第七小節「旋律」
ゴルトベルク変奏曲が空を撫でると、それに沿って黄金の五線が空を彩り、突如としてゴルトベルク変奏曲そのものが辺り一帯に流れ出した。
ゴルトベルク変奏曲―アリア―
本曲において30の変奏の元となるこのメロディは、幼き日に包み込まれた母体の様な、冬の朝の布団の温もりの様な、心地よい柔らかさで聴者を包み込み、うっとりと蕩けさせる。
先程まで聞こえていた不快な音は鳴りを潜めだし、一帯はゴルドベルク変奏曲に包み込まれた。
符楽森は流れる音にうっとりと蕩けかけていたが、すぐさま異変に気がついた。先程飛び出してきた小さな黒い塊が地面に倒れ込み、微かに寝息を立てているのだ。その様子を見たゴルトベルク変奏曲はホッと溜息をつくと、握っていた謎の棒をシュパッと振った、と同時にそれは金の粒子となり姿を消し、五線は消え、ゴルトベルク変奏曲の演奏もピタリと止まった。
「葬送、よろしく。」
ゴルトベルク変奏曲はすぐさまそう言うと、葬送は先程のゴルトベルク変奏曲と同じように空から謎の棒を取り出し、それで空を引っ掻いた。
流れ出したのは、フレデリック・ショパン作曲—ピアノソナタ第2番「葬送」第3楽章—。陰鬱で暗い音が、じんわり、じんわりとこちらに近づいてくる。
符楽森はパッと後ろを振り返った。するとそこには、老若男女、様々な人のような物が行列を作っており、それはじわじわとこちらに近づいてきていた。符楽森はビクビクしながらそれを見続けたが、結局自身の目の前を通り過ぎるか過ぎないかのうちにその行列は霧散した。それらが通った後には、先程の黒い塊は消えていた。
「驚かせてしまったかい。」
既にその手から謎の棒を手放していた葬送は、符楽森に対し心配の色を含んだ声でそう言った。
「い、いやぁ…何がなんだか…。」
符楽森は今目の前で起こった事を全く飲み込めていなかった。謎の黒い塊、突如流れ出したゴルトベルク変奏曲や葬送、なぜ黒い塊は寝始めたのか、さっきの行列は何なのか…。
「まぁ、後で全部話すよ。喉乾いちゃったから早く戻ろ。」
符楽森の脳みそがパンクする寸前にゴルトベルク変奏曲はそう言った。符楽森は脳みその余った少ない領域でただただ間抜けな返事をする他、何もできなかった。
*
ハルモニアには昔むかし遠い昔から、「不協和音」という、不完全な音霊が存在している。それは、様々な音楽、つまり音霊が一緒の空間、世界に暮らす上では必ず生まれてしまうもので、存在すること自体は仕方の無いことである。ただ、この不協和音には困った性質があった。それは、不協和音は音霊に対して攻撃的であるという性質だ。
不協和音は不完全な音霊である。それ故に”完全”になろうとしている。だからこそ”完全”である音霊に攻撃をしてしまう、というのが今のハルモニアでの見解らしい。
「その不協和音を倒すために必要なのが、さっき僕たちの使った力”旋律”なんだ。」
旋律—音霊のみの使える力であり、自分自身を”指揮棒”を使って奏でることで、その音霊に即した能力を発動することができる。その能力の内容は、人々がその音霊、音楽に持つイメージに寄与する。
「そうか、じゃあゴルトベルク変奏曲くん?の旋律の能力は、ゴルトベルク変奏曲を聞くと眠ってしまうという伝説から来てるんだね。」
「今回は飲み込み早いんだね。見直した。ゴルトって呼んでいいよ。」
ゴルトベルク変奏曲、もといゴルトは、少し笑顔を見せて符楽森にそう言い、紅茶をクピリと飲み込んだ。
符楽森一行はあの後”組合”に戻ると、待合室のような部屋でお茶をしつつ話をしていた。
「因みにだけど、我々は旋律を使い不協和音を倒すことを生業としている。そうした者の寄り合いが、我々の領主様が代表を務めるこの”組合”なんだ。」
