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喫茶小径とパンケーキ

 過去に遡って未来を変えると歴史がねじ曲がる。以前映画でそういう話を観たことがあった。それを科学的根拠というにはすこし心許ないが、無視できない不気味さは感じた。何かが大きく変わってしまったら大変だと心配になった僕は現状を確かめるために実家に電話をした。


「何か変わったこと?」


 お母さんは何かおかきか煎餅のようなものを食べてるのか、ボリボリという音を立てながら緊張感のない声で話している。


「なんでもいいんだ。お父さんが会社をクビになったとか、家が火事になったとか」

「なんでもいいっていう割にはもの凄いこと言うのね。そんな大変なことがあるわけないでしょ。馬鹿だね、綾人は」

「変わりはないんだね」

「ないよ。あ、そうそう。お父さんがね」

「お父さんがっ!? 癌とかっ!? 事故とかっ!?」

「最近健康のためにランニングを始めたのよ。あんなにだらけた人が」

「……ランニング?」


 規模はかなり小さいが、僕の記憶には確実にない展開だった。


「そうなのよ。で、ほらお父さんってなんでもかたちから入るタイプでしょ? シューズとかランニングウエアとか高いの買ってさぁ。いつまで続くか分かんないのに」


 それからお母さんの愚痴的なものを聞かされ、「ちゃんと野菜食べなさいよ」といういつもの締めの小言を聞かされて電話は切られた。

 お父さんがランニングを始めたというのは確かにはじめて知った新事実だ。これは僕が原因でねじ曲がった未来なのだろうか?

 いや、前回は僕が実家に電話をして確認しなかっただけで、お父さんはほんの一時期ランニングをしていたのかもしれない。

 そもそも帆乃里との出会い方が変わったことでお父さんがランニングを始めるとは、風が吹けば桶屋が儲かる以上に強引な展開だ。


 いずれにしても大した変化は起きていない。今のところは。

 これから僕が変える。

 世の中をよりよくするとか、過去の記憶を使って金儲けをするとか、そんな仰々しいことではない。たった一人の、僕の妻だった帆乃里の人生を変えるだけだ。



 講義のコマの確認をし、大学へと向かう。色々な思い出が詰まったところを歩いていると、それどころではないのに恥ずかしながら少し心が弾んでしまった。

 ちょっと浮かれた気分で講義室に向かう途中、一人で歩いていた美妃さんと出会でくわした。僕に気付くと美妃さんは冷笑を浴びせてくる。


「昨日はどうも」

「根暗君の方か」


 相変わらず歯に衣着せぬ物言いだ。以前は恐怖すら感じる存在の彼女だったが、今はこんなものの言い方をされてもたじろがない。


「ごめんね、陽気なイケメン君の方じゃなくて」

「陽気なイケメン君? もう一人の方は馬鹿っぽい男君だから」


 美妃さんは真顔で答えた。彼女は冗談を言うときも笑わない。だから本気で怒ってるとかではなく、これは美妃さんなりのジョークだ。それを知ってる今だから笑えた。


「今日は『陽気ちゃん』の方は?」

「根暗君、大人しそうな顔して結構言うね」

「美妃さんは『クールさん』だから安心して」

「それはご丁寧にありがとう。あの子は今日講義ないからバイトだよ」

「へぇ。じゃあ後から行ってみようかな。パンケーキ食べたいし」


 つい口を滑らしてしまうと、怪訝そうな顔で美妃さんに睨まれた。


「パンケーキ食べに行くって……場所知ってるの?」


 僕はこの時点で帆乃里のバイト先を知っているはずがなかった。

 昨日のコンパで喫茶店でバイトしてることは言ったものの、制服姿を見られるのが恥ずかしいからと勤務先は頑なに教えてくれなかったからだ。


 もちろん僕はバイト先を知っている。過去が変わっていなければ帆乃里が働いてる喫茶店は個人経営の小さ店だ。パンケーキは今どきのいわゆるフォトジェニックなネット向きなものではなく、メープルシロップと溶けたバターだけのシンプルで優しい味わいのものだ。

