌声と演奏を聞くのは、あの日、一年の頃に見たステージ以来の事で、僕はすぐにわくわくしてきて、始まるのを今か今かと待つ。
「私はやらない」
そんな時に聞こえてきた不機嫌な声。
真由子だ。
「何で? せっかく今日はお客さんがいるのに」
「夏美、アンタ部外者入れてんじゃないわよ」
部外者。その言葉が胸に突き刺さる。
「真由子……その言い方はないでしょ。私が連れて来たんだよ?」
「勝手にね。私は聞いてもないし、納得もしてないの」
「いいじゃん別に、ていうかさ、幼馴染なんでしょ? 部外者って、ちょっとは言い方考えれば」
「幼馴染だろうが、部員じゃないんだから部外者でしょ。そんな事も分からないわけ? ちょっとは真面目に授業受けたら?」
「はぁ?」
「何よ?」
ピリピリした空気が痛い。他のメンバーも二人の間には入れないらしく、止める者はいない。
僕は自分が原因でこんな空気を作り出してしまった事が耐えられなかった。
「あの、今日は帰るよ。誘ってくれたのにごめんね夏美さん。それに練習の邪魔してごめんね、真由子」
頭を下げて立ち上がる。夏美さんは引き留めようとしてくれたけれど、真由子は僕に見向きもしない。それだけ僕が迷惑になっていたのかと思うと、無性に悲しくて、それ以上は何も言えずに部室を出た。
「おい真由子!」と怒鳴るような夏美さんの声が背中から聞こえる。けれど、真由子が何かを言う声は聞こえなかった。
「……」
放課後の廊下は誰もいなくて、僕の歩く音だけが響いている。
歩きながら、どうしてあんな事になってしまったのかを考える。夏美さんに誘ってもらえたのが嬉しくて、わくわくしながら向かった軽音楽部の部室。あの時の弾んでいた気持ちが嘘のようだ。
沈み込んでいるのはきっと僕だけじゃない。
あんな言い争いが起きた部室では、他の皆も気まずい想いをしているだろう。そう考えるだけで、とても悪い事をした気になる。
明日、夏美さんに会ったら何と言って謝ろうかと考えていた時、廊下を走ってくる誰かの足音が聞こえてきた。
振り向こうとする前に、その誰かは後ろから僕を抱きしめた。
回された白い綺麗な腕と、頬に当たるサラサラの髪の匂い、誰が追いかけてきてくれたのかがすぐに分かって、あれだけ落ち込んでいたというのに、その瞬間にはもう温かい気持ちが芽生えていた。
「夏美さん?」
「ごめんね、私が誘ったから……あんな事言われて」
僕を抱きしめている手に力が入る。いつもの自身の塊のような彼女は、今だけは普通の女の子に見えた。
「全然気にしてないよ。むしろごめんね。部内で喧嘩みたいになる原因になっちゃって、大丈夫?」
「悪いのは真由子だから、それこそ気にする事ないよ」
「ありがとう。でも、真由子の言い分も分かるから、練習の邪魔をしちゃったのは事実だし」
「でもさぁ、少しくらいいいじゃんね? 戻って聞いてかない?」
「あはは、流石に遠慮するよ」
真由子と会うのも気まずいし、それ以上に他の部員の人たちにこれ以上迷惑はかけたくない。まだ誘ってくれる事は嬉しかったけれど、今日は一人で帰る事にした。
「なら、私も一緒に帰る」
「ぇえ⁉ ダメだよ。夏美さん今日は練習するって張り切ってたじゃん」
「だって、せっかく聞いてもらえると思ったから」
そう言われて、今更ながらに抱きしめられているこの状況を意識してしまう。
夏美さんが張り切っていたのは、僕に練習を見ていて欲しかったから。今の夏美さんの言葉は、僕にはそう聞こえた。
急に顔が熱くなる。
早くなっていく心臓の鼓動が、密着している夏美さんに聞こえないか気になって仕方ない。
「だから一緒に帰る」
「……う、うん」
夏美さんの暖かさに包まれながら、この時僕は、はっきりと自分の気持ちに気が付いた。
いつからだろう。今、こうして優しくしてもらったからなのか。それとも、最近ずっと一緒にいる間に段々とそうなっていったのか。あるいは、初めてちゃんと喋った時からかもしれないし、初めてステージ上の彼女に目を奪われた時にはもうそうだったのかもしれない。
どんな時でも自由を体現するように生きている彼女。
