妻と出会った日
────僕はどこで間違ったのだろう。
いつまで経っても代わり映えのしない田舎の車窓を眺めながら、ぼんやりとそんなことを考えていた。
海沿いを走る電車は二両編成で、この車両には僕の他には田舎にはそぐわないゴスロリの服を着た高校生くらいの女の子が一人乗っているだけだ。
僕は今から自殺をしに行くところだった。
この電車で向かった先に断崖絶壁の自殺の名所がある。そこから飛び降りるつもりだ。
怖くないといえば嘘になるが、不思議なくらいに気分は楽だった。むしろ死ぬことを決意するまでの毎日が辛かった。その全てを崖から一歩踏み出すだけで終わるというのなら、こんなに楽なことはない。
半年前、妻の帆乃里は突然家を出て行った。
突然といってもその予兆はあった。結婚して六年、一向に子宝に恵まれなかった僕たち夫婦が病院に行ったのがそもそも間違いだったのかもしれない。
「どうも奥さんの方に、問題があるようです」
医者は診断結果を事務的にそう告げた。絶対に妊娠しない身体ではない。しかし確率的にはもの凄く低いということだった。
あの瞬間から、僕たち夫婦の空気はおかしくなり始めたのは間違いない。あれだけいつも無意味に明るかった帆乃里の顔から笑みが消えた。
それまで散々「結婚したら子供は三人欲しいね」とか「僕と帆乃里の子供って絶対可愛いよ」とか言っていた僕が「子供だけが夫婦じゃないよ」などと言っても、白々しさしか伝わらなかったかもしれない。
不妊治療を頑張ろうとは、言えなかった。それは更に帆乃里を追い込む言葉のように思えたから。
帆乃里が家を出て行ってから三日後。ようやく連絡がつき、呼び出された先に向かうと、妻は大学時代の共通の親友、戸川駿稀と一緒に僕を待っていた。二人とも俯き加減で僕と目を合わそうとしない。
駿稀と会うのは久し振りだったが肩を叩き合って再会を祝う空気じゃないことは僕にだって分かった。
「綾人ごめん……私たち……今一緒にいるの……」
あの時の帆乃里の声は今でも鮮明に思い出せる。
正直、いつかはこうなるんじゃないかって、心のどこかで覚悟していた。大学時代から、帆乃里は駿稀が好きだったし、僕はそれを知っていた。
知っていながら卑屈な手段で帆乃里と付き合い、そして結婚した。その罰が当たったのかもしれない。
(無理をしても、結局はこうなるんだな……)
僕は不思議とあの時、そんなことを思った。もちろん怒ったし、悲しかったし、悔しかった。怒鳴りはしなかったけれども恨みがましいことを皮肉も交えて吐き捨てたりもした。
けれども心のどこかで帆乃里に申し訳ないと感じていた。悪いのは僕だ、と。
その時に渡された離婚届はこの電車に乗る前にポストに投函した。随分ぐしゃぐしゃにしてしまったけれど、それくらいは赦してくれるだろう。
死を覚悟した、一種独特の清々しさの中で、僕は思った。
帆乃里と駿稀のことは赦すも赦さないもない。元々帆乃里は駿稀と結ばれるべきだったんだ。
さすがに祝福できるほど寛容な心の持ち主ではないが、二人の人生がこれから幸せになってくれればいい。そう願っていた。
バスのような自動音声のアナウンスが僕の目的の駅名を告げ、およそ駅とは思えないところで電車が停まった。伸びきった雑草が形だけのホームのあちこちから生え散らかしている。いつか観たアニメ映画の荒廃した都市の風景に似ていた。
自殺するのにもちろん荷物は要らない。身軽な足取りで電車を降りると、同じ車両に乗っていたゴスロリの少女も降りた。
白と黒しか使っていない服なのにゴテゴテとした装飾でやたら派手派手しく見える。そして鞄はなぜか鳥のかたちをしていた。
それも普通の鳥ではなく、機械仕掛けのような鳥だ。
こんな何もない駅で降りたということはこの辺りに住んでいるか、もしくは僕と同じで自殺しに行くかのどちらかしかないだろう。
後者だった場合、この名前も知らない少女と一緒に死ななければならない。それは避けたかったので少し急ぎ足で向かった。
