秘密の吐露
妻の恋を成就させたい。
辛いこともあったけど、僕のその目的はぶれなかった。帆乃里と駿稀が仲良くなっていくのを見る時に感じる心の責苦も、鋭い痛みからだんだん鈍い痛みへと変わっていく。それは喜ぶべきことなのか、悲しむべきことなのか、僕にもよく分からなかった。
帆乃里が僕の妻だったという未来も、本当にあったのか不安になってくる。
とにかく僕の願い通り、帆乃里と駿稀の距離は次第に縮まっていった。
海水浴に行ったとき、帆乃里はシャチの浮き袋に掴まる駿稀に飛びかかって転倒させた。
お祭りに行ったとき、二人で一つのかき氷を突き合っていた。
ハロウィンのとき、二人はお揃いのゾンビメイクをしてきた。
いつも帆乃里は駿稀の隣で屈託なく笑っていた。無防備すぎて見ている方が不安になるほど、帆乃里は隙だらけの笑顔をしていた。
帆乃里はどんどん駿稀に想いを寄せる。そして駿稀の方も、帆乃里に惹かれている。前回は帆乃里のことを『友達としか思えない』と言った駿稀だが、今は間違いなく帆乃里を恋愛の対象と見做している。
それでいい。すべては僕の思い描くとおりになってきていた。
僕との結婚式の日、ウエディングドレスを着た帆乃里はどこかの国のお姫様のように美しかった。あの日、帆乃里は珍しく緊張しながら頬笑んで僕に言ってくれた。
「私馬鹿だから色々迷惑とかもかけちゃうかもしれないけど、一生二人で笑い合って生きていこうね。綾人となら、きっとそれが出来ると思うの」
結局二人で生きていけなかったけど、僕にはその想い出だけで充分だ。
ところがここに来て思いも寄らぬ狂いが生じた。
帆乃里が駿稀に告白をしないまま、十一月が終わろうとしていたのだ。
前回はハロウィンが終わって間もなく、十一月の初旬に帆乃里は駿稀に想いを告げている。
しかし今回は未だに帆乃里は想いを告げていない。はじめは単なるタイムラグ的に構えていたが、あまりに動きがなさすぎた。
理由は分からない。前回よりも更に僕たちは絆を強くしているし、帆乃里は駿稀と親密になっている。
二人きりになるようにも仕向けてきた。
それなのに帆乃里は、なぜか想いを胸に圧し殺している。
(どうしてだ……)
確かに多少のずれや違いはあったものの、してきたイベントは今回もちゃんと繰り返してきたはずだ。
もちろんかなり前のことだし、完璧に再現するなんてことは無理だったけど、むしろ前回よりも上手くできたことの方が多い。未来を知ってる上に、僕も大人になり知識も増えた。それを活かして上手にやってこられた自信はある。
だがなぜか帆乃里は駿稀への想いを隠したままだった。
────
──
迷いと焦りで滅入っている時、インターフォンが鳴った。
時刻は午後八時。それほど遅くはないが、訪問販売が来るような時間でもない。
もちろんドアフォンなんてついてないので、僕は確認もせずにドアを開けた。
わずかに開いた隙間から晩秋の冷たい夜風が吹き込み、部屋の暖気に馴染んでいた僕は少し怯む。
「遅くにごめん」
「美妃さん?」
寒がりな美妃さんはトレンチコートにマフラーを巻いた姿で立っていた。
「そんなに驚くこと?」
「あ、いや……珍しいなと思って。入って」
そう。美妃さんが僕の部屋に一人でやって来るというのはとても珍しいことだ。僕の記憶では一度もない。もちろん前回も含めて。
美妃さんはクッションに座り、静かに室内を見回した。
「やっぱり部屋は殺風景なほどに片付いてるね」
「そう?」
「綾人らしいというか」
この頃には、美妃さんは僕のことを『綾人』と呼ぶようになっていた。これも以前と同じだ。
「僕らしい? そうかな?」
「妙にきちんとしてるというか、生活感を感じないというか」
「なんだよ、それ。僕だって普通に生活してるから」
「そう? その割には綾人って」
そう言いながら部屋中を見回していた視線を、僕に真っ直ぐに向けた。その鋭利さに背筋が冷える。