普通でいる事が何よりも大切だと信じ、普通という枠の中にいる事しか知らなかった僕に、本当の自由を教えてくれた。
そんな夏美さんの事が、僕は心の底から、好きになっていたんだ。
夏美さんが好きだ。
そんな自分の気持ちを自覚してしまった僕は、常に彼女の事ばかり考えるようになっていた。頭の中は春一色だ。
夏美さんと一緒にいる時間は幸せを感じられて、自然と笑顔になれたし、一緒にいない時でも、毎日幸福な気分で過ごす事ができた。
もっと話しをしたい。
もっと一緒にいたい。
もっと近づきたい。
そのためには、この想いを伝えないといけない。
伝えてもいいのだろうか、迷惑になってしまわないか、拒絶されてしまわないか、そう考えると、胸が締め付けられるように痛む。
けれど、もし、受け入れてもらえたら……それはとても幸せな事で、夏美さんが受け入れてくれる様子を想像しただけで、胸の痛みが綺麗になくなった。
楽しいような、苦しいような日々を過ごす間に、僕は自分の気持ちをしっかりと伝えようと決意した。
あとはいつ、どこで伝えるか、そんな具体的な事まで考えるようになっていたある日の事。
僕は真由子に呼び出された。
「話したいことがあるの」急に教室にやってきた真由子は僕だけを見てそう言った。
夏美さんに誘われて、軽音部の部室に行ったあの時。
真由子に邪魔だと追い出されて以来、喋るのは久しぶりだ。
あの日から真由子とは一切関わる事なく、廊下ですれ違っても、お互い目を合わせる事すらなかった。
そんな冷え切った関係の相手からの突然の呼び出し。
警戒したのは、僕よりも夏美さんだった。
「用があるならここで言えば?」
「……」
「ちょっと真由子?」
「……」
真由子は夏美さんに見向きもしない。ただまっすぐに僕だけを見て、僕からの返事を待っているようだ。
「……いいよ」
真由子に付いて行くのは少し不安だった。それでもこの場で話しをして、また夏美さんと真由子が喧嘩するような所は見たくない。だから僕は付いて行くことにした。
「大丈夫?」心配そうな顔の夏美さんに、安心してと笑顔を見せる。一緒に立ち上がろうとする彼女を手で制して、教室の入り口で待っている真由子の元に向かった。
歩いている間は、一切会話がなかった。
僕は呼び出されただけで用はないし、真由子も誰かいる場所では喋るつもりがないらしい。そのまま無言の真由子に連れられて行ったのは、軽音部の部室だった。
あの時とは違って、今の部室には誰もいない。僕と真由子の二人だけ、人に聞かせられない話をするにはピッタリの空間。
「適当に座って」そう言って真由子は壁際のパイプ椅子に座った。どうやら立ち話では済みそうにないらしい。僕も近くにあったパイプ椅子を広げて腰を下ろした。
真由子は座ったまま床に視線を落としていた。ただ座っているだけなのに、その姿には独特の雰囲気がある。高い身長に、整った顔つき。昔から大人びて見える事はあったけれど、最近まともに見ていない間に、さらに大人っぽくなったような気がした。
「……この前はごめん」
そんな真由子が最初に発した言葉は謝罪だった。予想していなかっただけに少し驚く。その沈黙を困惑したと受け取ったのか「部室で邪魔にした事」と彼女は説明を付け加えた。
「あの時は、ちょっとイライラしてて……」
「いや、こっちこそ邪魔してごめん」
「謝らないでよ。私が悪かったって思ってるんだから、立場ないじゃん」
「……分かった」
そこで会話が切れた。
再度やってきた沈黙に、少しだけ居心地の悪さを感じる。
「呼び出したのってそれだけ?」と聞いてみるも、それだけなはずがない事は、僕も分かっていた。今までの会話は、ただの前振りみたいなもので、本題は別にある。そして、その本題は真由子にとっても少し言いにくそうな事で、僕にとっても嫌な話なのだろう。
「……夏美のこと」
真由子は短く答えた。その返答は半ば予想出来ていたから、特に驚く事はなかったけれど、真由子の放つ空気から、楽しい話ではない事も分かり、憂鬱になってくる。
「もう何となく分かってると思うけど、夏美は普通じゃないの」
「……」
