第八小節「偉大なる指揮者、偉大なる父」
符楽森響―自身が立ち上げた「ムジーク・ヴァルド交響楽団」の常任指揮者であり、彼の作り上げるダイナミックかつ肌理細やかな音色は世界で絶賛され、若くして有名になった実力派の指揮者である。思慮深くも寛大で豪快、快活な彼の性格は、まさに彼の作り上げる音色そのもので、その人間性に惚れ込む人も多数いるという。そして何より、その珍しい苗字からも分かるように、彼は符楽森拆音の父親である。
「・・・、それで父さんがヒーローっていうのはどういう・・・」
符楽森は呟くかのように言葉を絞り出す。すると第九は少しの笑みと共に言った。
「それはまた今度の機会に教えよう。正直この世界に来たばかりで混乱しているのに、また新たな話をしても理解できないだろう。」
確かに・・・、と符楽森は苦い顔になる。
「だからまあ、今日のところは偉大なる指揮者について知ってもらえればそれで良い。」
いや結局新しい事教えるんかい。符楽森は一層苦い顔になった。
「そんな顔をしないでくれ。軽くしか教えないよ。知ってもらうだけで良いんだ。」
第九は優しくそう言うと、偉大なる指揮者について語り始めた。
偉大なる指揮者―その素質を持つ者はハルモニアの外、いわゆる現実世界から唯一ハルモニアに訪れることのできる存在であり、例外を除いて現実世界とハルモニアとを行き来できる希少な存在である。
そしてその者が「偉大なる指揮者」に覚醒した時、「指揮」の能力を得る。
指揮の能力はそれを使う偉大なる指揮者によって様々であるが、そのどれもが特定の音霊との強い繋がりを必要とする。
「な、なんとなくは理解しますけど、それを僕に教えたかったのは何故なんですか?」
符楽森はある程度説明を聞くと口を開いた。第九はそれを意外と受け取ったが、こう続けた。
「単刀直入だが、君に偉大なる指揮者になって欲しいからだ。」
・・・、符楽森は啞然とした。僕がそんな大層な感じの存在に?向いてない。そもそも成り方すら分からない。
「無理です。僕はそんな大した存在じゃありません。」
第九は符楽森のことを暫くの間じっと見つめた。幾らかの時間そうしていると、第九は口を開いた。
「音楽は好きか?」
第九は問う。
音楽は好きか。符楽森は自身に問う。
名門と呼ばれる阿保路音学園に通っているものの、彼は音楽に対して真摯に向き合ったことがなかった。幼少期から父の影響で音楽に触れ、高いレベルの音楽の素養を自然に身に着けることのできる環境にいたからこそ阿保路音学園に合格し、そして”才”に富むとされる「シンフォニア寮」に所属することができていた。しかし、中等での3年間は決して彼にとって楽なものではなかった。入学当初こそ今まで身に付けてきた素養で活躍できたものの、稀代の天才、或いは並外れた努力ができる生徒たちにグングンと追い越された。また音楽は多少の才能ではどうしようもなく、才能で補えない部分は知識と経験でしか埋まらない。しかし彼はそれ蓄えるための勉強や努力を「いつかやる」とサボっていた。そうして時が過ぎ、1年生の冬を迎える頃には、彼を世界的指揮者の息子と捉えられる人はいなくなっていた。
青中や指宿、そして音原と一緒にいたいという思いから、3年生の後半にジングシュピール寮を目指してようやく努力を始めたが、もう遅かった。結局ジングシュピール寮には入れずに、よく分からない謎の寮に入ることになってしまった。そして今思うとなにより彼がショックだったのが、どうせ入れると思っていたシンフォニア寮に入れなかったことだ。”才”に富むとされるその寮に入れなかったことは、”才”を評価されなかったことと同義であり、彼が微かに自負してた「僕には才能がある」という自信を砕いたのだった。
「僕は・・・。」
符楽森は震える声で漏らす。
「僕は、音楽を好きと言えるほど、音楽と向き合ってきませんでした。」
自然と符楽森の目は潤んでいた。
第九はそんな彼の姿を見ると、安堵したように頷いた。すると第九はその大きな体を立ち上がらせると、符楽森に向けて言った。
「着いてこい」
*
「どこまで行くんですか?」
組合を出て数分歩いたあたりで、符楽森は第九に問う。
「さっきゴルトベルク変奏曲達を派遣した広場までだ。」
第九は優しい声を響かせた。
「でも確か、ゴルト達は不協和音?と戦いに行ったんじゃ…。危なくないですか?」
「彼らならとうに仕事を終えているはずだ。」
「そうですか…」
先程までなら第九による彼等への大きな期待、自信に謎の誇らしさを抱いていたであろうが、改めて自身の不甲斐なさを痛感した符楽森にとって、それはあまりに傲慢であると自覚せざるを得なかった。と同時に、先程の彼らへの誇りを大きく恥じた。
2人が歩くこと数分、煌びやかな噴水が堂々と佇む、まさに「広場」に着いた。そこでは確かに仕事を終えたであろうゴルトベルク変奏曲、葬送、月の光が談笑していた。
「3人ともご苦労だったな。」
第九が彼らにそう言うと、すぐさま彼らは目線をこちらに向け、ぺこりと挨拶をした。
「お疲れ様です。」
葬送が言った。彼の顔には「なんで2人がここに?」と書かれていた。それを察してか、第九は口を開く。
「時に符楽森君、ゴルトベルク変奏曲の旋律を聴いたかね?」
「は、はい。一応組合に来る前に不協和音に襲われた時に…」
そうか…と第九は呟く。すると第九はゴルトベルク変奏曲に顔を向けた。
「ゴルトベルク変奏曲。」
「はい…?」
「ここで旋律を奏でたまえ。」
「……はい?」
第九以外のこの場にいる全員が首を45°傾けた。
「とにかく、今、ここで奏でるんだ。」
第九はそれを気にすることなく続けた。
「わ、分かりました…」
ゴルトベルク変奏曲は、先程のように何も無い空から謎の棒―指揮棒を取り出すと、辺りを優しく、緩やかに撫でた。
ゴルトベルク変奏曲の優しい、暖かい調べが辺りを包み、それに呼応するかのように木々が、風が、噴水がゆっくりと踊る。符楽森は目を閉じてその調べに体を任せる。すると不思議と、彼の脳内にある懐かしい記憶が浮かび上がってきた。それは彼が「音楽が好きだ」と思った日の記憶だった。