「あたしたち以外に友達いないよね?」
それは馬鹿にするような言い方ではなく、もちろん憐れむような言い方でもない。なにか見透かしたような口調だった。
「まぁ、社交的な人間でもないし……そんなに交友関係は広くないけど。でも相変わらず容赦ない言い方だねー。僕にも友達くらいいるし」
動揺を隠し切れている自信はあまりなかった。美妃さんの言う通り、僕は人と関わるのを極力避けている。それは未来を知ってる僕に関わることによって、誰かの未来がねじ曲がらないように気を付けていたからだ。
「確かに社交的ではないけど、でも私たちといる時は普通だし、むしろ気が利いて、世話まであれこれと焼くよね。それなのに私たち以外、ほとんど友達がいないって不思議だなと思って」
「わざわざこんな時間にやって来て、僕をディス……そんなことを言いに来たの? 勘弁してよ」
この時代には『ディスる』という言葉は一般的に使われていない。気の焦りで思わずよけいなことを言いそうになった。
「そうだね。ごめん」
なんの予告もなく突然僕の部屋にやって来たんだから、何か理由はあるはずだ。
僕は静かに美妃さんから切り出してくるのを心の中で身構えていた。
しかしあれだけ何でもずばずばと歯に衣着せぬ物言いの美妃さんとは思えないほど、語り出すのを躊躇っているようだった。
「まあ、帆乃里のこと……なんだけどさ」
「帆乃里ちゃんのこと?」
「帆乃里ってなんて言うか……知ってると思うけど馬鹿なんだよね」
美妃さんは力なく笑って場を和ませるつもりだったのだろうが、僕は話の続きが気になって上手く笑えなかった。
「でもさ、ああ見えてけっこう気を遣うところがあってね」
「知ってるよ」
「その……なんて言うかさ……言い出せないみたいなんだよね」
「言い出せない? なにを?」
「駿稀に、好きだって、告白できないみたいなの」
針のように細かく鋭いガラスの刺が心臓に無数に突き刺さった痛みが走って息が出来なかった。
美妃さんは少し辛そうに僕から視線を逸らし、続けた。
「私たち四人って仲いいでしょ……でも良すぎるというか……グループ内に恋愛感情を持ち込んだらみんなに迷惑をかけるって思ってるみたいなの」
「そう、なんだ……」
「上手く行こうがいくまいが、このグループの絆にひびが入るんじゃないかって……心配してるみたいで」
「ああ、なるほど……」
帆乃里がなぜ駿稀に想いを告げないのか、その理由は分かってしまえば何でもないことだった。
僕たち四人が仲良くなりすぎたからだ。
僕は上手くやろうとして、し過ぎてしまったんだ。それが帆乃里を臆病にさせてしまった。前回だって帆乃里が落ち込んだのはフラれたことより、グループの友情を壊してしまったことだった。
それを知りつつグループの結束を強めるとか、やっぱり僕は帆乃里を苦しめてばかりだ。
「え、どうしたの? なんで綾人、笑ってるの?」
「え!? 笑ってなんて……」
僕は笑ったつもりなんてなかった。しかしあまりに苦々しすぎて、思わず笑ってしまっていたみたいだ。
僕は今さら苦笑いを隠すように手のひらを頬に当てる。
「そんなこと、気にすることないのにな。帆乃里ちゃんらしい」
「…………綾人はそれで、いいわけ?」
美妃さんは少し怒った顔をして訊いてきた。
「いいもなにも……大賛成だよ」
僕がそう答えると美妃さんは失望したというように大きなため息をついた。
「綾人は帆乃里のこと、好きなんじゃないの?」
それは疑いのない事実を指摘するような、面倒臭さを孕んだような言い方だった。
「綾人っていつも帆乃里のことを見てるよね」
「別にそんなことはっ」
「隠さなくていいよ。視線だけじゃない。意識も気持ちも、何もかもすべて、帆乃里に向けている。多分帆乃里も薄々は気付いてると思うよ」
僕の胸に熱いものがこみ上げた。
それは隠していたものが見付かった気まずさなのか、それとも気付いて貰えた嬉しさなのか?