「夏美はその辺の人とは違う感覚で生きてる。ある種天才みたいな感じ、凡人じゃない」
「……」
「だから、夏美の事は凄い魅力的に見えると思うけど、それは表面だけ、中身は絶対に理解できないよ。私は自分が凡人だって、夏美に出会って初めて理解した。だからね、これ以上深入りする前に夏美とは」
「関わるな……そう言いたいんでしょ?」
真由子の言葉を引き継いで見せると、彼女は一瞬だけ驚いたような表情をするも、すぐに真顔に戻って頷いた。
「信じて欲しいんだけど、私は本当に心配しているからこんな事を言ってるの。別に意地悪がしたいわけでも、言いなりにしたいわけでもない。ただ心配で、傷ついてほしくないから」
そう言う真由子からは必死さが伝わってくる。
心配しているという言葉に嘘はなく、本心から僕のためを思って言ってくれているのだという事が、はっきりと感じられる。
「真由子……」
「分かって、くれた?」
そんな真由子の気持ちは、僕にとって――
「余計なお世話だよ」
「……え?」
――鬱陶しいという以外のなにものでもなかった。
「真由子は僕が凡人だって、そう言いたいんでしょ?」
「違っ⁉」
「違わない!! だから天才の夏美さんを理解できないって言ったんじゃないか!!」
「待って、一旦落ち着いてよ」
「うるさいよ! 僕が凡人だなんて自分が一番よく分かってるんだよ! だから必死になって縋りついてるじゃないか! 似合わないのに髪も染めて、痛いの我慢してピアスも開けて、改めて言われなくたって、不釣り合いな事くらい分かってるよ!」
「……ご、ごめん」
真由子は項垂れた。僕が言った自虐的な言葉は否定してくれない。惨めだ。真由子はそのまま床に着きそうなくらいに頭を下げた。
「馬鹿にするつもりなんてないの。ただ、私は夏美と一緒にいる間に、アイツと私の違いを沢山見せつけられたから、その度に自分が惨めに感じて落ち込んだ。アイツは才能の塊で、私みたいな偽物とは違う。眩しくて、手を伸ばしたくなるのは分かるけど、アイツの深い所は誰も理解できない。いつかきっと悲しい想いをする事になる。そうなってほしくないから、だから夏美には関わらない方がいいって、何度でも言うわ。私の事は鬱陶しいと思っても嫌いになってもいい。けど、お願いだから夏美と関わるのはもう止めて」
そう語り終えた真由子の言葉からは真摯な想いがこれでもかと伝わってきた。
僕のために言ってくれている。それを疑うような事はない。
ただ、さっきも言ったけれど、僕にとっては余計なお世話としか思えなかった。
「真由子の気持ちを僕に押し付けないでよ」
「そんなつもりは……」
「そんなつもりがなくても、そういう事だよ。真由子が言ってる事は、僕の気持ちを無理やり捻じ曲げようとしている事に変わりない。僕はね、もう誰かの言う事だけを聞いて、普通に生きるのは止めたんだ。心配してくれるのはありがたいけど、僕がどうするかは自分で決めるよ」
まっすぐに真由子の目を見て、一切そらす事なく自分の気持ちを伝えた。
何も言わない彼女は、悲しみに満ちたような、それでいてどこか憐れむような目で僕を見つめていた。
「……もう話は終わったよね? それじゃあ、さようなら」
待って、と声をかけられた。それでも僕は止まらない。振り返ることなく部室を出た。
真由子とはそれっきり、しばらく姿を見ることもなかった。
一年の時の文化祭。その行事は僕にとって特別なものになった。
正確に言えば、文化祭の後に行われた後夜祭になるけれど、僕はその時初めて、夏美さんに出会ったのだ。
あの日、初めて夏美さんを見た時から、一年が経とうとしている。
高校生活二年目の秋。
今年も文化祭の季節がやってきていた。
「後夜祭でライブやるから、ぜったい見に来て! 最前列開けて待ってるから」
一番近い所で見て欲しい。そんな風に言われてしまうと、自分が夏美さんにとって、少しは特別な存在になれているような気がして、一緒にいる間に大きくなっていた僕の夏美さんへの気持ちが溢れ出しそうになってしまう。
その想いを何とか胸のうちにしまい込む。伝えるのが恥ずかしいという訳じゃない。伝えるべき時は別にあると思ったからだ。
