花火大会と浴衣姿
僕たちの歴史は緩やかだが確実に変わってきている。
出会うきっかけから変わり、競馬をするというまったく新しいイベントを経て、夏休みを迎えていた。
しかし変わったのは僕の周りの小さな世界だけで、何人もの人が犠牲になった痛ましい事故や、海の向こうの遠い国で起こった大規模なテロリストの犯行などは僕の記憶通りに発生していた。
一度目の二十歳の時にそのニュースを見聞きしたときにはほとんど何も感じなかった。しかし今回、起こることが分かっていたそのニュースを見ると締め付けられるような痛みを感じた。でも僕はこれからも今後起こりうるであろう災害や事故事件について、誰かに助言をするようなことはないだろう。僕がなりたいのは予言者や救世主ではないから。
夏休みは実家に帰省する学生も多く、この辺りの飲食店は少し客足が減る。普段から客の多いとは言えない喫茶小径は今日も僕と駿稀と美妃さんの貸し切り状態だった。
「ねえ! 花火大会行こうよ!」
帆乃里は嬉しそうに提案してきた。
「お、いいねー! あれだろ、神戸港でやる盛大なやつ」
「そう! みんなで行こう!」
帆乃里が提案して駿稀が乗る。僕と美妃さんは文句を言いながらもそれに着いていくといういつもの流れだ。一度やった経験のある反論だが、もう一度やってみることにする。
「あたしはあんまりああいう混雑するところは好きじゃないんだよね」
「僕も。花火なんてそんなに見たいわけでもないし」
「なにその無気力感は! 駄目だよ! せっかくの夏を愉しまなくっちゃ!」
夏だろうが秋だろうが季節問わずに愉しむくせに、帆乃里は夏を強調してくる。
花火大会の混雑が嫌だというのは事実だが、それ以上にこの二人だけで行かせたいという気持ちが強かった。いつまでも四人で行動していると、また『グループに恋を持ち込む』という罪悪感が帆乃里の中で芽生えてしまう。そろそろ二人だけで頻繁に会うように持って行かなくてはならない時期だ。
「駿稀と帆乃里ちゃんの二人で行けば?」
敢えて他意のないような軽い口調で提案した。
「えー? どうする、駿稀君?」
意外にも帆乃里は食い下がらなかった。もっと四人で行くことを主張してくると構えていた僕は、拍子抜けするような、寂しいような気分になる。
「ノリ悪いなぁ、二人とも」
「暑い中わざわざ人混みに行っても疲れるだけでしょ」
「そりゃそうだけど、そんな感じだと何にも出来ないだろ? もっとこう、愉しまないと」
駿稀はいつの間にか帆乃里の『愉しまないと精神』に感化されていた。元々そういうタイプの人間だが、口に出して『愉しまないと』と言うのははじめて聞いた。
「花火ねぇ……」
「そうだよ! うちらの地元じゃあんまり大きな花火大会なかったし! 行こうよ、美妃!」
美妃さんはちらりと僕を見る。
「…………行く?」
美妃さんが僕に訊いてくると、二人も僕の顔を見る。
僕の返答次第という空気になってしまった。
「まあ……いいけど……」
この空気を壊せるほど、僕には度胸がなくて仕方なく頷いた。
「よーし! じゃあ浴衣着よう!」
「え? 本格的だな」
「そりゃそうだよ! 美妃も浴衣、着るよね?」
「そうだね。せっかくだし」
「ええーっ!?」
てっきり断るのかと思いきや、美妃さんは易々とその提案に乗った。僕と駿稀は同時に声を上げてしまった。
「なにその大袈裟なリアクションは?」
「い、いや……意外だなっていうか……」
美妃さんは不服そうに睨んでくる。
「あたしだって浴衣くらい着るよ」
「持ってるの?」
「持ってて悪い?」
「い、いや、そうじゃないけど……」
駿稀の驚きと僕の驚きは似てるようで、少し違う。
駿稀はただ純粋に美妃さんが浴衣を着ることに驚いたのだろう。しかし僕は少し違う。
前回も四人で花火大会には行った。でもその時、美妃さんは浴衣など着てこなかった。
歴史は少しづつ変化している。これもその変化の一つなのだろうか?