葬送が少し自慢気に符楽森に言う。
「だからあんなに不協和音をパパッと倒せたんだ!カッコいいなあ…」
ゴルトと葬送はそれ程でもないと言いつつ、その顔は少し綻んでいた。
3人が暫しの間談笑していると、部屋の扉が空いた。するとゴルトと葬送はガバと立ち上がり、その姿勢をピシッと正した。入ってきた人は先程符楽森が目覚めたときにいた仮面の大男と、その隣にはミルク色の髪の少女がいた。
「ゴルトベルク変奏曲、葬送、彼にしっかりこの世界のことは教えられたかい?」
「はい。不足なくお伝え致しま…、あ、いや…」
葬送は急に口を詰まらせる。
「偉大なる指揮者についてがまだ説明できていません。」
「そうか…」
仮面の大男は呟くと、少し考える素振りを見せた。
「分かった。偉大なる指揮者については私から話そう。月の光、ゴルトベルク変奏曲と葬送と共に広場に現れた不協和音群の討伐に向かってくれ。」
「了解です。行くよ2人共。」
月の光と呼ばれたミルク色の髪の少女は、美しい金色の眼をゴルトと葬送に向けた。2人は「まじかよ」とでも言いたげな顔を一瞬したが、仕方ないかと月の光について行き部屋を出た。2人が去り際に符楽森に少し手を振っていたのを見て、符楽森は優しく笑った。
ゴルトたちが部屋を出ていくのを確認すると、仮面の大男は符楽森の隣に腰掛けた。その体重でソファはずっしりと凹み、符楽森はソファに飲み込まれかけた。
「説明ばかりで疲れただろう。少し雑談でもしようか。」
仮面の大男は呟く。その声は少し笑っていた。
「まずは自己紹介から。私はアポロンのシンフォニア領領主兼この組合の代表を務めている”交響曲第9番”だ。よろしく頼むよ。」
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン作曲―交響曲第9番―。この世に数多にある「交響曲第9番」というタイトルだが、この名称を聞いたとき誰もがまず先に思い浮かぶのが、このベートーヴェンの交響曲であろう。ベートーヴェン自身の最高傑作だけでなく、西洋音楽においても最高傑作との呼び声高いこの曲は、日本においても「歓喜の歌」として多くの人に親しまれている。そんな大曲が、今符楽森の隣りに座っているこの大男らしい。
「そうか…じゃあ僕が世界、ハルモニアに来る前に第九が聞こえてたのは、あなたがあなた自身を演奏していたからなんですね。」
「おお、しっかりそこまで説明してくれていたのか。彼らは良き組合員だ。」
符楽森は彼らが偉そうなこの人―第九―に褒められているのが、何故か自分のことのように嬉しかった。
「ところで…」
第九が口を開ける。
「君の苗字、”フガモリ”ではないかね?」
なんでこの人が僕の苗字を知っているんだろう。符楽森は思う。ゴルトと葬送には先程出かけた際に名前を打ち明けたが、この人には一切教えていない。どころかこうして会話するのも今が初めてだ。ゴルトと葬送が教えた?いや、彼らはこの人が来るまでずっと一緒にいたし、この人が来てからは大した会話はしていない。とするとこの人の旋律が相手の名前を知ることができる能力なのか…?
符楽森が思考していると、第九は何かを悟ったように語りだした。
「いやね、君の目を私はよく知っているんだよ。君、お父さんの名前は?」
「響…ですけど」
やっぱり。第九が呟く。
「ヒビキは私の元相棒だ。そして何を隠そう、ヒビキは偉大なる指揮者としてハルモニアを救ったヒーローなんだ。」
何が一体起きているんだ…。符楽森はただただ第九の仮面を見つめ続けることしかできなかった。