「そのくせ帆乃里から距離を取ろうと、いつも無理に一歩退いている。いったい何がしたいわけ?」
美妃さんの洞察力は、やはり大したものだった。
「私は……駿稀より、綾人の方が帆乃里にはふさわしいと思ってる。綾人の方が、帆乃里を幸せに出来ると思う」
「ははは……」
今度は意識的に笑った。前言撤回。鋭い洞察力だと思ったけど、やっぱり大したことないみたいだ。
「何がおかしいの?」
「いや、ごめん……そんなことないよ。帆乃里を幸せに出来るのは、僕じゃない。駿稀だよ」
「だからなんでそう思うの? 綾人はいっつもそうやって駿稀を立てて自分は一歩退いてる。帆乃里のことが好きなくせに。はっきり言ってそういうの見てると苛つくんだよね」
へらへら笑う僕に、美妃さんは切れ気味で叱った。笑いたくなくても、笑みは溢れてしまう。心を守ろうとする防衛本能が働くと、人は勝手に笑うものなのかもしれない。
「好きなんでしょ、帆乃里が! じゃあなんで『僕が幸せにしてやる』って言えないの!? なんでそうやって後ろ向きなの!?」
美妃さんとは思えないほど冷静さを欠いた怒鳴り声に、僕の堰き止めていた感情が誘発され、いきなり爆発した。自分でも驚くくらい、身体が震えて脳の芯が熱く煮え滾る。
「それは僕が幸せにしてやれないからだよっ!!」
「なんでそうやって決め付けるわけ!? 綾人は浮ついた気持ちで帆乃里を好きなわけじゃないでしょ? 見てて分かる。もっと深く、人として尊敬するように、慈しむように帆乃里を愛してる。だからあたしも綾人なら帆乃里を幸せに出来るって思うのっ!!」
美妃さんの言葉は僕の胸を抉る。悪気がないだけに、余計に鋭く、深く、致命的に僕を追い込んだ。
こんなに苦しいのに、誰にも理解して貰えず、誰にも弱音を吐けない。
人生なんてやり直しても、何にもいいことなんてない。生きるのが嫌になって自殺したのに、なんでまた遡ってまでやり直さなきゃいけないんだよっ!
あの死神のせいで僕は二度も苦しまなきゃならないじゃないかっ!
甘えだと分かっているけど、それでも僕は誰かに訴えたかったのかもしれない。僕の、自分の妻の恋を応援するという苦しみを。
「そりゃ僕は帆乃里が好きだよ!! 大好きだっ!! 駿稀よりずっと、ずっと、帆乃里が好きだっ!! だけど、幸せに出来ないんだよ!! 僕はそれを知ってるからっ!!」
大声で叫んだ。脳じゃなくて感情が喉を震わせ、口を開かせていた。
それ以上言ってはいけないと脳が指令したのか、涙が溢れてきたけど、僕の叫びは止まらなかった。
「僕は帆乃里と結婚したんだっ! だけど幸せには出来なかったっ!! いや、苦しめて、傷つけてしまったんだっ!! 愛してるからこそっ……帆乃里を幸せにしたいからこそっ……僕は帆乃里に好きだなんて言えないんだよっ!!」
美妃さんは驚いて呆然としている。先ほどまで振り上げていた拳をどう下ろしたらいいのか分からない顔をしていた。
「結婚……? 帆乃里と、綾人が? え……っと……どういうこと……?」
誰にも言ってはいけないことを、よりによって帆乃里の親友に暴露してしまった。とはいえ説明したところで美妃さんが信用するはずもない。だからむしろ落ち着いて、素直にありのまま教えられた。
「僕はね……未来からタイムスリップしてきたんだ。あ、別に頭がおかしくなったわけじゃないから心配しないで」
美妃さんは何も言わず視線だけで僕の話を促した。