抜け殻
あるいは夢だったほうが良かったのかもしれない。
いや,そんな事言ったら身も蓋も無いのは解るんだ。
分かるけど…笑いあり涙あり,お色気ありド派手バトルありの異世界大冒険活劇は,やはり根がごく普通の庶民の娘には荷が勝ちすぎたんだ。全精力をそれに傾け,全力で駆け抜けてきた私は,すっかり燃え尽きてしまったんだ。
前々から薄々そんな気はしてたんだけど,この世界はぬるすぎる。福祉にぶら下がれば生きていけるわけで,背水の陣というか不退転というか,つまり命を賭けた勝負なんてものは無い。だから,底に穴が開いたバケツみたいなもんだ。気合と言うか張り合いと言うか,そういうものがちょろちょろと抜け出ていってしまう感覚がある。
半分屍のようになってしまった私は,何に対しても興味を持てなくなってしまったんだ。
まぁ…半分は言い訳だよね。高専と一口に言ってもその実情はさまざま。うちみたいにしっかりしているところはなかば大学のようなもので,専門スキルを磨けば結構な職に就ける。この世界にだって全力勝負できる領域が無い訳じゃない。
でも私はそんなのどうでも良くなってしまったんだ。ううん,怖かったのかも知れない。あんな濃い人間関係,スリル満点の日々…やりきった満足感は確かにあるけれど,またそこへ飛び込むほどのばくち好きじゃない。勝ち抜けると思えるほどの自信家でもない。
私はただ漫然と,半分眠ったように日々を過ごし,その専門性とはまったく関係のない地元の零細企業を何となく受験して就職した。
そして,気づけばあれから十年が過ぎていた。
「ふあ~ぁ」
うららかな昼下がり。満腹感も手伝って欠伸が出る。
ここは私が就職した企業,ニシキ紡績の社屋の一角にある給湯室。私はひとり,まぁ早く言えばちょっと長めのお昼休みを満喫していた。
一言で言えばここはかなり前から,少なくとも私が入社した当初から腐っていた。まるでサナリアのような,というのが私の第一印象。権力に群がり闘争に明け暮れる寄生虫どもが,社の活力をどんどん奪っていったんだ。
でも別に,だからどうこうって事じゃない。私にとってはどうでもいい話だ。ぶら下がって生きていけるうちはそれでいいし,生きていけなくなればそれまででいい。この世界そのものに対してさえそう思っている私なんだから,この会社を変革しようなんて,それこそ寄生虫どもとやり合って駆逐しようなんて面倒な事は御免だ。
後で判った事だが,私は採用当初はそれなりに期待されていたらしい。だから寄生虫どもは当然のごとく,私を自分の派閥へ引き込もうとあの手この手ですり寄って来た。
まぁ長い物には巻かれよでうまく立ち回っていれば良かったんだろうけど,どうでも良くなっていた私はこの救いのない連中全てをつっぱねた。だから今はどこからも煙たがられる存在。人員整理があったら真っ先に切られるだろうって位置にいる。
しがらみのなさを買われて年若い職員,特に女子職員の陰の相談役みたいになっているところはあるけれど,まぁそれも別の意味でしがらみだから,当たり障りのない程度って事で勘弁してもらってる。
「そういや…新しい社長が来るんだっけ…」
ぼんやりと今朝の出来事を思い出す。もうかなりの年齢になっていた社長が勇退する事になって,その息子が新社長に就任するんだとか。正直,大学を出たての息子が入社即社長就任なんて,寄生虫どもにカモにされるに決まってる。
いよいよサナリアじゃないか,これじゃ早晩帝国に滅ぼされるよ,などと玄米茶を口にふくみながらぼんやりと考えていると,向こうから話し声が近づいてきた。
「…」
どうやら寄生虫筆頭の副社長が,午後に着任する新社長を連れてきたようだ。内容は判らないがいつものあのごますり口調が耳に障って気分が悪くなる。
せっかくの昼休みが台無しだよ,なんて思っている間に二人は給湯室の近くまでやってきたが,そこで見事に不意打ちを食らってしまった。
「俺の使命は…この社の社員を,特に女子社員を幸せにする事だ」
「!?」
寄生虫に抱負でも聞かれたのだろうか。そんな言葉が迷いのない響きで耳に飛び込んできて,思わず玄米茶を吹いた。
「!?」
開け放たれていた給湯室の扉。勢いよく空を駆けたその飛沫は,絶妙のタイミングでその向こうへ姿を現した社長を直撃した。
「あ…っ」
何だこの安っぽいコメディにありがちな展開。玄米茶を滴らせながら社長がこちらを見ている。二世社長として思い描いていたイメージとはかけ離れた角ばった顎,日焼けして浅黒い肌。それだけならどこかの体育会系の粗暴なアンちゃんにも見えてしまうのだが,好奇心旺盛な少年のようにきらきらと輝きながらくりくりと動く瞳がそれらとのアンバランスを醸し出している。
「す,すみません!」
そんな品定めをしている場合じゃない。慌てて謝りながらハンカチを取り出し,社長を拭く。
「…君は?」
されるがままになりながら社長が言う。
「あ,わ,私は…」
「この者は三引ユリ子。入社八年目にしてろくに仕事もしない無駄飯ぐらいですよ」
こちらを遮って寄生虫が言う。
どうやら寄生虫もまったくの被害なしとはいかなかったようだ。一見して趣味の悪いハンカチでその箇所を拭きながら,しかし意地の悪い笑みを浮かべている。労せずして厄介払いできそうだ,との期待がその笑みの正体だろう。やっちまったな,まぁしょうがないか,と一瞬にして割り切る。
「それにしても盛大に吹いたな…何か面白い事でもあったのか?」
ほぅ,とこちらを値踏みした後,意外に冷静な口調で訊いてくる社長。
「その…社長のお言葉が,ある人が言っていた言葉にそっくりだったもので…」
「ほぅ?どんな?」
予想外。社長は言い訳にもならない戯言レベルの返答に食いついてくる。
「え…?いえその…『世界の半分,女性を全て幸せにして見せる』みたいな事を言っていた人がいまして…」
そう,それは陛下の使命にして信念を表現した言葉。それを信じてボスは,私は…。
(あれ…?)
そこでふと,何か懐かしいような感覚に襲われる。
「ほほぅ,その者…誰かは知らぬがひとかどの人物のようだな」
きらりと目を輝かせながら,にやりと笑って社長は言う。
「社長!笑い事ではありません!」
そこで寄生虫が割り込む。
「まぁ確かに…この状態では皆の前に出るのは憚られるな。よし,着任の挨拶は明日に延期だ。その旨を皆に伝えてくれ」
「は?は,はぁ…」
千載一遇の好機,私に引導を渡そうとでも思ったのだろうその寄生虫は,全く飄々とした社長の態度に肩透かしを食う。
「で,では…社長はこの後いかがなさるおつもりで?」
「三引君と言ったか…ついてきたまえ。社長室で話そう」
「え…っ」
一対一ですか?平社員と?問題児の私と?
「あぁなるほど,ではごゆっくり」
寄生虫はニヤリと笑ってくるりと背を向け,すたすたと軽い足取りで歩き去る。おそらくは自分があれこれと誘導するまでもなく私の運命が決まった,とでも思ったのだろう。
やっちまったな,まぁしょうがないか,ともう一度繰り返して開き直り,私は社長の後に続いた。