幼馴染の真由子に、邪魔だと軽音部の部室から追い出されたあの日。僕の後を追ってきて、落ち込んでいた所を励ましてくれた夏美さん。あの時から、僕は彼女への自分の気持ちを理解した。
どうして一緒にいたいと想うのか。
どうして一緒にいると楽しいのか。
どうして彼女の笑顔が何よりも眩しく感じるのか。
それは、僕が夏美さんに恋をしているからだと理解したあの瞬間。見えなかった道が遠くまで見通せるように、全て解決した。
けれど、それからの僕は別の事を悩み始めた。
いつ、どうやってこの気持ちを伝えようかと言う事に。
告白をしないという考えはまったくなかった。昔の僕だったら、フラれるのが怖いとか、そういうネガティブな考え方をして、好きな人が出来ても何も行動を起こさなかったと思う。
実際、一年の時、ステージに立つ夏美さんの姿に目を奪われておきながら、僕は住んでいる世界が違うと自分に言い聞かせて、しばらくはその想い出を心の中にしまっていた。
けれど、今の僕はもう違う。
夏美さんと一緒に過ごして、彼女の生き方を、自由の意味を教えてもらった。自分のやりたい事に遠慮はしない。そんな夏美さんと近くで過ごして、ますます彼女に憧れを抱いた。
夏美さんのようになりたい。もっと近づきたい。
結果は分からないけれど、僕は今までの自分を無駄にはしたくない。
だから告白は絶対にすると決めていて、いつ想いを伝えるかだけを考えていた。
そして、原点を思い出す。
夏美さんを初めて見た一年前のステージ。
もうすぐその舞台がまたやってくる。
あの時の僕は、夏美さんと話すこともできない存在だったけれど、今は違う。
決意は固まった。後夜祭のステージが終わった後、僕は夏美さんに告白する。そう決めると、今から心臓が早鐘を打ち始めた。意識するだけで身体が熱くなる。自分を落ち着かせるのが、こんなに大変だという事を僕はこの時、初めて知るのだった。
楽しみな事があると時間は早く過ぎていく。そんな感覚を実感した日々だった。
告白する事を決めてから、まるで早送りのように日々が過ぎていき、文化祭がすぐにやってきた。
単純に夏美さんと一緒に文化祭の準備をする日々が楽しかったし、毎日どう告白するか、言葉を考えたりする時間が充実していたからなのかもしれない。
とにかく、運命の日がやってきたという事。覚悟を決めていたはずの気持ちに不安が忍び寄って来る。
それでも、今更この気持ちをなしにする事なんて出来ない。
僕の決意は揺るがなかった。
僕たちの高校の文化祭は、土日の二日間を使って開かれる。後夜祭は二日目を終えた後、学外からの参加者が帰ったあとにある学内の生徒だけのイベントだ。毎年後夜祭では、個人や部活が様々な出し物をする。軽音部のステージもその一つで、一番盛り上がる時間と言って過言ではない。
注目度の高さもあって、最近は夏美さんも、練習に力を入れる時間が多かった。告白する事が一番重要な事だけど、彼女の舞台も見逃したくはない。一年前の衝撃を受けたあの姿をもう一度見たかった。
告白の事で頭がいっぱいで、後夜祭の事しか考えていなかった僕にとって、文化祭は不意に訪れた夢のような時間となった。
クラスで出店したカフェはありがたくも好評で、客足が絶えることなく、忙しくも充実した時間を過ごした。普段の制服とは違い、店員風の衣装に身を包んだ夏美さんの姿も見れて、僕としては楽しい時間だった。
けれど、どうやら夏美さんにとってはそうでもなかったらしい。休憩時間になった瞬間に、僕は彼女に手を引かれて教室を出た。
「忙しすぎでしょ! 文化祭ってもっとこう、楽しんで見て回るものじゃん!」
ご立腹な様子の夏美さんに手を引かれて歩く。
あそこまで働く事になるとは思っていなかったらしい夏美さんは、過酷な勤務体制への文句が止まらない。彼女の憤りを聞きながら、そんな時でも真っ先に僕の所に来てくれたのかと思うと、僕はにやけそうになる表情を保つのに必死にならないといけなかった。
二人で校舎を周りながら気になったクラスに入り、文化祭を満喫する。
