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帆乃里の運命の人

────

──


 帆乃里と駿稀が付き合いだしてから一年以上が経過した。時おり喧嘩した話は聞かされるが、二人の交際はおおむね順調だ。

 そして僕と美妃さんの偽装カップル関係も未だに続いている。こちらの方は言うまでもなくなんの進展もしていない。

 僕の話を信じてくれたわけではないんだろうけど、それでも美妃さんは付き合ってくれていた。


 四回生も一月になると、いよいよ大学生活の終焉を感じずにいられない。

 僕は前回就職した会社ではなく、もっと小規模な会社の就職内定を貰っていた。

 別に前の会社がとりわけて嫌いだったわけではないが、もっと自分の力が会社全体に大きく影響するところで働いてみたかったからだ。


(まあ、仮に働くだけなんだけどね……)


 その会社に骨を埋める覚悟などという図々しい気持ちはない。僕は未練を成就させたら死神に魂を奪われる存在であることを片時たりとも忘れたことはなかった。


 しかし帆乃里と駿稀が順調に交際を続けて一年以上経つというのに、死神は一向に僕の魂を奪いに来ることはなかった。時おり現れるには現れるのだが、世間話をして帰って行くだけだ。


 もしかしたら全てが僕の妄想だったのではないかと疑うこともたまにある。

 しかしニュースで自分が既に知っている重大事件が速報として伝えられたときは、嘘のような自分の運命を受け入れざるを得なかった。


 帆乃里も美妃さんも就職を決めていた。驚いたことに二人とも前回と同じ会社の内定を貰っている。

 僕は自分の周りの未来を少しだけ変えた。しかしその程度の変化では、歴史はほとんど変わらないものらしい。それを知って少し安心した。


 しかし駿稀だけは大きく狂いが生じたのか、未だにどこからも内定を貰えていなかった。その影響なのかは不明だが、年末から駿稀は僕の前に姿を現さない。電話をしてもメールをしても応答も返信もないまま、半月が過ぎていた。


 なにか取り返しのつかない大変なことが起こるような胸騒ぎがした。上手くやって来たつもりだけれど、僕は何か重大なミスをしてしまったのかも知れない。


 そもそも僕ではなく駿稀と帆乃里が付き合うということで、本当に僕の願う帆乃里の幸せが達成できるのだろうか?

 その大前提すら疑わしく思えてくる。

 漠然とした不安に駆られた僕は落ち着かない気持ちで喫茶小径に足を運んだ。


「いらっしゃい」


 カウベルの軽やかな音色と共にマスターの低い声での挨拶だけが返ってきた。


「あれ、帆乃里ちゃんは?」


 カウンターに座りながら訊ねるとマスターは煙草の紫煙を吐きながら困ったように笑って首を捻る。

 帰省していたとしても、もう帰っていてもよさそうなものだ。


「体調が悪いから少し休みたいって言ってきてね……」


 マスターは何も言わなくてもホットケーキを焼き始めてくれる。

 しかしバターの焦げる香りがしても、僕はいつもみたいに心が躍ることはなかった。


 美妃さんとは連絡を取り合っていたが、帆乃里については何も言っていなかった。

 味のしないホットケーキを流し込むように食べ、僕は帆乃里達のアパートへと早足で向かう。嫌な胸騒ぎが止まらず、どんどん早歩きになり、しまいには走り出していた。


 インターフォンを押すと出迎えてくれたのは美妃さんだった。


「帆乃里は?」


 僕が訊くと美妃さんは少しムッとした顔をして首を捻る。やはり何かよくないことが起ころうとしているのだろうか?

 無言で部屋の前まで行き、


「無駄だと思うけど」


 そう言ってドアをノックした。


「帆乃里。綾人が来たよ。いい加減出て来なよ」


 返事はなかったが、ドアの向こうには確かに帆乃里がいる気配を感じた。


「帆乃里ちゃん、どうしたの? 開けて」

「今は……会いたくない……ごめん……」


 弱々しく、不安に陥った声を聞いたとき、僕の記憶の開けてはならない引き出しが勢いよく開いてしまった。


(この声はっ……)


「帆乃里っ……頼むっ!! 開けてくれっ!」


(この声は聞いたことがあるっ……帆乃里が妊娠しづらい身体だと診断された後の帆乃里の声だっ……)