駅前は見事なくらい何もないところだった。それも仕方ない。
名所といっても『自殺』という冠が付くようなものでは、それ目当ての人に向けて商売をしたって儲からないのは目に見えている。
自殺の名所である断崖絶壁の奇岩は駅から離れている。田舎道を通り、そこからは道なき藪を進まなくてはならない。
道すがら頭に浮かぶのは、ここ最近の出来事だった。
妻から離縁を乞われてから、僕の心は当然荒んだ。
常に上の空になり、遂には仕事でも大きなミスをしてしまった。さすがに即解雇とはならなかったが、毎日怒鳴られ、処理に追われ、その最中にまたミスをするという悪循環に陥った。
でも、それももう、どうでもよかった。
木々を抜けるとようやく目の前に開けた水平線が広がった。最果ての地。そう呼ぶのにふさわしい、そこで地面が終わった風景だった。
「やっと着いたか」
そう呟いたとき、スマートフォンがまた着信の振動を始めた。
(僕が出社していないことで色んな人に迷惑をかけているんだろうな……)
これから死ぬというのに、そんなことを気に病む自分がなんだか情けなかった。
振動を続けるスマホをポケットから取り出し、画面を見もせず海に向かって力の限りに放り投げる。
「あっ!?」
突然背後から声がし、驚いて振り返る。
そこには先ほど一緒に電車を降りたゴスロリ娘が立っていた。
やはり僕と同じ自殺志願者だった。
「一緒に死にませんか」などと迷惑な提案されたら大変だ。こんな見ず知らずの小娘と一緒に死んで、心中とか邪推されたら死後の尊厳すら踏みにじられる。
それにこのゴスロリの恰好はどこか不吉な感じで、死神のように見えなくもない。実際によく見ると袖の白いレースにある黒い水玉に見えたのはドクロマークだった。
死神が連れて行くのは地獄と相場は決まっている。
「あのっ!!」
「来るなっ!」
僕は叫びながら走る。
崖に向かって、全力で。
そして躊躇わず、飛んだ。勢いをつけて崖に向かって飛び込んだ。
下を見ずに飛び降りたのは、よかったかもしれない。
一度見たら足が竦むような高さで、下には岩がゴロゴロとしている。高所恐怖症のくせに崖からの飛び込み自殺なんて、やっぱり不向きだった。
ふわっと宙に浮いたような一瞬の錯覚のあと、強烈な墜落感が僕を襲った。
(じゃあな、帆乃里……せめて幸せに暮らしてくれ……)
そんなことを思いながら、僕は気を失っていた。
────
──
目の前が真っ白に光って眩しい。
ここは、死後の世界なのか……
とにかく眩しくて目が開けられない。
「……やとっ! 綾人っ!」
誰かが呼ぶ声がした。これは、帆乃里の声?
やがて光りが弱まっていき、僕はようやくゆっくりと目を開けた。
「おい、綾人。どうしたんだよ?」
僕の肩を揺さぶって呼び掛けていたのは駿稀だった。しかしその表情は明るく、とても人から妻を奪った男には見えなかった。
「駿稀っ!? あれ? ここは……?」
「何ふざけてんだよ。学食のテラス席だろ」
「学食……テラス席……?」
辺りを見回すと確かにそこは僕の通っていた大学の学食のテラス席だった。懐かしい景色だが、ノスタルジックに浸る余裕はない。
「えっ……でも……」
確か僕は断崖絶壁から飛び降りたはずだ。よく見ると目の前にいる駿稀は若々しい。久し振りに再会して見た駿稀は昔と変わらず若々しいと思っていたが、僕の目の前にいる駿稀はそんなレベルじゃなく若々しかった。
「どうしたんだよ、怖い顔して」
「いや……あの……今日って何年の何日だっけ?」
「なんだよ、まだその記憶喪失ごっこすんのかよ」
駿稀は呆れた顔をして笑い、面倒くさそうに携帯電話を僕に見せてきた。それは今では骨董品のような古い型のものだった。
「嘘だろ……」
そこには僕が大学三回生の春、つまりは僕と帆乃里が出会った頃の年月日が示されていた。
信じられないが、僕は飛び降りた瞬間にタイムスリップをしてしまったようだった。
