或る雨の日の出来事
季節は梅雨に突入した。雨の日が続き、傘は必需品となる。
僕は黒いだけで無個性な傘を差して大学へと向かっていた。こういう傘のメリットは安いことと、案外丈夫なことだ。一方デメリットなことは傘立てに置くとどれが自分の傘か分からなくなることである。
傘を差すと自然と俯き加減に背筋は丸まり、足取りも濡れないように早くなった。
帆乃里のアパートの付近を通る時にふと顔を上げると、前方に鮮やかな色を放射状に散りばめた傘を見つけ、懐かしさに胸が熱くなる。あれは帆乃里の傘だ。
学生時代から使っていたその傘は、結婚してからも愛用していた彼女のお気に入りだった。色彩配色表のような模様のその傘は右回り、左回りに忙しなく回転し、見ていると目が回りそうだった。柄をくるくると回して弄ぶ癖はこの頃からあったようだ。
雨の日でも彼女の陽気さが伝わってくるようで微笑ましく、僕は声を掛けずにしばらくその後ろ姿を眺めてしまう。
「わぁっ!?」
濡れた下水の蓋で滑った帆乃里はバランスを崩して転びかけた。
「危ないっ!」
僕は自分の傘を放り投げて慌てて駆け寄るが、離れすぎていて間に合いそうもない。
しかしその奮闘は無駄だった。滑った帆乃里はくるりと踵で綺麗に回転し、転倒を免れた。一方勢いよく走ってしまった僕は、逆に側溝の蓋に滑ってしまい豪快に転んでしまう。
「あ、綾人君っ!?」
帆乃里は驚いた顔をして、転んだ僕を見下ろした。
「や、やあ……」
実に情けない構図だ。
「わっ!? 脚、怪我してるっ!」
「こんなのなんでもないから大丈夫っ……痛っ!!」
無理矢理立とうとしてズキンとした痛みが走り、また転んでしまう。
「駄目だよ、無理しちゃ!!」
雨でびしゃ濡れだし、ジーンズ破いて怪我してるし、やっぱり僕は鈍臭い。助けるつもりが助けられる側になるなんて笑い話だ。
「手当てしないと」
「いいってこれくらい」
「駄目っ!! ちゃんとしておかないとっ!」
びっくりするくらい厳しい声で怒られ、「はい……」と思わず従ってしまった。帆乃里は普段怒ったりはしないが、こういう時は厳しい。
風邪を拗らしているのに出勤しようとして怒られた未来のことを思い出した。未来を思い出すって言うのも変な話だけど。
「お邪魔します……」
治療のためとはいえ、部屋に上がるというのは緊張した。帆乃里の部屋にお邪魔するのは、時を遡ってからはじめてだった。玄関にはラフティングの時の四人の写真が飾られている。
「ふふ。大丈夫だよ。美妃はいないから」
「あ、そうなんだ」
僕の心配を見抜いた帆乃里が笑う。
2DKで片方の部屋が帆乃里の部屋だった。
その部屋に入った瞬間、懐かしい匂いがした。ラベンダーのドライフラワーの芳香剤や帆乃里のお気に入りの香水の香りが混ざった、紛れもなく妻の部屋の香りだった。
「散らかっててごめんね」
照れくさそうに慌てて脱ぎっぱなしのパジャマを片付ける。別に下着ではないが、なんだか見てはいけないもののような気がして僕も照れ臭かった。
救急箱を取りだしている間に僕はズボンの裾を捲り上げようとするが、元々ぴちっとしている上に雨で濡れてしまっているので全然捲り上げられない。
「あー、無理だって。ズボン脱がないと」
「えっ……それはちょっと……」
「だいたいずぶ濡れなんだから一回シャワー浴びなきゃ。濡れた服は着られないから私のジャージで我慢してもらうしかないけど」
「シャ、シャワーって……」
女の子の家でシャワーを借りるということに抵抗を感じたが、無理矢理帆乃里に連れて行かれてしまった。
意識しすぎているのは僕だけだ。あまり照れ臭がっていると帆乃里にも失礼な気がして服を脱いでシャワーを浴びる。
雨で冷えた身体がお湯で温められるのは心地よかった。
シャワーを上がるといつの間にかジャージとTシャツが用意されており、代わりに僕の着ていた服が下着ごとなくなっていた。
「えっ……」
下着まで片付けられたのは気恥ずかしかった。それにこのままでは素肌にジャージのズボンを着なくてはいけない。
戸惑っているうちに玄関が開く音がして、たったったっという小走りの足音が聞こえた。
(マズいっ!!)