「あ、そうだ! 浴衣着るんだったらいいことを教えてあげるよ!」
驚きすぎたせいか、美妃さんはまだ怒っている。空気を変えるために僕は話題を変えた。
「マスター、風呂敷あります?」
「風呂敷はないなぁ……」
「正方形のビニールとかでもいいんですけど」
「ああ。それならあるよ。オードブル包むビニールが、ほら、これ」
「ありがとうございます」
僕はビニールを受け取り、テーブル席に広げた。
「なになに?」
帆乃里は興味津々だ。
「風呂敷の巾着包みを教えてあげるよ!」
「巾着包み?」
言葉で説明するより実践した方が早い。
僕はまず正方形の両辺をクロスさせる。そしてクロスさせた端の一つともう一つのクロスさせた端をきゅっと結ぶ。逆側も同じように結んだ。
「これで完成」
「もう終わり?」
僕は手品師のような得意満面ながら平然を装った顔で、結び目をきゅっと引っ張る。
「わわっ!?」
開いていた口は巾着のように締まった。そして手で引っ張るとまた簡単に開く。
「こうすれば風呂敷を鞄のように使えるよ」
「うわーっ!? すごいっ! 可愛いっ!! 綾人君、魔法使いみたいっ!」
「凄い……一枚の布がこんなに簡単に鞄みたいになるんだ……」
別に僕が考えたものでもなんでもない、日本古来の伝統を教えただけなのに、帆乃里は激しく感動してくれた。
「これはまあ、ビニールだけど風呂敷で作ったら浴衣にぴったりの鞄になるよ」
「私にもやらせて!」
「あたしも」
二人が嬉しそうに練習する姿を見て、僕と駿稀は目を合わせて笑った。
────
──
花火大会当日。神戸駅はなかなかの混雑振りで、警察官が立ち誘導を行っていた。
「うわぁ、さすがに凄い人出だね!」
赤い生地に金魚が描かれた少し子供っぽい浴衣を着た帆乃里は、やはり少し子供っぽくはしゃいでいた。でも浴衣に合わせて髪をアップにしているから見た目はいつもよりも若干大人っぽさを感じさせる。
「これでも元町や三宮に比べればマシな方よ」
濃紺に紫陽花が描かれた落ち着きのある浴衣を着た美妃さんが早くも疲れた顔をして呟く。
普段スカートすら穿かない美妃さんの浴衣姿は実に新鮮で、色気も感じさせた。
駿稀と二人で「おおーっ」と声を上げて、ジロジロ見回した時は照れ臭そうにして怒っていたが、「綺麗だね」とか「似合ってる」と褒めたら顔を真っ赤にして「ありがとう……」と照れていた。美妃さんも以前は気付かなかった色んな面を見せてくれる。
神戸の花火は三宮、元町、神戸の三つの駅周辺から見ることが出来るが、美妃さんの調べによると神戸が比較的空いていて見やすいらしい。
浴衣姿の女子二人は僕の教えた風呂敷の巾着をバッグ代わりに使っていた。駿稀と僕は相変わらずの普段着で何だか申し訳ない。
ちなみに僕は折り畳めるタイプの保冷バッグを持ってきている。中には飲み物やちょっとした食べ物を入れてきていた。
日の長いこの時期、午後五時ではかなり明るい。花火が始まるまではまだ時間があったが、このくらいから来ておかないと会場に入れなかった。ある程度人が集まると入場規制がかけられて近付くことさえ出来ないからだ。
この時間でももう既に打ち上げ場所に近いところは埋まっており、赤レンガ倉庫の辺りまで行かなければ場所を確保できなかった。
「さすがに人がいっぱいだねぇー」
「そうだね。でもここからでもよく見えそうだ」
建物が視界の下の方を遮っているから低いところのは見づらそうだが、普通に上がる花火は問題なさそうだ。
それに目の前には観覧車がある。観覧車を背景に上がる花火を見られるのは面白い。
場所を確保するためにレジャーシートを敷いた。
「ありがとう! さすがに綾人君は気が利くねー!」
帆乃里たちは嬉しそうにシートに座った。
「うわぁ、地面が温かい」
「本当だ。なんかポカポカしてる」
夏の日に照らされた地面はじんわりとした温かさを宿していた。熱くて座れないような刺々した熱気ではなく、柔らかくて優しい心の安らぐぬくもりだ。
もちろん暑い夏に温まりたいなどとは思わないのだが、不思議と不快感は感じないぬくもりだった。
「岩盤浴できそう」
帆乃里はふざけて寝転び、浴衣の裾が少しはだける。
「ちょっと、帆乃里。はしたない!」
「痛っ!?」
露わになった脛辺りをぴしゃんと美妃さんに叩かれ、不服そうに帆乃里が起き上がる。
別にスカートを穿いてても見える部分なのに、浴衣の隙間から転び出た脚はなぜか艶めかしくて目を逸らしてしまう。
周りには僕たちと同じように仲間内でやって来たグループも多かった。それぞれのシートでは、それぞれのドラマや人間模様が繰り広げられている。
隣のシートでやたら大きな声で特に面白くもないことを騒いでる男は、きっとあの中に好きな子がいるのだろう。
その向こうのシートでは浴衣の男女が写真を見てはしゃいでいた。
みんなそれぞれ、一度きりの青春を謳歌している。二度目の青春となってしまった僕は、一度きりの皆さんの邪魔にならないよう、控え目に愉しませてもらおう。
「飲み物、なにがいい? ちょっとだけなら摘まむものも作ってきたし」
「おー! そんなものも用意してくれてたんだ。やっぱり綾人は凄いよな」
「本当! なんかお母さんみたい!」
「そんな大したことじゃないよ」
まだ花火は上がってないけど、喉が渇いていた僕たちは乾杯をする。
夏の長い日はなかなか暮れてくれず、花火は一向に始まらない。でもここにいる人たちはなんの不満もなく、この待つ時間も愉しんでいた。
日が沈んでようやく暗くなった頃、突然最初の花火が上がった。
「わぁーっ!!」
夜空に鮮やかなオレンジの光が伸びやかに広がり、遅れてドォーンッッという爆音が響く。いや、それは音というより衝撃波に近い。
空気が震えて顔やら腕が少し痺れた。音を聴覚だけでなく、触覚として感じられるほどだった。
オープニングを飾るように次々と花火は打ち上がり、暗い夜空は一気に明るく色付いた。
「きれい……」
見惚れる帆乃里の横顔は花火の灯りでほんのりと照らされていた。
オープニングの連続花火は巨大な柳のように枝垂れるオレンジ色の花火で締めくくられた。
夜空に広がった火花が夜の闇に溶けてなくなった瞬間に観客席からは盛大な拍手と歓声が響き渡った。
「花火も、案外いいものね」
美妃さんは帆乃里達に聞かれないように僕の耳許で小さく呟いた。彼女にしては珍しく、照れ臭そうに笑っていた。
「ああ、悪くないね」
僕も潜めた声で美妃さんに囁いて答えた。
並んで座る帆乃里と駿稀の手は重なりそうで重ならない。
重なれ。
いや、重なるな。
しばらく僕は花火の仄明かりを頼りに、二人の手ばかりを眺めていた。