好きな人と二人で文化祭を楽しむ。自分が本当にそんな夢のような事をしているのかと、途中で何度か信じられなくなり、僕は自分の頬をつねったりしてみた。
もちろん痛くて安心した。
校舎をまわっている最中に、一度だけ真由子とすれ違った。一瞬だけ目が合う。真由子は立ち止まって何か言いたそうな顔をしていた。きっと、忠告を聞かなかった僕への苦言だろうとうんざりする。
何も話したくないと思っていると、夏美さんが間に入るように立ってくれて、その場は何の会話もなくすれ違っただけで終わった。
ほっと安堵する。夏美さんを見ると、頼もしい笑みを浮かべていた。
「ありがとう夏美さん」
「いいっていいって!」
「なんか後夜祭とかもあるのに気まずくならない?」
「バンドの事? 全然平気よ。音楽やってる時はね、みんな普段のいざこざは捨てるからさ」
「そうなんだ。なんか大人だね」
「真由子とはまだ喧嘩してるんだ?」
「あはは、まぁ喧嘩っていうか、僕が真由子の言う事を聞かないだけなんだけどね」
「ふぅ~ん。まぁやりたくない事まで、人の言う事を聞く必要はないよね」
「うん。夏美さんならそう言ってくれると思ったよ」
「まぁね! 私ってほら、誰にも縛られないから!」
冗談っぽくポーズを決める夏美さんと笑い合う。
本当に、楽しい時間だった。
一日目があっという間に終わり、二日目もすぐに時間が経っていった。
後夜祭の準備で忙しくなった夏美さんと一緒に文化祭を見て回る事は出来なかった分は、クラスの出し物に協力して時間を潰した。
労働に汗を流しているうちに、夕方になり、学外からの一般参加者たちが帰っていく。
いよいよ、後夜祭の時間がやってきた。
参加しない生徒もいるけれど、ほとんどの生徒は後夜祭を楽しみにしている。皆がさっそく移動する中で、僕はクラスの片づけを最後まで手伝ってから、体育館に向かった。
後夜祭はすでに始まっていて、舞台では勇気ある二人が漫才を披露していた。軽音楽部の演奏がまだ始まっていない事にホッとして、適当に並べられたパイプ椅子に座る。
こうして直前になったというのに、落ち着いていられるのが自分でも不思議だった。
もう後はなるようになると、そう思うしかない所まで来ているからかもしれない。
舞台の上の二人には申し訳なかったけれど、僕は告白のために考えていた言葉を頭の中で何度も繰り返した。
集中しているうちに漫才は終わったらしい。顔を上げると、舞台の上から二人はいなくなっていて、代わりに、ドラムや、音響装置が設置されている最中だった。
いよいよ軽音部の出番らしい。
舞台にもう夏美さんがいるかもしれないとセッティングをしている生徒たちに注目する。
「やっと見つけた! もう、最前列で見てって言ったじゃん」
完全に不意打ちである。僕はてっきりステージでセッティングをしている中に、夏美さんがいると思っていた。そう思って探し始めた時、急に腕を掴まれて、隣には探していたその人がいる。
「ほら、前来てよ」
そう言う彼女に腕をひかれるまま、僕はステージ下の最前列までやってきた。
「ここで見るって約束でしょ? 最高の時間にしてあげるから、楽しんでね」
僕を取っておいたらしき定位置に置いた夏美さんは満足そうに離れて行く。僕はその背中に思わず声をかけていた。
「終わったら、二人きりで会いたい!」
一瞬、驚いたような顔をして振り向いた夏美さん。そんな表情も一瞬で、すぐに手を振って檀上に上がって行った彼女は、もう普段の顔をしていなかった。一年前に見たあの顔。ステージに立った時の鋭く、先鋭化された別人のような空気感。
演奏が始まる前から、身体中に鳥肌が立っているのが分かる。
本当は、後ろの方で演奏を見るつもりだった。
夏美さんのバンドのメンバーには真由子もいる。顔を合わせるのも気まずい今、なるべく近づきたくなかったし、真由子にも演奏に影響があるような事はしたくなかったからだ。
けれど、そんな想いも、もう関係なくなった。
こんなに近くにメンバーが全員いるはずなのに、僕の目には夏美さんしか映っていない。視野が極端に狭くなったかのように、もう彼女しか見えなかった。