慌てて学食のガラスに映る自分の姿を見ると、やはり駿稀と同じように若返っていた。
事態に思考が追いついていないが、駿稀は当然お構いなしに話し掛けてくる。
「三回生からこのキャンパスでよかったよな」
「なんでだよ?」
「何でって……文学部の奴らと同じキャンパスだぞ。可愛い女とか多いからな」
「まったく……お前は……」
呆れて鼻で笑う。そんな調子だから人の嫁も拐かすんだよ、とは言えなかった。
「お、ほら! あの三人も可愛いな」
駿稀は僕の腕をパシンッと叩きながら笑った。
こいつのこういう明るくてノリだけで生きてるようなところは嫌いじゃなかったはずなのに、今は忌々しく感じてしまう。僕は鬱陶しそうに駿稀を睨んだ。
「なんだよ、相変わらずノリが悪いな。いい加減彼女くらい作れよ」
「駿稀はもう少し真面目に生きた方がいい。女性と付き合うのはいいけれど、ちゃんと真剣に相手と向き合え」
「真剣だよ、俺は、いつだって。ただその真剣さが持続できないだけで」
「それが真剣じゃないって言ってるんだよ。いいか、いくら女にモテるからと言っ」
駿稀に説教をしていた僕は、息が止まる。目を大きく開き、見間違いでないことを瞳孔いっぱいで確認してしまっていた。
(間違いない……)
僕の目の前を、帆乃里が通り過ぎている。
二十歳になったばかりの、まだ髪が背中の辺りまで長かった頃の帆乃里だ。
アーモンドのようにくりっとした目も、常に笑ってるような口角が上がった口許も、意外と凛々しい眉も、全てちょっと幼く見えるが、間違いなく帆乃里だった。
相変わらず大きな身振り手振りで話している。
僕の視線の先に気付いた駿稀は意味ありげに笑う。
「なに、綾人ってああいうタイプが好きなんだ? 確かに可愛いけど、ちょっと意外だな。よし、待ってろ!」
「えっ!? お、おいっ!! やめろって」
僕の制止を振り切って、駿稀は帆乃里とその親友である立花美妃さんのところへと駆け寄る。
(あれ? なんかおかしい……過去は、こんな感じじゃなかったはずだ)
僕たちと帆乃里の出会いはコンパだった。もちろんそれまでキャンパスのどこかですれ違ったことはあったのだろう。しかしお互いに顔は知らなかったから接触もなかった。
ここで出逢ってしまうと、未来も変わってしまうのではないのだろうか。
(未来を……変えられるのかっ……?)
僕は離れた位置から帆乃里の横顔を見詰めていた。
いきなり声を掛けられた帆乃里は驚く。そして何か駿稀に冗談を言われたのか笑った。
「あはははは!」
会話は聞こえないけど、快活な笑い声は聞こえてくる。
隣にいる親友の美妃さんが冷たく対応したのだろう。さすがの駿稀も一瞬怯んだが、帆乃里が美妃さんを宥める。
話が進むにつれ嬉しそうに顔を綻ばせ、口角を更に上げて笑う。そんな表情豊かな帆乃里を見て、胸が痛くなり、心拍数が跳ね上がった。
(そうだ……帆乃里は、僕の妻は、よく笑う女の子だった。いつも明るい、素敵な女の子だったんだ……)
話が纏まったのか、駿稀は僕の方を見て大きく手を振る。帆乃里も僕の方を見て微笑みながら軽く会釈をした。
まだ悲しみを知らない、あどけないほどに無垢な妻が堪らなく愛しく思えた。
不意にこみ上げた涙を堪えるために、僕は爪が食い込むほど強く膝を握り締める。
いつも笑っていた帆乃里から、笑みを消してしまったのは僕なんだ。慚愧の念で胸が押し潰された。
その瞬間、僕は心に誓った。
僕は帆乃里を幸せにしてやらなくてはならない。
だから僕は帆乃里の、僕の妻の恋を成就させる。
僕と結婚する未来ではなく、元から好きだった駿稀との恋を成就させてやる。
まともな発想ではないことは重々承知だ。自分の妻を、他の男と結び付けるなんて、正気の沙汰ではない。
しかし僕は一度死んだ身だ。こうしてやり直せるチャンスがあるのならば、僕はそれを帆乃里のために使ってやりたい。
それが僕に出来る妻への、最後のプレゼントだ。