 もちろんこの時代にはネット映えするとか、そんな言葉すら存在していないけど。


「て、適当に、その辺の喫茶店行くだけだよ。もしかしたらいるかもしれないし……パ、パンケーキ好きだから」

「……根暗君ってストーカーじゃないよね?」


 訝しげに睨む顔は冗談を言うときの無表情よりも険しかった。


「ま、まさかっ……ははは」

「あたしはあの子を泣かせる奴は許さないからね」

「は、はい……そうですか……」


 美妃さんと出会った当時はあまりにも帆乃里が好きすぎるから、しばらくは『そういう趣味』の人と勘違いしていたのを思い出す。

 帆乃里を泣かせる奴は許さない、か。もし僕が帆乃里を傷つけ、苦しめて離婚したと知ったら殺されるかもしれない。

 ちなみに自殺する前、美妃さんには帆乃里と離婚したことを連絡していなかった。「帆乃里のことをよろしくお願いします」と涙ながらに言ってくれた美妃さんに合わせる顔もなかったからだ。帆乃里は美妃さんに伝えたのだろうか?



 講義を終えた僕は、まさか本当に帆乃里のバイト先に行くわけにもいかず学食に向かっていた。


「よう、綾人」


 駿稀が当たり前のように女友達を連れて声を掛けてくる。

 恐らくこの子もここ最近駿稀と仲良くなった子なのだろう。その子は僕には興味ないようで「じゃあ」と言って去って行く。


「これから飯?」

「まあな」

「じゃあ行ってみる?」


 駿稀は携帯を片手に笑う。


「行くってどこに?」

「帆乃里ちゃんのバイト先だよ」

「えっ……知ってるのか?」

「今朝メールしてたら教えてくれた」


 僕には帆乃里からのメールすらなかった。一瞬嫉妬のどす黒い感情が渦巻きかけた。しかし僕の嫁だというなら問題だが、帆乃里は僕の彼女ですらない。それに駿稀にしたって僕が帆乃里に興味ないと伝えたからメールのやり取りをしたのだろう。