盛り上がっていた時間が嘘のように、穏やかな時間が流れている。
後夜祭も終わり、人もまばらになってきた体育館の片隅で、僕は祭りの後の様子を眺めていた。
まだ元気な人もいたけれど、ほとんどの人がしんみりとどこか寂しそうで、祭りが終わった後の余韻に浸っている人がほとんどだった。
僕自身も、夏美さんのステージに圧倒されて、演奏が終わってもしばらくその場で立ち尽くしていた。我に返った今でも、少し手が震えているくらいの衝撃だった。あの一体感を最前列で体感した。僕はまた、夏美さんに初めてを教えてもらったのだ。
肝心のその夏美さんはと言えば、終わった後に会う約束をしていたのに、まだ表れていない。
そのうちやってきてくれるだろうと、大人しく体育館で待っていたけれど、もう後夜祭も終わったというのに、一向に来てくれる気配はなかった。
どうしようかと考えていた時、軽音部が部室にいるらしいと話している周りの声が聞こえた。
迷ったのは一瞬。僕はすぐに立ち上がって軽音部の部室に向かった。
部室に近づいて行くにつれて、緊張感が高まっていく。
部室の目の前に来た時には、緊張が最高潮に達していて、もはや耳のすぐ傍に心臓があるんじゃないかと思うくらいに鼓動の音が五月蠅くて、他には何も聞こえなかった。
部室のドアに手をかけて一度止まる。
少し頭をよぎったのは、真由子や他の部員もいるかもしれないという事。ただ、その時はその時だと開き直る。
今日夏美さんに告白する事は、もう自分の中で決めた事で、誰に何を言われようと止めるつもりはない。
緊張はしている。
フラれるかもしれないと考えると怖い。
それでもこの想いは夏美さんに直接伝えたい。
その想いが僕に一歩を踏み出させてくれた。
ドアにかけた手に力を入れる。
「…………え?」
ドアを開いた僕の目に飛び込んできた光景は、想像もしていないものだった。
気まずい関係の真由子がいたわけではない。
大勢の部員がたむろしているわけでもない。
そこにいたのはたった二人だけ。
一人は僕が探していたその人物。
そしてもう一人は、誰かも分からない男子生徒。
ネクタイの色は一つ上の学年のもので、どうやらその男子生徒は三年の先輩らしい。
問題なのは、二人が抱き合っていて、さらにはキスをしている真っ最中だという事。
「…………え?」
それしか言えなかった。
急にドアが開いて驚いたのか、先輩らしき男子生徒が慌てて夏美さんから離れた。びっくりしていた様子の先輩は、入って来た僕を見て、拍子抜けしたような顔になり、すぐにイライラしたような表情に変わった。まるでお楽しみを邪魔された悪役みたいな顔だと思った。
「なにお前? 部員じゃないのに入ってくんなよ」
「あ、ごめ、す、すいません!」
混乱の極みにいたところに威圧的に詰め寄られて、何も考える事が出来ないまま、僕の口からは勝手に謝罪の言葉が漏れていた。
本当はそんな事を言いたいわけじゃない。
なにお前? なんて僕が目の前の男に言ってやりたかった。
この男は一体だれで、なんで夏美さんと二人きりで部室にいて、なんで……なんでキスなんかしてたんだって、そう真っ向から言えない自分が情けなかった。
「早く出て行けよ!」
「あっ⁉」
男に突き飛ばされて、僕は廊下に尻もちをついてしまった。
見上げると、男は部室から僕を見下していて、たいして興味もないかのようにドアを閉めようとしている。
「待って!」無様な体制のまま手を伸ばしても、僕の手は届かない。
男が僕を無視してドアを閉める。
無常にも目の前で閉ざされたドアに、僕の手は虚しく空を掴んでいた。
「大丈夫⁉」
「……え?」
目の前で閉まったばかりのドアが、勢いよく開いていた。
飛び出してきたのは夏美さんで、虚しく伸びていた僕の手を握ってくれた。
「怪我してない?」
「う、うん」
僕の混乱は深まるばかりで、思考がまとまらない。
「おい夏美! そんな奴ほっとけよ!」
少しの間呆然と立ち尽くして僕たちを見ていた男が、我に返ったのか声を荒げて部室から出て来た。
夏美さんは振り返る素振りも見せない。