僕は慌ててバスルームの引き戸を抑えようとしたが、そそっかしい帆乃里に一歩及ばなかった。
「わあっ!?」
「きゃああっ!? ご、ごめんなさいっ!」
勢いよく戸が閉められた。大丈夫。腰にタオルは巻いていたから。
「あ、あの……これを……」
狭く、本当にちょっとだけ戸が開けられ、その隙間から袋に入ったままの男物の下着が挿しこまれる。
「あ、ありがと……」
急遽コンビニで買ってきてくれたようだ。ボクサーブリーフなのを見て少し笑った。結婚する前はトランクスだらけだった僕のクローゼットは、結婚してからボクサーブリーフに塗り替えられていたのを思い出す。
ジャージは帆乃里の高校時代のものらしく、それほど背の高くない僕でも短すぎた。
洗いざらしのジャージからは、帆乃里の香りがうっすらと感じられて、なんだか全身が擽ったい。
僕は怪我をした膝までジャージを捲り上げて部屋に戻った。
「ごめん。色々気を遣わせちゃって」
「う、ううん……そもそも転びかけた私を助けようとしてくれて怪我しちゃったんだし……」
先ほどの風呂場でのハプニングが気まずさの尾を引いて、微妙な空気が流れかけていた。
「ぷっ……はははっ!!」
その静寂を帆乃里の笑い声が打ち砕く。
「ごめん……ごめんねっ!! いきなり浴室のドアとか開けないよね、普通!」
帆乃里は苦しそうになるくらい笑っている。美人なのにそれを気にした素振りもなく豪快に笑う帆乃里が好きだった。
あまりにも笑い転げるので僕もつられて笑ってしまう。
「あー、おかしい。ごめんねー。びっくりするよね、そりゃ」
笑いすぎて溢れた涙を指で拭いながら、ようやく帆乃里は落ち着いた。
「僕も鍵かけなかったのが悪いし」
「濡れたものはコインランドリーで洗濯してるからね」
「そんなことまでしてもらって、ごめん」
「ううん。それより怪我見せて。大した治療は出来ないけど」
帆乃里は自分が痛いみたいな顔をしながら手当てをしてくれる。人の痛みが分かるっていうのは、案外こういうことが語源なのかもしれないと思った。
それなりに器用にテーピングもしてもらって処置は完了した。
「そろそろ洗濯終わったかな? 見てくるね」
「いいよ。僕が行くから」
どうせもう見られていたが、何度もパンツを見られるのは気恥ずかしい。
「じゃあ一緒に行く?」
その妥協案は拒否を許されず、二人で傘を差してコインランドリーに向かった。無個性な黒と個性溢れる色彩が並んで歩く。傘一つとっても僕たちはちぐはぐで噛み合っていない。
雨が続いているからコインランドリーは大繁盛でフル稼働だったが、待ってる人は一人もいない閑散とした風景だった。時代を感じさせるそのコインランドリーは、ベンチがあるだけのがらんとした殺風景な空間である。
洗い終わったものを乾燥機に入れ、僕たちはベンチに座り雨の景色を眺める。
行き交う人は傘を差し、俯き加減で足早に歩いていく。
雨が風に煽られて地面を叩くさぁぁぁっという静かな音や、屋根から伝い滴る水のトントントンという音を聞くともなく聞いていた。
夫婦でブドウ狩りに行った時、突然降り出した雨空を不機嫌そうに睨んでいた帆乃里の顔を思い出す。
「なんかさ、綾人君って不思議だよね」
「不思議? 僕みたいな平凡な人間が?」
「平凡なんかじゃないよ。すごく、変わってる」
変わっていることに関しては誰にも引けを取らない帆乃里に『すごく変わってる』と言われるほど、僕は変わった人間ではない。
だいいち帆乃里から『変わっている』なんて言われたことは、今まで一度もなかった。
「落ち着いてるというよりは、達観してるって言うのかな? 私たちよりすごく大人びてる感じがして。上手く言えないけど、なんていうか……」
「僕に覇気がないだけだろ」
「ううん。そうじゃないの。いや、まあ、覇気はないけど」
「ないのかよ」
肩透かしのようなジョークも帆乃里らしい。美妃さんと違い、帆乃里は冗談を言った後にそれと分かるように笑ってくれるから分かりやすくて助かる。。
「なんて言うのかなぁ……優しさが、お父さんみたいっていうか……ちょっと違うかな……なんだろう? 自分を犠牲にしてまで守る正義の味方? そんな感じがする」
「なんだよ、それ。そんないいものじゃないよ、僕なんて」
静かにそう返したものの、僕の心臓は早鐘を打っていた。
「私に対してもそうだけど、駿稀君に対しても、美妃に対しても、頼り甲斐のある優しさがあるんだよねっ!」
なんて返していいか分からなくて困った僕を見兼ねたように、乾燥機が終了の音を鳴らしてくれた。
「ちゃんと乾いてる。ありがとうね、帆乃里ちゃん」
「どういたしまして」
適当に話を打ち切れて助かった。僕は服を袋に詰め、ジャージは洗って返すと約束をして逃げるように立ち去る。
これ以上帆乃里と二人きりでいれば、気持ちが抑えきれなくなりそうだった。