「帆乃里っ……話してくれっ……何があったんだっ……」


 あんなに笑っていた、明るい帆乃里が、笑わなくなった。あの日から。


「頼むっ……頼むよっ……帆乃里っ……心を閉ざさないでくれよっ……お願いだっ……」

「綾人っ……」


 ドアノブを掴み、僕は堰を切ったように泣いた。

 美妃さんは驚いて僕の肩を抱く。


「帆乃里……僕は、お前にとってそんなに頼りなかったか……? 一緒に苦難を乗り越えられる相手に思えなかったか……?」

「もういいよっ……綾人っ……もうやめなよっ……」


 なぜか美妃さんも泣いていた。泣きながら僕をドアから引き剥がそうとしていた。それでも僕は未練がましくドアノブを掴む。


「帆乃里っ……ごめん……ごめんな……僕が頼りなくて……帆乃里に無駄なプレッシャーを与えて……」


 その瞬間、不意にドアが開く。


「帆乃里っ……」


 帆乃里は血の気の引いた肌の色をして、僕を見詰めていた。


「どうしてそんなに綾人君が謝ってるの?」


 不思議そうに首を傾げた。そりゃそうだ。帆乃里には僕と結婚した未来の記憶などない。


 でも僕たちが取り乱したことで逆に帆乃里は落ち着きを取り戻せたらしく、僕たち三人はリビングに集まった。

 とはいえやはり帆乃里の顔色は優れなく、自分から言葉を切り出すことはしなかった。


「やっぱり駿稀が……原因なの?」


 ゆっくりと落ち着いて訊いても帆乃里は首すら振らずに俯いたままだ。部屋の扉は開いても、心の扉はまだ開いていない。


「駿稀のやつ……どこでなにしてるのよっ……」

「……違うの」


 消え入るような声で帆乃里が呟いた。


「違うって何が?」


 そう訊き直すと帆乃里は首をゆるゆると横に振った。


「違う……駿稀が悪いわけじゃないよっ……」


 首が揺れるにつれ、涙の粒が落ちていく。


「黙ってちゃ分からないよ、帆乃里……」


 帆乃里は意を決したように顔を上げる。

 そして、言った。



「私、お腹に赤ちゃんが……赤ちゃんが、出来たの……」



 静寂の中、耳鳴りのような高い音が響いた。

 身体が強張り、心拍数が一気に高まって血液が沸騰するのを感じた。


「嘘っ……」

「帆乃里っ……」


 僕の目から涙がこぼれ落ちた。次から次に。

 止めどなく涙が落ちた。


「それで、駿稀は──」

「おめでとうっ!! 帆乃里、おめでとうっ!! 凄いじゃないかっ!!」


 僕は帆乃里の肩を掴んで、自分の声に驚くくらい大きな声で叫んでしまっていた。


「えっ……」

「綾人っ……!?」


 二人は目を丸くして唖然としている。


 やっぱり僕の見込みに間違いはなかった。

 帆乃里には、駿稀が必要だったんだ。

 自然妊娠がほぼ不可能と言われていた帆乃里が、身籠もれたんだ。これはもう、奇跡としか言いようがなかった。

 僕じゃなくて、駿稀だった。僕は間違っていなかった。

 何度も心の中で念じる。

 そして神様でも、死神様でも、何にでもいいから感謝した。


「よかったな、帆乃里っ……お前、母親になれるんだぞっ……よかった……本当にっ……本当によかったなっ!!」

「ま、待ってっ……綾人君っ……わ、私っ……」


 帆乃里は少し怯えたように僕の手から逃れた。


「私、……どうしたらいいのか……分からなくて……」


 冷静さを失っていた僕は、帆乃里の言葉の意味さえ分からなかった。


「う、産めるんだよっ!! 大丈夫っ! 帆乃里は産めるんだよっ!」

「綾人っ!! 落ち着いてっ!」


 美妃さんは僕に抱きつくようにタックルをして、暴走を止める。


「駿稀とも相談した……まだ学生だし……駿稀は仕事が決まってないし……それは、もちろん産みたいけど……」

「な、なにを言ってるんだよっ!? 子供が出来たんだぞっ!? 分かるか、帆乃里っ!? 仕事なんてどうにでもなるっ」