「おい夏美って!」我慢の限界に来たのか、男が夏美さんの肩を掴む。すると、今存在に気が付いたかのように夏美さんは驚きの声を上げた。
「あれ⁉ まだいたの⁉」
「は? いや、何言ってんだよ。それよりそんな奴ほっとけって、早く中に戻ろうぜ」
「いやぁ、むしろ早く帰ったら? 私は今からこの子と約束があるから」
「いやいや、そういうのいいって、それよりせっかくよりを戻したんだしよぉ。マジで早く中に戻ろうぜ」
「あぁ~そんな話してたっけ……うん。あれやっぱなしにする」
話を聞いていたわけではない僕には、二人の会話の全てを理解する事は出来なかったけれど、男の顔を見る限り、夏美さんがとんでもない事を言っているという事だけは、なんとなく分かった。
「ふ、ふざけんなって! ついさっきまた付き合ったばっかだろ!」
「そだけど、それが何? 破局までの最短記録更新おめでと~」
「キスだってしたのに!!」
「キスくらい誰とだってしますよ?」
敬語で帰された先輩らしき男は、さっきまでの威勢が嘘みたいに消えて、今にも泣き出しそうな顔をしていた。
それで突き飛ばされた時の気分が晴れたのかと言われたら、そうではないと答える気がする。
きっと、夏美さんから構ってもらっている僕も、その男と同じような顔をしているに違いない。
「立てる? 私に掴まって」
差し出された手に掴まって、引かれるがままに優しく立ち上がる。
「丁度誰もいないから、部室でちょっと休んで」
呆然としている男の前で夏美さんは当然のように言い放った。何も言えないでいるその男に同情している心の余裕はない。
夏美さんに手を引かれ、部室に入る。無常にも、さっきまでとは逆に、廊下にいた男が手を伸ばしているのが見えた。まるでスローモーションのように動く男の手。
その手がドアに届くまえに、夏美さんはドアを閉めて鍵をかけた。多分、鍵をかけた音だって聞こえたはずだ。あんな顔をしていた所を見ると、あの人はもうこのドアを開けようとすら出来ないと思った。
「二人きりで会いたいって言ってたよね? これで誰にも邪魔されないよ」
いつものように笑ってくれるその顔が、僕にはもう別人のようにしか見えない。
「何か私に言いたい事があったんでしょ?」
そう。僕は夏美さんに告白するつもりでここに来た。
けれど、考えて来た言葉は全て白紙になって頭から消えている。
「あの、さっきの人は?」
「さっきのって?」
「廊下の、男の人」
「あぁ、あれは軽音楽部の先輩だよ!」
あれ、と彼女はそう言った。
「前付き合ってた時期があってさ、なんかまた付き合いたいって言ってきたから、ライブで興奮してたし、いいよって言ったんだけど、キミを突き飛ばしたの見たら、一気に冷めちゃった。あれはもういらないかな」
夏美さんの口からは、僕が理解するには難しい言葉が次々と出てきて、なんだか泣きそうになった。
「好きだったんじゃないの?」
「別にそうでもなかったけど」
「じゃあどうして?」
「何が?」
「どうしてその……付き合ってたの?」
「どうしてって、別にいいかなって思ったから」
その言葉を聞いた時。僕は何故か真由子に言われた言葉を思い出していた。
『夏美の事は凄い魅力的に見えると思うけど、それは表面だけ、中身は絶対に理解できないよ』
あの時僕は、真由子になんて言い返したっけ、たしか……そうだ。
余計なお世話、だ。
「あれの他にも何人かと付き合ってるし、深い理由なんてないけど?」
真由子の心配は、本当に余計なお世話だったのだろう。隣の席になってから、半年くらい。一緒にいるようになって、僕は彼女の事を理解したつもりだった。
夏美さんは自由で、何者にも縛られない存在。真由子に言われなくてもそんな事は分かってた。けれどそれは正しい認識でありながら、浅い認識でもあったのかもしれない。
僕は今、やっと彼女の中身、本当の自由に触れていた。
「ねぇ、キミも私に告白してくれるんじゃないの?」
いつの間にか間近で覗き込まれていた。心の内を言い当てられて言葉もでない。期待の眼差しを向けていた彼女は、それでも何も言わない僕を訝しんでいる。そして、何を勘違いしたのか納得したように頷いた。