 だいたい僕は駿稀と帆乃里がうまくいくことを願って人生をやり直している。二人が親密になっていくのに嫉妬する方がおかしかった。


「僕はいいよ。駿稀だけで行って来たら?」


 そう分かっているのに、言葉にはどうしても棘が出てしまう。まるで十年後の駿稀に向かって吐き捨てるかのように。


「可愛いらしいぜ、帆乃里ちゃんの制服姿」

「だから興味ないって」


 僕は感情に鍵をかけるのが得意だ。その特技を活かして妻の恋を応援していこうと軽く考えていた。

 しかしこれはやはり予想以上に辛いものだった。

 だいたい僕の感情を隠す堅牢な要塞を易々と開けた帆乃里だ。油断して近付きすぎると、また帆乃里に恋をしてしまいそうで怖い。


「そうか。じゃあ俺もやめとくか」

「なんでそうなるんだよ? せっかく教えて貰ったんだから行けよ」

「だって、ほら」


 駿稀は携帯の画面を僕に見せてくる。それは帆乃里からのメールだった。


『バイト先に来るときは綾人君も一緒に、二人で来てね』


 やっぱり帆乃里は僕の心の檻を簡単に開けてしまう。



 カランッと小気味よいカウベルが鳴り、扉を開けると懐かしい『喫茶小径(こみち)』の風景が広がっていた。

 黒光りする木目のカウンター、花柄の壁紙、毎日五分づつズレる振り子時計、髭を生やした存在自体がアンティークのようなマスター。

 そしてローストしたコーヒー豆の香りと焦げたバターの香りが鼻腔を擽る。店内には穏やかなジャズが流れていた。

 すべてがあの時のままだ。


「いらっしゃいまっ、ああ! 来てくれたんだ!」


 帆乃里は僕たちを見るなり、花が咲く瞬間のように美しく笑った。白いシャツにベストと前掛けをつけた姿の帆乃里が懐かしい。


「どうも。さっそく来たよ」


 駿稀は片手を上げながらカウンターに座った。店内は僕たちしかおらずテーブルに座ってもいいのだが、カウンターを選ぶ辺りがこいつらしかった。

 僕も「こんにちは」と挨拶をして駿稀の隣に座る。


 駿稀はカレーを頼み、僕はもちろんパンケーキとコーヒーを頼んだ。もう二度と食べられないと思っていた味に再会したときは不覚にも涙が溢れそうだった。


「あんなに恥ずかしがって教えないから、もっとミニスカート穿いて胸が強調されてるような制服なのかと思ってた。詐欺だ」

「なに期待してるのよ、変態!!」


 駿稀が『イケメンに限る』台詞を吐くと、帆乃里は相変わらずのノリの良さで返してくる。僕が言ったら即ストーカー認定されそうだ。

 こうしてみていると美男美女で性格も明るい二人はよく似合っていた。それを微笑ましく思いながらも、ここのパンケーキが絶品であることを駿稀に内緒にしたのは僕のささやかな仕返しだった。


 昼下がりの喫茶店にはのんびりとした空気が流れており、店内に流れるジャズも安閑とした空間にぴったりとはまっていた。

 駿稀と帆乃里はどこのラーメンが美味しいとか、アウトドアはどんなものが好きかなどのどうでもいい話で盛り上がっている。他に客もいないのでマスターは気にした様子もなく、カウンターの向こうにある椅子に座り本を読んでタバコを吸っていた。


 「身体に悪いからタバコはやめた方がいいですよ」と言ったところできっとやめないだろう。僕が変えられる未来はマスターの健康状態ではなく、隣で盛り上がる二人の未来だけだ。


「綾人君も行くよね?」

「え? なにが?」


 いきなり話を振られて戸惑っていると「聞いてなかったのかよ」と駿稀は呆れた顔で笑った。


「ラフティングだよ」


 帆乃里はオールを漕ぐ恰好をしながら改めて訊いてきた。いちいち身振りが大きい。


「ああ……大歩危(おおぼけ)のラフティングね」

「なんだ。聞いてたんじゃん」


 聞いてはいない。ただ知っていただけだ。僕たちは初夏に四国を流れる吉野川の大歩危へラフティングに行く。それは忘れられない思い出の一つだった。

 ただ前回の記憶なら、その話が出るのはもっと後だったはずだ。この喫茶店に来るのもそうだが、すべてが前倒しに運んでいる。

 未来を知ってしまっている僕が、少しづつ歴史を変えているのかもしれない。


「暖かくなったら行こうよ! 私、前からやってみたかったんだ!」

「愉しそうだね……」

「じゃあ決まりな!」

「あ、美妃も一緒でもいい?」

「俺たちはいいけど……来るのかな、美妃ちゃん」


 駿稀の疑問はもっともだ。あのクールで僕たちにはあまりいい印象を持ってなさそうな美妃さんが来るとは、前回の僕も思っていなかった。

 しかし必ず来る。親友がよく分からない二人とラフティングなんか行くのを黙って見逃す子ではない。


「きっと行くよ。ありがとう。誘ってみるね」


 落ち着いて見ると、確かに帆乃里は昨日合ったばかりの男二人に警戒心もなく浮かれ過ぎだ。美妃さんが冷や冷やしながら見守った気持ちも、今なら分かる。しかしこれが帆乃里だった。

 恋愛感情とか関係なく、とにかく愉しいことがしたい。毎日を目一杯はしゃぎたい。そんな脳天気だ。僕が惹かれていったのもそんな無邪気なところだ。


 カランッとカウベルが鳴った。僕たちが鳴らして以降、初めてのことだ。


「ちょっと……なんであんたたちがここにっ……」


 やって来たのは美妃さんだった。僕たちの顔を見るなり明らかに迷惑そうな顔をする。自分の聖域を侵されたとでも言うように。


「ちょうどよかった! 美妃、ラフティング行こうよ!」

「え? なに? なんなのいきなり?」


 僕たちがここにいる謎が解明される前に新たな謎が提起され、美妃さんはパニクっていた。


「いや、実はですね……」


 見兼ねた僕がはじめからから事情を説明する。勝手に決められたラフティングの計画に当然美妃さんは反発し、抗議した。

 しかし結局は、


「帆乃里だけに行かせるわけにはいかないから行くわよ、本当にもうっ!」


 いつも通り帆乃里に押されて了解してしまう。この二人は本当によく出来たコンビだとつくづく感心してしまう。




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