「落ち着いてよ、綾人っ!!」

「うん……確かに病院で子供が宿ったって聞いたときは、私も嬉しかった……でも……駿稀に迷惑をかけるのは」


 帆乃里は分かっていない。なにも分かっていない。どれだけ凄い奇跡が起こったのかを、なにも分かっていなかった。


「仕事がなんだよっ! じゃあ僕が取り敢えず稼ぐ。給料を渡すから。それならいいだろ? その間に駿稀が仕事を探せばいいんだ。そうだ。そうしよう!! すぐに駿稀に連絡をっ!!」

「待ってよっ!」

「離せっ! 美妃さんっ! 今大切なところなんだよっ!」


 懐妊した帆乃里にもしものことがあったら大変なので下手に暴れられないのがもどかしい。


「駿稀は……今は……無理だって……諦めようって……」

「しゅ、駿稀がそう言ったのかっ!?」

「駿稀の言うことも……分かるの。確かに卒業と共に結婚とか出産なんて、親にも申し訳ないし」

「そんなことあるか! よし、じゃあそれも僕が言ってやる。なに、大丈夫! 一発くらい殴られるかもしれないけど、お義父さんだって悪い人じゃない!」

「なんでそんなに……綾人っ……まさか……」


 美妃さんは勘付いてしまったのかも知れない。僕と帆乃里が離婚した理由に。

 しかしもう、この際そんなことはどうでもいい。だって帆乃里の身体には小さな命が芽生えたのだから。


 僕は部屋を飛び出し、駿稀のアパートへ全力で駆けていった。


 帆乃里が子供を授かった。

 そうだ、これだ。僕の心残りの最後の一つはこれだったんだっ……


 駿稀の家に着くとインターフォンを押すのももどかしく、ドアノブを引く。開かないからドアを叩く。デカい声で駿稀の名を呼んだ。


「お、おいっ!? どうしたんだよ……」


 駿稀は驚いた顔をしてドアを開けた。


「ありがとうっ!! 駿稀っ!! 本当にありがとうっ!!」


 顔を見るなり僕は泣き喚きながら駿稀を抱き締めた。


「ちょっ!? え、なにっ!?」

「帆乃里に子供を授けてくれてありがとうっ!!」


 感謝を伝えると、駿稀の顔は一瞬で青ざめた。


「お、落ち着けよ、綾人……」


 僕の手を払い、目を背けて俯いた。


「子供なんて産めるかよ……僕は就職も決まってなくて、フラフラしてんのに……」

「馬鹿だなぁ。仕事なんて探せば見つかる。それまでは僕が働いて支えるよ。そんなつまらないこと心配しなくていいんだ」

「馬鹿はお前だ。そんなこと出来るかっ。とにかく僕と帆乃里で決めたことだ……放って置いてくれ」


 駿稀は逃げるように部屋に戻ろうとする。恐らく学生の身分で子供を作ってしまったことに負い目や罪悪感を感じてるんだろう。気持ちは分からなくもないが、帆乃里に子供が出来たということに比べれば些細なことだ。


「待てよっ! 待ってくれっ!」


 慌てて駿稀の脚を掴み、引き留めた。


「離せよっ!」

「駿稀っ! 頼むっ!! 産ませてやってくれっ!」


興奮気味の僕に感化されたのか、駿稀も気持ちを昂ぶらせはじめていた。


「俺たち学生だぞ!? 常識的に無理だろっ!」

「生まれる頃は社会人だっ!」

「そういう問題じゃねぇだろ!」

「帆乃里だって産みたいんだよっ! 母親にさせてやってくれよっ!」


 そうだ。あいつだって子供は欲しがっていた。当たり前に授かれると思っていたものが、無理だと聞かされた帆乃里の気持ちを思うと胸が張り裂けそうだった。


「綾人君っ!!」


 追い掛けてきた帆乃里と美妃さんが駆け寄ってくる。

 息を切らしているところを見ると走ってきたようだった。


「馬鹿! 妊娠初期に走るなよ! お腹の子にもしものことがあったら」

「いい加減にしろっ!」


 駿稀は血走った眼をして、歯を食い縛って震えていた。



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