「他にも男がいるのが嫌なの? なんなら全部別れるよ? キミの事はそれだけ気に入ってるからさ」
一生眺めていられそうな笑顔で、そんな事を平然と言ってのける。真由子が言っていた通り、違う価値観で生きているという言葉がピッタリだと思った。
ただ、もう今更だ、僕は理解するのが遅すぎた。
「……どうして?」
「へ? 何が?」
「僕を、気に入ってるって」
「あぁ、最初に見た時なんかカワイイなぁって思ってたんだ。それと――」
一旦言葉を区切った彼女は、少し意地悪そうな笑みを浮かべた。その顔を見た瞬間、続きを聞いてはいけないような気がした。
「――真由子がなんか気に入ってるみたいだったからさ、興味湧いちゃって」
それを聞いた瞬間、後悔した。
好きとか、嫌いとか、そんな普通の考え方をしている人じゃなかった。
今更ながら、真由子が何度も忠告してくれた時の記憶が溢れてくる。
もう遅いのは痛いほど分かっている。それでも後悔せずにはいられなかった。
「で、で? どんな感じで告白してくれるの? けっこう楽しみにしてたんだよね」
僕の様子なんてお構いなしではしゃいでいる夏美さん。住む世界が違うなんて比喩でもなんでもない。
僕の恋は、そもそも成立すらしないんだと、後悔と一緒に理解した。
「夏美さん……」
「ん、何でしょう?」
わざとらしく姿勢を正して笑っている。今までの僕なら、その姿を見て微笑ましいと思えたのだろう。
どうして僕は大人しく体育館で待っていなかったのか。
彼女の内面なんて知らないままだったら、何も知らないままだったら、隣で笑えていただろうに……。
「ごめん。用はなにもないんだ」
「……え?」
「さようなら」
「ちょっ、待って⁉」
引き留めるように掴まれた腕を振り払う。
鍵を開けてドアを勢いよく開き、廊下に飛び出す。
座り込んでいた先輩を飛び越して、そのまま全力で駆け出した。
後ろからは、夏美さんの悲痛な……悲痛そうに僕を呼ぶ声が聞こえたけれど、それでも僕は一度も振り返りはしなかった。
幼馴染の忠告も聞かず、相手を分かった気になって、表面だけに恋をした。
いざ告白しようとしたら、その人は別の男とキスをしていて、そんな事は誰とでもすると言う。
他にも何人も付き合っている人がいて、彼女にとってはそれが普通だと言って堂々としていた。
彼女の価値観を責めるのは、たぶんお門違いだと思った。
悪いのは自分だ。
相手の深いところを見ず、表面だけで知ったような気になって、それで実際は思っていたのと違うと勝手に幻滅した。
それが僕のした事。結局、僕の恋はただの憧れで、薄っぺらいものだったのかもしれない。
誰もいない教室に逃げてきた。自分と、夏美さんの机が並んでいる。
勝手に、輝いていた日々が思い出され、それだけで悲しかった。
「……っぅ、う…ぅう……」
今までこらえていた物が、遂に我慢できなくなった。
止まらない。
流れたものは、僕の机に落ちて溜まっていく。
惨めで情けない姿をしているに違いない。それでも、誰もいない教室にいると、見栄とかそういうものが機能しなくなって、もうどうでもよくなった僕は、そのまま泣いていた。
「だから言ったのに」
言葉だけ聞けば、あきれ果てたような文句のそれ、ただ実際に聞こえてきたその言葉には、馬鹿にしたような響きはなく、仕方ないなぁと包み込んでくれるような優しさを感じた。
「私が心配してた通りになった」
背中から抱きしめられた。
なんでここに居るのかは知らない。
なんでそんなに優しくしてくれるのかも分からない。
ただ、久しぶりに聞いた幼馴染の声に、今だけは甘えたくなった。もう何も考えたくない。
「……まゆ、こ」
「なぁに?」
「ご、ごめんね……僕が、バカだった」
「もういいよ。もう忘れな。それが一番の解決法だから」
「そんな事、言われても、忘れるなんて、無理、だよ」
「大丈夫だから。私が、忘れさせてあげるから」
真由子は力強い言葉と、同調するように、きつく抱きしめてくる。
僕はされるがまま、抱きしめられて優しい暖かさに包まれたまま、ただ泣き続けることしか出来なかった。